「個でも個たちでもないもの」について(gadriの論理学的観点からの解説より)

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cogas.

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Sep 22, 2016, 3:53:12 PM9/22/16
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gadriの論理学的観点からの解説 2.2.5 にあります「個でも個たちでもないもの」についての質問(指摘)です。
条件1 における ko'a が個たちでもないことを証明する以下の記述ですが:
 

また、 {ko'a} を {A jo'u B} と表すことができる場合、 {jo'u} の性質により

A me ko'a
B me ko'a

であるから A と B はそれぞれ 条件1 の {da} の変域内にあり、条件1-1と同様の考察によって、 A も B も個ではない。 従って、 {ko'a} は個たちでもない。


2.2.2 で「個たち」は次のように定義されています:

XとYのそれぞれが個であり、 X=Yではないとき、 {X jo'u Y} を個たち (individuals) と呼ぶことにする。 X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。 

定義から、{ A jo'u B} において A や B というのは 個または個たちである わけですから、
「AもBも個ではない」というだけでは {ko'a} が個たちでないと結論づけられないと思います。
証明には、さらに「AもBも個たちでさえない」ことが必要に思います。

AやBが個たちである(たとえば、A=A1 jo'u A2)と仮定すると、me の推移律から A1 me ko'a かつ A2 me ko'a という関係が得られるので、
また同様にして、A1もA2も個ではないということは導けます。なのでさらに A1, A2 についても…とすると無限後退に陥る気がします。

和における総和のような、総JOhU (例えば JΣ)なるものを用意して、ko'a は複数個(せいぜい可算無限)の個をjo'uで繋いだものと同一だということ、つまり

ko'a = JΣ_x x

などとすれば、無限後退は解消されるように思います。
そう考えると、個たちを再帰的に定義する方法では、2.2.5で言及されている「個でも個たちでもないもの」の存在は証明できないように思います。

あるいは、「個たち」をどう定義するのかにもよりますが、個たちは物質名詞が指すものも表せるという解釈も可能に思います。
「個たち」を当記事のように再帰的に定義する場合、「究極的に個をもたない個たち」として物質名詞を解釈してもいいはずです。
しかし…このことは明らかに「個たち」という名称から抱くイメージとは乖離しているので、やはり再帰的な定義を避けるのがいいように思います。

ni'o

それから、条件1-1とは

su'oi de zo'u de me ko'a ijenai ko'a me de — 条件1-1

とのことですが、条件1が満たされるとき、ko'a が物質名詞が指すものを表すとして、lo me ko'a (つまり、de)は何を表すと考えればいいのでしょうか?
つまり、一般に、個でも個たちでもないもの X における me の関係性というのはどういうものになるのでしょうか?

cogas.

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Sep 22, 2016, 4:45:43 PM9/22/16
to ロジバン相談室
2016年9月23日金曜日 4時53分12秒 UTC+9 cogas.:
gadriの論理学的観点からの解説 2.2.5 にあります「個でも個たちでもないもの」についての質問(指摘)です。
条件1 における ko'a が個たちでもないことを証明する以下の記述ですが:
 

また、 {ko'a} を {A jo'u B} と表すことができる場合、 {jo'u} の性質により

A me ko'a
B me ko'a

であるから A と B はそれぞれ 条件1 の {da} の変域内にあり、条件1-1と同様の考察によって、 A も B も個ではない。 従って、 {ko'a} は個たちでもない。


2.2.2 で「個たち」は次のように定義されています:

XとYのそれぞれが個であり、 X=Yではないとき、 {X jo'u Y} を個たち (individuals) と呼ぶことにする。 X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。 

定義から、{ A jo'u B} において A や B というのは 個または個たちである わけですから、
「AもBも個ではない」というだけでは {ko'a} が個たちでないと結論づけられないと思います。
証明には、さらに「AもBも個たちでさえない」ことが必要に思います。

AやBが個たちである(たとえば、A=A1 jo'u A2)と仮定すると、me の推移律から A1 me ko'a かつ A2 me ko'a という関係が得られるので、
また同様にして、A1もA2も個ではないということは導けます。なのでさらに A1, A2 についても…とすると無限後退に陥る気がします。

和における総和のような、総JOhU (例えば JΣ)なるものを用意して、ko'a は複数個(せいぜい可算無限)の個をjo'uで繋いだものと同一だということ、つまり

ko'a = JΣ_x x

などとすれば、無限後退は解消されるように思います。
そう考えると、個たちを再帰的に定義する方法では、2.2.5で言及されている「個でも個たちでもないもの」の存在は証明できないように思います。

あるいは、「個たち」をどう定義するのかにもよりますが、個たちは物質名詞が指すものも表せるという解釈も可能に思います。
「個たち」を当記事のように再帰的に定義する場合、「究極的に個をもたない個たち」として物質名詞を解釈してもいいはずです。
しかし…このことは明らかに「個たち」という名称から抱くイメージとは乖離しているので、やはり再帰的な定義を避けるのがいいように思います。


ua すみません。自己解決しそうです。個たちについて再帰的定義を用いたとしても、次のように修正すれば上手くいくように思えました:

また、ko'a を個たちと仮定する。このとき、A≠Bを満たす 個なるA と個あるいは個たちなるB を用いて

ko'a = A jo'u B (*)

とすることができる。しかし、{ jo'u } の性質より、

A me ko'a

であり、条件1-1と同様の考察によって、 A は個ではない。これは矛盾であり、ko'a は個たちであることが棄却される。よって ko'a は個たちでない。

ただし、個たち が(*) のように必ず書けるということは(直観的ですが)記事内で証明されてはいないので、別途証明は必要になるかと思います。


ta'o
・・・とここまで書いて気づいたのですが、もしかして 2.2.2 の

X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。

における「XとYのそれぞれが個または個たちである」というのは 、「X fa'u Y が 個 fa'u 個たち である」ということでしょうか…。それなら無限後退は起こらないですね…。
ta'onai


(性質K)「任意の個たちが、個Aと個(たち)Bを用いて A jo'u B と表せる」というのは直観的には明らかな気がしますが、
今の定義だけでは、定義上明らかではない気がします。となると、このことは公理として導入しておかないといけないと思います。
もしこのことが成り立たないことがあれば、jo'uの結合法則から、さっき述べた「究極的に個をもたない個たち」というのが発生するはずです:

個たち ko'a が性質Kを満たさないとする。個たちの定義から ko'a は2つの個たち X, Y を用いて ko'a = X jo'u Y と表せる。 
ここで、X, Y も同様に性質Kを満たさない。なぜならば、もしXが性質Kを満たすとすると、個 A を用いて

X = A jo'u B

と表せる。しかし、jo'u の性質から、

ko'a = (A jo'u B) jo'u Y = A jo'u (B jo'u Y)

であり、ko'a は性質Kを満たす。よって、対偶より Xは性質Kを満たさない。Yについても同様である。

 

guskant

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Sep 23, 2016, 7:18:09 AM9/23/16
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Le jeudi 22 septembre 2016 19:53:12 UTC, cogas. a écrit :
gadriの論理学的観点からの解説 2.2.5 にあります「個でも個たちでもないもの」についての質問(指摘)です。
条件1 における ko'a が個たちでもないことを証明する以下の記述ですが:
 

また、 {ko'a} を {A jo'u B} と表すことができる場合、 {jo'u} の性質により

A me ko'a
B me ko'a

であるから A と B はそれぞれ 条件1 の {da} の変域内にあり、条件1-1と同様の考察によって、 A も B も個ではない。 従って、 {ko'a} は個たちでもない。


2.2.2 で「個たち」は次のように定義されています:

XとYのそれぞれが個であり、 X=Yではないとき、 {X jo'u Y} を個たち (individuals) と呼ぶことにする。 X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。 

定義から、{ A jo'u B} において A や B というのは 個または個たちである わけですから、
「AもBも個ではない」というだけでは {ko'a} が個たちでないと結論づけられないと思います。
証明には、さらに「AもBも個たちでさえない」ことが必要に思います。

AやBが個たちである(たとえば、A=A1 jo'u A2)と仮定すると、me の推移律から A1 me ko'a かつ A2 me ko'a という関係が得られるので、
また同様にして、A1もA2も個ではないということは導けます。なのでさらに A1, A2 についても…とすると無限後退に陥る気がします。

和における総和のような、総JOhU (例えば JΣ)なるものを用意して、ko'a は複数個(せいぜい可算無限)の個をjo'uで繋いだものと同一だということ、つまり

ko'a = JΣ_x x

などとすれば、無限後退は解消されるように思います。
そう考えると、個たちを再帰的に定義する方法では、2.2.5で言及されている「個でも個たちでもないもの」の存在は証明できないように思います。



「解説」全体の前提として、文の長さは有限であるとしています。
そのため、jo'uの無限後退ができません。
可算無限長の記号列も文と呼ぶことにするのであれば、証明は破綻しますし、物質名詞のようなものも可算無限個の個がjo'uで繋がったものとして表現されるという、「解説」で扱っているモデルと別のモデルが可能になると思います。

 
あるいは、「個たち」をどう定義するのかにもよりますが、個たちは物質名詞が指すものも表せるという解釈も可能に思います。
「個たち」を当記事のように再帰的に定義する場合、「究極的に個をもたない個たち」として物質名詞を解釈してもいいはずです。
しかし…このことは明らかに「個たち」という名称から抱くイメージとは乖離しているので、やはり再帰的な定義を避けるのがいいように思います。

ni'o

それから、条件1-1とは

su'oi de zo'u de me ko'a ijenai ko'a me de — 条件1-1

とのことですが、条件1が満たされるとき、ko'a が物質名詞が指すものを表すとして、lo me ko'a (つまり、de)は何を表すと考えればいいのでしょうか?
つまり、一般に、個でも個たちでもないもの X における me の関係性というのはどういうものになるのでしょうか?
 

me や jo'u によって関係付けられる性質は個(たち)と変わりません。ko'a が個でも個たちでもないとき、{lo me ko'a}は
X は個である =ca'e ro'oi da poi ke'a me X zo'u X me da
という性質を持つXに当てはまらないというだけです。
「個たち」の定義の中の、「 X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。」という部分だけ見ると、確かに無限後退できるように勘違いされそうですね。定義文の意図としては、その前の文「XとYのそれぞれが個であり、 X=Yではないとき、 {X jo'u Y} を個たち (individuals) と呼ぶことにする。」で定義された個たちが、次の文のXとYに入るつもりでした。

 
ta'onai


(性質K)「任意の個たちが、個Aと個(たち)Bを用いて A jo'u B と表せる」というのは直観的には明らかな気がしますが、
今の定義だけでは、定義上明らかではない気がします。となると、このことは公理として導入しておかないといけないと思います。
もしこのことが成り立たないことがあれば、jo'uの結合法則から、さっき述べた「究極的に個をもたない個たち」というのが発生するはずです:

個たち ko'a が性質Kを満たさないとする。個たちの定義から ko'a は2つの個たち X, Y を用いて ko'a = X jo'u Y と表せる。 
ここで、X, Y も同様に性質Kを満たさない。なぜならば、もしXが性質Kを満たすとすると、個 A を用いて

X = A jo'u B

と表せる。しかし、jo'u の性質から、

ko'a = (A jo'u B) jo'u Y = A jo'u (B jo'u Y)

であり、ko'a は性質Kを満たす。よって、対偶より Xは性質Kを満たさない。Yについても同様である。

 


これは 「ko'a が 性質Kを満たさないならば X と Y は性質Kを満たさない」ということを証明したものですが、文が有限長であることを前提とすれば、有限回の手続きによって「個たち」の定義から性質Kが導かれることは明らかです。ただし上記のように、「個たち」の定義の後半が誤解を招くようですので、12月以降に定義文を再検討します。 

ki'e jungau be lo nabmi
mu'o
 

guskant

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Sep 23, 2016, 7:59:57 AM9/23/16
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Le vendredi 23 septembre 2016 11:18:09 UTC, guskant a écrit :


ki'e jungau be lo nabmi
mu'o
 


sisisi fo lo nabmi mu'o 

cogas.

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Sep 24, 2016, 11:03:58 AM9/24/16
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2016年9月23日金曜日 20時18分09秒 UTC+9 guskant:

ni'o

それから、条件1-1とは

su'oi de zo'u de me ko'a ijenai ko'a me de — 条件1-1

とのことですが、条件1が満たされるとき、ko'a が物質名詞が指すものを表すとして、lo me ko'a (つまり、de)は何を表すと考えればいいのでしょうか?
つまり、一般に、個でも個たちでもないもの X における me の関係性というのはどういうものになるのでしょうか?
 

me や jo'u によって関係付けられる性質は個(たち)と変わりません。ko'a が個でも個たちでもないとき、{lo me ko'a}は
X は個である =ca'e ro'oi da poi ke'a me X zo'u X me da
という性質を持つXに当てはまらないというだけです。


すみません、言葉足らずでした。
個でも個たちでもないko'aの具体的解釈の一例として、guskantさんは物質名詞が指すものを表していると述べていました。個人的には、物質名詞が指すものとmeな関係にあるような対象がそれ自身以外に思いつかなかったのです。しかし、条件1-1は su'oi de ... から、ko'aには確かに自身ではないmeな関係にある対象(これも個でも個たちでもないもの)があると主張しています。guskantさんが「個でも個たちでもないもの」の具体例として「物質名詞が指すもの」を挙げた際に、条件1-1における「su'oi de」の de は何を指していると考えたのかが知りたいという旨の質問でした。

条件1-1から、個でも個たちでもないものAは、自身と異なる個でも個たちでもないものBと meの関係にあるわけ(B me A) ですが、たとえばAが物質としてのパンだとしたとき、Bは具体的にはどのような物質を指しているのでしょうか?「パンの切れ端もまたパンである」世界観では、「パンの切れ端」は物質パンとして指示されるわけですから、A me A の関係でしかないように思うのです。

cogas.

unread,
Sep 24, 2016, 11:19:45 AM9/24/16
to ロジバン相談室
「Thomas McKay:Plural Predication, Oxford University Press, 2006」を読み返していてもっと重大なところにぶつかりました。
「解説」は McKayの本を参考に挙げているので、「解説」は基本的に McKay の公理を受け入れていると想定します。

「Plural Predication」の6章 "Axioms for "Among Theory"" で、存在公理 (E) として次のようなものを受け入れています:

(E) ∀X∃Y (IY ∧ YAX)

ここで IY は「Yは個である」ということであり、その定義は「解説」と同じです。(E)中の "IY" の部分を定義通り書き下していくと、

(E)-1 ∀X∃Y∀Z ((ZAY→YAZ) ∧ YAX)

となります。amongの表記はMckayを参考にしています。たとえば、"YAX" はロジバンでいうところの {Y me X} です。

一方、「個でも個たちでもないもの」が出現する条件1 というのは

(条件1) [∀Y: YAX] ∃Z (ZAY ∧ ¬YAZ)
(条件1)-1 ∀Y∃Z (YAX → (ZAY ∧¬YAZ))
(条件1)-2 ¬∃Y∀Z ¬(YAX → (ZAY ∧¬YAZ))

となります。ここで、(E)-1 中にある ((ZAY→YAZ) ∧ YAX) は ¬(YAX → (ZAY ∧¬YAZ)) と同値ですから、(E)-1 は

(E)-2 ∀X∃Y∀Z  ¬(YAX → (ZAY ∧¬YAZ))

と書き換えられます。よって、条件1 は McKayの存在公理 (E) と矛盾します。

というわけで、McKayの存在公理を受け入れているのであれば、条件1 が真であるような議論領域というのは考えられません。
「解説」は McKay とは異なる前提を立てているのでしょうか?

mu'o

guskant

unread,
Sep 24, 2016, 4:57:29 PM9/24/16
to ロジバン相談室
「解説」の条件1は、わざとその公理(E)を否定するように作られたものです。
関連議論:

「個でも個たちでもないもの」の部分は、McKayの公理(E)を否定して条件1を真とするような世界観をロジバンが表現できないように制限する必要は無いのではないか、という疑問から発した話です。

McKayの公理(E)は「個が原子として存在するような mereologyの一種」を表現するための公理の1つであり、McKayは自分のamong理論がそのようなmereologyを表現することに使えることを第6章で示しています。しかし、ロジバンが存在論を1つの考え方だけに制限しないという方針で設計されているのであれば、公理(E)をロジバンのmeの意味論に取り込むべきではない、ということを、上記リンク先でxorxesと議論しました。もちろん、 (E)を支持する世界では条件1は否定されますし、そのような世界をロジバンで表現することを「解説」が禁止しているわけではありません。

 

cogas.

unread,
Sep 24, 2016, 6:28:31 PM9/24/16
to ロジバン相談室


2016年9月25日日曜日 5時57分29秒 UTC+9 guskant:
ua (E)を踏まえての条件1だったのですね。その関連議論を見落としていました。ありがとうございます。

個人的にも (E) を meの意味論に取り込むべきではないということに賛成です。納得しました。
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