「いのちの看取り」という本

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wo3

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Oct 24, 2009, 7:52:58 AM10/24/09
to 中津ビハーラの会
こんにちは。

随念院先生からのご提供により、「いのちの看取り ‐仏教的ターミナル・ケアへの展望‐」(仏教大学 仏教とターミナル・ケアに関する研究会 編、
1993年、四恩社)を読み始めましたので、さっそくご紹介させていただきます。随念院先生、どうもありがとうございます。

中を開けると、意外に大きな文字で、読みやすそうです。今日は第一部、68ページまでを読みました。内容は、導入部であることもあってか、基本的な解説
が中心でした。既に読んだ気がする内容が多かったようです。あまり疑問に思うところはありませんでした。

気になったところは、まず、「生死一如観」に関連して、「仏教は、何を持って(どのような状態)死とみなすか、ということを問うているのではなくして、
死とは何か(意味は何か)を問うている」(26ページ)と述べて、死の扱いに関する医学と仏教の区別をしているところです。ここから唯識思想の紹介へと
発展しています。

次に、「末期施療」(43ページ)という言葉は、意味は分かりますが、私は初めて見た気がします。「末期」の意味は、現代ではたぶん、仏教が最初に想定
していたところと相当異なっているだろうな、と感じます。

次に、「医は仁術であり」(46ページ)とさらっと書いてありますが、誰がそんなことを言っているのだろうか?と素朴に疑問に思いました。「医」の意味
が何であるにせよ、「仁術」に置き換えてしっくりくる人は、どういう医療を受けてきた人かな、と疑問に感じます。

と、このような感じで、振り返ってみれば瑣末な部分にしか疑問が残りませんでした。根本的に、これはおかしい、と感じることはありませんでした。それは
たぶん、第一部の内容が、私たちの間でも既に議論した内容であったからではないか、と思います。また、これまで私たちが論じてきたことが、それほど的外
れでもなかった、という安心にもつながります。そしてさらに、この本は1993年の発行であり、私は今、10年以上も以前の議論を追いかけているのだ、
という事実にも気付かされます。

一度ざっと読んでから、もう一度読み直してみると、意外な論点が見つかるかもしれません。楽しみにしています。

蛇足ですが、グーグルで「いのちの看取り」で検索すると、この本は出ませんでした。その代わり、色々と興味あるページが出ます。

随念院

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Oct 24, 2009, 8:34:53 AM10/24/09
to 中津ビハーラの会
wo3さん、読むのが早いですね。向学心、探究心には感服です。この後が面白くなると思います。古い本ですが、それだけに、ビハーラへの通過点がよく理
解いただけると思います。今のビハーラ活動がこういう経過を経てきたということです。
医は仁術 古くから言われた諺のようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E3%81%AF%E4%BB%81%E8%A1%93

wo3

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Oct 25, 2009, 7:46:49 AM10/25/09
to 中津ビハーラの会
「いのちの看取り」の続き今日もを少し読みました。

今日は「第二部 シンポジウム 仏教とターミナル・ケア」の一部(69ページから121ページ)を読みました。ここは、思わず笑ってしまうほどページの
脱落がたくさんある(90-91、94-95、98-99、102-103ページ)ために、趣旨を読み取りにくい部分もありましたが、全体としては、違
和感なくそこそこ納得できる内容のように感じられました。

特に、看護を表現する梵語「傍らに立つ(ウパスターナ)」は、藤腹先生の「仏教看護論」でも大きく取り上げられていたように、印象に残りました。この言
葉に看護師の多くは、一度は反応するでしょうね。

随念院

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Oct 25, 2009, 8:24:38 AM10/25/09
to 中津ビハーラの会
wo3さん、申し訳ない。乱丁のある本を渡したしまいました。私の手元のは乱丁でないようですので、その不足頁のコピーを今度差し上げます。勘弁してく
ださい。脱落の箇所が4箇所であるところを見ると、よくある製本段階での脱落のようで、書店として、出荷の段階であってはならないことです。私もいちい
ち点検してないので、申し訳ないことをしました。
サンスクリットの語源分析をすると、いろいろ面白いことがわかります。奉仕を意味するサンスクリット「セーヴァー」が「世話」という日本語になるのも面
白いですね。

wo3

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Oct 27, 2009, 9:49:07 AM10/27/09
to 中津ビハーラの会
こんにちは。

「いのちの看取り」の続き今日もを少し読みました。
今日は「第二部 シンポジウム 仏教とターミナル・ケア」の残り(122ページから155ページ)を読みました。

この中で印象に残るのは、第一に仏教看護大学構想の件です。近頃、仏教大学が看護学部を買収するというニュースがありましたが、この構想を経て、つい
に、ということであったわけですね。恐らくこのまま仏教大学看護学部は実現するのでしょうが、ニュースを追っていると、単に順風満帆というわけでもない
ようです。京都市立から市立に移行するにあたり、学費値上げを心配する学生や卒業生などが、(恐らく)共産党を中心とする政治団体をバックにして反対運
動を繰り広げているようです。京都は仏教の中心であると同時に、左翼運動の盛んな街でもあるのですね。

他に印象に残るのは、「生きがい療法」について、詳しい説明がなく、よく分からなかったことと、例の「看病用心鈔」がここでも紹介されていたこと、そし
て「看病」に対して「看死」という言葉が対になっているらしいこと、でした。

随念院

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Oct 28, 2009, 3:29:19 AM10/28/09
to 中津ビハーラの会
wo3さん、『生きがい療法」についてですが、柴田病院の院長柴田高志先生が、森田療法を応用して考案した、ガン末期患者のための支援療法のようです
が、ネットでも詳しくはわかりません。不完全なようですが次のサイトなら少しわかるような気がします。
http://health.nikkei.co.jp/meneki/


wo3

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Oct 29, 2009, 8:57:21 AM10/29/09
to 中津ビハーラの会
こんにちは。

「いのちの看取り」の続き今日も少し読みました。

今日はシンポジウムの第2回「日本的ターミナル・ケアのあり方を求めて 仏教を中心にして」の一部(157ページから191ページ)を読みました。この
中に随念院先生のコメントも含まれております。

この中で印象に残るのは、「平生」と「ターミナル」の二段構えに関する、西洋と東洋の見方の違いに関する議論でした。西洋では死を生から切り離して考え
るのに対して、東洋では「生死一如」である、ということです。

そこでふと思ったのですが、現代の日本社会では西洋合理主義的な思考が圧倒的に優勢ですから、「生死一如」は、扱いようによっては危険思想になりうるで
しょう。それほどでなくても、例えば、結婚するカップルに対する常套句として「永遠の愛を誓う」という言い方は、あくまで西洋のレトリックであり、生死
一如の視点から冷静に考えれば、せいぜい「余生数十年の愛を誓う」というのが正確なのでしょう。そのように、生きることだけに目を向けて考えない、とい
うのが「生死一如」ということのようです。

次に印象に残ったのは、「縁なき衆生は度し難し」という考え方です。相手にできそうな人だけを相手にすることが許されるのであれば、医療現場の仕事は
もっと楽でやりがいもあろうと思います。しかし、優勢な西洋合理主義的思考の現実においては、人権思想の介入を避けることはできません。

さらに、健康志向への反論として「闘病」から「共病」へ、という考え方も印象に残りました。病気にかかるのも縁だという、諦観のようなものが背景にある
ことが分かります。

この章での議論は、このように一貫して、死は避けられない、避けられないものは受け入れよう、という考え方を前面に押し出しているようです。従来の、克
服してこそ人間文明だ、といった西洋合理主義的な思考が頂点を過ぎ、様々な面から、これ以上の進化を望めなくなってきたという現状を捉えて、文明の限界
を受け入れる方向に向かおうというメッセージが感じられます。このメッセージに仏教を関連させているように読めました。

このような考え方ですから、結局、「ターミナルをどう生きたいかという目標を持たない人に対しては、真のターミナル・ケアは存在しないだろう」という結
論が出てくるのでしょう。漠然とした目標を持っているだけでは良い結果を残せない、という考え方は、しばしば見かける主張でもあり、私自身も腑に落ちま
す。

ただし、現実の医療現場では、あるいは福祉の現場でもそうですが、明確な目標を持って生き、死ぬ人は少数でしょう。例えば、漠然と生きてきた挙句、突然
の脳溢血にて倒れた人、といった事例に出会うことがあります。年齢層も限られておらず、あらゆる年齢、性別、病歴の人々が、突然倒れる可能性を持ちま
す。こういった人は、昔はほとんどそのまま死んだのでしょうが、今は何割かの人は、重篤な障害を残して生き残ります。もはや自らは何の意思表示をするこ
ともなく、ただひたすら生命を維持する状態を何年も続ける人が一定の割合で出現し、社会に累積します。このような人にとっては、先の結論に従えば、もは
や真のターミナル・ケアは存在しないことになります。ただいま激増中の認知症の方々も、もはや主観を失った方々、という意味では同類と言えるでしょ
う。

そうしますと、真のターミナル・ケアを目指すならば、健康なときにこそ死の教育を受けるべきだ、ということに必然的になります。しかも、できるだけ早い
方が良いわけですから、小学生のうちから、みんな毎日がターミナルだ、と寿命の話をする必要が出てくるでしょう。実際、アメリカの小児ホスピスでは、満
足に会話できる年齢であれば、自分の死を意識できるようだ、という結論を出して実践している現場もあるようです。この類のお話は、以前にこのグループで
も出たことがあると思います。

さて、この後に出てくる、随念院先生のコメントも、この文脈に沿っていると思われます。「日本的」なターミナル・ケアに関して、「例え相手に不利益なこ
とであっても、真実は告げるべきだ」というお話や、無宗教者は死から逃げる、というお話もそうだと思います。

ところで、昭和天皇に対するターミナル・ケアが事例として出ていましたが、この意味が私にはよく分かりませんでした。当時テレビでずっとやっていた、宮
内庁発表に基づく報道は、確かに無味乾燥、いうなれば無宗教であったと思います。しかし恐らく、各報道機関とも独自取材は考えられなかったでしょうか
ら、無味乾燥は当然、仕方がなかったと思います。

この意味で、当時を振り返ると、無味乾燥な報道向け発表の陰で、まったく次元の異なるターミナル・ケアが行われていたと考える方が自然ではないか、と私
は思います。私自身は、昭和天皇に対するターミナル・ケアが実際にどうであったかに関する情報収集はまったくしていませんので、あまり評価もできないの
ですが。

最後に、この章で再び件の「看病用心鈔」の記述に出会ったことに、驚きと親しみを感じました。これはもう、一度じっくり読んでみるしかないだろうと思い
ます。また、どこかで佛教大学の仏教看護コースの誕生(と終焉)のお話が出ていたような気がするのですが、どこかわからなくなりました。もしかしたら別
の個所だったのかもしれません。

wo3

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Oct 30, 2009, 8:06:59 AM10/30/09
to 中津ビハーラの会
こんにちは。

「いのちの看取り」の続き今日も少し読みました。今日は昨日に続き、192ページから239ページまでを読みました。ここでは、仏教看護論でお馴染みと
なった藤腹先生もご登場されます。

今回読んだ中で印象に残るのは、まず、お寺が本当にビハーラ活動の基地になるべきかどうか、という問いかけでした。先に、ビハーラ活動の本来の根拠地は
お寺の本堂である、というお話がありました。それに対して、ビハーラ本来の活動とは、純粋に傍らに立つことであるから、特にお寺の本堂があるかどうかは
関係ない、という考え方もありうる、という問題提起であったと思います。まあ、振り返って考えてみれば、形式はどちらでもいい気もします。しかし、ここ
での議論で、「日本的」ということについて、だれかの臨終にみんなが集まって看取ることだ、という考え方が示されていたのは、確かにもっともだと思いま
した。だとすれば、お寺の本堂は、あまり重要でないのかもしれません。mori様がどこかでおっしゃったように、在宅という考え方こそがむしろ重要、と
いうことだと思います。

次に、自分はこうやって死にたい、という美意識を持つ人が少ない、というお話がありました。これは、以前に出た無宗教の問題と同じだと思いました。しか
し、今の日本人は、宗教を持ち出すまでもなく、そこまで普段から考えている人自体が少ないと思います。確か、魯山人の本に書いてあったと思いますが、
「今日のお昼ご飯に何を食べたいか、と聞かれて、はっきり答えられる人すらほとんどいない。それでは職人にはなれても、芸術家にはなれない。」と言って
いました。そんな人は確かに少数でしょう。世界的にも稀なほど平和な日本ですから、それも仕方ないように思います。

また、「京都仏教青年会」の7年間の活動について、結局、患者のためというよりは、僧侶の勉強のためと思って実践するべきだという結論になったというお
話や、医者の手にかかったら必ず治療と延命が行われるので、尊厳死はあり得ない、というお話にも興味をひかれました。

最後に、ビハーラ活動の専門性とボランティア性についてのお話ですが、私たち医療者の多くは、すでにサービス残業という形で、無意識的にボランティア活
動をたくさんやっていると思います。これはほとんどの場合、経営者の利益という視点と関係なく、目の前の患者の利益を損なわないための、反射的な行動で
す。客観的に考えれば、良くないことだとは思いながらも、目の前に迫る現実に思わず対処してしまう医療者が多いのです。しかも悪いことに、これを逆手に
とって、「自分の仕事が終わるまでは帰らないのが普通」という趣旨の、いけない風習が医療者の間にはびこってさえいます。

従って、例えば、(主に民間の)医療者が労働組合を作って、今後は労働基準法を順守します、と主張して実践すれば、立派な順法闘争になるでしょう。これ
は、単に経営者に対する闘争ではなく、患者に対する闘争にもなります。医療者の多くが労働基準法を守れば、多くの病棟は(特に田舎では)回らなくなって
消えるでしょう。それほど日本の患者は歴史的に、求めるまでもなく、医療者のボランティアに助けられてきたということです。これが世界的に安価かつ効率
的な日本の公的医療の実態です。

このような状況ですから、(少なくとも現場の)医療者に対する、もっとボランティアを、というお話を見ると、ちょっと複雑な気持ちになります。たぶん、
もう何十年も前からそういう構造があるのだろうと思います。衣食足りて礼節、ボランティアをするにも、それ以前の労働関係が十分理に適っていないと、お
話にならないのです。

随念院

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Oct 30, 2009, 9:37:02 PM10/30/09
to 中津ビハーラの会
wo3さん、深い読み込み、感服します。あまりに感想が多いので、いちいちコメントできませんが、要点のみコメントすることにします。


> このような考え方ですから、結局、「ターミナルをどう生きたいかという目標を持たない人に対しては、真のターミナル・ケアは存在しないだろう」という結
> 論が出てくるのでしょう。漠然とした目標を持っているだけでは良い結果を残せない、という考え方は、しばしば見かける主張でもあり、私自身も腑に落ちま
> す。
>
> ただし、現実の医療現場では、あるいは福祉の現場でもそうですが、明確な目標を持って生き、死ぬ人は少数でしょう。例えば、漠然と生きてきた挙句、突然
> の脳溢血にて倒れた人、といった事例に出会うことがあります。年齢層も限られておらず、あらゆる年齢、性別、病歴の人々が、突然倒れる可能性を持ちま
> す。こういった人は、昔はほとんどそのまま死んだのでしょうが、今は何割かの人は、重篤な障害を残して生き残ります。もはや自らは何の意思表示をするこ
> ともなく、ただひたすら生命を維持する状態を何年も続ける人が一定の割合で出現し、社会に累積します。このような人にとっては、先の結論に従えば、もは
> や真のターミナル・ケアは存在しないことになります。ただいま激増中の認知症の方々も、もはや主観を失った方々、という意味では同類と言えるでしょ
> う。
☆ これから機会があったら議論したいと思っているのですが、ここに「菩薩」の役割がどうしても必要になります。wo3さんは、どこかで、「菩薩=ボラ
ンティア」とおっしゃっていましたが、そのことです。ボランティアでも せざるを得ないボランティア、させていただくボランティア ということになりま
す。
>
> そうしますと、真のターミナル・ケアを目指すならば、健康なときにこそ死の教育を受けるべきだ、ということに必然的になります。しかも、できるだけ早い
> 方が良いわけですから、小学生のうちから、みんな毎日がターミナルだ、と寿命の話をする必要が出てくるでしょう。実際、アメリカの小児ホスピスでは、満
> 足に会話できる年齢であれば、自分の死を意識できるようだ、という結論を出して実践している現場もあるようです。この類のお話は、以前にこのグループで
> も出たことがあると思います。
☆ 20年以上まえに、西川医師が「サタトロジー」教育の必要性を激白していましたが、まだ、その要請はされながら実現していません。学校教育、幼児教
育から取り入れるべきだと思います。
>
> さて、この後に出てくる、随念院先生のコメントも、この文脈に沿っていると思われます。「日本的」なターミナル・ケアに関して、「例え相手に不利益なこ
> とであっても、真実は告げるべきだ」というお話や、無宗教者は死から逃げる、というお話もそうだと思います。
>
> ところで、昭和天皇に対するターミナル・ケアが事例として出ていましたが、この意味が私にはよく分かりませんでした。当時テレビでずっとやっていた、宮
> 内庁発表に基づく報道は、確かに無味乾燥、いうなれば無宗教であったと思います。しかし恐らく、各報道機関とも独自取材は考えられなかったでしょうか
> ら、無味乾燥は当然、仕方がなかったと思います。
>
> この意味で、当時を振り返ると、無味乾燥な報道向け発表の陰で、まったく次元の異なるターミナル・ケアが行われていたと考える方が自然ではないか、と私
> は思います。私自身は、昭和天皇に対するターミナル・ケアが実際にどうであったかに関する情報収集はまったくしていませんので、あまり評価もできないの
> ですが。
☆ 昭和天皇の病状に関しては、医師団から逐次マスコミに報告され、報道されていました(一方的で内実はわかりませんが)。それを聞いたが義理では、大
勢の医師団がよってたかって、とことん延命したという印象を受けました。普通の人にはそこまでしないでしょうが、天皇だから、それ以上に生きながらえた
と思います。しかし、陛下は、その間苦しんだか、意識不明だったはずで、そこまでする必要があったのか、疑問に思いました。

> 最後に、この章で再び件の「看病用心鈔」の記述に出会ったことに、驚きと親しみを感じました。これはもう、一度じっくり読んでみるしかないだろうと思い
> ます。また、どこかで佛教大学の仏教看護コースの誕生(と終焉)のお話が出ていたような気がするのですが、どこかわからなくなりました。もしかしたら別
> の個所だったのかもしれません。
☆ 「佛教大学の仏教看護コースの誕生(と終焉)のお話」は、ミーティングのとき、その状況を見ていましたので、私がお話したように思います。しかし、
看護学部ができるという現在、そのときは産みの苦しみだったんですね。市立から私立への諸問題は現場の調整でいずれ解決すると思います。

随念院

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Oct 30, 2009, 9:53:25 PM10/30/09
to 中津ビハーラの会
wo3さん、


> 今回読んだ中で印象に残るのは、まず、お寺が本当にビハーラ活動の基地になるべきかどうか、という問いかけでした。先に、ビハーラ活動の本来の根拠地は
> お寺の本堂である、というお話がありました。それに対して、ビハーラ本来の活動とは、純粋に傍らに立つことであるから、特にお寺の本堂があるかどうかは
> 関係ない、という考え方もありうる、という問題提起であったと思います。まあ、振り返って考えてみれば、形式はどちらでもいい気もします。しかし、ここ
> での議論で、「日本的」ということについて、だれかの臨終にみんなが集まって看取ることだ、という考え方が示されていたのは、確かにもっともだと思いま
> した。だとすれば、お寺の本堂は、あまり重要でないのかもしれません。mori様がどこかでおっしゃったように、在宅という考え方こそがむしろ重要、と
> いうことだと思います。
☆ 寺が中心になるということは、必ずしも本堂を中心という意味ではありません。門との人たちが本堂に集まるのは、年に数回で、我々僧侶が月1回以上、
各門徒の家庭を訪問します。それが在宅の機会になると思います。

> 次に、自分はこうやって死にたい、という美意識を持つ人が少ない、というお話がありました。これは、以前に出た無宗教の問題と同じだと思いました。しか
> し、今の日本人は、宗教を持ち出すまでもなく、そこまで普段から考えている人自体が少ないと思います。確か、魯山人の本に書いてあったと思いますが、
> 「今日のお昼ご飯に何を食べたいか、と聞かれて、はっきり答えられる人すらほとんどいない。それでは職人にはなれても、芸術家にはなれない。」と言って
> いました。そんな人は確かに少数でしょう。世界的にも稀なほど平和な日本ですから、それも仕方ないように思います。
>
> また、「京都仏教青年会」の7年間の活動について、結局、患者のためというよりは、僧侶の勉強のためと思って実践するべきだという結論になったというお
> 話や、医者の手にかかったら必ず治療と延命が行われるので、尊厳死はあり得ない、というお話にも興味をひかれました。
>
> 最後に、ビハーラ活動の専門性とボランティア性についてのお話ですが、私たち医療者の多くは、すでにサービス残業という形で、無意識的にボランティア活
> 動をたくさんやっていると思います。これはほとんどの場合、経営者の利益という視点と関係なく、目の前の患者の利益を損なわないための、反射的な行動で
> す。客観的に考えれば、良くないことだとは思いながらも、目の前に迫る現実に思わず対処してしまう医療者が多いのです。しかも悪いことに、これを逆手に
> とって、「自分の仕事が終わるまでは帰らないのが普通」という趣旨の、いけない風習が医療者の間にはびこってさえいます。
>
> 従って、例えば、(主に民間の)医療者が労働組合を作って、今後は労働基準法を順守します、と主張して実践すれば、立派な順法闘争になるでしょう。これ
> は、単に経営者に対する闘争ではなく、患者に対する闘争にもなります。医療者の多くが労働基準法を守れば、多くの病棟は(特に田舎では)回らなくなって
> 消えるでしょう。それほど日本の患者は歴史的に、求めるまでもなく、医療者のボランティアに助けられてきたということです。これが世界的に安価かつ効率
> 的な日本の公的医療の実態です。
>
> このような状況ですから、(少なくとも現場の)医療者に対する、もっとボランティアを、というお話を見ると、ちょっと複雑な気持ちになります。たぶん、
> もう何十年も前からそういう構造があるのだろうと思います。衣食足りて礼節、ボランティアをするにも、それ以前の労働関係が十分理に適っていないと、お
> 話にならないのです。
☆ ボランティアと勤務時間の奉仕的延長というのは必ずしも一致しません。いけない風習でなされるボランティアは、ボランティアになっていないと思いま
す。ボランティアはあくまで心の問題で、積極的にされるのがボランティアで、受動的ボランティアは、決して好ましくなく、やはり労使間で話し合いをすべ
きだと思います。l

wo3

unread,
Oct 31, 2009, 7:11:53 AM10/31/09
to 中津ビハーラの会
こんにちは。

「いのちの看取り」の続きを今日も読みました。今日は昨日に続き、240ページから最後まで、「第三部 講演 ターミナル・ケアと宗教の役割」を読みま
した。

今回は、高齢化社会の問題への言及から始まり、「死は老人だけの問題ではない」という問題意識につながっていきます。そして、「死の現象をひとつの通り
道として自覚した人間の文化が宗教である」と確認するところへとつながっていきます。さらに、「病院は看取りにふさわしい場所ではない」とか、「人間は
生きたようにしか死なない」といった、私たちには馴染みのある言葉も登場します。

また、医療に対する「生を延長する」という捉え方に対して、「死へのプロセスを延長する」という捉え方を提案しているところが印象に残ります。ケアする
人に対しては、このためのキーワードとして「倶会一処」が登場します。また、ケアされる人も含めてすべての人には「生の充実」が死に向かうに当たり大切
であることも強調されます。

「倶会一処」、次の世で、またお会いしましょうね、みたいな感じの合言葉のようですが、私はとても気に入りました。老人が多い現場では、臨場感と説得力
のある言葉です。

さて、以上でこの「いのちの看取り」の読み込み感想は終了です。随念院先生、資料のご提供から、感想投稿後のご解説まで、本当にありがとうございまし
た。また、議論にご参加くださいましたmori様にも心から感謝いたします。
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