> というのは、非常に簡略にご説明いたしますと、私自身の感覚と推理においては、仏教に深く交われば交わるほど、個人の思考全体において現世だけを考える
> 割合は「減る」はずだと思うからです。仏教に何の関心もない場合は、思考全体が現世に関することだけで一杯でも不思議ありません。一方、仏教に関われ
> ば、必然的に三世への理解も深まり、今生きている世界だけに頼らない態度も身につくはずです。だとすれば、仏教を深めたはずの先生が、眠るのが「怖い」
> はないのでは???と素朴に疑問に思うわけです。
>
☆ 私も、それが疑問で、今日までその言葉に引っかかっていたのです。
> ただし、自分自身が今生きる意義を考えるに当たり、かつて武士の文化にあったように「適当な死に場所を見つけるため」と考える人であって、なおかつ今の
> ところまだ適当な死に場所が「見つからない」と考えている人であれば、仏教の理解があってもなくても「まだ死ねない」とは思うはずです。ただしその場合
> は「怖い」ではなくて「今はまだその時期ではない」という意味の表現になるでしょう。
☆ 釈尊は、覚りを開いた直l後に、悪魔(死魔)がやってきて、覚りを完成したのだから思い残すことはないだろう、すぐ入滅しなさい」と誘惑します。そ
れに対して、釈尊は、なすべきことがたくさんあるから入滅するわけには行かないと拒絶します。
80歳になって、入滅の3ヶ月前、釈尊が活きる喜びに慕っていたとき、同じ悪魔がやって来て、覚りを開いたときに言ったことをもちだして、もうやるべき
ことはすべてやったろうから、入滅してくださいといいます。釈尊は三ヵ月後に入滅すると約束し、そのとおりに沙羅双樹のもとで入滅します。
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> 実のところ、私自身はまさにそうです。自分自身の今生きる意味を文字通り「適当な時期に良く死ぬため」と捉え、西郷隆盛のように「ここらでよか」と言っ
> て死にたいと願う人です。
☆ わたしたち凡夫は、釈尊のような淨らかな生き方はできないのです。ええかっこばかりしています。怖いのに、怖くないと自分に言い聞かせて、自己満足
している、それを仏教では「龍宮」とも「母胎」ともいいます。その中は素晴らしいのですが、外に出られないのです。それがこだわりです。自分に正直に
なったとき(他力に気付いたとき)、その龍宮から解放されると説きます。