「犠牲」を読みました

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wo3

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Jul 9, 2009, 8:13:35 AM7/9/09
to 中津ビハーラの会
こんにちは。

「第19回例会懇談要旨報告」でご紹介いただきました、柳田邦男『犠牲(サクリファイス)』を、昨日と今日で読みました。論旨の分かりやすい内容で、一
気に読み上げました。この続編と思われる「『犠牲』への手紙」は、明日以降に読んでみる予定です。

さっそく私の感想を二つ、簡単に申し上げたいと思います。

1.「ターミナルケアの場は緩和ケア病棟だけではない」

こういう内容があったと思います。ちょうど、私も看護師経験2年目を迎えて、そのように感じているところです。私が今所属する回復期リハビリテーション
病棟にも、広い意味でのターミナルケアはあると感じます。救急救命のような現場でも、救命という言葉が強調されてはいますが、救命に失敗すれば、その場
はターミナルケアの現場になります。そして、その確率は常に一定以上あります。ただし、そういう事情はあまり公にしにくいでしょう。まだ今は、そういう
事情を冷静に分析できる社会環境ではないように思います。今は、「できる限りのことをして欲しい」という言い方が、「とにかく生かせ」を意味する世の中
であるように思います。これが例えば、「自分の口で食べられなくなったら終わり」が常識として通用するような社会であれば、「できるだけのことをして欲
しい」という言い方の意味は違ってくるのではないかと思います。そうすると、やはり医療の現場というよりは、それ以前の、普通の社会での死生観が重要な
のだと思い直しました。

2.お金の話が全然出ない

単なる事例報告でなく、マクロで議論するときに、お金の話が出ないのは致命的だと思います。お金の話をしないで済むのなら、どこまでも理想だけを求めれ
ば良いことになります。まあ、全然出ない、というのは言い過ぎかもしれません。確か、脳死以降のケアは自費で、という主張に反対する内容があったと思い
ます。つまり、脳死のケアも公的医療に含めるべきだということでしょう。すると、そのお金で買えたはずの別のサービスや物事と比較して、脳死ケアの優先
順位が高いことを主張する議論も必要になると思います。

こういうことは、ヨーロッパでは、割と常識的になっているように思います。というのも、ヨーロッパでは、老人に対しては、日本より結構冷たいように見え
ること(先の「口で食べられなくなったら…」みたいな)を言う割には、子供に対しては、かなり執着してお金や手間暇をかけるように見えるからです。子育
て家庭への資金援助とか、医療費無料・学費無料とか、技能修得援助などは、日本よりはるかに手厚いと思います(申し訳ありませんが典拠を省きます)。つ
まり、日本の優先順位は「老人≧若者」または「総花的」であるのに対し、ヨーロッパでは「若者≧老人」ということではないかと思います。政治家や各界
トップの年齢を比べてもそう見えます。老人より若者に優先的に投資するという考え方が本当にあるのかどうか分かりませんが、もしあるとすれば、社会全体
を維持するという目的に関しては、論理的な根拠があるように思います。国民に対して政府が、結婚はともかく子どもは作った方が得だと思わせる努力をして
いるように思います。日本ではそれが見えません。文化的な違いでしょうし、何でも「総花的」になることが悪いとも思いませんが、一般的な話として、若者
よりは老人の方が、自分自身の死に対して寛容になってもいいのではないかと思います。同等の生存権というのは、理屈では正しいのでしょうが、どうも変な
感じがします。

蛇足ですが、書籍も通販で手に入れると便利ですね。

では失礼します。

随念院

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Jul 10, 2009, 9:29:07 PM7/10/09
to 中津ビハーラの会
wo3さん、『犠牲(サクリファイス)』を2日ほどで読み通したとは驚きです。柳田さんの体験談だから真迫性がありませね。
.「ターミナルケアの場は緩和ケア病棟だけではない」
おっしゃるとおりだと思います。人間に死ということが避けられない以上、普通の病院でも、自宅でも、救急医療でも、すべてターミナルケアの場はありえま
す。
「お金の話が全然出ない」、臓器移植の場合だけ脳死を人の死と定義していたようですが、臓器提供をしない脳死の人は健康保険がきく訳ですね。脳死の人の
医療費は大変な額だと思いますが、現状はどうなっているのですか、教えてください。同じ脳死の人を臓器提供するかしないかで、死か生きているかと決める
のはまったくむちゃくちゃであると思います。
柳田さんは、脳死臨調などで活躍してきた人、しかし、あの本によると、自分の次男という2人称の脳死を体験して、大きく脳死についての考え方が変わった
のはよく分かります。それよりも、自分の息子の脳死にかこつけて、署名を『犠牲』というびっくりするようなタイトルにしたのも大きな意味を持つと思いま
す。柳田さんはもちろんですが、あの本の最後に、この本を読んだ女子学生の感想文が出ていますが、私はあの文章に感動しました。もう今は大人になってい
るでしょうが、ああいう学生を育てた日本の文化というものに、私はまだ希望が持てるなと思っています。
若者対老人の優先順位の問題、今後大いに議論しなければならない問題です。
「『犠牲』への手紙」は、私はまだ読んでいませんので、ぜひ詳細な読後感想をお願いします。
合掌


wo3

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Jul 11, 2009, 10:37:20 AM7/11/09
to 中津ビハーラの会
ご返信ありがとうございます。

今日は仕事の前後に「『犠牲』への手紙」を半分くらい読みました。全体的には、前作から一貫した論調のように思います。
自己レスになりますが、先の感想2点に続いて、今になって思い出すところを少し書かせていただこうと思います。

3.受ける側と与える側を相対的に考える視点
 従来は受ける側の立場を中心に世論が作られてきたように思います。本作品では与える側の立場も考えている点が特徴的だと思います。

4.死はプロセス・自分で自分の死を作る
 私自身も普段からそう思っていることです。私自身の考えは、西郷隆盛が西南の役で最後に城山に立てこもった際、「もうここらでよか」と発言して部下に
介錯してもらって死んだという話を、18歳の頃に読んで以来、ずっと考えてきた結果です。それにつながるような(よく分かりませんが)印象を受け、本作
品にも原点の一つがあったように思いました。今は病棟では、老人患者の昔語りを時間の許す限り黙って聞くことは、私にとっては重要な仕事です。病院の儲
けには全然なりませんが。

5.医師が語る「科学」の死と「センチメント」の死を比較している
 科学的な意味での死は、何時何分という一瞬や、脳挫傷といった死因などを特定するが、それでは客観的にはともかく、当事者の納得を得られない、当事者
にとっての死には物語性がある、という話が出てきます。死はプロセスだ、という考え方です。この考え方そのものは、私にとっても違和感はありません。医
師は科学的思考によって専門性がなりたっているが、物語性は非科学的思考である、と。しかしそうすると、またもや私が普段から感じている「あの疑問」が
復活してきます。

なぜあの人たちは、「看護」の名前を前面に出しておきながら、医師ばかりから話を聞きたがる?
専門家として「看護」を語る「医師」って、そんな設定自体が矛盾ですよ。看護学の専門性に少しでも敬意を払う気があるならばね。

この疑問は、相当部分が現実世間における愚門にあたるような気もします。あまり言っても仕方がない。私がKYだから思ってしまうことなのだろう、という
ことにしておきます。私自身が関わらなければ済むことです。

さて、脳死の人の医療費についてですが、以下のページなどは参考になるかと思います。

「集中治療室とはどのような場所か」
http://lifestudies.org/jp/noshi12.htm

ちなみに、このページで森岡氏は、治療可能な段階では「医師」の思考による処置を、脳死となり治療不可能な段階に至れば「看護」の思考による処置を中心
に据えるべきことを提案しています。物語としての死に関しては、医学の科学的思考は専門外であって、それを司るのは看護学である、と理解できます。。。
おっと、この話はこの辺で終わります。

随念院

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Jul 11, 2009, 10:41:15 PM7/11/09
to 中津ビハーラの会
wo3さん、今回のあなたのコメントに感動です。


> 3.受ける側と与える側を相対的に考える視点
ここが一番大事な点であると思います。

> 4.死はプロセス・自分で自分の死を作る
死はプロセスであることについては、ブッダが入滅されるときの記述を見ると、まさにそのことがこと細かく描写されています。→『ブッダ最後の旅』
自分の死を作ることは理想ですが、脳死の人にはそれができません。

> 5.医師が語る「科学」の死と「センチメント」の死を比較している
>  科学的な意味での死は、何時何分という一瞬や、脳挫傷といった死因などを特定するが、それでは客観的にはともかく、当事者の納得を得られない、当事者
> にとっての死には物語性がある、という話が出てきます。死はプロセスだ、という考え方です。

死には物語性がある。納得です。後の論文に出てくる、死は関係性の場であるということも、これを医療・看護者が語るとものすごく説得力があります。仏教
の『縁』の思想に通じるからです。
そういう意味で、> 「集中治療室とはどのような場所か」
という、紹介の論文、ものすごく考えさせられる重要な論文であると思います。あまりに長いので、管見しただけですが。
ただ、臓器移植の場合だけを脳死を死と認めると言う現行法に立っているのだと思いますが、ここだけは納得いきません。
私は、この問題を解決する鍵は、柳田さんの言う「犠牲」ということにあると思うのですが、このことについては後日論議したいと思います。
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