いい説明のできるできる方、いらっしゃいますか。
また、同じパターンの(つまり、同族の)表現って存在
しますか?
Koji Hishinuma
大辞泉の「負けず嫌い」の項には《「負け嫌い」「負け
じ魂」などの混同からか》との注記がありました。初出
文献などの情報はありません。
> また、同じパターンの(つまり、同族の)表現って存在
> しますか?
以前探したときには見つかりませんでした。
--
太田純(Junn Ohta) (株)リコー 販事本S計画C NWS計画室S開G
oh...@src.ricoh.co.jp/JCF0...@nifty.ne.jp
「負け嫌い」「負ける嫌い」という言葉が「負けじ魂」「食わず嫌い」などの影響を
受けて変化したのではないでしょうか。
「私は我侭者の常として、見栄坊の、負け嫌いだったから」(二葉亭四迷『平凡』)
「ある官員の子に雪雄といふ可愛らしい十歳ばかりのがあった。・・・負ける嫌ひの
ものだから、随分よく励む」(幸田露伴『日ぐらし物語』)
enochan
e...@chan.ne.jp
> 「負け嫌い」「負ける嫌い」という言葉が「負けじ魂」「食わず嫌い」などの影響
を
> 受けて変化したのではないでしょうか。
だとしたら、言葉の発生順(あるいは普及順)は、「負けじ魂」、「食わず嫌い」、
「負けず嫌い」になるということでしょう。「食わず嫌い」も「負けず嫌い」と全く
同じ
「不思議さ」を内容的に含んでいますからね。だとしたら、「負けじ魂」が生みの親
ということになりますが、この親子、あんまり似たないと思いません?「魂」と「嫌
い」
は音節のつくりも違うし、意味も全然似ていません。「じ」と「ず」も一致していま
せん。
さらに新説をお持ちの方いらしゃいませんか。
-------------------------------------
Name: 菱沼恒治 (Koji Hishinuma)
E-mail Address: hish...@syd.odn.ne.jp
-------------------------------------
私の説はこうです。
まず、
「負けず嫌い」の「ず」は否定の助動詞ではありません。
否定の「ズ」が「ニス」の約とすれば、ここでの「ズ」は、意思・決
意を表わす「ムズ」を経てきた約音形です。約音の流れをざっと
示せば、
「ムトス」→「ムズ」→「ウズ」→「ズ」
となります。
「ムトス」は、推量の助動詞「ム」に格助詞「ト」とサ変動詞「ス」
が結合したもので、動詞の未然形に付いて意思や勧誘の意を
表わすものです。「ウズ」は室町時代には「ウ」と共に多用され
ていたものの、江戸期に入ってから急激に勢力を失い消滅の
途をたどりますが、地方の方言にはさらに転じて「ズ」の形で
残りました。
この用法は現在も主に中部地方の方言に残っています。すな
わち、甲斐、信濃、飛騨、遠江、三河、尾張、山梨県などの地
方です。少し例を挙げれば、
1)「寝ず」(寝よう)/意思……静岡県
2)「この花あみず」(見よう)/意思……山梨県
3)「いかずか」(行きましょう)/勧誘……山梨県
4)「けいらずは」(帰りましょう)/勧誘……長野県
5)「寒からず」(寒いだろう)/推量……岐阜県
などです。この「ズ」はまた、「ス」、「ズイ」、「ズン」などにも変
形した例が採取されています。
したがって、この意思・決意の助動詞「ズ」(連体形)を含んだ
「負けず嫌い」の意味は、「負けるだろうと思うことさえも嫌い」
というほどの意味です。
「負け嫌い」を単に「負けるという結果が嫌い」とすれば、「負け
ず嫌い」は、勝負に臨む以前に強い勝気な性格を表現してい
るといっていいかもしれません。
これは余談ですが、このことば「負けず嫌い」に付されている
国語学者の解釈や「参考意見」は、大きな国語辞典ですらひ
どいものだと思います。
________
kentaro@tokyo
> したがって、この意思・決意の助動詞「ズ」(連体形)を含んだ
> 「負けず嫌い」の意味は、「負けるだろうと思うことさえも嫌い」
> というほどの意味です。
しかし、「負けるだろうと思うことさえも嫌い」と「負けようとする
意志をもつことが嫌い」との間には意味的な差が相当あるよう
に思われます。「ず」が「意志」を表すとするなら、「負けず嫌い」
は「わざと負けようとするなんて論外だ。そんな消極的な態度で
勝負に臨むなんて嫌だ。」という意味を持つとすべきでしょう。
ところが、通常「負けず嫌い」は、たんに負けることが大嫌いだ、
勝気だ、ということしか意味しません。
以上の点が少し、引っかかる点です。でも、「負けじ魂」からの
類推から、「負けず嫌い」という表現が生まれた、とする説より
健太郎さんの意見の方がずっと説得力があると思います。
上記の疑問に対するいい答えをお持ちの方いらっしゃらないで
しょうか。
議論に加わる実力がなく、次にいうことがヒントになる
かも分かりませんが、
>> しかし、「負けるだろうと思うことさえも嫌い」と「負けようとする
>> 意志をもつことが嫌い」との間には意味的な差が相当あるよう
>> に思われます。「ず」が「意志」を表すとするなら、「負けず嫌い」
>> は「わざと負けようとするなんて論外だ。そんな消極的な態度で
>> 勝負に臨むなんて嫌だ。」という意味を持つとすべきでしょう。
>> ところが、通常「負けず嫌い」は、たんに負けることが大嫌いだ、
>> 勝気だ、ということしか意味しません。
(中略)
>> 上記の疑問に対するいい答えをお持ちの方いらっしゃらないで
>> しょうか。
◯ 現代語の「(よ)う」は確か古典の「む」と系統的に関係があり
ますよね?
◯ 現代語の「未然形+(よ)う」という「意志形」も意志だけでな
く、例えば、
「(1......)しようものなら(2......)」というパターンは基
本的に2の部分を排除・否定するようですね?
「あろうことか」は「ある」ことを否定するニュアンスがあり
ますね?
「負けようものなら嫌いだ」はおかしいですか?もし許容でき
るものなら、何かがいえそうです。
------
王
議論に加わる実力がなく、次にいうことがヒントになる
かも分かりませんが、
>> しかし、「負けるだろうと思うことさえも嫌い」と「負けようとする
>> 意志をもつことが嫌い」との間には意味的な差が相当あるよう
>> に思われます。「ず」が「意志」を表すとするなら、「負けず嫌い」
>> は「わざと負けようとするなんて論外だ。そんな消極的な態度で
>> 勝負に臨むなんて嫌だ。」という意味を持つとすべきでしょう。
>> ところが、通常「負けず嫌い」は、たんに負けることが大嫌いだ、
>> 勝気だ、ということしか意味しません。
(中略)
>> 上記の疑問に対するいい答えをお持ちの方いらっしゃらないで
>> しょうか。
◯ 現代語の「(よ)う」は確か古典の「む」と系統的に関係があり
ますよね?
◯ 現代語の「推量形+(よ)う」という「意志形」も意志だけでな
まず、「推量」と「意志」に関してですが、「負けず嫌い」に含
まれる「ず」の部分が、「意志」というより、「推量」の意味を
もっていたとしましょう。すると、「負けず嫌い」は、「負ける
だろうことが嫌い。」といった意味を持つことになります。
これは意味的に現代慣用句の「負けず嫌い」の意味に相当
近いといえます。
ですから、あとは「ず」が「推量」の意味で用いられている例
を多く見つければ、健太郎さんの説はしっかりした根拠を
持つことになると思います。健太郎さんのあげられた例には
>5)「寒からず」(寒いだろう)/推量……岐阜県
という方言の一例しかありませんし、「ず」に「意志」の意味があ
るという点に力点がおかれていたものですから、前回のような
疑問を提示したのです。以上は前回の投稿の補足のようなも
のです。
ところで、王さんははっきりとはおっしゃってはいませんが、
「「む」「よう」「う」といった言葉は時に「意志」を、時に「推量」
を表すのだから「ず」にも同様の可能性があるのではないで
すか。そうだとしたら辻褄が合ってきますよ。」ということをおっ
しゃりたいのだと思います。私もその点は全く同感です。
だからこそ、上の様に書いたのです。
さらに、健太郎さんの意見が的を得ていることを示す好例が
あります。enochan から「食わず嫌い」という慣用句(?)を上げ
てもらいましたが、この文章は「食べることが嫌い」という意味
ではなく、「ある特定の食べ物に対して、食べようという意志を
もたない。(先入観等が原因で)食べようとしない。」という意味だ、
とだれもが直感的に知っています。そこで、「ず」を「意志」とみな
すと「食べず嫌い」は「食べようとしない、食べようという意志をも
つことを嫌がること」を意味することなり、見事に説明がつきます。
なんだか今日はぐっすり眠れそうです。みなさんいろいろ意見を
ありがとうございます。異論のある方はどんどんそれをぶつけて
下さい。なお、王さんの以下の文、
> 「(1......)しようものなら(2......)」というパターンは基
> 本的に2の部分を排除・否定するようですね?
> 「あろうことか」は「ある」ことを否定するニュアンスがあり
> ますね?
は的を得ていないと思います。「的を得ていない」というのは、
まず、(2)の部分を否定しないような文はいくらでもある(例えば
「遅刻しようものなら、大変だ。」)し、また、「しようものなら、」
という表現の話をここでしているわけではないので、関連性の
ない表現を話題にされている、という二点においてです。
「あろうことか」も同様です。「あろう」「しよう」の部分に限って
話をしないと、指摘が irrelevant (文脈から逸れて、関係のな
い状態)になってしまうと思います。
では、今日はこの辺で。みなさん、お休みなさい。
> は的を得ていないと思います。「的を得ていない」というのは、
的は射るものです。
--
~~~~~~~~~~~~~~~~
天狗のとおめがね
~~~~~~~~~~~~~~~~
Koji Hishinuma wrote in message...
>しかし、「負けるだろうと思うことさえも嫌い」と「負けようとする
>意志をもつことが嫌い」との間には意味的な差が相当あるよう
>に思われます。「ず」が「意志」を表すとするなら、「負けず嫌い」
>は「わざと負けようとするなんて論外だ。そんな消極的な態度で
>勝負に臨むなんて嫌だ。」という意味を持つとすべきでしょう。
>ところが、通常「負けず嫌い」は、たんに負けることが大嫌いだ、
>勝気だ、ということしか意味しません。
そうですね。
意思・決意の助動詞「ズ」、というのは型どおりの文法用語をあ
て嵌め過ぎていたかもしれません。
こう考えてはどうでしょうか。
「ムトス」>…>「ズ」
として、「負けず嫌い」を「負けむとす + 嫌い」と敢えて置きます。
助動詞の用法からは原義の意味は保たれているようですから、
この「負けむとす」の「む」と「す」の解釈がカギのような気がしま
す。のちに、ムトス>ムズと助詞「ト」が脱落したのは、助動詞と
サ変の二つが相互に強い意味を持ちあっていたからではない
かとも思います。
確かに、「負けむとす」=負けようとする、と訳してしまうと、これ
は不思議な表現です。
そこで、「む」と「す」の用法を併せて、こう考えてはどうでしょう。
むとす=「む」(推量)+「と」+「す」(サ変動詞)
と見て、「負けむとす + 嫌い」を次のように解釈します。
*
勝負における自分の局面が不利になる事態を推し量って、負け
るだろうと想像する(「ス」)、そのこと が + 嫌い
*
なのだと。
________
kentaro@tokyo
>
> したがって、この意思・決意の助動詞「ズ」(連体形)を含んだ
> 「負けず嫌い」の意味は、「負けるだろうと思うことさえも嫌い」
> というほどの意味です。
ううん、なるほど。
健太郎さんに一票かしら。
もし、この説が正しいなら、「問わず語り」は「こっちから尋ねて
もいないのにべらべらしゃべり出した」というニュアンスではな
く、「聞こうと思ったら向こうから語り出した」というような感じで
しょうか。わたしの語感にはこの方がぴったりきます。
「やらずぶったくり」なら「自分からは何も出さず奪っていく」の
ではなく「やろうとしたら(あるいはそれより先に)持ってっちゃ
った」となるのでしょうか。この場合は、わたしの語感には前者
が合います。でも後者でも意味は通じています。
「やらずぶったくり」->「やらむ(と)す (b)うち 手繰り」
ただ、ほかの方も指摘されていたように、実証例が今のところ
豊富とはいえないでしょう。そこで、たとえば、否定の「ぬ」は
あっても打ち消しの「ず」がない方言の中に「負けず嫌い」に類
するい言い回しが発見できれば、かなり、有力な証拠になるの
ではないでしょうか。
たとえば、奄美、沖縄の多くの地域では打ち消しの「ず」が使わ
れていないようなので(わたしの個人的な推測ですが)、調査の
候補にはよさそうです。
ひとつ、教えてください。
> 否定の「ズ」が「ニス」の約
これは、一般的に受け入れられている説なのでしょうか?
「ニス」の「ニ」はどんな語なのでしょうか?
いっそのこと打ち消しの「ず」も「ムトス」に再構成してみてはどう
でしょう。「~であろうとする」ということは裏を返せば、「~ではな
い」ということになりませんか。
もし、そうなら「負けず嫌い」の「ず」は「ず」が否定の意味になる
以前の古い用例を伝えている、ともいえることになるのですが。
> 的は射るものです。
> ~~~~~~~~~~~~~~~~
> 天狗のとおめがね
>
> ~~~~~~~~~~~~~~~~
遠眼鏡さん、ご指摘ありがとうごさいました。
でも、遠眼鏡さんは「マトヲイテイル」と言った
ことがありますか。「マトヲエテイル」とは数え
切れない程(?)、言った経験はお持ちだと
思います。それとも、「射る」と書いてエルと
読むのだ、と主張されるのでしょうか。
言葉にはそもそも理不尽な面があります。
それは無数の人間が基本的には言葉の決
まりごとを守りながら、かつ、「創造的」な
活動として言葉を操っているからです。そして
ある言語現象を「誤り」ととるか「変化」はと
とるかは、単に見方、価値判断の問題に過
ぎないでしょう。
もし、的は射るものだから、大半の人が「え
る」と言っているのに、「いる」としか言っては
はいけないとしたら、言語上の制約を相当
受けることになってしまいます。この点に関
してはいちいち、具体例をあげる必要なない
でしょう。感性の鋭い遠眼鏡さんなら、いくら
でも似た具体例にお気づきだと思います。
少し言い訳がましくなりましたが、どう思わ
れますか。
In article <8aamir$7gr$1...@nwms2.odn.ne.jp>,
"Koji Hishinuma" <hish...@syd.odn.ne.jp> writes:
>> 的は射るものです。
>言葉にはそもそも理不尽な面があります。
>それは無数の人間が基本的には言葉の決
>まりごとを守りながら、かつ、「創造的」な
>活動として言葉を操っているからです。そして
>ある言語現象を「誤り」ととるか「変化」はと
>とるかは、単に見方、価値判断の問題に過
>ぎないでしょう。
「的を射る」と「当を得る」を混同しているのを指摘されただけで、そ
んな大げさ言い訳をしなくても、、、
>もし、的は射るものだから、大半の人が「え
>る」と言っているのに、「いる」としか言っては
たまに「的を射る」と「当を得る」を混同している人(或はネットニュー
ズの記事)を見かけますが、混同していない人の方が多いでしょう。
--
片山@PFU
この部分のみフォローしますけれど、僕は『食わず嫌い』は『食
べてもいないのに嫌いだと言って食べない』ことだと思っていまし
た。つまり『食わず』にいるくせに『嫌い』だと。
「一度○○を食べさせてみたら美味しいと言って食べた。結局、食
わず嫌いだったんだ」
みたいな言い方を聞きますよね?
敷衍して、食べ物に限らず他のことにも使いますけど。
# 更に言うなら『的を得ている』は間違いで『的を射(い)ている』
# ですけど、これは他の方も指摘しているので置いておくとして。
で、このスレッドで『負けず嫌い』が『負け嫌い』と『食わず嫌
い』の混用から出たと読み、なるほどと得心した次第。僕としては
こちらに一票という感じです。
------------------------------------------------------------
蘭 死郎 Email shi...@pc.highway.ne.jp
WWW http://home3.highway.ne.jp/‾shirou/
安易に他人をなめたり決めつけたりすべきではないと思
いますが、いかがでしょう?
> もし、的は射るものだから、大半の人が「え
> る」と言っているのに、
私の経験では「まとをえる」という人はかなり少ないで
すよ。たしかな数字は挙げられませんが、感覚でいうと
10%未満かな。
でもその中に「最初は『える』だと思っていたけど他人
に指摘されたり自分で気づいたりして直した」という人
もいたので、誰からも直されなかったらもう少し数字が
増えるかもしれませんが...。
その説、うなずけます。
一票。
# だとしたら本来の「負け嫌い」が消えてしまった過程が知りたいですね。
--
::===========================================================
:: ■■さんぽ■■ <mue...@dddd.ne.jp> PostPet OK.
:: http://kobe.cool.ne.jp/mtakuma
:: PGP fingerprint: 42FC 4F53 2FB6 5810 1B1B 97A3 F166 2DE7
::===========================================================
Koji Hishinuma wrote <8aamir$7gr$1...@nwms2.odn.ne.jp>:
> 遠眼鏡さん、ご指摘ありがとうごさいました。
> でも、遠眼鏡さんは「マトヲイテイル」と言った
> ことがありますか。「マトヲエテイル」とは数え
> 切れない程(?)、言った経験はお持ちだと
> 思います。それとも、「射る」と書いてエルと
> 読むのだ、と主張されるのでしょうか。
自分が誤ったことについて遠眼鏡さんも誤るに違いないと決めつけるなんて、恥
ずかしくて生きるのが嫌になりませんか?
--
end
# <NAO> mailto:nao...@aa.mbn.or.jp
# http://plaza17.mbn.or.jp/%7Enaotosi/
> > でも、遠眼鏡さんは「マトヲイテイル」と言った
> > ことがありますか。「マトヲエテイル」とは数え
> > 切れない程(?)、言った経験はお持ちだと
> > 思います。
この言葉を覚えた頃、弓道部に所属していましたので、
「マトヲエテイル」とは言った経験はないと思います。
たまに、「マトヲエテイル」と言っている人を見かけますが、
「すみません」を「すいません」と言う人ほどには、多くない
と思います。こちらは、もう絶望的な状況です。
「済みません」と言っている人に出会うとホッとするくらいです。
林家三平が「どうもすいません」と言っていた頃は、顰蹙をか
っていたように思います。
古い話で「どうもすみません」
--
~~~~~~~~~~~~~~~~
天狗のとおめがね
~~~~~~~~~~~~~~~~
>もし、的は射るものだから、大半の人が「え
>る」と言っているのに、「いる」としか言っては
>はいけないとしたら、言語上の制約を相当
>受けることになってしまいます。
あなたのご存じの大半の人がなまってるんでしょうか?
“い”と“え”の混同は珍しいことではないですが、表記の間違いと
は別の話ですね。
>少し言い訳がましくなりましたが、どう思わ
>れますか。
いいわけになってないと思いますよ。
--
◎◎
ヘ )))))))彡
みなさん、こんにちは。
この表現に関して何が「普通」の言い方かに関する認識が
だいぶ違ったようです。ご指摘ありがとうございます。やっぱり、
これからは「射る」と言ったほうがよさそうなのでそうします。
Koji Hishinuma
Lan Shirouさん wrote:
> この部分のみフォローしますけれど、僕は『食わず嫌い』は『食
> べてもいないのに嫌いだと言って食べない』ことだと思っていまし
> た。つまり『食わず』にいるくせに『嫌い』だと。
私も同意見です。
『食わず』の“ず”は否定の意味ですよね。 Koji Hishinuma 氏の
以下の記述がよく判らなかったのですが、そのへんの理解の違いだった
訳ですね。
---Message-ID:<8a6huj$pq$1...@nwms2.odn.ne.jp>より引用-------------
Koji Hishinumaさん)
>> 「食わず嫌い」も「負けず嫌い」と全く同じ「不思議さ」を内容的に
>> 含んでいますからね。
======================================ここまで==================
別に「食わず嫌い」に不思議さは見出せないでしょう。
--
●-●
o ~♪ SaSam
「的を得る」という言葉は、「正鵠を得る」から
変化したものなんでしょうか。「正鵠」の場合、
「得る」でも「射る」でも良いようです。
---
「的を射る」と「当を得る」を混同してできたものでは
ないでしょうか?
ということは、やはり「的を得る」というのは
誤用ということになるわけですか。「正鵠」は
「得る」でも、「射る」でもいいようですが、
どうして「的」の場合は、「得る」はダメに
なっちゃうんでしょう?
#たしかに「的を得る」って、腑に落ちないけど。
---
> ということは、やはり「的を得る」というのは
> 誤用ということになるわけですか。「正鵠」は
> 「得る」でも、「射る」でもいいようですが、
> どうして「的」の場合は、「得る」はダメに
> なっちゃうんでしょう?
> #たしかに「的を得る」って、腑に落ちないけど。
的を射れば、得るのは得点です。(和弓は得点とは言わんかもしれんが)
それはさておき、正鵠も的の中心の黒い星のことですから、射るはわかるんで
すが、得るなんて表現があるんですか。とりあえず手もとの広辞苑には射るし
か載っていませんでした。
---
恵畑俊彦 "This unit is programmed to provide sources of
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『広辞苑 第四版 CD-ROM マルチメディア版』には見出しとして
「正鵠を得る」があり、説明の中に『「正鵠を射る」とも』、と
書いてありました。
『岩波国語辞典 第五版』には、使用例として「正鵠を射る」
「正鵠を得る」の両方が載っておりました。
---