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[小説] 「病室のLemon」(箔塔落)
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△スタジオ
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Jul 6, 2025, 6:06:27 AM
7/6/25
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汗や皮脂やで薄汚れているのであろう皺の寄っていたリネンが、清潔なのであろう、あたらしいものにかけかえられる。空気のなかできらきらと埃が舞って、あなたは口元に手を当てるとかるく咳をした。
「あ、ごめんねまみちゃん」
咳をしつづけていると、咳のしかたがうまくなる。わざとらしい咳もわざとらしく聞こえたりは、おそらくしないのだろうな、とあなたは思う。そうしたら、かえって興が醒めた。あなたは嘘咳をやめてそろそろと手をかけぶとんの下にもぐりこませ、直寝不動の姿勢をとりながら、嚙みつくように天井を見つづけている。
あなたの耳の向こうで、ドアがわずかに音を立てて閉まり、一瞬部屋が渚のように波打つ。その決してあらあらしいとは言えない波打ちにすら引きずり込まれそうになるのを、あなたはこらえなければならない。足音と台車の音が遠ざかっていくのを聞いていたら、あなたののどの奥から、今度はほんとうに咳が出てきた。咳はしばらくつづいたけれども、あなたはナースコールのボタンは押さなかった。ベッド脇の、病棟のコンビニで母親が買ってきたミネラルウォーターを口に含んで、あなたはあなたの肺があなたをいたぶる時間をやりすごす。あなたの唇のはしからこぼれ、わずかなしみを、ミネラルウォーターは枕につくった。
ひと呼吸おき、体を起こしたあなたはベッドの縁に座り、ベッドとベッドの境界にあるカーテンをばっと閉めてみる。そうして、そっと開けてみる。今度はシャッとおおきな音を立てて閉める。そうして、こねずみ一匹驚くことがないようなスピードでゆるゆると開ける。あたかも自分の行動を変えれば、その目に映る世界も変わるとでも、あなたは信じているかのようだ。けれども、もちろんそこにあるのは、日記のように手や心になじんだものではなく、あくまでもよそよそしい、あたかも新品のように調えられたベッドである。入院をする前のあなたも、こういうきれいなものが病棟だと思っていた。でも、実際の病棟は、きれいでないもので溢れていることを、あなたはすぐに感得することになる。排泄物で汚れたおむつ、吸引器の中の痰、なによりも、死ぬということ。あなたの考えによれば、「天使と悪魔」という二項対立は、少なくともこの空間ではうそである。あなたの考えによれば、「この世界」において、「天使」でないものは「人間」であり、「人間」でないものはみな「天使」なのである。
背中にあたる夏の陽射しが暑苦しい、ということにあなたが気づいたのは、決してとうとつにではなかった。ただ、ものごとというのがおしなべてそうであるように、体感を無視できなくなる瞬間に関していうのならば、ほとんどとうとつに訪れた。あなたはゆっくりと身をねじり、出窓に右腕を乗り出させて、カーテンに、そのあいだの距離に対してやや短い腕をむりやりに届かせようとする。体のバランスを保つために動かした左手が、ふと、何か硬く尖ったものを押しこみ、あなたは痛みに顔をしかめた。陽射しの対処はいったん脇におくことに決め、右手をおろし、自分の左手で踏んづけたものの正体を見極めようと、あなたは左手をグーの形に丸めて「それ」を手に取ってみる。
ひかりのなかに手を翳して、あなたはそれの正体を目を細めて確かめる。黄色いレモンのキーホルダー。それは、あなたのものではない。でも、そういえば、れいらは米津玄師の「Lemon」が好きだったな、と、あなたは思う。好きだったのだろうか? あなたははれいらが「Lemon」の冒頭を口ずさんでいるところなら何度も耳にした。れいらは何をするときも病院のベッドに横たわったままで、もちろん少しかすれた声で「Lemon」を歌う時も例外ではなかった。あなたはその歌声を出す姿勢から、煙突から吐き出される煙を連想した。けれども、とあなたは思う。「Lemon」の冒頭「以外」をれいらが口ずさむところを、そういえば、あなたは聞いたことがない。何かそれは、重要な手がかり、もっといえば証拠のような気がした。しかしいったい何の手がかりであり、証拠であるというのだろう? あなたは思う。れいらの他にこんなものをわたしのベッドに仕込みそうな、あるいは仕込めるような人間と言ったら、ひとりも思い至らない。もしかして、これはれいらの忘れ物だろうか? それとも――、と。
「置き土産」ということばがあなたのなかで思い浮かんだ。
そうして思い浮かんだことばはあくまで「置き土産」であり、「形見」でも「遺品」でもなかったことに、ほんのすこしだけ、あなたははっとした。
あなたはれいらが、きのうまで隣のベッドで横たわっていたあなたとおなじくらいの齢の女の子が、いま現在生きているか死んでいるのかも知らない。たしかな事実のみを言うのなら、れいらはきのうの消灯後、張り詰めた声で、「まみ」、とあなたの名前を呼んだこと、そうして、いつものようにあなたのほうを見ないまま、「わたし明日の朝早くここからいなくなるから。わたしのこと忘れないでね」と言ったということ。それだけ。そのことばを聞いたあなたは闇の中で寝返りを打ち、病人と病人を遮るためのカーテンを見た。カーテンの向こうにいるはずのれいらを見た。けれども、「いなくなるってどういうこと?」あなたは、たったそれだけのことすら訊ねる勇気をもたなかった。否、もっていなかったのははたして勇気だろうか?――ふとそんな考えが脳裡を掠めるが、掠めただけで、それはあなたに深い思考を催させることはない。あるいは、できない。なにせあなたは、こんなにも浅いところで溺れているのだから。
れいらは退院したのだろうか? それとも、かねてからの患いののちに亡くなったのだろうか? まさか、自殺をしたなんてことはあるのだろうか――。汚れた病棟。きれいなリネン。あなたはレモンのキーホルダーを持ったまま、ベッドから足を脱き、脱いた足をそっとスリッパに挟み込む。そうして、わずかに波打つ床を、スリッパの底を引き摺るようにして歩き、となりのベッドへと、きのうまでれいらが眠っていて、いまはそのすべての痕跡を剝ぎ取られたベッドに足を運ぶ。あなたは「Lemon」の歌詞の最後の部分を、あなたの記憶の中にいる、おぼろげな記憶ゆえに現実よりもかなりぱっとしない米津玄師に歌ってもらいながら、レモンのキーホルダーを、そっと手から離す。あっというまに、レモンのキーホルダーは枕の上に落ちる。枕はちいさくへこんで確かにそれを大切なもののように受け止め、けれども、あなたが手を伸ばして拾い上げると、たやすくそれをあなたに明け渡してしまう。
あなたはふたたびレモンのキーホルダーを枕の上に落とす。白くて清潔な、清潔すぎるものの中で、黄色のしみのようなものは否が応でも目立つというものだ。梶井基次郎の有名な小説に、丸善にレモンの爆弾をしかけた「ということにする」話があった。あなたは思う。わたしはこのれいらの置き土産を、はたしてなんである「ということにしたい」のだろうか? 言いたいことだけを言っていなくなったれいらへの怒りの表象? もしかして死んでしまったかもしれないれいらに対する献花? そうではないのかもしれない。そういうことではそもそもないのかもしれない。あなたはそう思う。もっと単純な心のざらつき。そしてざわめき。ほとんど自然現象のように、あなたにはうまく対処することができないもの。
あなたはレモンのキーホルダーを手から離し、清潔な枕に落としては拾う。手から離し、清潔な枕に落としては拾うことを、ただただくりかえす。死に至らない生はない。その断固たる事実だけが、あたり一面になんにもない場所で、塔となって天をついている。だれもがそのことに対し沈黙していることを、なぜかどうしようもなく許せないようにあなたは思う。あなたは手からレモンのキーホルダーを離した。あなたの記憶の米津玄師は、とっくに「Lemon」を歌いやめ、「さよーならまたいつか!」を歌いたそうにマイクを構えているが、あなたはそれを、絶対に許すことはない。
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