lo mu selcmi be lo pano kacna'u

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cogas.

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Jun 24, 2016, 5:12:17 AM6/24/16
to ロジバン相談室
自然数は加算無限個あるので、{lo pano kacna'u} が指示しうるパターンは無限個あります。
ですので、「10個の自然数からなる集合」というのは無限個作れるはずです。

しかし、{lo pano kacna'u} という表現は定項であるので、いち表現の中では(或る一組の)「10個の自然数」を指示すると思います。
この定まった10個の自然数を ko'a と置くと、{lo selcmi be ko'a} というのは、外延性の公理からただ1つだけ存在することになると思います。
ですので、{lo mu selcmi be ko'a} というのは意味の無い表現になってしまう気がします(そのような集合は5個もないので)。

この表現は、{lo mu selcmi be lo pano kacna'u} = {zo'e noi ke'a mu mei gi'e selcmi lo pano kacna'u} と変形できますが、
10個の自然数からなる集合5つを指示するには、1個、2個、…5個と合致する集合を数える度に {lo pano kacna'u} の指示対象を変化させる必要があります。
このロジバンの定項の指示対象が変化していく様というのは、量化変項と共存する場合はスコーレム関数とみなすことで理解されています。
しかしながら、今回の場合ではロジバンの定項をスコーレム関数とみなして済ます、というわけには行かないのではないかと思います。

1つ考えられる解決策としては、内部量化の関係節と、描写の関係節を(gi'eで繋げずに)分けてしまう方法です。
{lo mu selcmi be lo pano kacna'u} = {zo'e noi ke'a mu mei ku'o vu'o noi ke'a selcmi lo pano kacna'u} とすれば、
{ke'a mu mei} と {ke'a selcmi lo pano kacna'u} が gi'e で繋いだときよりは関係が緩くなるので、
解釈にゆとりが生まれ、「10個の自然数からなる集合5つ」を意味するようになると思います。
「noi節はアクセスされる度に与える解釈を変えてもいい」とでも言えばいいでしょうか。節の議論領域(モデル)が主節と独立していることを利用しました。

しかし、このように考えると、別のところにしわ寄せが来ます。
というのは、たとえば「同じ1つのリンゴを食べる2人」という表現をどう表すかという問題です。
{lo re citka be lo pa plise} は、{lo pa plise} が「食べる人」ごとに再評価されるので、厳密に「同じ1つのリンゴ」を指すに十分ではなくなります。
先ほどの議論から、{zo'e noi re mei gi'e citka lo pa plise} と、内部量化と描写を1つの関係節にまとめてしまえば上手くいきますが…。

もう一つの方法は、似たようなものですが、
{lo mu selcmi be lo pano kacna'u} = {zo'e noi ke'a mumei gi'e ckaji lo ka selcmi lo pano kacna'u} と、ka節を関係節内に取り入れる方法です。
この方法も「節の議論領域(モデル)が外の節と独立している」ということを利用したものです。
しかし、同じ理屈を利用していますから、「同じ1つのリンゴを食べる2人」という表現にしわ寄せがくるのは変わりません。


この話題は、{lo me sumti} 表現で sumti に loi項や lo'i項がくるときにも問題になります。たとえば、BPFK sections にもある例文:

lo mulno kardygri cu gunma lo vo loi paci karda
A full deck consists of four groups of thirteen cards.

の {lo vo loi paci karda} は {lo vo me lo gunma be lo paci karda} と等価ですが、ここでも {lo paci karda} の指示が {vo} に関して変化しなければ、
「13枚のカード4組」という意味になりません。{lo gunma be lo paci karda} は、{lo paci karda} の指示が固定されると 1つしか存在しないはずだからです。


概して zo'e の「定項」性に関する問題だと思いますが、スコーレム関数とみなしても依然説明できない事例があるように思います。
この問題に対して、どう折り合いをつけるべきでしょうか?

guskant

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Jun 24, 2016, 11:37:12 AM6/24/16
to ロジバン相談室


Le vendredi 24 juin 2016 09:12:17 UTC, cogas. a écrit :
自然数は加算無限個あるので、{lo pano kacna'u} が指示しうるパターンは無限個あります。
ですので、「10個の自然数からなる集合」というのは無限個作れるはずです。

しかし、{lo pano kacna'u} という表現は定項であるので、いち表現の中では(或る一組の)「10個の自然数」を指示すると思います。
この定まった10個の自然数を ko'a と置くと、{lo selcmi be ko'a} というのは、外延性の公理からただ1つだけ存在することになると思います。
ですので、{lo mu selcmi be ko'a} というのは意味の無い表現になってしまう気がします(そのような集合は5個もないので)。

この表現は、{lo mu selcmi be lo pano kacna'u} = {zo'e noi ke'a mu mei gi'e selcmi lo pano kacna'u} と変形できますが、
10個の自然数からなる集合5つを指示するには、1個、2個、…5個と合致する集合を数える度に {lo pano kacna'u} の指示対象を変化させる必要があります。
このロジバンの定項の指示対象が変化していく様というのは、量化変項と共存する場合はスコーレム関数とみなすことで理解されています。
しかしながら、今回の場合ではロジバンの定項をスコーレム関数とみなして済ます、というわけには行かないのではないかと思います。



この例に限って言うと、selcmi の意味から考えれば、 {lo mu selcmi be} に続くsumtiに定項を入れることが間違いだと思います。 定項を入れてしまったら、ご察知のとおり、その集合は1つしか無いので、 数えて {mu} にはなり得ません。 「何らかの自然数10個からなる集合5個」を指す定項は
{lo mu selcmi be su'oi da poi pano mei gi'e kacna'u}
であると思います。

 
1つ考えられる解決策としては、内部量化の関係節と、描写の関係節を(gi'eで繋げずに)分けてしまう方法です。
{lo mu selcmi be lo pano kacna'u} = {zo'e noi ke'a mu mei ku'o vu'o noi ke'a selcmi lo pano kacna'u} とすれば、
{ke'a mu mei} と {ke'a selcmi lo pano kacna'u} が gi'e で繋いだときよりは関係が緩くなるので、
解釈にゆとりが生まれ、「10個の自然数からなる集合5つ」を意味するようになると思います。
「noi節はアクセスされる度に与える解釈を変えてもいい」とでも言えばいいでしょうか。節の議論領域(モデル)が主節と独立していることを利用しました。

しかし、このように考えると、別のところにしわ寄せが来ます。
というのは、たとえば「同じ1つのリンゴを食べる2人」という表現をどう表すかという問題です。
{lo re citka be lo pa plise} は、{lo pa plise} が「食べる人」ごとに再評価されるので、厳密に「同じ1つのリンゴ」を指すに十分ではなくなります。
先ほどの議論から、{zo'e noi re mei gi'e citka lo pa plise} と、内部量化と描写を1つの関係節にまとめてしまえば上手くいきますが…。

もう一つの方法は、似たようなものですが、
{lo mu selcmi be lo pano kacna'u} = {zo'e noi ke'a mumei gi'e ckaji lo ka selcmi lo pano kacna'u} と、ka節を関係節内に取り入れる方法です。
この方法も「節の議論領域(モデル)が外の節と独立している」ということを利用したものです。
しかし、同じ理屈を利用していますから、「同じ1つのリンゴを食べる2人」という表現にしわ寄せがくるのは変わりません。



私の考えでは、 noi節の議論領域は主節と同一であると思います。
その根拠は、noi節と主節が指示対象を共有することを、{ke'a}が強制しているからです。{i}で並列されるべき2つの文を、便利のために共通の項をke'aで受けて主節とnoi節という形に変形したものだと、私は見なしています。
それに対して、nu節は指示的不透明性を担っているため、その議論領域は主節と独立であると考えるべきだと思います。

{poi'i} のように、NU類でありながら{ke'a}を使う場合は、その議論領域も主節と同一になると考えています。
ただし、新soi, xoi, poi'a などでは、 ke'a が主節全体の表している命題を指しているので、これはnu節の場合と逆向きではありますが、指示的不透明性を持ちます。したがって、これらの新cmavoで作られる節も、主節と独立の議論領域を持つと考えています。ただ、実際の使用例を見る限り、これらの節の議論領域の想定者が、主節の議論領域の想定者と同一であるため、結果的に同一の議論領域となっているようです。実際、主節で命題を主張しておきながら、新soi, xoi, poi'aなどでその命題を客観視するような表現は、ロジバン的ではありますが、なかなか高度な表現なのかもしれません。

 

この話題は、{lo me sumti} 表現で sumti に loi項や lo'i項がくるときにも問題になります。たとえば、BPFK sections にもある例文:

lo mulno kardygri cu gunma lo vo loi paci karda
A full deck consists of four groups of thirteen cards.

の {lo vo loi paci karda} は {lo vo me lo gunma be lo paci karda} と等価ですが、ここでも {lo paci karda} の指示が {vo} に関して変化しなければ、
「13枚のカード4組」という意味になりません。{lo gunma be lo paci karda} は、{lo paci karda} の指示が固定されると 1つしか存在しないはずだからです。


概して zo'e の「定項」性に関する問題だと思いますが、スコーレム関数とみなしても依然説明できない事例があるように思います。



それはたしかにそうだと思います。スコーレム関数という解釈で解決できるのは、{zo'e}と{da}が混在している場合の解釈だけです。

ご指摘の問題は
{lo PA SUMTI} の定義案

zo'e noi ke'a PA mei gi'e me SUMTI

の{SUMTI} に {loi paci karda}={lo gunma be lo paci karda} や {lo'i pano kacna'u}={lo selcmi be lo pano kacna'u} が代入された場合、それらの指示対象が1つしか無いので数えられない

ということだと思います。


 
この問題に対して、どう折り合いをつけるべきでしょうか?




私の個人的な意見としては、以前から主張しているように
zo'e や lo broda を必ず定項であるとは見なさないで、
複数定項または複数束縛変項
であると見なす解釈をするのが最も良い解決方法です。

しかし、公式解釈ではあくまでも定項なので、この解釈に沿って何とか解決する方法を考えてみます。


{loi} や {lo'i} の定義で、{gunma} や {selcmi} の x2 (構成要素)が定項である必然性はないと思うので、 それらの定義を

{loi [PA] broda} ca'e= {lo gunma be su'oi da poi [PA] mei gi'e broda}
{lo'i [PA] broda} ca'e= {lo selcmi be su'oi da poi [PA] mei gi'e broda}

と変更すれば、内部量化の重複で起こる問題を回避できそうです。

そうすると {lo vo loi paci karda} は

zo'e noi ke'a vo mei gi'e me lo gunma be su'oi da poi paci mei gi'e karda

となり、{su'oi da poi paci mei gi'e karda} は指示対象を固定しないので、このような {lo gunma} が4つあることが可能になります。

mi'e la guskant 

cogas.

unread,
Jun 24, 2016, 2:46:08 PM6/24/16
to ロジバン相談室


2016年6月25日土曜日 0時37分12秒 UTC+9 guskant:
そういえば、{noi ke'a ... ku'o} は形式的には {to rixirau ... toi} で変形可能なことを忘れていました。
rixirau が照応である以上、確かに noi節と主節の議論領域は同じだと私も思います。となると、私の解決策は頓挫しますね…。
 
それに対して、nu節は指示的不透明性を担っているため、その議論領域は主節と独立であると考えるべきだと思います。

{poi'i} のように、NU類でありながら{ke'a}を使う場合は、その議論領域も主節と同一になると考えています。
ただし、新soi, xoi, poi'a などでは、 ke'a が主節全体の表している命題を指しているので、これはnu節の場合と逆向きではありますが、指示的不透明性を持ちます。したがって、これらの新cmavoで作られる節も、主節と独立の議論領域を持つと考えています。ただ、実際の使用例を見る限り、これらの節の議論領域の想定者が、主節の議論領域の想定者と同一であるため、結果的に同一の議論領域となっているようです。実際、主節で命題を主張しておきながら、新soi, xoi, poi'aなどでその命題を客観視するような表現は、ロジバン的ではありますが、なかなか高度な表現なのかもしれません。


.ie je'e。{ke'a}の立ち現れる節構造については主節と同一の議論領域を有するということですね。
 
 

この話題は、{lo me sumti} 表現で sumti に loi項や lo'i項がくるときにも問題になります。たとえば、BPFK sections にもある例文:

lo mulno kardygri cu gunma lo vo loi paci karda
A full deck consists of four groups of thirteen cards.

の {lo vo loi paci karda} は {lo vo me lo gunma be lo paci karda} と等価ですが、ここでも {lo paci karda} の指示が {vo} に関して変化しなければ、
「13枚のカード4組」という意味になりません。{lo gunma be lo paci karda} は、{lo paci karda} の指示が固定されると 1つしか存在しないはずだからです。


概して zo'e の「定項」性に関する問題だと思いますが、スコーレム関数とみなしても依然説明できない事例があるように思います。



それはたしかにそうだと思います。スコーレム関数という解釈で解決できるのは、{zo'e}と{da}が混在している場合の解釈だけです。

ご指摘の問題は
{lo PA SUMTI} の定義案

zo'e noi ke'a PA mei gi'e me SUMTI

の{SUMTI} に {loi paci karda}={lo gunma be lo paci karda} や {lo'i pano kacna'u}={lo selcmi be lo pano kacna'u} が代入された場合、それらの指示対象が1つしか無いので数えられない

ということだと思います。


 
この問題に対して、どう折り合いをつけるべきでしょうか?




私の個人的な意見としては、以前から主張しているように
zo'e や lo broda を必ず定項であるとは見なさないで、
複数定項または複数束縛変項
であると見なす解釈をするのが最も良い解決方法です。

私もその立場が好きなのですが、これについて少し後述します。
 

しかし、公式解釈ではあくまでも定項なので、この解釈に沿って何とか解決する方法を考えてみます。


{loi} や {lo'i} の定義で、{gunma} や {selcmi} の x2 (構成要素)が定項である必然性はないと思うので、 それらの定義を

{loi [PA] broda} ca'e= {lo gunma be su'oi da poi [PA] mei gi'e broda}
{lo'i [PA] broda} ca'e= {lo selcmi be su'oi da poi [PA] mei gi'e broda}

と変更すれば、内部量化の重複で起こる問題を回避できそうです。

そうすると {lo vo loi paci karda} は

zo'e noi ke'a vo mei gi'e me lo gunma be su'oi da poi paci mei gi'e karda

となり、{su'oi da poi paci mei gi'e karda} は指示対象を固定しないので、このような {lo gunma} が4つあることが可能になります。

mi'e la guskant 

ua。複数量化にしてやれば確かに上手くいきますね。盲点でした。

 - - - - - -

ta'o ru'e

「zo'e や lo broda を必ず定項であるとは見なさないで、複数定項または複数束縛変項であると見なす解釈をする」という立場には賛同なのですが、
これが一般に受け入れられていない理由(あるいは逆にこれらの表現が定項であると言わないといけない理由)というのを少し考えていました。

そして思ったのが、それらの表現に与えるべき「定項」性というのは、
指示が固定されるという性質ではなく、対象の割当てが同時的であるという性質ではないかということです。
{zo'e}や{lo broda} が定項であれ、スコーレム関数であれ、これらは同タイミングで対象の割当(解釈/評価)が行われます。

一方で、束縛変項というのは対象の割当(というと妙ですが、量化のことです)が逐次的に行われます。

(1) lo re gerku cu batci lo ci cinfo
(2) re gerku cu batci ci cinfo

の意味の違いの原因は、(2)では {re gerku}の指示(割当)が {ci cinfo}の指示(割当)よりも先行しているということが最も大きい点だと考えます。
一方、(1) では「犬」と「ライオン」の指示(割当)が同時に行われるからこそ、そのような意味でいられると考えられます。

というわけで、BPFKで「zo'eを必ず定項であるとは見なさない」立場が受け入れられない理由は、
端的に言って「同時に量化(指示の評価)がなされない」という懸念にあるのではないかと考えています。

実際、スコーレム関数の解釈が受け入れられたことは、「定項」性のうち「指示の固定」性はさほど重要でないということを示唆しているように思います。

ですから、文の意味が複数定項および任意の複数束縛変項の量化(評価)の順に依らないということ(量化の可換性?)を示せるのであれば、
「zo'eを必ず定項であるとは見なさない」立場というのは受け入れられるのではないかと踏んでいます。
量化の順で意味が変わらないのであれば、それは同時に量化できることと遜色ないと思うからです。

単数束縛変項は量化の順で意味が変わることは (2) からも明らかですし、単数だけを見ている限りは期待できません。
しかし、複数束縛定項なら…きちんと考察していないのでなんともいえませんが、単数のときよりはまだ希望がある気がしています。
「任意の複数束縛変項」と言いましたが、「ある種の複数束縛変項」と条件を強めて、そのような量化だけ許容するような立場にするという手もあると思います。
たとえば、non-proportional な量化だけを許す、だとか。そういう話です。いかがでしょうか?

xorloをより直観的に使いやすくする(そのことが良いのか悪いのかはさておき)ためには、guskantさんの立場がベストだと思うのです。

もし既にこういう議論がなされていて、それでなお受け入れられていないという現状でしたら、すみません。

guskant

unread,
Jun 26, 2016, 8:07:29 AM6/26/16
to ロジバン相談室


Le vendredi 24 juin 2016 18:46:08 UTC, cogas. a écrit :


ta'o ru'e

「zo'e や lo broda を必ず定項であるとは見なさないで、複数定項または複数束縛変項であると見なす解釈をする」という立場には賛同なのですが、
これが一般に受け入れられていない理由(あるいは逆にこれらの表現が定項であると言わないといけない理由)というのを少し考えていました。

そして思ったのが、それらの表現に与えるべき「定項」性というのは、
指示が固定されるという性質ではなく、対象の割当てが同時的であるという性質ではないかということです。
{zo'e}や{lo broda} が定項であれ、スコーレム関数であれ、これらは同タイミングで対象の割当(解釈/評価)が行われます。

一方で、束縛変項というのは対象の割当(というと妙ですが、量化のことです)が逐次的に行われます。

(1) lo re gerku cu batci lo ci cinfo
(2) re gerku cu batci ci cinfo

の意味の違いの原因は、(2)では {re gerku}の指示(割当)が {ci cinfo}の指示(割当)よりも先行しているということが最も大きい点だと考えます。
一方、(1) では「犬」と「ライオン」の指示(割当)が同時に行われるからこそ、そのような意味でいられると考えられます。

というわけで、BPFKで「zo'eを必ず定項であるとは見なさない」立場が受け入れられない理由は、
端的に言って「同時に量化(指示の評価)がなされない」という懸念にあるのではないかと考えています。

実際、スコーレム関数の解釈が受け入れられたことは、「定項」性のうち「指示の固定」性はさほど重要でないということを示唆しているように思います。

ですから、文の意味が複数定項および任意の複数束縛変項の量化(評価)の順に依らないということ(量化の可換性?)を示せるのであれば、
「zo'eを必ず定項であるとは見なさない」立場というのは受け入れられるのではないかと踏んでいます。
量化の順で意味が変わらないのであれば、それは同時に量化できることと遜色ないと思うからです。

単数束縛変項は量化の順で意味が変わることは (2) からも明らかですし、単数だけを見ている限りは期待できません。
しかし、複数束縛定項なら…きちんと考察していないのでなんともいえませんが、単数のときよりはまだ希望がある気がしています。
「任意の複数束縛変項」と言いましたが、「ある種の複数束縛変項」と条件を強めて、そのような量化だけ許容するような立場にするという手もあると思います。
たとえば、non-proportional な量化だけを許す、だとか。そういう話です。いかがでしょうか?

xorloをより直観的に使いやすくする(そのことが良いのか悪いのかはさておき)ためには、guskantさんの立場がベストだと思うのです。

もし既にこういう議論がなされていて、それでなお受け入れられていないという現状でしたら、すみません。


確かに、 zo'e や lo broda が場合によって量化されていると考えると、量化の出現順序がそのまま量化の係り範囲を表すので、意図した意味と違う意味の文を言ってしまう恐れがありますね。

複数量化の理論は普通の1階の述語論理に複数という概念を付け加えただけなので、冠頭における量化の出現順序が係り範囲を表すことに変わりありません。

この問題は単数量化を使う時でも同じで、ロジバンでは、冠頭を省略しても量化の出現順序が係り範囲を表すと決められているので、実際のロジバン話者が、気付かずに量化の係り範囲を間違えていることはよくあります。  zo'e や lo broda が場合によって量化されていると見なすように解釈を変更すると、量化の係り範囲の失敗を増やすかもしれません。 

その解決方法としては、「項の複数量化を明示していなくて、冠頭にも置かれていない場合は、項の出現順序が係り範囲を表してはいない」と解釈することです。

この方法は、定項をSkolem関数とする解釈について、以下のように表で説明したのと似た方法です:
https://mw.lojban.org/papri/gadri_の論理学的観点からの解説
に載せたこの表 
の一番上の {zo'u} 無しの xorlo の2つの行
{ro da broda lo brode}
{lo brode cu se broda ro da}
は、その下の行で示されたような2種類の {zo'u} 入り文
ro da lo brode zo'u ...
lo brode ro da zo'u ...
のどちらとしても解釈可能です。



以上のようなことは他のコミュニティやBPFKで議論されたことはないと思います。 ただ、「省略された項」については、 「{zo'e} ではなく {zi'o} と見なすべきで、それは定項か複数束縛変項である」という解釈案はあります。


mi'e la guskant
 
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