> 先に「仏教医学の治療」という一章を読みましたが、これに続く「仏教教団の一日の過ごし方」という章では、ブッダが教団を始めた当時の僧侶たちについ
> て、衣類、起床、歯木、食事、洗浴、水、便利(用便)、臥息(就寝)という項目ごとに、詳しく説明がありました。托鉢では、自分の一日に必要な量以上を
> 求めないことや、物を恵んでくれる在家信者の負担を軽くするために、できるだけ空腹でいること、糞掃衣を着ることなど、当時の戒律の厳しさを改めて思い
> ました。また、牛の糞を清潔のために用いることなど、日本との文化の違いを感じさせる説明もありました。
☆ 上記のとおりだと思います。
> さて、今回の急展開はここからです。
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> 次に来るのは「日本における仏教医学」という一章で、ここの説明から、以前、随念院先生がおっしゃっていた、「医療と福祉を同一視する」という文脈の背
> 景が明らかに見えてくる説明に出会いました。
☆ この本は古い本のようですが、以下の問題についての学問は、吉田久一先生を始めとして、「日本仏教社会事業史」という学問体系の大きな流れとして、
多くの学者によって研究、確認されています。
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> そこではまず、最初に日本に仏教が伝来したときは、百済政権と大和政権との間での、国家戦略の手段の一つとして入ってきた経緯が簡単に述べられていま
> す。このため、最初の僧侶は今で言う国家公務員であり、官僧であったこと。いくらか間を省きますが、この官僧が権力や身分と引き換えに、「穢れ」を忌避
> する義務を負っており、これに不満を持った一部の僧侶たちが、公権力の保護を離れて遁世僧となり、自由に「穢れ」の世界に触れ始めたところから、新しい
> 仏教の時代も始まった、ということ。
☆ 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、旧仏教新仏教共にこういう動きが出てきました。貴族仏教から庶民仏教へ、そういう庶民の要望が強くなってきたと
いうことでしょう。
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> そして、この官僧→遁世僧の流れにおいてキーワードになった「穢れ」とは、非人、女人、死者であり、彼らを救済する活動を遁世僧が始めたことが、福祉で
> あり、医療でもあった、ということでした。ここに明らかに、医療と福祉の原始的融合が説かれています。葬式もここから始まったと書かれています。
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> 遁世僧については、法然や栄西といった有名な振興仏教の始祖たちと並んで、特に「叡尊」「忍性」という名前が登場します。私はこの名前を初めて知りまし
> た。重要な人名なので、敢えて「」を付けました。「叡尊」が「忍性」の師匠にあたる関係だそうです。彼らが癩病患者や貧しい人々への救済活動を始めた経
> 緯が書かれています。なお、彼らは当時、救済活動の対象者に対して、戒律をちゃんと守るよう求めています。私はこれは重要なことだと思いました。
☆ 「叡尊」「忍性」は真言宗の僧侶で、空海のように社会事業に生涯をかけましたが、その運動は次第に弱まりました。彼らは旧仏教の僧侶で、新仏教の流
れには追いつけなかったのかもしれません。
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> そしてさらに、とても驚いたことがありました。
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> それは、彼らの死後、彼らの活動を受け継ぐ人は現れなかったようで、その理由が書かれていたことです。次のように書かれています。「しかし叡尊、忍性の
> 二人が亡くなると遠からずして真言律宗は衰退の運命をたどってしまった。」
>
> その理由が三つ書かれていますが、その第一は、私が以前から、「現代において医療と福祉を同一視したら社会が持たない」とか、「法曹と医療の根本的な違
> いは結果責任の有無にある」とかいう趣旨を通じて、素朴なビハーラ活動は現代医療の現実にはなじまず、元々ある医療崩壊の傾向を促進すらしかねない、と
> 主張してきた文脈にがっちり一致しています。これが今日一番の驚きでした。
☆ ビハーラ活動がまだ大きな流れにならないのはそういうことがあるのかもしれませんその辺はこれから勉強していかなければならないと思います。
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> 曰く、「その理由の第一は、救療、社会事業の活動を行うに必要な経費、材料および食料を奉仕する施主の考えが、俗人、非人に対する慈悲の精神から自己満
> 足の気持に変化していった。したがって施しを受ける側にも仏恩に対する感謝の気持が消失し、彼らを貪欲にするだけになった。」と。鎌倉時代に一度起こっ
> て潰れていたんですね。とても驚きです。
☆ 福祉の限界と言うことをここに感じます。国際援助をすればするほど、途上国に人たちは働かなくなるというマイナスも問題になっていますね。福祉漬の
問題です。しかし、わたしは、このことは社会福祉の限界であって、仏教福祉はそれを超えることが出来るという信念で取り組んでいます。そのことは拙共著
『仏教司法福祉実践試論』信山社 に詳しく触れています。
>
> 話が長くなったので、私自身の文脈とどう一致するのかは次の機会に譲りたいと思います。ただ、少なくとも、以下の二つの命題を組み合わせると、どんな結
> 論が出るか考えてみるべきだ、と結んでおきたいと思います。
>
> 1:現代の医療では、患者は施しを受けるのと違って、当然の権利を受け取ることが基本だ、という認識。
> 2:医療において不確実性は根本原理であり、どれだけうまくやっても必ず何パーセントかの失敗が生じる、という事実。
☆ 1.の考え方は制度的にはそのとおりかもしれませんが、宗教としての仏教にはなじまないと思います。
2.については、上の文章だけでは私にはその意味が理解できません。
> さて、話は少しずれますが、この章では、「看病僧」と「僧医」が別個に登場し説明されます。これはこれで注目すべきことだと思いますが、別の機会に書こ
> うと思います。
☆ 比丘・僧侶が増えてくると当然分業が起こってくると思います。
> なお、この本はまだ読了していません。「日本における仏教医学」という件の一章すら終わっていません。ほんの偶然の出会いでしたが、とんでもない当たり
> くじだったのかもしれない、と思います。
グーグル検索で出てくると思いますが、日本仏教社会事業史については、吉田久一、長谷川匤信先生の本、空海・叡尊・忍性については、宮城洋一郎先生の本
が有益だと思います。
☆ wo3さんの問題提起はすごいし、大事な問題だと思います。ただ、私にはもう年齢から、それを極める時間がありません。溺れる者は藁をもつかむ、そ
の藁をできるだけしっかりしたものにすることがまず先だと願っているのみです。