三 結城の俳人・砂岡雁宕のことなど
『結城市史』所収「第四編宗教と文化」における「砂岡雁宕」についての記述は多くの頁を割いている。ここでは、それらに因ることなく、『故砂岡雁宕に
ついて』(昭和五十四年十月・雁宕句碑建立委員会)所収の「砂岡雁宕年譜」に、『今の月日』を編んだ常磐潭北や前回の「周午は雁宕の前号」(その七の二
「潭北の『今の月日』に登場する結城の俳人」)とを踏まえての項目を新たに付け加えて、その年譜を通しての「砂岡雁宕」像というものを見てみたい。
砂岡雁宕年譜(『故砂岡雁宕について(雁宕句碑建立委員会)』所収)
△=『結城市史』(「周午は雁宕の前号」として)のものなどを追加
□=潭北主要年譜などを追加
元禄末年(一七〇三)の頃 雁宕が生まれた。△雁宕の生年未詳。□巴人、二十八歳。潭北、二十七歳(巴人と潭北とは同年生まれの説もある)。
宝永二年(一七〇五)七月二十八日 雁宕の祖父・三右衛門宗春死す。「心誉宗無居士」。△俳号は立幸(古立志の門人)。
正徳三年(一七一三)十月十三日 服部嵐雪七回忌。追悼句集『菊いただき』出版に給仕した。△我尚・晋我の句が『菊いただき』に入集。
□享保元年(一七一六)潭北、四十歳。『汐越』(『汐こし』)刊行。
享保六年(一七二一)九月七日 雁宕の父我尚死す。三右衛門宗福。「禅誉宗阿証心居士」。
△我尚の享年三十九歳(逆算すると天和二年=一六八二年頃の生まれとなる。)
□同年(一七二一)潭北、四十五歳。『民家分量記』(内題「百姓分量記」)の稿成る。
□享保七年(一七二二)潭北、四十六歳。『今の月日』(『後の月日』)刊行。△周午(雁宕)・丁雅の句入集。
□享保九年(一七二四)潭北、四十八歳。『婦登故呂故』(『俳諧婦登古呂子』)の稿成る。
□享保十年(一七二五)潭北、四十九歳。『百華斎随筆』刊行。
□享保十一年(一七二六)潭北、五十歳。『民家分量記』(「百姓分量記」)刊行。
享保十二年(一七二七)五月十一日 雷堂高野百里死す。百里は仙台に茅風庵開く(百里の死後雁宕一時寄寓した)。△百里は高野氏。雷堂は庵号。△『綾
錦』(菊岡沾涼編)に俳諧宗匠として「潭北・我尚・周午(雁宕)」の名と句が入集。
享保十八年(一七三三)正月七日 雁宕の妹かね死す。中里丁雅の妻 享年二十五歳。
□同年(一七三三)潭北、五十七歳。『野総茗話』(「分量夜話」)刊行。
享保二十一年(元文元年・一七三六)・(四月二八日改元)春 雁宕は江戸俳壇革正の盟主に老師早野巴人を迎えるため京都へ上り、巴人に帰東を促す。
同年(一七三六)四月十七日 巴人主催で郢月泉一門が雁宕帰東の送別百韻を興行した。
元文二年(一七三七)四月十九日 早野巴人は愛弟子の雁宕の懇請によって京都を出発三十日に江戸へ着いた。月余常総の旧友知人を訪れた後江戸の石町に居
所を定む。夜半亭という。
□同年(一七三七)潭北、六十一歳。『民家童蒙解』刊行。
元文三年(一七三八)正月 巴人は江戸にて春を迎えた。当時宗阿または宋阿と改号す。居所に宰鳥(後の蕪村)が内弟子となっていた。
同年(一七三八)五月十日 宋阿一門が、下館の高峨(板谷氏)において百韻を興業した。 雁宕も参加した。
元文四年 (一七三九) 十一月 宋阿(巴人)編[其角・嵐雪三十三回忌追悼句集『桃桜』]が成る。雁宕も入集す。
元文五年(一七四〇)冬 雁宕は江戸へ老師の宋阿を訪れて後に宰鳥(宰町)伴い常陸へまわり、筑波山に詣うでて結城へ帰った。宰鳥も結城に越年し
た。
寛保二年(一七四二)六月六日 雁宕の老師・早野宋阿が江戸に死す。享年六十六歳。 雁宕、宰鳥と共に葬送した。雁宕は結城へ帰る。
同年(一七四〇)その秋 宰鳥は雁宕を慕って結城へ来る。これより宰鳥(蕪村)の結城時代始まる。
同年(一七四〇)その冬 宰鳥は雁宕の許を出立し奥羽旅行の途に就いた。
寛保四年(一七四四)正月(延享元年二月二十一日改元) 宰鳥は宇都宮の佐藤露鳩(雁宕の女婿)の許にて歳旦帳を編集す。宰鳥と蕪村とを併用した。
同年(一七四〇)初夏のころ? 蕪村は奥羽旅行を終え、結城の雁宕宅に宿っていた来合せた常磐潭北と仙台の埋れ木のことがある。
同年(一七四〇)七月三日 下野烏山の常磐潭北が死去した。享年六十八歳。雁宕の父我尚と俳友で、雁宕と蕪村と共にゆかり深かった。
延享二(一七四五)年正月二八日 早見晋我(北寿)が死去した。享年七十五歳。蕪村は晋我の死を哀惜し、追悼曲「北寿老仙をいたむ」を作った。明治新体
詩の祖源をなすもので、わが文学史上に新視野を開いた。
同年(一七四五)五月四日 雁宕の妹いね(稲)が死去した。「香顔芳薫大柿」。中村大済の妻。
同年(一七四五)十月十三日 俳人望月宋屋が奥羽旅行出向途上に結城へ釆て、雁宕、大済、宰鳥に連状を送った。結城一同は不在であった。
延享三年(一七四六)十月十八日 宋屋が奥羽旅行の帰途結城に再び訪れ雁宕と逢った 蕪村は不在で更に下館にも逢えなかった。
寛延元年(一七四八)十二月二十五日(延享五年七月十二日改元) 雁宕の母が死去した。「定誉澄阿映心大柿」。
宝暦元年(一七五一)(寛延四年十月二十七日改元)秋 雁宕は蕪村の西帰送別宴に餞けした 。
同年(一七五一)九月二十日 雁宕は常野地方の俳友を訪い吟行し宇都宮の佐藤露鳩の許に至り越年した。紀行文「雫の森」がある。
宝暦二年(一七五二)九月 雁宕は下総の境町・籍島阿誰と共に「反古衾」を編集した。
宝暦四年(一七五四)六月 雁宕は箱島阿誰、中村大済と共に「夜半亭発句集」を編集した。
宝暦八年(一七五八)六月六日 京都夜半亭一門が営行の旧師宋阿十七回忌に上京し参列する。
同年(一七五八)七月二十六日 雁宕の妹婿・中村大済が死去した。「節巌雄靖居士」。
宝暦十年(一七六〇)夏 雁宕は芭蕉翁の奥の細道を慕い奥羽旅行の途に就いた。
明和元年(一七六四)九月二十五日(宝暦十四年六月二日改元) 雁宕は羽後の象潟に到着した。
同年(一七六四)十二月十五日ごろ 雁宕は陸奥の弘前にいたらしい。
明和二年(一七六五)盆ごろ 雁宕は金成にいたようである。
同年(一七六五) 秋 雁宕は萩の名所宮城野に清遊した。
仙台の高野百里遺跡茅風庵に仮道場を開いた。
明和四年(一七六七)五月 雁宕は茅風庵道場を閉鎖した。
夏 雁宕は行旅十年ぶりに結城へ帰った。
明和八年(一七七一)五月 雁宕は大島蓼太の「雪おろし」に対して自著「蓼摺
古義」を以て俳論を開始した。わが国の三大俳論の一である。
安永元年(一七七二)十二月十五日(明和八年十一月十六日改元) 雁宕の俳友・箱島阿誰が死去した。享年六十二歳。「雅高梁能易道保居士」。
安永二年(一七七三)七月三十日 砂岡雁宕は死去した。「高誉雁宕堅樹居士」。
天明三年(一七八三)十二月二十五日 与謝蕪村が死去した。享年六十八歳。
天明五年(一七八五)七月三十日 雁宕十三回忌法要が営まれ追悼句集「たまつり易雄編」刊行。編集・ 冨高武雄。
砂岡雁宕の生年などは不詳である。『故砂岡雁宕について(雁宕句碑建立委員会)』によると、「元禄末年」として、元禄年間(一六八八~一七〇三)を表
示しつつ、「雁宕生まれた」としている。この元禄末年(十六年=一七〇三)とすると、巴人は二十八歳、そして、潭北は、二十七歳となり、雁宕と巴人・潭
北とは、それだけの年齢差があるということになる。そして、雁宕の父の我尚は、享保六年(一七二一)に享年三十九歳で亡くなっており、逆算すると天和二
年(一六八二)の生まれということになる。
先に(その五)、巴人・潭北・我尚の「江戸川三吟」について触れたが、我尚は、巴人・潭北よりも七歳程度年下ということになる。また、我尚が亡くなっ
たとき、雁宕は、二十歳に満たない、十八歳前後ということになる。
享保十二年(一七二七)の『綾錦』(菊岡沾涼編)によると、俳諧宗匠として「潭北・我尚・周午(雁宕)」の名が見られ、雁宕(周午)は、若干、二十四
歳の頃にして、我尚の名跡を継ぎ、結城俳壇の俳諧宗匠の一人に目せられていたということになる。
上記の年譜を見ていくと、俳人・雁宕の生涯というのは、大きく、次の三期に分かられるようである。
第一期[元禄末年(一七〇三)~享保十二年(一七二七)]
享保十二年(一七二七)の雷堂こと高野百里の死は、雁宕にとって大きな節目の年であった。
百里は、享保俳諧の時代にあって、三大俳人の「巴人・百里・琴風」の一人と目せられていて、雁宕は、百里の「茅風庵」の庵号を継いでおり、雁宕俳諧に大
きく影響を及ぼした俳人と言って過言でなかろう。この時期の俳号は、雁宕ではなく、その前身の周午の俳号ということであろうか。そして、百里の死などを
契機として、周午から雁宕の号へと改号した雰囲気でなくもない。
第二期[享保二十一年(元文元年・一七三六)~宝暦元年(一七五一)(寛延四年十月二十七日改元)]
元文元年(一七三六)には、雁宕は京に上り、「江戸俳壇革正の盟主に老師早野巴人を迎えるため」、「巴人に帰東を促す」という大きな節目の年である。
これに呼応して、元文二年(一七三七)に、在京十年余の巴人は愛弟子の雁宕の懇請によって京都を」を後にして、江戸にと再帰することとなる。江戸の日本
橋本石町に居所を定め、夜半亭を号した。翌、元文三年(一七三八)に、巴人は宗阿の号を宋阿と改号する。そして、その夜半亭宋阿の所に宰鳥(後の蕪村)
が内弟子となって入門してくる。時に、蕪村は二十二歳であった。そして、この頃から、雁宕と蕪村との江戸そして結城・下館・宇都宮を中心とする、いわゆ
る、蕪村関東出遊時代の交遊関係がスタートとしたということであろう。そして、この蕪村の関東出遊時代は、宝暦元年(一七五一)(寛延四年十月二十七日
改元)に、蕪村が京に再帰することにより終焉することとなる。この蕪村が京に再帰するときの。 雁宕の蕪村への餞別の辞が、雁宕らが編んだ『夜半亭発句
帖』の蕪村の「跋」文のなかに、明瞭に今に遺されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/59567727.html
[(『夜半亭発句帖(宝暦五年刊)』所収「跋」、宝暦四年推定)
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょ
うひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を
吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙も
ろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村 ]
第三期[宝暦二年(一七五二)~安永二年(一七七三) ]
蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)に、雁宕は常野総(茨城・群馬・下野・千葉の一部)地方を吟遊し、その紀行文を『雫の森』として上梓する。続
く、宝暦二年(一七五二)に箱島阿誰と共編して『反古衾』を、さらに、宝暦四年(一七五四)には、早野巴人十三回忌として『夜半亭発句帖』を箱島阿誰・
中村大済と共編し、世に問うこととなる。
これらの、今に遺る編著の上梓の後、宝暦八年(一七五八)には、京都夜半亭一門が営行の旧師宋阿十七回忌に上京し参列する。また、宝暦十年(一七六
〇)に、芭蕉翁らの奥の細道を慕い奥羽行脚を決行して、明和二年(一七六五)の頃まで、奥羽各地を巡遊し、仙台の高野百里遺跡茅風庵に俳諧仮道場を開
き、高野百里の俳諧を継嗣することとなる。そして、その茅風庵を明和四年(一七六七)に閉じて、京都巡遊を含めると十年余の行旅の果てに、結城に帰って
くる。まさに、西行・芭蕉・巴人・百里・潭北らに連なる漂泊の詩人という趣である。
そして、雁宕の最後の業績は、明和八年(一七七一)に始まる、江戸俳壇の巨匠・大島蓼太との俳諧論争である。この俳諧論争は、延享二年(一七四七)の
『江戸廿歌仙』に対し、蓼太が『雪おろし』を出して非難を加えたことに端緒がある。これに対して、第三者の立場に位置する雁宕は、『蓼摺古義』を刊行し
て反駁した。蓼太らは『遅八刻』を以て応戦する。続けて、蓼太側から『うつけ猿』を上梓したのに憤慨して、『俳諧三十棒』を出し、明和九年(一七七二)
には『一字般若』を以て酬いるというように、当時の俳諧論争史上に大きな話題を提供したのである。結城の砂岡雁宕という俳人は、天明俳諧の中心的俳人の
与謝蕪村の、その若き日の関東出遊時代を支えた人物として夙に知られているところであるが、単に、蕪村との関係だけではなく、享保俳諧、 そして、それ
に続く、天明俳諧の、その一躍を担った俳人として、忘れ得ざる俳人ということになる。砂岡雁宕が結城の地に没したのは、安永二年(一七七三)であるが、
京都にあって、五十八歳の老境期を迎えた与謝蕪村は、夜半亭一世宋阿(早野巴人)の後を嗣ぎ、夜半亭二世を襲名していた。そして、いみじくも、この雁宕
が亡くなった年に、「雁宕久しくおとづれせざりければ」との前書きを付しての次の一句を今に伝えている。
○ 有(あり)と見えて扇の裏絵おぼつかな 蕪村
(句意=何か描いてあるように見えてはっきりしない古い扇の裏絵のごとく、久しく会わない雁宕先達は、今頃どうしておられるのだろうか。雁宕と共にあっ
た昔のことが思い出されてならない。)