「ビハーラ・維摩経」の復習:1

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wo3

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Sep 27, 2009, 9:38:08 AM9/27/09
to 中津ビハーラの会
実際に「ビハーラ・維摩経」の復習を始めてみたいと思います。今回は1回目です。
まずは、1ページから9ページ1行目までを読んでみたいと思います。

■疑問1

まず、本書の1ページは「序」ですが、いきなり文章への疑問が沸いております。

「医療機関・福祉施設への仏教的ケアが必要とされている昨今」

これはいったい、どういう意味でしょうか?実証的言説か、あるいは希望的言説か。。。私自身は、それほど仏教的ケアが必要とされている現場を見かけた経
験はありません。そのような経験談も、勉強会に参加する前には聞いたことがありませんでした。いかにもポジショントークっぽい印象があります。しかし、
もしも何らかの根拠を基にしての言説であるならば、読者にもその一端をお示しいただければよかったのになあ、と思います。

■疑問2

4ページ4行目、「阿毘達磨」のルビが「あびだつま」となっていますが、これは「あびだるま」でなくて「だつま」が正しいのでしょうか。

■疑問3

5ページ1行目「仏教ホスピスという表現がイヤ」という文脈がまずあってのビハーラ運動であれば、例会の場でのお話にも出しましたように、「ビハーラ
21」という表現にも疑問を感じるべきではないでしょうか。逆に言えば、仮にこの「ビハーラ21」という表現が特に気にならないのであれば、「仏教ホス
ピスという表現がイヤ」というその心根も、その程度に過ぎないと理解せざるを得ない、ということです。

■疑問4

5ページ6行目「京都ビハーラの会」という学習会のメンバーについて。医師は参加していなかったのでしょうか。医師が参加していない勉強会なのに、長岡
西病院のビハーラ病棟につながったのは、勉強会には参加しないが賛同する医師がいた、ということでしょうが、それはそれで、より詳しい解説を必要とする
ところではないかと思います。

現実問題としては、「ビハーラの提唱と展開」の中ですでにある程度の説明が行われているところではあります。ただし、この本に書かれているのは、あくま
で設立の経緯であって、日常の臨床がどうであるかは書かれていません。

ここで、ビハーラ運動の主眼が施設の立ち上げにあるのであれば、特に問題はないのでしょう。しかし、たぶんその主たる目的は、まさに日常の臨床の中にこ
そあると思いたいところです。ところが、その日常の臨床を先導する立場である医師が、「京都ビハーラの会」のは参加していなかった、ということです。こ
のあたりから、未だ現場を見ていない私としては、いろいろと妄想してしまうところがあります。たとえば、いわゆる「仏教看護・ビハーラ学会」の運動が、
今一つ停滞しているように見えるのは、どういうことでしょうか。立ち上げたまでは良かったが、日常の臨床に立ち止まることが多いということではないの
か、ということなどです。。。

■疑問5

7ページ6行目「維摩詰」は、どうやらこの本における彼の最初の登場と思われますが、ルビはないようです。この点については、すでに先の例会の場でお話
ししたところです。本書では、一方で「在家」にルビが振ってありますが、このバランスには素朴な疑問を感じます。

▼余談▼

先の例会でのお話からヒントをいただき、このグーグルグループの場で「ビハーラ・維摩経」の復習をしてみようと思い立ちました。まさに徒然なる議論とな
る可能性大ではあります。が、私たちの「ビハーラの会」におけるネット利用の可能性を広げる一助になることを希望して、重荷にならない程度にがんばって
みたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

ところで、件の「長岡西病院」ですが、例会の場でも少しだけ言葉が出まして、それから多少気になっております。

「中津ビハーラの会」に、「仏教看護」の可能性を求めて積極的に参加させていただいております私ですが、調べてみればみるほど、「仏教看護」たる名前も
実践も、世間的にはあまり盛り上がってはいない様子が窺われます。

このような状況で、件の運動の本場、本山の一つとも言えるであろう「長岡西病院」の存在があり、先日はビデオ鑑賞もしたところでした。一方、その設立の
経緯はともかく、現実の臨床の場がどうであるかについては、あまりに情報が少なく、九州からではいかにもベールに包まれた程度にしか理解できません。

そこで仮に私が「実際に体験してみよう、九州に仏教看護の精神と実践を持ち帰ろう」の精神で、2~3年はかかる覚悟で「長岡西病院」に就職したとした
ら。。。まるで三蔵法師だなあ、ちょっとした西遊記だなあ、と思いました。

そこでふと、ハローワークインターネットサービスにアクセスしてみたところ、「長岡西病院」の求人票を発見しました。この病院は、いま現に、看護師を募
集しているということです。うーん、これは、一考の価値はあるのかもしれないなあ、と思う次第です。まあ、挑戦しても受け入れられるかどうかは分からな
いのですが、妄想が次第に膨らんでいるところではあります。

mori syuuei

unread,
Sep 27, 2009, 6:38:55 PM9/27/09
to nakatu...@googlegroups.com
wo3様
私の意見を述べさせていただきます。
----- Original Message -----
From: "wo3" <shinb...@gmail.com>
To: "中津ビハーラの会" <nakatu...@googlegroups.com>
Sent: Sunday, September 27, 2009 10:38 PM
Subject: 「ビハーラ・維摩経」の復習:1


> ■疑問1
>
> まず、本書の1ページは「序」ですが、いきなり文章への疑問が沸いております。
>
> 「医療機関・福祉施設への仏教的ケアが必要とされている昨今」
>
> これはいったい、どういう意味でしょうか?実証的言説か、あるいは希望的言説
か。。。私自身は、それほど仏教的ケアが必要とされている現場を見かけた経
> 験はありません。そのような経験談も、勉強会に参加する前には聞いたことがあり
ませんでした。いかにもポジショントークっぽい印象があります。しかし、
> もしも何らかの根拠を基にしての言説であるならば、読者にもその一端をお示しい
ただければよかったのになあ、と思います。

◎「医療機関・福祉施設への仏教的ケアが必要とされている昨今」ということは、確
かに希望的言説ではあります。アンケートをとったわけでもありません。ですが、老
病死の現場で本当に必要とされているのは、死ぬことに対するケアであるのは、確か
なことであると思います。死ぬことに対するケア、これは仏教でなければありえませ
ん。キリスト教の場合は痛みや苦しみに対するケアであると考えます。そしてその苦
しみは身体的痛みに対しての緩和であります。ホスピスは現代医療では治癒すること
のない患者を、せめて身体的痛みだけは取り除き、最後までその人らしい最期をおく
れるようケアする処であると学んでおります。
仏教は身体的痛みに対するケアよりも、どちらかというと、精神的苦痛に対するケア
かなと思います。社会的苦痛に対するケアはこれこそ家族、周囲の人々、全てが関
わっていかなければならないソーシャルワーク的な問題でしょう。
入院していたり、老人ホームに入所して、毎日を暮らしている方々(死を待つという
意味ではありません)に対して安らかな最期を迎えることのケア、これこそが仏教的
ケアと思います。
今の日本仏教は、知識の多量摂取ばかりが優先されていて、死ぬことの問題が解決さ
れていません。
症状に合わせて投薬するだけの医療ではなくて、生きている間に対象者に生きるこ
と、死ぬことを考えてもらう手助けをする医療が必要ではないかという願いから、
「医療機関・福祉施設への仏教的ケアが必要とされている昨今」という文言になりま
した。しかし「本当に〈死ぬこと〉への解決がその人たちに出来ていない昨今」とい
うのが妥当であるかも知れません。
これはこれからの国東仏教研究会の課題にさせてください。

>
> ■疑問2
>
> 4ページ4行目、「阿毘達磨」のルビが「あびだつま」となっていますが、これは
「あびだるま」でなくて「だつま」が正しいのでしょうか。
>

◎さっそく調べてみます。

> ■疑問3
>
> 5ページ1行目「仏教ホスピスという表現がイヤ」という文脈がまずあってのビハー
ラ運動であれば、例会の場でのお話にも出しましたように、「ビハーラ
> 21」という表現にも疑問を感じるべきではないでしょうか。逆に言えば、仮にこの
「ビハーラ21」という表現が特に気にならないのであれば、「仏教ホス
> ピスという表現がイヤ」というその心根も、その程度に過ぎないと理解せざるを得
ない、ということです。
>

◎「仏教ホスピスという表現がイヤ」というのは、その人の思いであって、そしてキ
リスト教とは違う仏教的な世界からの発想をということかなと、たんに私は思いま
す。

> ■疑問4
>
> 5ページ6行目「京都ビハーラの会」という学習会のメンバーについて。医師は参加
していなかったのでしょうか。医師が参加していない勉強会なのに、長岡
> 西病院のビハーラ病棟につながったのは、勉強会には参加しないが賛同する医師が
いた、ということでしょうが、それはそれで、より詳しい解説を必要とする
> ところではないかと思います。
>
> 現実問題としては、「ビハーラの提唱と展開」の中ですでにある程度の説明が行わ
れているところではあります。ただし、この本に書かれているのは、あくま
> で設立の経緯であって、日常の臨床がどうであるかは書かれていません。
>
> ここで、ビハーラ運動の主眼が施設の立ち上げにあるのであれば、特に問題はない
のでしょう。しかし、たぶんその主たる目的は、まさに日常の臨床の中にこ
> そあると思いたいところです。ところが、その日常の臨床を先導する立場である医
師が、「京都ビハーラの会」のは参加していなかった、ということです。こ
> のあたりから、未だ現場を見ていない私としては、いろいろと妄想してしまうとこ
ろがあります。たとえば、いわゆる「仏教看護・ビハーラ学会」の運動が、
> 今一つ停滞しているように見えるのは、どういうことでしょうか。立ち上げたまで
は良かったが、日常の臨床に立ち止まることが多いということではないの
> か、ということなどです。。。
>

◎「日常の臨床」ということは、一番目指していかなければならない私個人の課題で
す。私はそのために福祉施設の現場にいるようなものです。この点は少し考えてから
意見を述べさせてください。


> ■疑問5
>
> 7ページ6行目「維摩詰」は、どうやらこの本における彼の最初の登場と思われます
が、ルビはないようです。この点については、すでに先の例会の場でお話
> ししたところです。本書では、一方で「在家」にルビが振ってありますが、このバ
ランスには素朴な疑問を感じます。
>

◎ルビの振り方はたんに編集上の問題です。第2版の予定が出来ましたら、著者の指
示に従おうと思います。


> ▼余談▼
>
> 先の例会でのお話からヒントをいただき、このグーグルグループの場で「ビハーラ
・維摩経」の復習をしてみようと思い立ちました。まさに徒然なる議論とな
> る可能性大ではあります。が、私たちの「ビハーラの会」におけるネット利用の可
能性を広げる一助になることを希望して、重荷にならない程度にがんばって
> みたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
>
> ところで、件の「長岡西病院」ですが、例会の場でも少しだけ言葉が出まして、そ
れから多少気になっております。
>
> 「中津ビハーラの会」に、「仏教看護」の可能性を求めて積極的に参加させていた
だいております私ですが、調べてみればみるほど、「仏教看護」たる名前も
> 実践も、世間的にはあまり盛り上がってはいない様子が窺われます。
>
◎仏教看護が盛り上がらないのは、仏教に対する無知と先入観と、日常の臨床が出来
ていないということかと思います。


> このような状況で、件の運動の本場、本山の一つとも言えるであろう「長岡西病
院」の存在があり、先日はビデオ鑑賞もしたところでした。一方、その設立の
> 経緯はともかく、現実の臨床の場がどうであるかについては、あまりに情報が少な
く、九州からではいかにもベールに包まれた程度にしか理解できません。
>
> そこで仮に私が「実際に体験してみよう、九州に仏教看護の精神と実践を持ち帰ろ
う」の精神で、2~3年はかかる覚悟で「長岡西病院」に就職したとした
> ら。。。まるで三蔵法師だなあ、ちょっとした西遊記だなあ、と思いました。
>
> そこでふと、ハローワークインターネットサービスにアクセスしてみたところ、
「長岡西病院」の求人票を発見しました。この病院は、いま現に、看護師を募
> 集しているということです。うーん、これは、一考の価値はあるのかもしれないな
あ、と思う次第です。まあ、挑戦しても受け入れられるかどうかは分からな
> いのですが、妄想が次第に膨らんでいるところではあります。

◎病院勤務というよりも、訪問看護ステーションを立ち上げて、在宅ホスピス(ビ
ハーラ)をwo3さんが実践されるというのはいかがでしょうか? 私は自分の夢を
叶える第1歩として、NPO法人を立ち上げました。(^。^)


> >

随念院

unread,
Sep 27, 2009, 11:17:14 PM9/27/09
to 中津ビハーラの会
wo3さん、mori syuueiさんが回答してくれていますので、それに加えて、私の思うところを☆で述べます。
随念院
☆ この序の部分はmoriさんの書いたところなので、上記にゆだねます。
>
> > ■疑問2
>
> > 4ページ4行目、「阿毘達磨」のルビが「あびだつま」となっていますが、これは
>
> 「あびだるま」でなくて「だつま」が正しいのでしょうか。
>
>
>
> ◎さっそく調べてみます。

☆ サンスクリット"Abhidharma"の音写語が「阿毘達磨」で、音写語の方は「アビダツマ」と発音します。現在学界では、阿毘達磨のことをカタ
カナで「アビダルマ」と言うことが多いです。原意は「勝れた教え」と言う意味です。

> > ■疑問3
>
> > 5ページ1行目「仏教ホスピスという表現がイヤ」という文脈がまずあってのビハー
>
> ラ運動であれば、例会の場でのお話にも出しましたように、「ビハーラ> 21」という表現にも疑問を感じるべきではないでしょうか。逆に言えば、仮にこの
>
> 「ビハーラ21」という表現が特に気にならないのであれば、「仏教ホス> ピスという表現がイヤ」というその心根も、その程度に過ぎないと理解せざるを得
>
> ない、ということです。
>
>
>
> ◎「仏教ホスピスという表現がイヤ」というのは、その人の思いであって、そしてキ
> リスト教とは違う仏教的な世界からの発想をということかなと、たんに私は思いま
> す。

☆ ホスピスはキリスト教の用語で、それに仏教をつけると木に竹を接いだような言葉になるので、「イヤ」と田宮先生が感じわけで、そのことが「ビハー
ラ」と言う言葉を生み出す原動力になったのです。「ビハーラ21」の「21」が何を意味するのか、ホームページを見てもはっきりわかりませんが、仮に
21世紀のことだとしても、ビハーラの提唱者田宮先生と「ビハーラ21」創設者は、交流はあっても直接田宮先生は関わっていませんので、創設者の意図は
推し量れません。田宮先生ならそういう名前はつけないと思います。田宮先生の自宅は寺ではありません(お兄さんの寺の前)が「小さき花の精舎」と称して
います。

> > ■疑問4
>
> > 5ページ6行目「京都ビハーラの会」という学習会のメンバーについて。医師は参加
>
> していなかったのでしょうか。医師が参加していない勉強会なのに、長岡> 西病院のビハーラ病棟につながったのは、勉強会には参加しないが賛同する医師が
>
> いた、ということでしょうが、それはそれで、より詳しい解説を必要とする> ところではないかと思います。
☆ 今から25年前の当時、医師と看護関係者の関係はまだはっきりと断絶していました。それで、まず看護関係者の間で議論を進め、その上で医師に提言を
するという方式を取りました。その間、ビハーラ担当医師やその他私たちの運動に理解を示す医師が出てきまして、メンバーではないが、随時参加いただい
て、意見拝聴、交流などをいたし、その意見はビハーラの理念構築に反映しました。ただし、本書は講読ですので、ビハーラについてそういう詳細なことは述
べるいとまがありませんでした。そうしているうちに、「死の臨床研究会」などを通じて、現代のような医師と看護関係者の意思疎通のできる時代になってき
ました。何故「仏教看護ビハーラ」なのかと言う疑問をwo3さんは呈していましたが、初期の段階では、医師が看護者になりきる、そういう意味での「仏教
看護」、最終的には、医師も看護者も患者になりきることを『維摩経』は教えてくれていると思います。

> > 現実問題としては、「ビハーラの提唱と展開」の中ですでにある程度の説明が行わ
>
> れているところではあります。ただし、この本に書かれているのは、あくま> で設立の経緯であって、日常の臨床がどうであるかは書かれていません。
>
> > ここで、ビハーラ運動の主眼が施設の立ち上げにあるのであれば、特に問題はない
>
> のでしょう。しかし、たぶんその主たる目的は、まさに日常の臨床の中にこ> そあると思いたいところです。ところが、その日常の臨床を先導する立場である医
>
> 師が、「京都ビハーラの会」のは参加していなかった、ということです。こ> のあたりから、未だ現場を見ていない私としては、いろいろと妄想してしまうとこ
>
> ろがあります。たとえば、いわゆる「仏教看護・ビハーラ学会」の運動が、> 今一つ停滞しているように見えるのは、どういうことでしょうか。立ち上げたまで
>
> は良かったが、日常の臨床に立ち止まることが多いということではないの
>
> > か、ということなどです。。。
>
> ◎「日常の臨床」ということは、一番目指していかなければならない私個人の課題で
> す。私はそのために福祉施設の現場にいるようなものです。この点は少し考えてから
> 意見を述べさせてください。
☆ 田宮先生の本はあくまで、提唱と展開の初期の問題であって、その後の実践等については、田宮先生のグループや、別の看護関係者のグループが、仏教社
会福祉学会、仏教看護ビハーラ学会、死の臨床研究会などで随時報告してきています。
>
> > ■疑問5
>
> > 7ページ6行目「維摩詰」は、どうやらこの本における彼の最初の登場と思われます
>
> が、ルビはないようです。この点については、すでに先の例会の場でお話> ししたところです。本書では、一方で「在家」にルビが振ってありますが、このバ
>
> ランスには素朴な疑問を感じます。
>
>
>
> ◎ルビの振り方はたんに編集上の問題です。第2版の予定が出来ましたら、著者の指
> 示に従おうと思います。
☆ 維摩詰にルビを振らなかったのは、校正時の私の責任です。私にとっては常識のことがなかなか読者の立場になれないもので、ふるべきでした。
> > ▼余談▼
>
> > 先の例会でのお話からヒントをいただき、このグーグルグループの場で「ビハーラ
>
> ・維摩経」の復習をしてみようと思い立ちました。まさに徒然なる議論とな> る可能性大ではあります。が、私たちの「ビハーラの会」におけるネット利用の可
>
> 能性を広げる一助になることを希望して、重荷にならない程度にがんばって> みたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
>
> > ところで、件の「長岡西病院」ですが、例会の場でも少しだけ言葉が出まして、そ
>
> れから多少気になっております。
>
> > 「中津ビハーラの会」に、「仏教看護」の可能性を求めて積極的に参加させていた
>
> だいております私ですが、調べてみればみるほど、「仏教看護」たる名前も> 実践も、世間的にはあまり盛り上がってはいない様子が窺われます。
>
> ◎仏教看護が盛り上がらないのは、仏教に対する無知と先入観と、日常の臨床が出来
> ていないということかと思います。
☆ おっしゃるとおりですが、「仏教看護ビハーラ学会」は、かなり中央の学界では認知されてきているように思います。これから地方にも行き渡らせる責任
が学会にはあると思います。
>
> > このような状況で、件の運動の本場、本山の一つとも言えるであろう「長岡西病
>
> 院」の存在があり、先日はビデオ鑑賞もしたところでした。一方、その設立の> 経緯はともかく、現実の臨床の場がどうであるかについては、あまりに情報が少な
>
> く、九州からではいかにもベールに包まれた程度にしか理解できません。
>
> > そこで仮に私が「実際に体験してみよう、九州に仏教看護の精神と実践を持ち帰ろ
>
> う」の精神で、2~3年はかかる覚悟で「長岡西病院」に就職したとした> ら。。。まるで三蔵法師だなあ、ちょっとした西遊記だなあ、と思いました。
>
> > そこでふと、ハローワークインターネットサービスにアクセスしてみたところ、
>
> 「長岡西病院」の求人票を発見しました。この病院は、いま現に、看護師を募> 集しているということです。うーん、これは、一考の価値はあるのかもしれないな
>
> あ、と思う次第です。まあ、挑戦しても受け入れられるかどうかは分からな
>
> > いのですが、妄想が次第に膨らんでいるところではあります。
>
> ◎病院勤務というよりも、訪問看護ステーションを立ち上げて、在宅ホスピス(ビ
> ハーラ)をwo3さんが実践されるというのはいかがでしょうか? 私は自分の夢を
> 叶える第1歩として、NPO法人を立ち上げました。(^。^)
☆ 一度休暇をとって、京都城陽市の西本願寺ビハーラと長岡西病院ビハーラ病棟を見学されたらいかがでしょうか。長岡西病院なら紹介します。

>
>
> - Hide quoted text -
>
> - Show quoted text -

wo3

unread,
Sep 28, 2009, 8:53:17 AM9/28/09
to 中津ビハーラの会

moriさま、随念院さま、さっそくのご教示ありがとうございます。

さて、moriさま。

「しかし「本当に〈死ぬこと〉への解決がその人たちに出来ていない昨今」というのが妥当であるかも知れません。これはこれからの国東仏教研究会の課題に
させてください。」

そうですね。実際の問題は、医療者や医療機関の側ではなくて、それを欲望の赴くまま利用してきた一般市民の側の問題ではないかと思います。

そして、随念院さま。

「ホスピスはキリスト教の用語で、それに仏教をつけると木に竹を接いだような言葉になる」

このご趣旨については、以前にお聞きした記憶があります。
私も、確かにその通りだと思います。だからこそ、日本の仏教もまた「インドに中国を接いだような」状況であることを、逐一気にする必要があると思うので
す。

また、“仏教における「インド発中国経由」の中身を説明し始めると、奥が深くなりすぎる”というご趣旨のご説明をお聞きしたような気もします。これに対
して、私は、難しくなるかどうかは、一つには、説明する側の力量次第、もう一つには、勉強する側のリテラシー次第ではないかと思います。それは総じて、
テキストを提供する立場となる前者(つまりプロの仏教者)の力量にかかっているのではないか、と私は疑問に思うのです。難しいことを難しく説明すること
しか想像しないために、難しいという結論になってしまうのではないでしょうか。あくまで素人の考えですが、歴史的にどれだけの経緯があって「難しい」な
どと、そんな結論が出たのか、と確かめてみたいです。

もしも日本仏教が、インドに中国を接いだものであることは当たり前すぎる前提であって、それを素人が一々気にする必要もないのであれば、仏教にキリスト
教を接いだ言葉をイヤだと思うことだって、考えすぎというものかもしれません。しかし一方で、仏教にキリスト教を接いだ言葉を気にしてビハーラ運動を立
ち上げることに意義があるのならば(もちろん私はこの立場をとりますが)、日本仏教の「インドに中国を接いだ」ことへの注意をも民衆には常々促す責任が
仏教者にはあると思いますし、ビハーラ21という言葉への疑問も、一端耳にした以上は、一応呈しておくべきではないか、と思うのです。

医療におけるビハーラ運動に関しては、患者・利用者・第三者といった仏教の非専門家が必ず発するであろう「別に名前はホスピスでもいいやん」「すること
は同じやん」といった類の疑問に対して、明確かつ簡潔に答える必要がある、と私は思います。今すでにあるホスピスという言葉で足りるはず(と一般には思
われている)ものを、敢えてビハーラに置き換えるためのコストを、いったい何によって賄うのか、その説明と説得が決定的に足りないように思われるので
す。現実には、それが難しい、あるいは現実問題として不可能なので、社会的には盛り上がらないのではないか、と想像しておりました。つまりはアカウンタ
ビリティの問題です。今はネットの時代ですから、情報発信者の心掛け次第では、PDFなり何なりを使って論文を世界に無料で発信できます。この部分が、
もしかしたら既存のビハーラ運動では少ないのかもしれませんね。学会のホームページを見ても、そう感じます。

一方、「「仏教看護ビハーラ学会」は、かなり中央の学界では認知されてきている」というお言葉に触れまして、これはやはり実際にその「中央」を見に行く
必要があるのかなあ、心を動かされます。中津を拠点に勉強するばかりでは、らちが明かないのでしょうか。。。いずれにせよ、臨床に関しては、実際に見て
感じることが非常に重要だと思います。

そこでさらに出ました「京都城陽市の西本願寺ビハーラと長岡西病院ビハーラ病棟」に興味をひかれます。新潟県は難しいかもしれませんが、京都なら一泊二
日の強行日程でも何とかなるかもしれません。さっそくコンタクトをとってみたいと思います。また、これらの施設を、これからさらに注目していきたいと思
います。

wo3

unread,
Sep 28, 2009, 10:36:53 AM9/28/09
to 中津ビハーラの会
自己レスです。
交通機関を調べてみましたが、新潟はもちろん、京都まですら移動は大変なようでした。
実際に見学に行くことは先延ばしにせざるを得ないようです。
せめて福岡あたりに参考になりそうなところがあればよいのですが。。。

随念院

unread,
Sep 29, 2009, 5:52:53 AM9/29/09
to 中津ビハーラの会
wo3さん、ホスピスと仏教が木に竹を接いだようであることは明らかです。ホスピスがキリスト教の言葉で、キリスト教と仏教とは明らかに異なった文化圏
で成立したものです。しかし、インド仏教、中国仏教、日本仏教は、仏教という共通したバックグラウンドがあり、そこに土着の要素が若干加わったもので、
竹と木の関係とは異なります。例会でも申しましたように、現在のインドのヒンドゥー教は、紀元前からのバラモン教に、次第に土着のインド文化の影響が加
わり、5,6世紀頃から現在のヒンドゥー教に近いような宗教形態となり、さらに変遷して現代に至ります。インド仏教から日本仏教への展開も同様のことが
いえます。
私の力量不足の点ははっきりと認めます。ただ、インド仏教から日本仏教までを網羅する学者は、中村元先生などを除いて、ごく少数であることも事実で
す。
私が読む『維摩経』は、紀元後まもなくの中国で翻訳されたものですが、私はおそらく影響を受けているであろう中国的要素をできるだけ払拭して、インドに
戻る読み方をしています。インド仏教の仏典として理解したうえで、それを現代の問題に照らして理解しようとしています。『ビハーラ・維摩経』はその立場
で講読しています。質疑応答のところでわかると思いますが、親鸞の思想などには深入りしないようにしています。
ただし、私は真宗の僧侶ですので、親鸞の思想を云々する場合は、この中国思想の影響を考慮して理解しようとします。幸いに親鸞は『教行信證』という、こ
の問題をしっかり学問的におさえた大論文を残しています。この大論文によって、インドの仏典の読み方から、中国の諸註釈文献(仏教以外の文献も含む)、
さらには日本の祖師方の文献の読み方までを我々に教示してくれています。
それから、ホスピスでなく、あえてビハーラといわなかればならない論拠ですが、仏教社会福祉学会などでかなりの議論がなされています。私もいくつかの論
文を発表しています。ビハーラではありませんが、共著ですが、『仏教司法福祉実践試論』、『司法福祉と仏教』などで、福祉は何故仏教でなければならない
のかを論じていますし、私の論文としては、福祉関係の先生方の記念論文集などにも寄稿しています。
仏教は福祉であるという立場です。

wo3

unread,
Sep 29, 2009, 7:19:19 AM9/29/09
to 中津ビハーラの会
随念院先生、毎度のご教示ありがとうございます。

「仏教とキリスト教との違い」が、「中国とインドの違い」より大きい、という考え方が基本にあるということでしょうか。
私は、インド文明と中国文明はまったく別物と思っておりました。。。
このため、同じ仏教(経典)という素材に対する受け止め方もガラリと変わるであろうと思っておりました。。。
しかし、基本は同じと考えるべき、ということでしょうか。

私にとっては難しい問題です。
もう少し熟考する必要があると思います。。。
もしかしたら、仏教学の体系の立て方は、他の学問一般と異なる部分があるような気がしてきました。
このあたりの基礎的なところを一応理解しないと、非専門家の私といえども、まともな議論に参加できないのではないか、とすら思えます。

これは私自身の振り返りであり、反省です。
ご専門の先生に対してオカシな疑問ばかりぶつけまして、本当に恐縮です。
私もすでに仏教学(とは言えないまでも仏教のお勉強)には片足を突っ込んでいると自負しておりますので、どうか今後もビハーラの場におきましてご教示を
よろしくお願いいたします。

さて、私自身は専門の科学者でもありませんが、受けてきた教育は、いわゆる西洋科学の範疇であったと思います。
この中で、例えば看護学においては、「基礎看護学」という分野があります。
「基礎看護学」は、建前としては、看護学の全分野を網羅します。しかし実際には、本当に全分野を網羅するのではなくて、全分野を網羅する考え方・・・一
般に看護観と呼ばれます・・・を扱うだけです。このため、「基礎看護学」の先生は、臨床経験としては、全分野を網羅することなどありえず、個別の分野を
一つか、せいぜい二つ位経験しているだけです。そもそも、精神科も産科も、老年期も新生児期も、さらには看護管理や疫学まで全部経験した看護師など存在
しないと思います。

このことから想像しまして、「インド仏教から日本仏教までを網羅する学者は、中村元先生などを除いて、ごく少数であることも事実」というお話にも、それ
は至極当然ではなかろうか、と思う次第です。

そこでまた疑問ですが、件の「基礎看護学」に相当する分野が、きっと仏教学にもあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。あるとすれば、私が
先に「仏教はインドに中国を接いだ」ものと考えたことに関するヒントもあるでしょうし、仏教の全分野、少なくともインドと中国を貫く考え方の筋もあるは
ずです。私のような非専門家にとっては、文献の現物を逐語的に読みこなすことよりも、この「貫く筋」というものを理解することが重要だと思います。これ
によって、インド仏教と中国仏教の関係にも、任意の○○宗と○○学会との共通性にもたどり着くと思います。このような努力がなければ、私たちは、専門家
と非専門家との間で、あるいは専門家同士ですら、同じ「仏教」という言葉によって別の物を指示してしまう危険を冒さなければならなくなるでしょう。

さて、文脈はガラリと変わりますが、「 仏教は福祉であるという立場」につきましては、以前にどこかで読んだか、お聞きした記憶があります。これにも非
常に興味を持っておりますが、これまでビハーラの会では、直接の話題になる場面に出会ったことはありませんでした。今後また、気軽に手に入る参考文献の
ご紹介や、他の話題などにも触れていければ、もっと勉強になると思っております。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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