coi la .icosyn.
例文の意味について考えてみましょう。
提示された例文は以下の5つです。
(1) su'ode roda zo'u da na prami de
(2) iku'i da prami da
(1-1) naku su'ode roda zo'u da prami de
(1-2) rode naku roda zo'u da prami de
(1-3) rode su'oda zo'u da naku prami de
CLLの説明に従えば、(1) は (1-1) と同じ意味になりますが、この考えは論理演算をする上で矛盾をもたらすことが指摘されています。
私は、CLLに書かれている「述語に付く{na}が命題全体の否定を意味する」という説明は、CLLの深刻な欠陥の一つであると考えています。
(1) の解釈を一旦保留にして、(1-1)から(1-3)の文を解釈すると、次のようになります。
(1-1) naku su'ode roda zo'u da prami de
誰にでも愛されるような何かが、存在するということはない。
(1-2) rode naku roda zo'u da prami de
どんなものでも、誰にでも愛されるわけではない。
(1-3) rode su'oda zo'u da naku prami de
どんなものにでも、それを愛さない誰かが存在する。
(1-3)の{naku}は、{rode su'oda}の後であれば、どこに置いても同じ意味を表します。例えば
(1-3') rode su'oda naku zo'u da prami de
も(1-3)と同じ意味を表します。
(2)は(1)と接続詞で繋がっていないので、(1)で使われた量化を適用することはできません。{ku'i}はUI類の機能語なので、接続詞と違って、構文に影響を与えません。したがって、(2)は以下のような意味になります。
(2) iku'i da prami da
しかし、ある者は自分自身を愛する。
以上の解釈によって、(1-3)と(2)は矛盾しません。ある者が自分自身を愛していても、その人を愛さない誰かが存在するという状況は可能です。また、どんなものにも、それを愛さない誰かがいるとしても、自分自身が愛するという状況は可能です。
ところで、(2)を{ije}などで接続する形に変更すると、構文上、(1)の量化が(2)に係るようになります。例えば
(3) [su'ode roda zo'u] [da na prami de ijeku'i da prami da]
誰にも愛されないものが存在するが、しかし誰もが自分自身を愛する。
(3)の前半の意味と後半の意味は矛盾しているので、(3)は偽を表す文です。
CLLに従うなら、{na}を冠頭の最初の{naku}に置き換えても、同じ意味を表します。ただ、(3)の冠頭は後半にも係るので、その置き換えをする前に、後半を{da na na prami da}と変形しておきます。
(3-1) [su'ode roda zo'u] [da na prami de ijeku'i da na na prami da]
CLLに従って、前半・後半の{na}を両方とも冠頭の最初の{naku}に置き換えると、
(3-2) [naku su'ode roda zo'u] [da prami de ijeku'i da na prami da]
誰にでも愛されるものが存在し、しかし誰も自分自身を愛さない、ということはない。
「誰にでも愛されるものが存在し、しかし誰も自分自身を愛さない」という文は、前半と後半が両立しないので、偽を表しています。したがって、(3-2)は真を表しています。
CLLの解釈に従うなら、(3)と(3-2)は同値であるはずですから、その真理値は一致していなければいけませんが、それぞれの意味を考慮すると、(3)は偽で(3-2)は真ですから、矛盾しています。
これはCLLの欠陥というほかありません。
CLLに反抗して、「{na}はそれと同じ位置にある{naku}と同等である」という解釈を採用すれば、{na}に関する意味上の欠陥がなくなります。この場合、(3)は以下の形と同値です。
(3-11) [su'ode roda zo'u] [da naku prami de ijeku'i da prami da]
誰にも愛されないものが存在するが、しかし誰もが自分自身を愛する。
(3-11)は、前半と後半が矛盾する内容を表しているので、全体として、偽を表す文です。
ド・モルガンの法則を使えば、{naku}を冠頭に出すことができます。
(3-12) [su'ode roda naku zo'u] [da prami de ijaku'i naku da prami da]
あるものが存在し、誰もが、それを愛するか、自分自身を愛さないかの、どちらでもない。
これも(3-11)と同じく、偽を表しています。
(1)と(2)が接続詞で繋がっていない場合は、(1)はこの解釈のもとでは以下の文と同値です。
(1-11) su'ode roda naku zo'u da prami de
誰にも愛されないような、何かが存在する。
(2)の解釈は変わりません。
(2) iku'i da prami da
しかし、ある者は自分自身を愛する。
(1-11)と(2)は矛盾しません。誰にも愛されないものが存在することと、自分自身を愛するものが存在することは、両立します。
mu'o mi'e la guskant