看護フォーラムに参加しました

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wo3

unread,
May 10, 2009, 10:07:51 AM5/10/09
to 中津ビハーラの会
こんにちは。

本日、下記のニュースにありますように、看護フォーラムという催しがあり、これに参加しました。

大分合同新聞「看護フォーラムで看護職の魅力伝える」
http://www.oita-press.co.jp/localNewsFlash/2009_124195176454.html
OBSニュースライン「看護フォーラム」
http://www.e-obs.com/obs-news/genko/DD05100009526.html

この催しの趣旨は、また機会がありましたらご紹介いたします。
日本看護協会のホームページにも紹介があります。
http://www.nurse.or.jp/home/event/simin/forum/index.html

開会式にご出席の顔ぶれを見ますと、厚労省看護課長(本人)、県知事(副知事が代理)、大分市長(本人)、日本看護協会長(本人)などで、それなりの格
式があったと思われます。

さて、なるたけビハーラの会の趣旨に沿った見方での感想を書いてみたいと思います。
これほどの催しにおいて「死」がほとんど取り上げられないことに、私は正直驚きました。実際には、看護学生が実習体験を口頭発表する際に一度だけ取り扱
われました。しかし、催し全体を通してこの一度だけでした。

「死」は看護にとって重要な主題だと思うのですが、公に紹介する時には、どうしても「生」に偏るようです。こういう現実を宗教者はどう受け取られるので
しょう。それを疑問に思いました。そこまで「死んでいくこと」に対するニードがないのか、「死」を前向きに捉えることができない御時世なのか、と不思議
に思いました。

死に逆らうための「闘病」や、死が明らかになった時の「グリーフケア」のニードはあるのに。もっと後に来る「法事」のニードもあるのに。「死ぬ過程」は
無視ですか、と。「普通に死ぬ」、「死ぬべくして死ぬ」、「生まれたのだから当然死ぬ」ということは、今の日本ではタブーでしょうか。

「死=悲しい」なら分かるのですが、「死=おかしい」にすり替わっている気がします。「死=悲しいかもしれないが合理的」だと思います。「生まれたから
死ぬ」という理屈は、今の日本では非常識な発想なのでしょうか。患者に対してであれば、なおさら非常識でしょうか。日本の「患者」というものは、生きる
気持ち満々なのが普通、あるいは理想なのでしょうか。みんなそういうものとして、本気で考えているのでしょうか。しかし幾らなんでも「病気や怪我は治癒
するもの」という発想は無茶だと思います。

信じられないほど不思議な気持ちになりました。

いずれにせよ、医療において常に「死」は失敗に結び付けられるようです。仏教においてはいかがでしょうか。一般信者の皆様の会話の中ではどうでしょう。
振り返って考えてみれば、今更何を、という疑問かもしれませんが、改めてしみじみ思います。「みんな絶対に死ぬに決まってるから、どうせなら幸せに死に
たいね。」「幸せな死って何だろうね」と発言することは、非常識でしょうか。

私自身の考えとしましては、プロの宗教者はこういう現状を今以上に機敏に捉えて、独自の発想で介入する必要に迫られているように思うのですが。宗教自体
の本質という意味でもそうだし、少なくとも布教という観点に立てば、そういうことになるのではないか、と疑問に思います。看護フォーラムのような催しに
は、宗教方面へは声がかからなかったのでしょうか。看護とお寺が全体としてそういう関係なら、宗教者の側からの対応も必要かもしれないと思います。現実
の医療において、タブーだからということで「死」を語らずに済むのが現実なら、「死ぬ過程」という概念そのものが、少なくとも看護においてはニード不在
により不要ということかもしれません。せいぜい学問的関心の範囲内かもしれません。私自身、看護学において公に「健康な死とは何か」という問いを立てる
ことは、今はできそうにないのかなあ、と思ってしまいました。

今日の出来事にて推敲がなっておりませんが、どうぞご容赦ください。
意図だけはお伝えしたいと思い投稿いたしました。

もう少し考えてみたいと思います。

随念院

unread,
May 11, 2009, 4:39:23 AM5/11/09
to 中津ビハーラの会
Wo3さん、詳しいコメントご苦労様です。
確かに死について遠ざけようとする看護学界、やはり近年の傾向であろうと思います。こういう大きい大会ではこうならざるを得ないのですかね。
死を問題にすると、医療や看護のやりがいがなくなるとでも言うのでしょうか。しかし、現代はそんなことを言っておれないと思います。ここに宗教家の入っ
ていく課題があろうかと思います。
しかし、ずいぶん以前より、「死の臨床研究会」が毎年盛大に開催されていますし、そういう動きは十分あると思います。
『毎日新聞』4月8日の「Dr.中川のがんから死生をみつめる 1」では、「人間が自然の一部であることを示す最大の証拠は、桜の花と同じように、私た
ちの命にも限りがあることです。死は本来、自然のことなのです。しかし、現代の都市文化の中で、そのことが見えにくくなってしまっています。」と書いて
います。
今後この問題を議論しましょう。

吉元

mori syuuei

unread,
May 12, 2009, 5:28:38 AM5/12/09
to nakatu...@googlegroups.com
一言、意見を云わせてください。
私はソーシャルワーカーであり、僧侶なのですが、今の医療界の「死は敗北」という
意見には実は賛成なのです。死は執刀医の敗北ということで医師が治療に頑張ってく
れれば非常にありがたいと思います。しかし治る見込みのない方、今の医療技術では
治せない方に対してケアをするということでビハーラがあるならば、どのような立場
において在るべきかということをずっと考えてもいます。敗北でない死を生きる、こ
れが仏法の課題ではないでしょうか?

死は確かに悲しいことです。しかし避けて通ることの出来ないものです。そしてもっ
とも悲しいのは、未練を残し、愛するものと無理やり引き離され、本人や周囲が納得
のいかない状況で死んでいくことです。立派な子供がいて、さらに立派な孫がいて、
周囲からは長寿だと言われ、何不自由なく、何も心配することもなく、安らかに亡く
なっていくことが大往生だと私はいつも考えています。しかし無常の風がそうはうま
くいかせないというのが仏法だと思っています。
私は死が悲しいことだという以上に、悲しい人生を歩かざるをえない衆生だというこ
とに仏法と福祉(私の場合はですが…)が共鳴すべきではないかと思っています。同時
に、生きることは悲しいということで、医療・看護が死の悲しみに気づいてくれれば
本当に嬉しいことだと思っています。
それによって、治療する気もなく、「人はいつかは死ぬのだ~」などと公言する医師
もいなくなると幸いです。

ターミナルケアということでの学会であれば、死は当然話題になるでしょう。しかし
治療を目的とする学会において死が取り上げられないのは、生を求めているからだと
思います。
仏教においては死は敗北でもなんでもなく、生まれたからには当たり前のこととして
受け止められると思っております。
死を考えるのは、生まれてきたからには当然考えて生きなければならない問題であり
ます。しかしなかなか私たちはそれを考えようとしません。
医療機関に傷害・疾病というご縁で、死を考え思う機会があればと常々思っておりま
す。そのために医療機関の中にビハーラが必要なのです。

結論として、私はwo3さんのご意見に賛成です。よろしく。


----- Original Message -----
From: "wo3" <shinb...@gmail.com>
To: "中津ビハーラの会" <nakatu...@googlegroups.com>
Sent: Sunday, May 10, 2009 11:07 PM
Subject: 看護フォーラムに参加しました


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