"frame of reference" は、社会学的には「ものごとを広い意味で位置付けるための枠組」であるらしいので、その意味で使われる場合には manri_1 に相当します。 実際、 manri の定義にも出てきます:
manri
-mar-
x_1 is a frame of reference/standard for observing/measuring/determining x_2, with/by rules x_3.
(x_1 may be object or si'o idea); See also cmavo list {ma'i}, {ckilu}, {merli}, {pajni}, {cimde}, {jdice}, {marde}.
しかし、 manri_1 (と gradu_2 の reference standard) 以外の gismu の英語定義で使われている "frame of reference" は、社会学的な意味よりもっと狭く、 linguistic frame of reference
http://en.wikipedia.org/wiki/Linguistic_frame_of_reference
だけを指すだろうと推察します。 なぜなら、 manri と gradu 以外で "frame of reference" やそれと同等な表現が定義に使われている gismu については、「物理的な空間に物体を位置付けるための座標系」という解釈しか当てはまりそうもないからです。
frame of reference として定義される terbri の場所には、具体的にどういうものが入るのか、という疑問は最近も英語のメーリングリストに投稿されていました。
https://groups.google.com/d/topic/lojban-beginners/XaR5hG4cXIU/discussion
snanu fi lo tedjendu
snanu fi lo tedmaksi be de'i <nanca>
などと言える、という回答です。
方向に関しては、もっと以前に FAhA1 と FAhA2 が farna 以外に共通のsemantic prime を持つかどうかという話がありました。
https://groups.google.com/d/topic/lojban/eml_ncIV3CI/discussion
その疑問自体に対するはっきりした回答はありませんが、 snanu という方角の定義の仕方もいろいろあり得るという話題が出ました。
さて、一方 "by standard" という表現は、多くの gismu 定義では manri_1 の意味で使われていますが、一部の gismu 定義(caxno_4, condi_4 など)では cnano_3 (比較対象となるもの全てからなる集合)の意味で使われています。 このことは、ロジバン定義をたどることによってわかります。
このような、 "by standard" という英語表現の多義性については、英語のメーリングリストでも議論されています。
https://groups.google.com/d/topic/lojban-beginners/Uja1dxErahE/discussion
fenki_2 が「判断基準 standard of judgment」「比較対象 standard of comparison」のどちらとも解釈できるという話です。
個人的には、この多義性は英語特有の問題であって、もし全ての gismu がロジバンで定義されていれば、 manri_1 に相当するものは判断基準であり、 cnano_3 や karbi_2,3 に相当するものは比較対象であると解釈できると思いますが、現状では英語定義が公式なので、すっきりと解決できる問題ではなさそうです。
このように、英語定義自体の中で "(by) standard" という表現が多義的である以上、その日本語訳が統一されていないのは当然だと思います。 また "(by) standard" の日本語訳を1つに統一するのは、英語の混乱を日本語に持ち込むだけなので、個人的にはあまり得策とは思えません。
そうは言っても、現状の "(by) standard" の日本語訳がバラバラなのは、訳者の lo manri が複数あったせいもあると思います。 全 gismu の訳に整合性を持たせるためには、
-「物理的な空間に物体を位置付けるための座標系」という意味で使われる "frame of reference"
-「ものごとを広い意味で位置付けるための枠組」という意味で使われる "frame of reference" と "standard"
-「比較対象(あるいはその集合)」という意味で使われる "standard"
という解釈の違いを考慮して、訳語を整理する必要がありそうです。
非公式に、英語の gismu の定義を整理しようという動きもあります。
http://mw.lojban.org/index.php?title=La_Bangu:_dictionary
そこで La Bangu の辞書として挙げられているのは、 gleki さんが xorxes さんに相談しながら作ったものです:
https://groups.google.com/d/topic/lojban/88nTUW0N5Oo/discussion
以上は非公式の定義ですが、公式定義の範囲内で解釈を整理するには
xorxes 作の gismu klesi が役に立つかもしれません。
https://docs.google.com/spreadsheet/ccc?key=0Ao6_W7c63cKIdHdHamFCS25JazgzVVFOcVU2MU13dEE&usp=sharing
mu'o
coi la cogas.
誤植ですね。 barda_3 と cmalu_3 には同じものが置かれてもおかしくないはずです。
「frame of reference」を「standard」の意味で使うことは英語にありますし、「a frame of
reference/standard」という同義としてロジバンの「manri」を定義しているものでもあります。 そして manri_1
は物体でも概念でもいい、とされています。
そうすると、「in frame of reference」か「by standard」と定義されている sumti 位は、 manri_1
を意味する同じ「ma'i」でタグ化できます:
ti barda fi [by standard] mi = ti barda ma'i mi
これは、私にとって、大きい。
ta cnita do fi [in frame of reference] mi = ta cnita do ma'i mi
それは、私にとって(私から見て)、あなたの下にある。 (あなたから見れば下にはない。)
(参考画像: http://www.andrewlipson.com/escher/relativity.html )
注意しておくべきこととして、「〜にとって」と「by standard」を2つの別な sumti 位として持つように定義されている
brivla があります。 例えば、
ti cnino mi fo lo pongu'e
これは、私にとって(私から見て)、日本国の標準において、新しい。
(種子島に鉄砲が伝来した時に日本人が述べれたもの。)
「mi」と「lo pongu'e」はそれぞれ「ga'a」と「ma'i」でタグ化できますが、「ga'a」を「ma'i」の一種とみなすなら両に「ma'i」を用いれます。
「これは、私にとって、日本国にとって、新しい」と訳してもおかしくないようなものです。 この例では cnino_2 と cnino_3
の違いは大きくないようですが、別な例として、友人の誕生日プレゼントを私が店で秘かに選んでいる時、友人にとって新しい物を友人が観察していない、つまり
cnino_3 が cnino_2 ではない、ということがあります。
(ひょっとすると、厳密には、何が友人にとって新しいかという判断をしている私自身が、新しさの基準、 cnino_3
であり、新しさを認識することになる友人が cnino_2 であるのかもしれません。)
2014年9月29日月曜日 0時05分58秒 UTC+9 guskant:"frame of reference" は、社会学的には「ものごとを広い意味で位置付けるための枠組」であるらしいので、その意味で使われる場合には manri_1 に相当します。 実際、 manri の定義にも出てきます:
manri
-mar-
x_1 is a frame of reference/standard for observing/measuring/determining x_2, with/by rules x_3.
(x_1 may be object or si'o idea); See also cmavo list {ma'i}, {ckilu}, {merli}, {pajni}, {cimde}, {jdice}, {marde}.よろしければ、{manri}の項をすべて埋めたような例文をx1がobjectの場合とsi'o ideaの場合で1つずつ挙げてもらえませんでしょうか。日本語でもいいですので・・・。
しかし、 manri_1 (と gradu_2 の reference standard) 以外の gismu の英語定義で使われている "frame of reference" は、社会学的な意味よりもっと狭く、 linguistic frame of reference
http://en.wikipedia.org/wiki/Linguistic_frame_of_reference
だけを指すだろうと推察します。 なぜなら、 manri と gradu 以外で "frame of reference" やそれと同等な表現が定義に使われている gismu については、「物理的な空間に物体を位置付けるための座標系」という解釈しか当てはまりそうもないからです。
frame of reference として定義される terbri の場所には、具体的にどういうものが入るのか、という疑問は最近も英語のメーリングリストに投稿されていました。
https://groups.google.com/d/topic/lojban-beginners/XaR5hG4cXIU/discussion
snanu fi lo tedjendu
snanu fi lo tedmaksi be de'i <nanca>
などと言える、という回答です。
方向に関しては、もっと以前に FAhA1 と FAhA2 が farna 以外に共通のsemantic prime を持つかどうかという話がありました。
https://groups.google.com/d/topic/lojban/eml_ncIV3CI/discussion
その疑問自体に対するはっきりした回答はありませんが、 snanu という方角の定義の仕方もいろいろあり得るという話題が出ました。.ua {berti}の英語定義にあった"right-hand-rule pole"に頭を悩ませていましたが、なるほど、軸の回転にたいしてそのように北を定義する方法があるんですね。{snanu fi lo tedmaksi be de'i <nanca>} の意味がよくわかりません。「(西暦)何年における地球磁界の向き」ということでしょうか。
さて、一方 "by standard" という表現は、多くの gismu 定義では manri_1 の意味で使われていますが、一部の gismu 定義(caxno_4, condi_4 など)では cnano_3 (比較対象となるもの全てからなる集合)の意味で使われています。 このことは、ロジバン定義をたどることによってわかります。condix_1 barda x_2 noi farna x_1 boi x_3 ku'o x_4bardax_1 zmadu lo cnano be x_2 bei x_3 be'o x_2 noi cimde x_1{barda}のx3(by standard)が cnano_3 であるから、 {barda}を使って定義される{condi}のx_3も cnano_3 ということですね。ということは、barda_3は集合が入るべきなんですね。ta'oになるかもしれませんが、cnano_4 の "by standard" は {lo manri}であると考えていいでしょうか。このとき、cnano_4 にはどのような項が入りうるでしょうか。cnanox_1 は性質 x_2 (ka, ni) に関する、 x_3 (集合)の観点 x_4 (si'o) による標準/平均/スタンダード
このような、 "by standard" という英語表現の多義性については、英語のメーリングリストでも議論されています。
https://groups.google.com/d/topic/lojban-beginners/Uja1dxErahE/discussion
fenki_2 が「判断基準 standard of judgment」「比較対象 standard of comparison」のどちらとも解釈できるという話です。
個人的には、この多義性は英語特有の問題であって、もし全ての gismu がロジバンで定義されていれば、 manri_1 に相当するものは判断基準であり、 cnano_3 や karbi_2,3 に相当するものは比較対象であると解釈できると思いますが、現状では英語定義が公式なので、すっきりと解決できる問題ではなさそうです。"standard of judgment"と"standard of comparison"を使い分けずに"by standard"を用いているのは、その2つのどちらもその項に適用できるようにするため、ではなかったんですね。このように、英語定義自体の中で "(by) standard" という表現が多義的である以上、その日本語訳が統一されていないのは当然だと思います。 また "(by) standard" の日本語訳を1つに統一するのは、英語の混乱を日本語に持ち込むだけなので、個人的にはあまり得策とは思えません。je'eそうは言っても、現状の "(by) standard" の日本語訳がバラバラなのは、訳者の lo manri が複数あったせいもあると思います。 全 gismu の訳に整合性を持たせるためには、
-「物理的な空間に物体を位置付けるための座標系」という意味で使われる "frame of reference"
-「ものごとを広い意味で位置付けるための枠組」という意味で使われる "frame of reference" と "standard"
-「比較対象(あるいはその集合)」という意味で使われる "standard"
という解釈の違いを考慮して、訳語を整理する必要がありそうです。上から1,2,3と付番しまして、1. (座標)だと初見でわかりにくいでしょうし、「上下左右前後」に関しては(観察点)とかよさそうですが・・・。「方位」に関してが難しいですね。(定義)としておいて注釈とかかなあ。2. これは manri_1 と gradu_2 の訳語ということでしょうか?これはどんなものが当てはまるのか今わかりませんのでパスします・・。3. これは barda_3などですよね。集合でなく、その基準となる比較対象を直接に項に要請するようなgismuにはどんなものがあるでしょうか?「(比較対象)」「(集合)の中で」とかかなあ。bardaなら「x_1 は x_2 (性質)に関して、 x_3 (集合)の中では大きい方だ」とか・・・。あまりよろしくない気がするな・・・。
注意しておくべきこととして、「〜にとって」と「by standard」を2つの別な sumti 位として持つように定義されている
brivla があります。 例えば、
ti cnino mi fo lo pongu'e
これは、私にとって(私から見て)、日本国の標準において、新しい。
(種子島に鉄砲が伝来した時に日本人が述べれたもの。)
「mi」と「lo pongu'e」はそれぞれ「ga'a」と「ma'i」でタグ化できますが、「ga'a」を「ma'i」の一種とみなすなら両に「ma'i」を用いれます。
「これは、私にとって、日本国にとって、新しい」と訳してもおかしくないようなものです。 この例では cnino_2 と cnino_3
の違いは大きくないようですが、別な例として、友人の誕生日プレゼントを私が店で秘かに選んでいる時、友人にとって新しい物を友人が観察していない、つまり
cnino_3 が cnino_2 ではない、ということがあります。
(ひょっとすると、厳密には、何が友人にとって新しいかという判断をしている私自身が、新しさの基準、 cnino_3
であり、新しさを認識することになる友人が cnino_2 であるのかもしれません。)
mu'o mi'e la nalteon.
lo ponjo cu manri lo nu lo jalra cu cidja kei lo tcaci be vo'a
日本的なものは バッタ目の昆虫が食料であるということを 日本の慣習という規則で判断する観点
「日本人から見れば、その慣習により、イナゴは食料である。」
lo si'o cmaci cu manri lo nu no da no mei kei lo logji
数学という概念は 0個のものは存在しないということを 論理という規則で判断する観点
「数学的観点から言って、論理的には0個のものは存在しない。」
これについては以下のところで証明しました:
https://groups.google.com/d/topic/lojban-soudan/u2zSxwFQHFk/discussion
回答者の意図を察するに、西暦に限らず何らかの時点における地磁気を frame of reference とするということだと思います。 detri_4 は自由に決められるので、例えば現在を0として、年数を負の数であらわすという暦を使って de'i に付く数を決めても良いと思います。
reference としてもプレートテクトニクスの影響で移動していますから、正確には {snanu fi lo tedjendu} の方にも時点の指定は必要だと思います。更に詳しく言うなら、上記のFAhA類に関するリンク先に書いたようないろんな条件を明記する必要もあると思います。
manri_1 と考えるのが妥当だと思います。
ti cnano lo ka xunre lo'i pezli lo si'o critu
これは 赤さに関して 葉の集合の中で 秋であるという概念を観点として 標準的
「この葉は秋としては普通の赤さだ。」
ただし多くの "by standard" を削除した la gleki 作の非公式な定義案(jbovlaste の Simple English の定義に等しい)では、 cnano_4 も削除対象になっています。 観点を入れたい場合は ma'i で追加します。
そうは言っても、現状の "(by) standard" の日本語訳がバラバラなのは、訳者の lo manri が複数あったせいもあると思います。 全 gismu の訳に整合性を持たせるためには、
-「物理的な空間に物体を位置付けるための座標系」という意味で使われる "frame of reference"
-「ものごとを広い意味で位置付けるための枠組」という意味で使われる "frame of reference" と "standard"
-「比較対象(あるいはその集合)」という意味で使われる "standard"
という解釈の違いを考慮して、訳語を整理する必要がありそうです。上から1,2,3と付番しまして、1. (座標)だと初見でわかりにくいでしょうし、「上下左右前後」に関しては(観察点)とかよさそうですが・・・。「方位」に関してが難しいですね。(定義)としておいて注釈とかかなあ。2. これは manri_1 と gradu_2 の訳語ということでしょうか?これはどんなものが当てはまるのか今わかりませんのでパスします・・。3. これは barda_3などですよね。集合でなく、その基準となる比較対象を直接に項に要請するようなgismuにはどんなものがあるでしょうか?「(比較対象)」「(集合)の中で」とかかなあ。bardaなら「x_1 は x_2 (性質)に関して、 x_3 (集合)の中では大きい方だ」とか・・・。あまりよろしくない気がするな・・・。
2としては、既に manri_1 の訳語となっている「観点」が適切だと思います。 gradu_2 も含め、殆どの "by standard" の意味は、 manri_1 かから派生するロジバン定義が書けそうであれば「観点」として良いと思います。
1は2の一種なので、1に注釈を付けるなら 1も「観点」とできますが、せっかく「照合枠」という訳語が与えられているので、これをそのまま保存しても良いと思います。 その一方で、 2 の訳として「照合枠」となっているものは「観点」に書き換える必要があると思います。
3の意味を担う cnano_3 には、公式には集合が入りますが、 jbovlaste のロジバン定義の多くは la xorxes が書いたものであり、 la xorxes は sumti place を集合に限定するのは極力やめて、群れ(plural predication の項)として扱おうという方針の持ち主なので、ロジバン定義もそのように解釈したほうが良いかもしれません。 そうすると「比較対象の中で」は自然な表現だと思います。 あくまでも公式に沿うようにするなら、「比較対象(集合)の中で」としても良いと思います。
ただし、3の意味を持つ condi_4 やcaxno_4 の "by standard" も、 la gleki の非公式定義では削除対象です。
ki'e guskant
2014年9月30日火曜日 8時33分34秒 UTC+9 guskant:
lo ponjo cu manri lo nu lo jalra cu cidja kei lo tcaci be vo'a
日本的なものは バッタ目の昆虫が食料であるということを 日本の慣習という規則で判断する観点
「日本人から見れば、その慣習により、イナゴは食料である。」
lo si'o cmaci cu manri lo nu no da no mei kei lo logji
数学という概念は 0個のものは存在しないということを 論理という規則で判断する観点
「数学的観点から言って、論理的には0個のものは存在しない。」
これについては以下のところで証明しました:
https://groups.google.com/d/topic/lojban-soudan/u2zSxwFQHFk/discussionmanri_1は「(誰それ)から見れば」「xxx的観点から言って」くらいで考えればよさそうですね。ki'eひとつ、manri_3 (rule) の理解があまりよくありません。「その慣習により」というのは「その慣習からすれば」のようにも言えるようがして、そうなると、manri_1とmanri_3の違いがよく分からなくなってきました… uinairu'e。規則…ルール…ですよね…「論理というルールの上では」「日本の慣習というルールの上では」・・・。「ある観点からあるルールの上で立って見てみると~~である」ということですよね。ちょっと分かってきたかも。これは個人的な感覚かもしれないですが、何かしらの観点からものを見るということは、その時点でもう何らかのルールに乗っかっているような気がしました。「日本人」が何かをみるとき、それは大体「日本の慣習」というルールの上で見てそうです。数学も同じで、数学的観点から見れば大体それは論理というルールの上に立っている気がします。なんていえばいいのかわかりませんが、項と項の相関性が高いのかな?もし間違いがあれば指摘してくださるとありがたいです。
あ、あともうひとつ、2つ目の例文のx1が{lo si'o cmaci}でなく{lo cmaci}となるとどうなるんでしょう?cmaci_1には概念以外きそうにない気がするので、意味としては何ら変わらないですか?
回答者の意図を察するに、西暦に限らず何らかの時点における地磁気を frame of reference とするということだと思います。 detri_4 は自由に決められるので、例えば現在を0として、年数を負の数であらわすという暦を使って de'i に付く数を決めても良いと思います。
reference としてもプレートテクトニクスの影響で移動していますから、正確には {snanu fi lo tedjendu} の方にも時点の指定は必要だと思います。更に詳しく言うなら、上記のFAhA類に関するリンク先に書いたようないろんな条件を明記する必要もあると思います。なるほど・・・。これはここで書く内容ではないかもしれませんが、私は方位は地球の表面上(成層圏あたりまで)で定義できれば十分なんじゃないかと思っていました。ですから、「地磁気を北とする方位」とさえ言ってしまえば、時刻に関わらず(もちろん地磁気が反転するとかそういうことが起これば時刻の指定はいるとは思いますが)定義できるのではないか、と。つまり、宇宙枠では地軸がブレていたとしても、それは方位を定義するにあたっては無関係なのではないかと思いました。走行しているバスの内部にいて、その後ろと前を決めるのにそのバスがどの方位に向かってそのとき走っているのかは関係ないのと同様に。
余談ですけど、こう考えると、{barda}は"large"ではなくむしろ"larger"なんですね。ん、もし「AはBよりも大きい」としたいとき、{barda}だけで書けるんでしょうか。{A barda zo'e B}とすれば、「Aは群れB(今回は個ですが)の中で大きい」となるかな?barda_3にかぎらず、(比較対象)にはx1自身も含まれていないといけないのでしょうか。
ponjo に関しては漠然としすぎて manri_1 と manri_3 の区別がはっきりしませんが、数学に限って言うなら、数学的観点と論理という規則の区別は明確です。数学の証明は論理規則に従って表現されますが、数学的観点は論理以外に多くの概念や直観を含みます。未証明の命題も数学の一部です。
cmaci_1 のロジバン定義はありませんが、個人的には saske_1 の一種であると考えています。 この考えに基づくと、 cmaci_1 は nu_1 で表せるような「個たち」であるはずです。 これらの「数学的事象」という個たちを manri_1 とすることは可能ですが、事象を観点と見なすのは意味上の難があり、それよりは概念 si'o_1 を抽出した方が manri_1 にふさわしいと思います。
地球の地図上の北は自転軸(地軸)で定義されますが、宇宙の北は天体の公転面に対して定義されることがあります。その他、地球上では簡易的に地磁気で定義される北もよく使われます。いろんな定義による北があって、それらの相対的なずれが時間変化するので、他の定義による北とのずれを把握したい場合には、時刻の表記が必要です。
cnano_1 は cnano_3 の元ですが、 barda のロジバン定義では barda_1 が cnano_3 の元になるようには書かれていません。 ただ英語定義と比較すると、それはロジバン定義の欠陥であるようにも思われます。
barda:
x_1 zmadu lo cnano be x_2 bei x_3 noi se cmima x_1 be'o x_2 noi cimde x_1
とすると、英語定義の standard/norm の意味をもっと忠実に表すような気がします。