ご返信ありがとうございます。
今日は仕事の前後に「『犠牲』への手紙」を半分くらい読みました。全体的には、前作から一貫した論調のように思います。
自己レスになりますが、先の感想2点に続いて、今になって思い出すところを少し書かせていただこうと思います。
3.受ける側と与える側を相対的に考える視点
従来は受ける側の立場を中心に世論が作られてきたように思います。本作品では与える側の立場も考えている点が特徴的だと思います。
4.死はプロセス・自分で自分の死を作る
私自身も普段からそう思っていることです。私自身の考えは、西郷隆盛が西南の役で最後に城山に立てこもった際、「もうここらでよか」と発言して部下に
介錯してもらって死んだという話を、18歳の頃に読んで以来、ずっと考えてきた結果です。それにつながるような(よく分かりませんが)印象を受け、本作
品にも原点の一つがあったように思いました。今は病棟では、老人患者の昔語りを時間の許す限り黙って聞くことは、私にとっては重要な仕事です。病院の儲
けには全然なりませんが。
5.医師が語る「科学」の死と「センチメント」の死を比較している
科学的な意味での死は、何時何分という一瞬や、脳挫傷といった死因などを特定するが、それでは客観的にはともかく、当事者の納得を得られない、当事者
にとっての死には物語性がある、という話が出てきます。死はプロセスだ、という考え方です。この考え方そのものは、私にとっても違和感はありません。医
師は科学的思考によって専門性がなりたっているが、物語性は非科学的思考である、と。しかしそうすると、またもや私が普段から感じている「あの疑問」が
復活してきます。
なぜあの人たちは、「看護」の名前を前面に出しておきながら、医師ばかりから話を聞きたがる?
専門家として「看護」を語る「医師」って、そんな設定自体が矛盾ですよ。看護学の専門性に少しでも敬意を払う気があるならばね。
この疑問は、相当部分が現実世間における愚門にあたるような気もします。あまり言っても仕方がない。私がKYだから思ってしまうことなのだろう、という
ことにしておきます。私自身が関わらなければ済むことです。
さて、脳死の人の医療費についてですが、以下のページなどは参考になるかと思います。
「集中治療室とはどのような場所か」
http://lifestudies.org/jp/noshi12.htm
ちなみに、このページで森岡氏は、治療可能な段階では「医師」の思考による処置を、脳死となり治療不可能な段階に至れば「看護」の思考による処置を中心
に据えるべきことを提案しています。物語としての死に関しては、医学の科学的思考は専門外であって、それを司るのは看護学である、と理解できます。。。
おっと、この話はこの辺で終わります。