中国語の数量詞遊離についての論文を見つけました。以下のものです:
Miyagawa (1989) はおもしろい事実を指摘しているのですが,
上記の山口論文はきわめてデータである例文の適格性判断が疑わしいと思いました。
自発のMLなので,場違いかもと思ったのですが,
スルーしてくださっても構わないので,数量詞遊離に興味のある方は
ご発言ください。
(最近ちょっと自発関係がネタ切れかとも痛感しているので…)
野島本泰
まずは適格性の判断のご依頼です。
[1a] ×友達が新宿で田中先生に2人会った。(Miyagawa 1989:44)
[1b] ○友達が2人,新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
[1c] △友達が新宿で2人,田中先生に会った。(野島本泰の作例)
[1d] ○2人,友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
[1e] ○2人の友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
いかがでしょうか。
角田太作(2009:213-214):
--- 引用始まり ---
(8-113)に対応して,(8-114)から(8-116)までの様な言い方が出来る。(8-113)では数量詞「五人」は「の」によって名詞「学生」に結び付いている。しかし一旦「の」を消すと,数量詞は自由の身になって,あちこちに移動出来る。(但し動詞より前で。)この様な現象を数量詞遊離と呼ぶ(柴谷,他
1982:353-56)。
(8-113) 五人の学生が 昨日 図書館で 本を 読んだ。
(8-114) 五人 学生が 昨日 図書館で 本を 読んだ。
(8-115) 学生が 五人 昨日 図書館で 本を 読んだ。
(8-116) 学生が 昨日 五人 図書館で 本を 読んだ。
角田先生は語句X=主語には数量詞遊離という働きがある,と述べているように思えます。
いかがでしょうか。
でも,次の[1a]
[1a] ×友達が新宿で田中先生に2人会った。(Miyagawa 1989:44)
が不適格な文だとするなら,[1a]の「友達が」は何なのでしょうか?
ご教示ください。
野島本泰
2010年8月8日7:50 NOJIMA Motoyasu <nojima....@gmail.com>:
加藤です。
> [1a] ×友達が新宿で田中先生に2人会った。(Miyagawa 1989:44)
> [1b] ○友達が2人,新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
> [1c] △友達が新宿で2人,田中先生に会った。(野島本泰の作例)
> [1d] ○2人,友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
> [1e] ○2人の友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
私の判断だと、[1d]の適格性が少し下がるかもしれませんが、あとは同じです。
>
> [1a] ×友達が新宿で田中先生に2人会った。(Miyagawa 1989:44)
>
> が不適格な文だとするなら,[1a]の「友達が」は何なのでしょうか?
角田先生は遊離した数量詞がすべての環境でOKになるとは言っていないのでは?[1b] は誰が見ても適格だと思いますから、[1b] を根拠として [1a] の「友達」が主語の性質を持っていると主張することは可能ではないでしょうか。
加藤昌彦
>> [1a] ×友達が新宿で田中先生に2人会った。(Miyagawa 1989:44)
>> [1b] ○友達が2人,新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
>> [1c] △友達が新宿で2人,田中先生に会った。(野島本泰の作例)
>> [1d] ○2人,友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
>> [1e] ○2人の友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
> 私の判断だと、[1d]の適格性が少し下がるかもしれませんが、あとは同じです。
[1d]は話し言葉では普通にいってそうだと思ったのですが。
こういうのは,ふつう言語を記述する場合に,取りにくい種類のデータなので,
客観的な判断に困りますね。
角田先生の例だと:
(8-113) 五人の学生が 昨日 図書館で 本を 読んだ。
(8-114) 五人 学生が 昨日 図書館で 本を 読んだ。
(8-115) 学生が 五人 昨日 図書館で 本を 読んだ。
(8-116) 学生が 昨日 五人 図書館で 本を 読んだ。
このうち,(8-116)は僕はかなりだめなんですが,角田先生は一律に
扱っていますよね。このような現象が,仮にご自身の記述対象にしている
言語にあるとして,しかし,テキストには出てこない。どうしたらいいのでしょう。
>> [1a] ×友達が新宿で田中先生に2人会った。(Miyagawa 1989:44)
>>
>> が不適格な文だとするなら,[1a]の「友達が」は何なのでしょうか?
> 角田先生は遊離した数量詞がすべての環境でOKになるとは言っていないのでは?[1b] は誰が見ても適格だと思いますから、[1b] を根拠として [1a] の「友達」が主語の性質を持っていると主張することは可能ではないでしょうか。
しかし一旦「の」を消すと,数量詞は自由の身になって,あちこちに移動出来る。(但し動詞より前で。) (『世界の言語と日本語 改訂版』,213頁)
↓
「あちこちに」といっているだけで,「すべての環境で」とは言っていないですね,確かに。
とすると,「"1箇所に"でもいいから数量詞を遊離させられるならば,
その名詞句は主語だ」ということでしょうか。
野島本泰
> とすると,「"1箇所に"でもいいから数量詞を遊離させられるならば,
> その名詞句は主語だ」ということでしょうか。
はい、1箇所にでもいいから遊離できれば主語として認定し得る性質をひとつ持つと私は理解していました。そもそもどんなことろにでも置くことが可能な遊離数量詞というのはあるのでしょうか?
>>> [1d] ○2人,友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
>> 私の判断だと、[1d]の適格性が少し下がるかもしれませんが、あとは同じです。
> [1d]は話し言葉では普通にいってそうだと思ったのですが。
確かに言いますね。すみません。文字になってしまうとなんだか変に見えます。これはどうしてでしょうね?
加藤昌彦
>> とすると,「"1箇所に"でもいいから数量詞を遊離させられるならば,
>> その名詞句は主語だ」ということでしょうか。
> はい、1箇所にでもいいから遊離できれば主語として認定し得る性質をひとつ持つと私は理解していました。そもそもどんなことろにでも置くことが可能な遊離数量詞というのはあるのでしょうか?
その理解=「1箇所にでもいいから遊離できれば主語として認定し得る性質をひとつ持つ」
でよいみたいです。ただ,「主語として認定し得る性質をひとつ持つ」の「ひとつ」は,
(a)尊敬語の動詞の先行詞になれる,
(b)再帰代名詞の先行詞になれる,
(c)継続の「ながら」
(d)数量詞遊離
の四つのうちの「ひとつ」という意味ですよね?
ところで,次の5つの文:
[1a] ×友達が新宿で田中先生に2人会った。(Miyagawa 1989:44)
[1b] ○友達が2人,新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
[1c] △友達が新宿で2人,田中先生に会った。(野島本泰の作例)
[1d] ○2人,友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
[1e] ○2人の友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
の中で,[1a]だけが不適格なのはどうしてか?というのは記述言語学者は
回答しなくてもいいんでしょうか。
僕はこれ,前からずっと疑問に思っていることの1つなのです。
>>>> [1d] ○2人,友達が新宿で田中先生に会った。(野島本泰の作例)
>>> 私の判断だと、[1d]の適格性が少し下がるかもしれませんが、あとは同じです。
>> [1d]は話し言葉では普通にいってそうだと思ったのですが。
> 確かに言いますね。すみません。文字になってしまうとなんだか変に見えます。これはどうしてでしょうね?
「ことばを読む」という言語行為と,「ことばを聞く」という言語行為は,
本質がまったく違う,ということでしょうかね。
野島本泰
>>>>> Long Sun, 8 Aug 2010 11:06:33 +0900
>>>>> long atikol: [Re: 中国語の数量詞遊離についての論文]
>>>>> nojima....@gmail.com(NOJIMA Motoyasu) i tok:
野島> 昌彦さん,皆様
>> とすると,「"1箇所に"でもいいから数量詞を遊離させられるならば,その
>> 名詞句は主語だ」ということでしょうか。
> はい、1箇所にでもいいから遊離できれば主語として認定し得る性質をひとつ
> 持つと私は理解していました。そもそもどんなことろにでも置くことが可能
> な遊離数量詞というのはあるのでしょうか?
野島> その理解=「1箇所にでもいいから遊離できれば主語として認定し得る性
野島> 質をひとつ持つ」でよいみたいです。ただ,「主語として認定し得る性
野島> 質をひとつ持つ」の「ひとつ」は,
揚げ足とりにならないと良いのですが、日本語の數量詞は目的語でも遊離しま
すよね。例はなんでもいいんですが、いちおう:
・鉛筆を五本買つた。
・人を三人殺した男。
千田俊太郎拜
千田俊太郎さんが参加しました。パプア諸語,特にドム語と,トク・ピシン,朝鮮語,
麻雀用語など幅広く探求されています。
>>> とすると,「"1箇所に"でもいいから数量詞を遊離させられるならば,その
>>> 名詞句は主語だ」ということでしょうか。
>> はい、1箇所にでもいいから遊離できれば主語として認定し得る性質をひとつ
>> 持つと私は理解していました。そもそもどんなことろにでも置くことが可能
>> な遊離数量詞というのはあるのでしょうか?
> 野島> その理解=「1箇所にでもいいから遊離できれば主語として認定し得る性
> 野島> 質をひとつ持つ」でよいみたいです。ただ,「主語として認定し得る性
> 野島> 質をひとつ持つ」の「ひとつ」は,
> 揚げ足とりにならないと良いのですが、日本語の數量詞は目的語でも遊離しま
> すよね。例はなんでもいいんですが、いちおう:
> ・鉛筆を五本買つた。
> ・人を三人殺した男。
基本的事実だからおさえておいたほうがいいですね。その話のついでだと,
(8-118) 私は 昨日 パーティーに 三つ 行った。
などもありますね(『世界の言語と日本語 改訂版』214頁)。あと,
(8-185) 私は 通行人に 三人 ぶつかった。
もよく知られている例ですよね(我が家では「つのだ文」と呼んでいます)。角田先生の
ジャッジだと,「通行人」の例は適格なのに,次の「学生」の例だと不適格。
こんなことをしていてむなしくならないのかなと思います。
(8-191) *私は 学生に 三人 本を 送った。
野島啓介氏(男性,5歳)の判断だと:
(8-185K) 僕は お友達に 三人 ぶつかった。(啓介氏「いいと思う」)
(8-191K) *僕は お友達に 三人 おもちゃを あげた。(啓介氏「変だと思う」)
確かに角田先生と同じみたいですね。なぜでしょうか。
野島本泰
> 基本的事実だからおさえておいたほうがいいですね。その話のついでだと,
>
> (8-118) 私は 昨日 パーティーに 三つ 行った。
>
> などもありますね(『世界の言語と日本語 改訂版』214頁)。あと,
>
> (8-185) 私は 通行人に 三人 ぶつかった。
>
> もよく知られている例ですよね(我が家では「つのだ文」と呼んでいます)。角田先生の
> ジャッジだと,「通行人」の例は適格なのに,次の「学生」の例だと不適格。
> こんなことをしていてむなしくならないのかなと思います。
>
> (8-191) *私は 学生に 三人 本を 送った。
Tsujimura, Natsuko. (1996) An Introduction to Japanese Linguistics. Blackwell.
には
花子が犬に三匹えさをやった。
っていう例文が挙がっていました(p.193)。
この辺の「に格名詞句」からの「遊離」は,皆さんは適格性はどのように判断なさいますか?
野島本泰
船に三艘乗せた
はどうでしょうか。これは湯川恭敏先生の『言語学』という本に出てくる例です。
野島本泰
2010年8月13日3:23 NOJIMA Motoyasu <nojima....@gmail.com>:
(8-185) 私は 通行人に 三人 ぶつかった。
という「つのだ文」ですが,たとえば,
(8-185b) アメリカ人は 中国人に 三人 ぶつかった。
などとしても許容される文ができるということになりますが,いかがでしょうか。
この(8-185b)は僕の判断では「アメリカ人三人は」の意味にも,「中国人三人に」
の意味にもならなくて,不適格な文です。どうでしょうか。
野島本泰
2010年8月8日11:40 NOJIMA Motoyasu <nojima....@gmail.com>: