Cogas さんの見解に賛成します。
{tavla} と {vecnu} に関しては Ilmen さんと Cogas さんの意見に異存はないのですが、 gismu 定義一般の話に拡張すると、 sumti の順序や役割に対する改善案はたくさん挙げられています。
jbovlaste でも、gismuの英語定義(公式)とロジバン定義(非公式)に食い違いがあるものがあります。 例えば
{porsi} のロジバン定義は、 xorlo と呼ばれる公式の意味論的改良
を反映した意味に書き換え、さらに sumti の順序を使いやすいように入れ替えたものです。
{tunlo} を見ると、日本語や他のいくつかの言語の定義も、公式の英語定義ではなく非公式のロジバン定義に合わせて訳されていますね。これはそもそも公式の英語定義の打ち間違いで、 Notes に書いてある x2 が定義の方で欠落してしまっただけかもしれません。
また {jukpa} はロジバン定義が2種類あって、1つは公式の英語定義に合わせてありますが、もう1つは sumti の場所を追加したり順序を変えたりしていて、公式に対して反抗的な定義になっています(後者は私が提案した定義です)。
以上の例に見られるような定義の食い違いがあるのは、公式の gismu 定義の改訂が非常にゆっくりであるためだと思います(いったん決めたものはもう改定する必要がないという意見も多いです)。
それでは学習者として、どの定義に従うべきなのか、迷いますね。
この問題に対する私の考えは以下のようなものです:
---ここから---
gismuなどの内容語 (brivla) の意味は、話者が実際に使う事例が増えるにしたがって、だんだん正確に決まってくるものだと思います。
gismuの自然言語訳に合わせてsumtiの順序や型を調整するということは、自然言語の価値観が gismu の意味を束縛しているとも言えるわけで、そういう調整をしている時代は、ロジバンが独立した言語となっていない時代であると言えると思います。
現状では、ロジバンのgismu定義は英語が公式ですし、ロジバン定義も完成しておらず、sumtiの順序には使い勝手の点から調整すべき部分もあると思います。 つまり現代はまだ gismu の定義が調整されつつあって、 ロジバンが独立した言語となっていない時代だというのが、私の見解です。
こういう時代においては、実際に gismu を使う人が、自分にとって良いと思われる定義を選択して使っていくしかありません。 それを積み重ねることによって、 gismu の意味がだんだん正確に決まってきて、ロジバンが意味論的に他の言語から離れて、独立した言語として巣立っていくものだと思います。
---ここまで---
公式のものと異なる定義を使うことに決めた場合は、相手に意味を誤解されたり、「単語の使い方が間違っている」と思われたりするかもしれません。そういう事態を回避するには、ロジバンのバージョンを明示する COI類の {jo'au} を使う方法があります。
例えば
jo'au tamgau lojbo ne la jbovlaste [do'u]
などの句を発言のどこかに挿入しておけば、 jbovlaste のロジバン定義に従っているということが相手に伝わると思います。
mi'e la guskant mu'o