coi mi'e la .sidas.
遅まきながら失礼します。
2021年1月2日土曜日 1:27:03 UTC+9 niftg:
je'e ki'e la .gunkant. noi sutra spusku ku'o .i'o .u'e
化学反応にも似た仕方でのjukpa観はなるほどと感じました。jukpa2がバラけて構成要素が変化したりjukpa3の関与物質が加味されて変質したりする様はロジバンで記述したいところです。(恐らくは存在論的な領域にも議論が及ぶとかなとは感じます。)
どちらの解釈でも、素材だけを明言できないjukpaの定義が私にとっては不便なので、私はjbovlasteのロジバン定義案としてx3を料理素材とし、料理方法をx4にずらしたことがあります。しかし、ロジバンの世界観として料理の素材と完成品を区別しないという集団的信念があるなら、それがロジバンの文化なので、x4の追加は余計なお世話だったかもしれません。
このごろの“ロジバン・コミュニティ”の“集団的信念”についてはその存在の有無からして私も計り知れないところですね…ta'onai、今のところjukpaのPSを再考する声が公的に表明されてない(様に見える)以上は、x2の正体がいまいちハッキリしないながらも旧来の3項述語としてのjukpaを基に日本語の語義説明を書くしかないかと存じます。
上記前提において、la .nif. の提案に賛成します。個人的には la .guskant. によるx4の追加により .ie .i'e という気持ちはありますが。
以下、蛇足かと思いつつ私見を述べてみます。本題から脱線しがちになりそうですがご容赦いただければ。
この話題で気になったのが {jukpa} の存在意義、と云ったら大袈裟ですが、{cupra} や {zbasu} との差別化がどう成されるかというところで、自分の感覚としては「成果物として可食の物を志向する/高度に工業化された工程ではない」辺りが重要なのではないか、と考えています。
mu'a
jukpa lo spageti
cupra lo spageti
両者の違いを考えると、現行の定義ではどちらも成果物は「スパゲティ」ですが、jukpaでは調理された(ペペロンチーノやジェノベーゼなどの)スパゲティ、cupraでは乾麺などの製品としてのスパゲティが(より強く)含意されるように思われます。また、少し無理筋かも知れませんがzbasuを使ってみて
jukpa lo spageti sepu'e lo grupu'o
zbasu lo spageti lo grupu'o
についても、出来上がる「スパゲティ」の印象はかなり変わるように感ぜられます。
(以上の点で誤解がありましたらご指摘ください)
mu'anai
あくまで上記は(誤解の可能性を多分に含む)自分の感覚ですが、la .nif. の提案を採用することでこういったニュアンスをより明確に表現できるようになると期待されます。要するにcupraやzbasuとの差別化が明確にできるようになるのではないかと。
mu'a
.ua ra jukpa lo slasi
といった用法で「あいつはプラスチックを加工して食べる/食べさせるつもりだ」というのが明確に含意されるようになるかと(こんなことで喜ぶのは僕ぐらいかも知れませんが)。
またjupyzbaの定義によっては
jukpa lo broda gi'e jupyzba lo brode
のような構文も可能になるのでは、と思います(lujvoのPS要件については不勉強なので実際このように定義するのが妥当かどうかは解りませんが)。
mu'anai
以上を踏まえて
sepu'eの件の背景が明らかになりまして、jukpa2について敢て何もキーワードを付与しないのも選択肢としてありうるかなと感じてきました。(`x1 は x2 を/に x3 (方法)で料理する`など)
また少し思案してみます。mu'o mi'e .nif.
この案もまたよいのでは、と考えるところです(料理/調理という言葉に「可食(を志向する)」のニュアンスが込められていると考えるので)。
mu'o
2021年1月2日土曜日 1:27:03 UTC+9 niftg: