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> セッカレチアさんの論文7頁あたり、昔読んだはずのソディの記述を読みながら、通常何かを貸すと、貸し手は貸した物を使えなくなるが、銀行が貸したと主
> 張するマネーの場合には、おかしなことが起こっているという話を思い出しました。
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> そこで愚考…
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> 「困難は、貨幣が商品であることを理解することよりも、商品は、いかにして、なぜに、何によって、貨幣であるかを理解することにある」(マルクス『資本
> 論』)という話。
この商品貨幣の話よりもケインズの貨幣論冒頭の表示貨幣の議論のほうが
参照されるとおもしろいでしょうね。
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> 貨幣や預金通帳はモノだが、そこに記された金銭単位の数値は貨幣や預金通帳の属性といえるような固有の数値ではない。貨幣それ自体を含む貨幣システム
> は金銭単位の数値を運ぶ「媒体」とみなすべきであって、金銭単位の数値は「情報」にすぎない。
> 情報とは、媒体によって伝達され、受け手の判断・行動などの基準を供する知識・資料をいう。実際に、持ち合わせの情報でしか試験の答案を埋められない
> ように、懐事情は人々の消費行動を大きく左右している。
> 金銭単位の数値が情報にすぎないという見方に立てば、金融政策とは、情報操作にほかならないということに気づく。だが、それがまさに情報であるがゆえ
> に、人々の行動に影響を与える。
>
> 有形の商品の価格もまた、商品の物理的な属性とは無関係に、商品に付随した金銭単位の情報であり、主として交換と呼ばれる行為に関する目安、懐事情と
> 照合するための情報を与えている。そういう意味で、商品もまた媒体となる。だが、取引成立後、商品は往々にして媒体として利用されなくなる。対して、一
> 万円札は取引成立後も情報媒体として再利用される。
>
> 情報が高く売れるという話。このときには、コンテンツという情報と価格という情報を分けて考えなければならない。あくまでも価格という情報が取引の成
> 否に関わる情報。
> ともあれコンテンツを提供した側はマネーを受け取りつつも、コンテンツを何度でも売ることが可能である。有形の商品の取引では、売り手がモノを手放
> し、同じモノを二度売ることは出来ないわけで、この点は区別されねばならない。ゲゼル寄りの人はマネーが減価しないといって嘆くが、情報を売る人は同じ
> ようなことをしているではないか。
デジタルコンテンツはほぼゼロこすとで無限の複製が許される
財ですよね。貨幣もふくめて情報の性質をそれに即して考察
する必要がありますが、このへんに関しては、デジタルコンテンツ
の取引決済のあるべき姿をコンテンツ創造のプロセスも含めて
支援し決済する仕組みとして10年ほど前からi-WATシステムを
運用しています。
http://www.media-art-online.org/iwat/
そこでは、決済手段自体の増価や減価を取引者
によって選択しうるものとなっており、コンテンツ自体の永続的な
請求権を認めない考え方を提案してきています。しかしまだ
著作権という所有権に関する議論は煮詰まっていないように
みえますね。
エントロピー学会でも、情報のエントロピー論の方面の方が
いらっしゃらないのがさびしいところです。
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Eiichi Morino <a...@h6.dion.ne.jp>
http://www.media-art-online.org/iwat/
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Eiichi Morino <a...@h6.dion.ne.jp>
>
> あ、すいません。iWATについてはここを参照してください。
>
> http://www.media-art-online.org/iwat/
↑論文・報告書のところ。
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Eiichi Morino <a...@h6.dion.ne.jp>