ソディのそうした議論を承知していますが、どちらがex anteでどちらがex postなのかの詳しい議論が
知りたいわけです。生産性向上を結果するような革新に「真性の貯蓄」からの投資が内生的にどのような
インセンティブで生まれるてくるのか、生産性が向上しその財が購入されてはじめて、国家紙幣が外生的
にその買い上げに供給されるのか、ちとわかりにくいところがあります。ソディの体制では結果した生産性
向上分の発券を国家が果たさないといけないような議論になっているのか。
生産性変化率格差については、昔、生産性変化率格差インフレ論がありましたよね。所得上昇が低生産
性部門にまで及ぶので、それが物価を押し上げるという議論だったように記憶しています。どなたの議論だっ
たかは学生時代に読んだことしか記憶にありませんが。
>
> この点に関して、「国民所得倍増計画」を立案した下村治の経済思想と比較対照されるべきことではないでしょうか。
>
> 「自由経済のメカニズムに極力、身をまかせながら、生産性向上のインセンティブを、最大に発揮できるような経済状態とは、何であろうか。それは、生産性
> が向上したら向上しただけ、その部門の所得が上がる、ということを容認することである。しかし、それでおしまいになるのでは、サービス部門との所得格差
> が生じてしまう。所得の上昇は、経済全般に波及するものとして、サービス部門の所得も、やがて同じように上昇しなければならないのであり、それは、消費
> 者物価の上昇によって実現されるのだということを、認めなければならない。すなわち、最初に生産部門でインセンティブが働いて生産性が上昇し、賃金がそ
> れに比例して上がったのち、サービス部門の所得向上が起こってサービス価格が上がり、つれて消費者物価が上昇し、はじめて生産性を上げた生産部門従業者
> の所得は実質的にその分だけ割り引かれることになって、この循環経路は一段落する。」(下村治『経済大国日本の選択』p468)
>
> 「われわれの消費生活は財貨だけでなくはなくて、サービスも含んでいる。財とサービスとを結合することによってわれわれは生活を営んでいるが、サービス
> 部門においては、財の部門におけるような生産性向上はない。したがってこれを理念化していうと、サービス部門では生産性向上ゼロである、というように考
> えていいわけである。
> したがって、財の部門において一五%の生産性向上があっても、経済全体として一五%の生産性向上になるわけではない。財の部門が一五%であるから、その
> 財の部門のウェイトが全体の六割だとすると、一五%に六割を掛けて、九%しか経済全体としては生産性の向上は起こっていない、ということになる。」(下
> 村治『ゼロ成長脱出の条件』p159)
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Eiichi Morino
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まあ、それへの考えはいろいろあるのですが、長らくカナダの地方政権を掌握してきた「社会信用同盟」の研究における議論をみましたら、数年間C・H・ダグラスの「追随者」であったと彼らがみなすソディに関する議論も散見されます。ご参考までに。
たとえば、『貨幣対人間』からは・・・
以下、Douglas Social Credit for Canada by W.A.Tutte, 1934.より。
「社会信用の発行乃至新規貨幣の発行によって生産コストの一部をまかなうという観念はあきらかに幻想的だ。こうした供給の下では貨幣量は生産の増加率と同様に上昇せず、売買された財の総量が増大するのと同じく増加する。則ち、持続的に生産が増加するのか否か。
一度発行され破壊されず、二度と消却されないマネーは永久に機能し続ける。
間違いは、社会信用が銀行信用が融資が返済されたときのように、その需要が実効を上げたときにキャンセルされるであろうと仮定することのうちある。
コスト以下で販売し差額を国家信用で受け取った販売者にとっては、その目的を達成するとキャンセルされることがわかるので、よいことは少しもないであろう。
社会信用は漸進的で持続的なインフレであり、貨幣価値の低下である。」
この批判の最初の部分はダグラスの国家信用会計の提案に対する不適切な研究に基づいている。我々が見たようにどのような会計期間でも利用しうる国家信用の総額はそれが消費者に分配され、彼らに産業の総産出高を購買させるのを可能にするような仕方で数学的に計算されるであろう。それ故、「売買された財の総量」は正確に国民総生産に等しいであろう。ソディ教授は、購買力の分配が「持続的に生産が増加するか否か」に進むことで道に迷っていく。含意された原理が、総所得が総価格と等しくなければならないというものであるかぎり、こうした仮定は明らかに基礎を欠いている。
貨幣は積み上がっていくだろうか。
ソディの後者の批判はその他の貨幣改革家同様多くの正統派経済学者によってもてあそばれたものである。まったく奇妙なことに誤解は完全に適切な主張をもって始まる。ソディ教授が言うように、「一度発行され破壊されず、二度と消却されないマネーは永久に機能し続ける。」これは完全に真実であるが、そこから描き上げる批判はダグラスの債務とは無縁な消費者信用の発行が貨幣の累積をもたらし、「漸進的で持続的なインフレを結果するだろう」というもので、ファンタジーである。
こうした異議へのもっとも単純な反駁は、全産業が100の値の付いた財を生産するとして、もしあらゆる財が消費されるべきであるなら、総購買力は100の貨幣トークンに等しいであろうというのが本質である事実のなかにある。議論のために不足をもたらす要因を無視するなら、こうした購買力のどれくらいのキャンセルやリコールも銀行か政府の手になるが、単に生産の収縮をもたらすであろう。それ以前のプログラムを繰りかえして十分なマネーで価格を恢復することはできないであろう。
さらに、総購買力が100トークンに等しいかぎり、産業は100単位の財を超えて拡大しえない。しかし、物価水準の上昇を防止するような仕方で25の追加的貨幣単位が流通に投ぜられるならば、産業に対して、この額に等しい追加的生産の有効な需要を作りうるであろう。そうして追加的購買力が注文を満たす産業の能力を超過しないかぎり、これらの追加的トークンは生産の125へのステップアップをもたらすであろう。
事実は、ソディ教授の「一度発行され破壊されず、二度と消却されないマネーは永久に機能し続ける。」それは産業システムが収縮しないかぎり機能し続けなければならない。その証拠は近年における銀行信用の拡大と収縮の統計数字の検証に見つけられるべきである。・・・(以下大恐慌を挟んだ数年間の数字の検証へと続く)
ソディが道に迷っているのか否か、ダグラスのような分配主義に満足していないことだけは確かかもしれません。
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> > ソディが道に迷っているのか否か、ダグラスのような分配主義に満足していないことだけは確かかもしれません。
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> “Money versus Man”の第六章”OTHER PROPOSALS”で、ソディはゲゼルやダグラスを批判していますね。
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> 私は、もったいない学会会員であり、石油減耗の社会への影響という観点から金融の問題に首を突っ込み始めたわけで、ゲゼルやダグラスの貨幣改革のことは
> よく知りませんが、ゲゼルやダグラスがソディの問題提起に対する解を与えていないということはわかります。
>
> ソディは”Wealth, Virtual Wealth & Debt”にて、シオン長老の議定書やらウッドロー・ウィルソン大統領の演説を引き合い
> にしてまで、部分準備預金制度の問題を糾弾していましたが、ゲゼルやダグラスの試みが、ソディの見立てによる問題の核心部分に対する是正策でないことは
> 明らかです。
>
> また、ソディが「椅子取りゲーム」みたいと言った金利の問題。「無い」ものを追いかけさせている現行の金融のしくみは、とりわけ石油減耗問題との関連で
> 重要です。
椅子取りゲームの寓話はケインズがいっていたように
思いましたが、この話の源泉はゲゼリアンにあります。
>
> これに関連して、ビル・トッテンさんが最近『「年収6割でも週休4日」という生き方』というピークオイル本を上梓され、そこに平明な文章で、
> 「経済はなぜ毎年成長をしなければならないか、経済成長率になぜみんなが一喜一憂するのか、あなたは疑問に思ったことがないでしょうか。
> その答えは簡単です。社会に流通するお金の80~90%が、貸し付けを通じて作られたお金であり、そのお金を借りた人(または企業)は利子をつけて返
> 済しなければなりません。そのため経済は利子分だけつねに成長しなければならないのです。」(p.175)
> とソディの問題提起と同様の指摘をしています。(石油減耗という条件下では叶わぬ話であり、彼は政府貨幣を提案する。)
経済成長を強制される経済における利子の問題は
ゲゼリアンが克明に議論してきたところです。
彼らが緑の党を結成したとき、そうした議論が
蘇り、盛んに議論されました。
たとえば、新書版で手頃なところでは
Arbeit ohne Umwelktzerstoerung; Strategien fuer eine neue
Wirtschaftspolitik von H.C. Binswanger, H. Frisch,
H.G.Nutzinger u.a.1988. ISBN 3-596-24189-X
政府紙幣の提案は、ゲゼルの「貨幣の国有化」に淵源し
ますが、それを貨幣の流通速度分析を無視して、た
だインフレ主義的なMの管理に押し込めたのは、ダグラス
であり、ソディもそうかもしれません。
ソディは中銀への商業銀行の当座預金や商業銀行の
預金残への課税手法はゲゼリアンの考えをどこからか
得ているようですが、その場合には、現物の貨幣課税
(マイナス金利;消滅貨幣)を検討していませんので、
資産のシフトが発生しますね。
とにかくケインズはナチス派の経済学者の彼に対する
先駆性を指摘されてドイツ語を知らないと回答したよう
ですが、ソディが同時代や先行する時代の大陸の議論を
どの程度検討していたのか興味があるところです。
当時の英国ではブッチなどのゲゼリアンの簡単な紹介程度
が議論されていましたし。
利子による成長の強制論などこんにちよく見られる指摘は
ゲゼルの同時代のGustav Ruhlandの議論にみられます。
http://www.vergessene-buecher.de/
>
> 生産活動はエネルギー供給を前提としているわけですから、いよいよ経済活動のエネルギー制約と「椅子取りゲーム」との間に矛盾が生じ始めたというのが現
> 在の姿なのでありましょう。しかしながら、裕福な人は問題の所在に関心がなく、貧しい人は問題の根っ子を考える余裕すらないわけで、まことに不幸な状況
> に置かれているように思われます。
ダグラスは自ら風力発電を試みるほどエネルギー問題にも関心が
ありました。こんにちその追随者であったとソディを評するダグラス
支持者の議論がピークオイル論者や米国のリバタリアン、左翼主義者、
貨幣改革論者たちの様々な人たち(トッテン氏の議論もみなそこに
みつけることができます。)に復活しているようですね。
その分かりやすい議論はみな、カナダのダグラス主義者の活動家
養成コースで使用されたルイ・エバンの各種のテキストのなかに
あります。
もしソディの研究者がダグラス主義との内面的関連を具体的に
検証する作業を欠くようですと、ソディのアクチュアリティの
評価において成果をあげえないことになるかもしれません。
少なくとも、ゲゼルとソディの距離よりソディとダグラスの
距離のほうが圧倒的に近いのですから。
--
Eiichi Morino <a...@h6.dion.ne.jp>
Kenji Katsuragi
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