また、 {ko'a} を {A jo'u B} と表すことができる場合、 {jo'u} の性質により
A me ko'a
B me ko'aであるから A と B はそれぞれ 条件1 の {da} の変域内にあり、条件1-1と同様の考察によって、 A も B も個ではない。 従って、 {ko'a} は個たちでもない。
XとYのそれぞれが個であり、 X=Yではないとき、 {X jo'u Y} を個たち (individuals) と呼ぶことにする。 X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。
su'oi de zo'u de me ko'a ijenai ko'a me de — 条件1-1
gadriの論理学的観点からの解説 2.2.5 にあります「個でも個たちでもないもの」についての質問(指摘)です。条件1 における ko'a が個たちでもないことを証明する以下の記述ですが:また、 {ko'a} を {A jo'u B} と表すことができる場合、 {jo'u} の性質により
A me ko'a
B me ko'aであるから A と B はそれぞれ 条件1 の {da} の変域内にあり、条件1-1と同様の考察によって、 A も B も個ではない。 従って、 {ko'a} は個たちでもない。
2.2.2 で「個たち」は次のように定義されています:XとYのそれぞれが個であり、 X=Yではないとき、 {X jo'u Y} を個たち (individuals) と呼ぶことにする。 X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。定義から、{ A jo'u B} において A や B というのは 個または個たちである わけですから、「AもBも個ではない」というだけでは {ko'a} が個たちでないと結論づけられないと思います。証明には、さらに「AもBも個たちでさえない」ことが必要に思います。AやBが個たちである(たとえば、A=A1 jo'u A2)と仮定すると、me の推移律から A1 me ko'a かつ A2 me ko'a という関係が得られるので、また同様にして、A1もA2も個ではないということは導けます。なのでさらに A1, A2 についても…とすると無限後退に陥る気がします。和における総和のような、総JOhU (例えば JΣ)なるものを用意して、ko'a は複数個(せいぜい可算無限)の個をjo'uで繋いだものと同一だということ、つまりko'a = JΣ_x xなどとすれば、無限後退は解消されるように思います。そう考えると、個たちを再帰的に定義する方法では、2.2.5で言及されている「個でも個たちでもないもの」の存在は証明できないように思います。あるいは、「個たち」をどう定義するのかにもよりますが、個たちは物質名詞が指すものも表せるという解釈も可能に思います。「個たち」を当記事のように再帰的に定義する場合、「究極的に個をもたない個たち」として物質名詞を解釈してもいいはずです。しかし…このことは明らかに「個たち」という名称から抱くイメージとは乖離しているので、やはり再帰的な定義を避けるのがいいように思います。
また、ko'a を個たちと仮定する。このとき、A≠Bを満たす 個なるA と個あるいは個たちなるB を用いてko'a = A jo'u B (*)とすることができる。しかし、{ jo'u } の性質より、A me ko'aであり、条件1-1と同様の考察によって、 A は個ではない。これは矛盾であり、ko'a は個たちであることが棄却される。よって ko'a は個たちでない。
X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。
個たち ko'a が性質Kを満たさないとする。個たちの定義から ko'a は2つの個たち X, Y を用いて ko'a = X jo'u Y と表せる。ここで、X, Y も同様に性質Kを満たさない。なぜならば、もしXが性質Kを満たすとすると、個 A を用いてX = A jo'u Bと表せる。しかし、jo'u の性質から、ko'a = (A jo'u B) jo'u Y = A jo'u (B jo'u Y)であり、ko'a は性質Kを満たす。よって、対偶より Xは性質Kを満たさない。Yについても同様である。
gadriの論理学的観点からの解説 2.2.5 にあります「個でも個たちでもないもの」についての質問(指摘)です。条件1 における ko'a が個たちでもないことを証明する以下の記述ですが:また、 {ko'a} を {A jo'u B} と表すことができる場合、 {jo'u} の性質により
A me ko'a
B me ko'aであるから A と B はそれぞれ 条件1 の {da} の変域内にあり、条件1-1と同様の考察によって、 A も B も個ではない。 従って、 {ko'a} は個たちでもない。
2.2.2 で「個たち」は次のように定義されています:XとYのそれぞれが個であり、 X=Yではないとき、 {X jo'u Y} を個たち (individuals) と呼ぶことにする。 X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。定義から、{ A jo'u B} において A や B というのは 個または個たちである わけですから、「AもBも個ではない」というだけでは {ko'a} が個たちでないと結論づけられないと思います。証明には、さらに「AもBも個たちでさえない」ことが必要に思います。AやBが個たちである(たとえば、A=A1 jo'u A2)と仮定すると、me の推移律から A1 me ko'a かつ A2 me ko'a という関係が得られるので、また同様にして、A1もA2も個ではないということは導けます。なのでさらに A1, A2 についても…とすると無限後退に陥る気がします。和における総和のような、総JOhU (例えば JΣ)なるものを用意して、ko'a は複数個(せいぜい可算無限)の個をjo'uで繋いだものと同一だということ、つまりko'a = JΣ_x xなどとすれば、無限後退は解消されるように思います。そう考えると、個たちを再帰的に定義する方法では、2.2.5で言及されている「個でも個たちでもないもの」の存在は証明できないように思います。
あるいは、「個たち」をどう定義するのかにもよりますが、個たちは物質名詞が指すものも表せるという解釈も可能に思います。「個たち」を当記事のように再帰的に定義する場合、「究極的に個をもたない個たち」として物質名詞を解釈してもいいはずです。しかし…このことは明らかに「個たち」という名称から抱くイメージとは乖離しているので、やはり再帰的な定義を避けるのがいいように思います。
ni'oそれから、条件1-1とはsu'oi de zo'u de me ko'a ijenai ko'a me de — 条件1-1とのことですが、条件1が満たされるとき、ko'a が物質名詞が指すものを表すとして、lo me ko'a (つまり、de)は何を表すと考えればいいのでしょうか?つまり、一般に、個でも個たちでもないもの X における me の関係性というのはどういうものになるのでしょうか?
ta'onai(性質K)「任意の個たちが、個Aと個(たち)Bを用いて A jo'u B と表せる」というのは直観的には明らかな気がしますが、今の定義だけでは、定義上明らかではない気がします。となると、このことは公理として導入しておかないといけないと思います。もしこのことが成り立たないことがあれば、jo'uの結合法則から、さっき述べた「究極的に個をもたない個たち」というのが発生するはずです:個たち ko'a が性質Kを満たさないとする。個たちの定義から ko'a は2つの個たち X, Y を用いて ko'a = X jo'u Y と表せる。ここで、X, Y も同様に性質Kを満たさない。なぜならば、もしXが性質Kを満たすとすると、個 A を用いてX = A jo'u Bと表せる。しかし、jo'u の性質から、ko'a = (A jo'u B) jo'u Y = A jo'u (B jo'u Y)であり、ko'a は性質Kを満たす。よって、対偶より Xは性質Kを満たさない。Yについても同様である。
ki'e jungau be lo nabmimu'o
ni'oそれから、条件1-1とはsu'oi de zo'u de me ko'a ijenai ko'a me de — 条件1-1とのことですが、条件1が満たされるとき、ko'a が物質名詞が指すものを表すとして、lo me ko'a (つまり、de)は何を表すと考えればいいのでしょうか?つまり、一般に、個でも個たちでもないもの X における me の関係性というのはどういうものになるのでしょうか?me や jo'u によって関係付けられる性質は個(たち)と変わりません。ko'a が個でも個たちでもないとき、{lo me ko'a}はX は個である =ca'e ro'oi da poi ke'a me X zo'u X me daという性質を持つXに当てはまらないというだけです。