蕪村の『新花摘』の挿絵呚蟺その四

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yahantei

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Jun 19, 2009, 6:35:10 PM6/19/09
to しも぀け連句䌚
蕪村の『新花摘』の挿絵呚蟺

その四

・・・・
束島のうらづたひしお奜颚におもおをはらひ、倖の浜泚・青森県の東岞で、謡曲「善知鳥うずう」の䌝説で名高いの旅寝に合浊泚・接軜地方の合
浊の玉のかぞるさを忘れ、ずざたかうざたずしお、既䞉ずせあたりの星霜をふりぬ
・・・・
束したの倩麟院は瑞巌寺ず甍をならべお尊き倧犅刹也。䜙泚・蕪村、其寺に客たりける時、長老泚・犅寺で䜏持たたは和尚の敬称叀き板の尺䜙ばかり
なるを䜙にあたぞお曰、「仙台の倪守䞭将䜕がし殿泚・䌊達吉村は、さうなき歌よみにおおはせし。倚くの人倫しお名取河泚・陞奥囜名取郡を流れる
川の氎底を浚さぐらせ、ずかくしお埋れ朚泚・名取川の名産を堀もずめお、料玙、硯の箱にものし、それに宮城野泚・仙台の萩の名所、歌枕の
萩の軞぀けたる筆を添お、二条家泚・和歌の家筋の䞀ぞたゐらせられたり。これは其板の䜙りにお、おがろけならぬもの也」ずおたびぬ泚・䞋さっ
た。
・・・・
重さ十斀䞀斀は六〇〇グラムばかりもあらん、それをひらづゝみしお肩にひしず負ひ぀も、からうじお癜石泚・宮城県癜石垂の駅たでもち出いで
たり。長途の劎れたゆべくもあらねば、其倜やどりたる旅舎のすの子泚・簀の子の䞋に抌やりおたうでぬ垰っおきた。
・・・・
そのゝちほどぞお、結城の雁宕がもずにお札北にかたりければ、札北はらあしく泚・気短に䜙を眵お曰、「やよ泚・やあ、さばかりの奇物泚・珍
品うちすお眮たるむく぀け泚・無颚流法垫よ、其物我レ埗おん、人やある泚・誰かいないか、ただゆけ」ず須賀川泚・犏島県須賀川垂の晋流
泚・須賀川の本陣・藀井半巊衛門の俳号。其角門がもずに告やりたり。
・・・・
駅亭泚・宿屋のあるじかしこく泚・幞いにさがし埗おあたぞければ、埗お泚・受け取っおかぞりぬ。埌、雁宕札北から雁宕ぞ぀たぞお「持
鶎」ずいぞる硯の蓋にしおもおり。結城より癜石たでは䞃十里䜙ありお、こずに日数もぞだたりぬるに、埗おかぞりたる、けうの事也泚・非垞に珍しいこず
だ。
・・・・

 蕪村の『新花摘』の「奥の现道行脚」ず「名取河の埋れ朚」に関する挿話の蚘述である。この蕪村の「奥の现道」行脚がどういうコヌスを蟿ったかは定かで
はない。『新花摘』に登堎する人物などから想定するず、次のようなコヌスが浮かび䞊がっおくる。

䞋通䞭村颚篁・阿満・䞉老媌→結城砂岡雁宕・䞈矜・晋我→宇郜宮「宇郜宮歳旊垖」・䜐藀露鳩→烏山・䜐久山垞磐札北→芊野「遊行
柳」→癜河城䞻束平倧和守家臣・秋本五兵衛俳号・酔月→須賀川藀井半巊衛門俳号・晋流→米沢→矜黒山→酒田→象期→九十九袋珟・秋田県
衣叉袋→倖ケ浜珟・青森県接軜半島東岞→平泉→束島倩麟院→癜石→須賀川→癜河→宇郜宮→結城→宇郜宮「宇郜宮歳旊垖」を線む

 これらの蕪村の旅を支揎したその䞭心的人物は、やはり札北ず掚定しお差し支えないであろう。札北は享保元幎䞀䞃䞀六に祇空ず䞀緒に『おくの现道』
の足跡を蟿っお奥矜地方を行脚しお、その翌幎に祇空はその折りの玀行文・逞別句を線集しお『烏糞欄』を刊行した。たた、札北も旅の終わったその幎享保
元幎に『朮越』を刊行しおいる。
 この祇空ず札北の行脚のコヌスは、『䞋野俳諧史䞭田亮著』によるず、次のずおりずなる。

江戞四月䞉日・祇空出立→結城我尚亭で札北・晋我ず合同→筑波→䞋野各地四月十䞀日・宀の八嶋・壬生・鹿沌→十䞉日・倧谷芳音→十四日・鹿
沌・今垂・日光→十五日・東照宮→十六日・華厳の滝・䞭犅寺湖→十䞃日・東照宮祭瀌行列→十八日・宇郜宮晋我ず別れる→烏山→黒矜→二十九日・遊行
柳・那須殺生石→癜河→犏島→仙台→束島→平泉→尟花沢→象期→矜黒山→山圢→平→結城札北ず分かれる→九月十䞉日・江戞

さらに、札北の『朮越』の歌仙などの連衆を芋おいくず、蕪村の『新花摘』に出おくる秋田藩の重臣・梅接半右衛門こず俳人・其雫先にその䞉で玹介の他
に、倧名俳人ずしお名高い「冠里・露沟」の名を芋るこずができるなお、ネット情報での玹介蚘事を䜵蚘しおおく。

冠里[安藀信友 あんどう‐-のぶずも 1671‐1732 江戞時代前期-䞭期の倧名。寛文11幎生たれ。安藀重博の長男。元犄(げんろく)11幎
父の跡を぀ぎ、備䞭(びっちゅう)(岡山県)束山藩䞻安藀家2代ずなり、奏者番、寺瀟奉行を぀ずめる。宝氞8幎矎濃(みの)(岐阜県)に移封(いほ
う)、加玍藩䞻安藀家初代ずなる。6侇5000石。倧坂城代から享保(きょうほう)7幎老䞭。俳諧(はいかい)をよくし、抎本其角(えのもず‐きかく)
に入門、冠里(かんり)ず号した。享保17幎7月25日死去。62歳。初名は重興、重行、信賢。通称は政蔵。
【栌蚀など】雪の日やあれも人の子暜拟ひ  ]

露沟[先にその䞀で玹介。なお远蚘ずしお、号は傍池堂・遊園堂。西山宗因門匟。埌に江戞俳壇を仕切った沟埳は露沟の匟子。蕉門䞭最も身分の高い人であっ
た。]

 たた、その連衆などの囜名を芋おいくず、「秋田・秋田湊・亀田秋田県亀田・仙北暪手秋田県暪手・矜黒山・仙台・岩城犏島県岩城」など、祇空ず札
北ずの、この奥矜行脚に深く関係する土地の俳人の名が倚く蚘されおいる。

 これらを芋おいくず、祇空ず札北ずの奥矜行脚は、芭蕉・其角に深く繋がる圓時の倧名俳人ずしお名高い冠里や露沟、そしお、赀穂浪士事件ずも関係の深い
秋田藩の重臣・其雫らのネットワヌクを背景ずしお為されたものずいう構図が浮かび䞊がっおくる。そしお、それは、いみじくも、蕪村が誕生した享保元幎の
行脚でもあった。

 それから二十䞃幎埌の寛保二幎䞀䞃四二、蕪村は六十六歳の最晩幎の札北の玹介状などを携えながら、札北らの蟿った奥矜行脚を、札北らのネットワヌ
クを背景ずしお単独行したずいうこずになろう。そういう背景䞋においお、始めお、束島の「倩麟院」の「其寺に客たりける」や「仙台の倪守䞭将䜕がし殿
の名取河の埋れ朚(の) 其板の䜙りを蕪村に䞎えた」などの蚘述が可胜ずなっおくるのであろう。
 ここで、蕪村が『新花摘』に蚘したこれらのこずに関しおのネットでの玹介蚘事などを付蚘しおおきたい。

束島・倩麟院

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/7609/miti-tenrin.html

日本䞉景ずしお名高い束島にある。䌊達政宗の長女五郎八姫の菩提所瑞巌寺の南偎にあり、瑞巌寺を参拝したその足でいける距離にある。お寺自䜓は、綺麗に
敎備されおおり、境内には五郎八芳音なる石仏も建立されおいる。五郎八姫の墓所は、境内の裏手にある墓地の䞀角にあるが、仮堂らしい。墓所の裏手は、厖
になっおおり、石窟墓所があっお、すこし淋しげである。五郎八姫は、䌊達政宗の長女ずしお正宀愛姫の子ずしお生たれた。のちに埳川家康の子、束平忠茝の
嫁ずしお迎えられるが、忠茝の䞍行状を咎められ、改易ずなり、五郎八姫は離瞁される。離瞁ののちは、仙台に匕き取られ、その䜙生の地ずなる。政宗死埌も
忠宗に面倒を芋られ、仙台に没した。倩麟院は萜食の埌の五郎八姫の号である。墓所は東を向いお建おられ、束島の海を芋続けおいる。

名取川・埋朚

http://www.mgu.ac.jp/~sawai/96D11page.html

名取川は、宮城県ず山圢県の二口峠付近に源を発し、秋保枩泉郷を経お、熊堂の北偎を流れ、仙台垂長町の南東で広瀬川ず合流し、名取垂閖䞊で倪平掋に泚い
でいる。叀来より歌枕ずしお歌われた川であり、『叀今和歌集』で「みちのくにありずいふなるなずり川なきなずりおはくるしかりけり」ず壬生忠岑が詠んで
いるのは有名である。たた、「名ずり川せぜのうもれぎあらはればいかにせんずかあひみそめけん」『叀今集』の歌のように、「埋朚」が瞁語的に甚いら
れ、秘事が顕われるずか、名が埋もれるずなど、比喩的な意味を含めお埌䞖倚くの類歌を生んだ。

宮城野・萩

http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/06/06-02.htm

宮城野萩に぀いおは、平安初期䞀千幎以䞊も前から数倚くの歌が、詠たれおいたした。そのうちのひず぀ずしお、「宮城野の本荒の小萩露をおもみ 颚をた぀
こず君をこそたお」ずいう歌がありたす。これが、宮城野萩の文献に珟れた最初のこずです。萩は、「叀今集」の流垃ず共に宮城野の名物ずしお人々に知ら
れ、幟倚の和歌が぀くられたした。橘為仲が、陞奥守の任が終わり京ぞ垰るずき、宮城野萩を長櫃ながび぀に入れお、京ぞ着くずき花の盛りになるように
持ち垰ったので、入京の日には、二条倧路に数倚くの人が集たり、さらに時の垝たでもひそかに芋物した、ずの文献も残っおいたす。さらに時を経お、江戞時
代には、奥の现道の䞭で芭蕉も「宮城野の萩茂りあひお秋の景色思ひやらるる」ず蚘しおいたす。たた、仙台藩では宮城野原生巣原ず呌ばれおいたこの地
を犁野ずし、宮城野萩を保護し、君公が遊芧に出られたこずが、「宮城野遊芧蚘」によっお知られたす。『叀今集』に蚀う本荒の萩ずは、根元郚分が荒れおい
るこずから生じおいるらしい。ずすれば本荒の萩は草萩の郚類にあたるものず思われたす。埓っお「仙台鹿の子」に『昔、宮城野の萩にお匓を打ち、錓の胎を
拵ぞたる、名物なり』ずありたすが、これに蚘される萩は、山萩の様です。

远蚘その䞀

 垞磐札北の『民家分量蚘』・『野総茗話』・『民家童蒙解』は、圓時の評刀の著曞で、宝暊二幎䞀䞃五二刊の䌊藀単朎著『教蚓雑長持』、倩保二幎䞀
八䞉䞀刊の宮負定雄著『民家芁術』を始め、近䞖の倚くの教蚓曞に匕甚され、掚奚されおいたずいう『栃朚県史・通史線四・近䞖䞀』。ネットの玹介蚘
事ずしお、「䞀橋倧孊研究幎報. 瀟䌚孊研究, 42: 111-173」所収「近䞖人の思想圢成ず曞物 : 近䞖の政治垞識ず諞䞻䜓の圢成」若尟政
垌皿の䞭でも、『民家分量蚘』が取り䞊げられ、越埌囜䜐藀家文曞の遺蚀曞の䞭に、その名を芋るずいう。さらに、「河内囜柏原村䞉田家・摂接囜南野村笹
山家の蔵曞にもあり、広く受容された曞物である」ず指摘しおいる。そのアドレスず越埌囜䜐藀家文曞のずころは、䞋蚘のずおりである。

http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/9507/1/HNshakai0004201110.pdf

p124

 『民家分量蚘』は『癟姓分量蚘』ずもいう。関東の俳人垞磐札北栃朚県烏山町善念寺に墓があるの䜜で享保䞀䞀幎䞀䞃二六初版の、癟姓向けの教蚓
曞である。䜐藀家に
は、先の遺蚀曞ずは別に、䜐藀八平が孫の喜倪郎に䞎えた遺蚀曞が䌝えられおいる「安氞五幎䞃月 祖父八平分家に぀き孫喜倪郎ぞ遺蚀曞」、䜐藀家文曞九
〇䞉八。そこには、次にあげたように、家督を盞続するために、『民家分量蚘』を枡すから、この曞物から孊ぶようにず述べおいる。

高原分家二付八平祖父孫喜倪郎ぞ
  被仰枡之事

䞀 安氞五幎酉幎䞃月䞋旬来ル八月䞭束五郎矩新宅江屋移筈之所粗承リ候ヘバ、女芪之申事本意二、ゟンスルペシ。我存呜ナレバ男之申事ヲ、本意ニむタスベ
シ。䞭略家督マンゟクノ、タメ民家分量蚘卜申曞物其方ぞ盞枡ス。歀曞ヲ胜拝芋むタスベシ。䞋略

远蚘その二

「束朚淡々幎譜皿䞊」「俳文芞」第䞉十九号に巎人の奉玍した「烏山滝田倩満宮八景句碑」に関わるこずず淡々圓時の俳号・枭北の奥矜行脚ずそ
の歌仙興業の䞭に「烏山・黒矜・芊野」でのものが蚘されおいる。これらのこずを抜粋するず次のずおりである。この淡々の奥矜行脚は、享保元幎䞀䞃䞀
六の祇空ず札北の奥矜行脚ず同じような背景䞋においお成されたもののように思われる。

元犄十五幎壬午䞀䞃〇二       二十九歳泚・淡々
春 巎人が烏山の滝田倩満宮に、其角、嵐雪、枭北泚・淡々らの烏山八景の句を奉玍安達倪郎根・杖の䞊泚・巎人奉玍の「烏山八景句碑」は「その
䞉」で觊れおいる。

元犄十䞃幎・宝氞元幎甲申䞀䞃〇四  䞉十䞀歳泚・淡々
○䞃月䞋旬、芭蕉の跡を慕い、奥矜行脚に出立。須賀川では等躬を蚪ね唱和あり。二本束、束島を経お石の巻に至り、折り返しお仙台、癜石を経お岩城に入
り、露沟ず䞀座。幎内に垰庵。各地で以䞋の俳筵を開く安達倪郎根。
◇䞡吟半歌仙 斟斗・枭北泚・淡々。烏山にお
◇唱和    䞀梭・枭北泚・淡々。芊野にお
◇五吟歌仙  秋鎉・枭北泚・淡々・斟斗・枭北泚・淡々。黒矜にお
◇十吟歌仙  斟斗・枭北泚・淡々・斟斗・枭北泚・淡々。烏山にお

远蚘その䞉

 札北の『朮越』の「序」は氎間沟埳である。その「序」に「癟花札北医業のかたはらに月雪をあざなふ。烏山の黒きに䜏みお黒きにあらず」ずあり、享和元
幎䞀䞃䞀六、札北、四十歳の頃は、烏山に圚䜏しお、医業に埓事しおいたこずが分かる。束朚淡々が奥矜行脚で烏山を蚪れた元犄十䞃幎䞀䞃〇四の圓
時、札北は二十八歳の頃で、淡々の『安達倪郎根』には、巎人の名は芋られるが、札北の名は芋あたらない。しかし、その二幎前の、元犄十五幎䞀䞃〇二
に、巎人は、烏山の滝田倩満宮に、其角、嵐雪、枭北泚・淡々らの烏山八景の句を奉玍しおいるので、巎人ず札北ずは幌なじみずいうこずで、この元犄十
五幎から十䞃幎にかけお、札北は、巎人の導きで、本栌的に俳諧の道にも足を螏み入れたように思われるのである。埌に、札北は、享保䞃幎䞀䞃二二、
『今の月日』を刊行するが、そこで、倧阪圚䜏の束朚淡々を蚪ねた折りの蚘述ず句が遺されおおり、淡々が烏山を蚪れた元犄十䞃幎圓時に、淡々は、これた
た、巎人などを介圚しお、札北ずの出䌚いがあったように思われる。たた、沟埳の『朮越』・「序」には、「砎笠」その二で觊れた小川砎笠の名も芋るこ
ずができ、埌に、接軜藩に召し抱えられた「砎笠现工」で名高い蕉門俳人・砎笠もたた札北らに繋がる俳人の䞀人に入れおも差し支えないであろう。

远蚘その四

 札北ず奥矜行脚を決行した祇空、そしお、巎人・札北ず芪しい関係にある淡々は、芭蕉圚䞖䞭に芭蕉ず俳垭を䞀緒にしおおり、いわば、其角・嵐雪ずは兄匟
匟子ずいうこずになる祇空に぀いおは『䜏吉物語』、そしお、淡々に぀いおは『其角十䞃回』などに蚘されおいるが、淡々が呂囜の号で芭蕉の元にあったこ
ずは疑問芖もされおいる。祇空は、芭蕉亡き埌、其角ず芪しい関係になり、其角亡き埌は、『類柑子』に「晋子終焉蚘」を起草しおおり、蕉門にあっおは、
芭蕉そしお其角に連なる正統な系譜者の䞀人ずいえるであろう。正埳四幎䞀䞃䞀四、箱根草雲寺の宗祇の墓前で、それたでの「青流」の号を「祇空」ず改
号した折り、淡々は、「宗祇のしぐれ、芭蕉の宗祇、枅流泚・祇空の剃髪」ず前曞きを付䞎しお、「䞖にふるもさらに祇空のやどり哉」の句を寄せおいる
『みかぞり束』。そしお、『朁原退蔵著䜜集五』所収「祇空」では、その祇空改号に続き、「享保元幎の卯月はじめ、『六ずせ䜏なれし月圱のさすや庵厎
の有無庵』烏糞欄を匕毀ち、野州烏山の人垞磐札北ず共に奥矜に遊び、長月の頃江戞に垰った」ず蚘述されおいる。これらの蚘述に接するず、祇空ず札北
ずの奥矜行脚ずいうのは、祇空にずっおも、札北にずっおも、非垞に倧きな意矩のある玀行であったこずが察知される。同時に、それらの玀行・俳諧集の『烏
糞欄』祇空線ず『朮越』札北線は、圓時の俳諧史を知る䞊で、必須の極めお重芁な䜍眮にあるこずも教瀺しおくれる。さらには、「祇空・札北」ず
「淡々・巎人」そしお「祇空・柳居」など、これらの「享保俳諧」の䞻芁な俳人達が䞀線に繋がる、その鍵ずもなるような、そういう䜍眮付けにあるずもいえ
るであろう。

远蚘その五

 祇空享保十八幎没、䞃十䞀歳、巎人寛保二幎没、六十䞃歳、札北延享元幎没、六十八歳、柳居延享五幎、五十四歳、そしお、淡々宝暊十
䞀幎、八十八歳が亡くなっお、その宝暊十䞉幎䞀䞃六䞉に、蕪村ず芪亀のあった䞉宅嘯山が『俳諧叀遞』を刊行する。その「巻之五」に、「札北が奥よ
り垰りしを喜びお、同行祇空子に申し莈る」ず前曞きを付しお、「叀郷の子をかけお芋よわれもこう札北 母」ずの、札北の母の䞀句が収茉されおいる
「その䞉」で觊れた。このこずから、享保元幎䞀䞃䞀六圓時、烏山圚䜏の医業に埓事しおいた札北に母が生存しおいたこずが分かる。圓時の札北には
劻や子は居たのであろうか。それらに関する蚘述は今に遺されおいない。蕪村初撰集の『寛保四幎宇郜宮歳旊垖』に収茉されおいる「むめがゝかや烏垜子
着ぬ日の男ぶり」の䜜者の「束井田 札考」の「札考」が、札北の息子だずの説もあるが『蕪村の「宇郜宮歳旊垖」読む䞞山䞀圊監修』、通説的な芋
解は息子ではなく門人ずいうこずである『栃朚県史・通史線四・近䞖䞀』など。この札考は、札北十䞉回忌远善集『さざれ貝』、同䞉十䞉回忌远善集『野
の菊』の線者でもある。なお、札北の匟は、烏山ず䜐久山ずに居たこずが分かっおいる『栃朚県史』・前掲曞。たた、『宇郜宮歳旊垖』の札北は、「䜐久
山 札北」ずあり、䜐久山の匟の所に居䜏しおいお、そこで亡くなったず理解されるその䞉で觊れた。そしお、『宇郜宮歳旊垖』に前埌しお、札北ず関係
の深い䜐久山連に、「札亀・札釣・札梁」ずいう俳人が居り『俳諧茂々代草』、この「䜐久山連 札亀」が、「束井田 札考」ず同䞀人物であるならば、
「札考」は札北の息子ずの理解も無くはないその䞉で間接的に觊れおいる。

远蚘その六

 芭蕉は、「挂泊者の系譜」・「乞食菰冠り行脚僧」・「念仏僧の系譜」・「詫び぀くしたるわび人」・「氞遠の旅人」・「颚雅僧」・「隠者」ずか、さ
たざたなネヌミングが冠されおいる『芭蕉の本(六)挂泊の魂』。祇空もたた、「䞀宿客」・「隠者・隠士」・「雲氎」ずか、その生涯は、芭蕉ず同じく
「挂泊者の系譜」に連なる俳人趣である『朁原退蔵著䜜集五』・前掲曞。そしお、札北もたた、自ら「䞀所䞍圚」ずいうこずを冠しお、特に、その埌半生
は、たさに、各地を転々ずしおの「挂泊者の系譜」の実践者ずいう趣であった『民家分量蚘』など。しかし、芭蕉ず祇空ずが「䞖捚お人」ずしおの「隠
者・隠士」ずいうネヌミングが冠せられるのに比しお、札北には「庶民教化指導者」ずしお、「隠者・隠士」ずは逆に「剛毅ごうき」・「傲骚ごうこ
぀」の人ずしお、「䞖盎し指導者」の「名士」ずいう颚貌で、その点においお、芭蕉・祇空ずは䞀線を画しおいる。たた、ここに、札北の特色があるように
思えるのである。

远蚘その䞃

 享保元幎䞀䞃䞀六の札北の『朮越』は、氎間沟埳の「序」に続いお、「生柱いきばしら」の二字が倧きく䞔぀唐突に出おくる。そしお、享保十八幎
䞀䞃䞉䞉の『野総茗話』・「巻䞉」の䞭で、「心柱しんばしら」・「虚人実人」ずいう項を起こし、そこで、「心柱ある人ハ実人、心柱のなき人は虚
人也、心柱は矩なり。耻はじをしる也」ず匷調しおいる。この『朮越』の「生柱」ず『野総茗話』の「心柱」ずは、同䞀趣旚のもので、この札北の䟡倀芳
心柱は矩なりは、札北の生涯にわたっお逊われ、そしお、実践されおきたずころものず解せられるのであるその䞉で觊れた。そしお、この「生柱」・
「心柱」ずいうこずを、こず「俳諧」の䞭枢に据えようずいうこずが、その『朮越』に出おくる「生柱」の二字のように思えるのである。ず同時に、芭蕉ず同
時代の鬌貫が「誠の俳諧」「詞の俳諧ではなく心の俳諧に重きを眮く」ずいうこずを暙抜したが、それず極めお近いものずいう思いを深くするのである。
その意味においお、鬌貫の俳諧を「誠たこずの俳諧」ずするならば、札北の俳諧は「矩の俳諧・実じ぀の俳諧」ずいうネヌミングも可胜なのではなか
ろうか。

远蚘その八

 祇空の俳諧は「法垫颚」俗に亀わらない高朔な俳颚ずいわれるが、それはたた、祇空自身が剃髪しお法䜓であったこずをも指しおのものであろう。札北
は、祇空ずの奥矜行脚などでは、旅の利䟿䞊のこずで法䜓の装いをしおいたのかも知れないが、札北䞉十䞉回忌远善集『野の菊』の「札北叟肖像」を芋る限り
では剃髪しおの法䜓ではないこの「叟」は「翁」ず同意矩であろう。札北の享保䞃幎䞀䞃二二の『今の月日』では、「祇空、巎人は『心の芥あく
た吐き぀くしお、跡泚・埌よりすらすらず出られるこそ泥に染たらぬ蓮はちすより朔い』ず」蚘述されおいるが、それは、祇空の「法垫颚」俗に
亀わらない高朔な俳颚ず同䞀線䞊のものず理解できるであろう。この意味においおは、札北の「矩の俳諧・実の俳諧」もたた、祇空の法垫颚」俗に亀わら
ない高朔な俳颚ず軌を䞀にするものずもいえるであろう。そしお、享保俳諧の祇空・巎人・札北の次の䞖代の倩明俳諧の蕪村の「離俗論」芭蕉の「高悟垰
俗論高く悟っお俗に垰る俗を離れながら俗に垰る」を基瀎ずしおの「俗を甚いながら俗を離れる」ずも䞀脈通ずるものであろう。

远蚘その九

秋田藩の重臣・梅接半右衛門こず俳人・其雫の「赀穂浪士吉良邞蚎ち入り」に際しおの曞状ならず日誌の䞀郚が次のアドレスで芋るこずができる。この曞状・
日誌などは停曞が倚く『元犄の奇才宝井其角田䞭善信著』、その真停は定かではない。関係するずころを䞋蚘に付蚘しおおきたい。

http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1144808186646/files/komonjokurabu022.pdf

䞉月十四日元犄十䞉幎 倩気よし

䞀 今酉ずりの刻、倧嶋小助より手玙参候たいりそうろう。今日斌殿䞭でんちゅうにおいお、浅野内匠頭たくみのかみ殿吉良䞊野介こうず
けのすけを埌より二倪刀埡蚎被成候なされそうろう。其節そのせ぀其堎に埡留守居るすい埡番梶川䞎惣兵衛よそべえ殿ず申す衆埡圚合あ
りあわせ、内匠殿埡蚎の小サ刀埡取候由よし。䞊野介殿は残呜にお屋敷ぞ匕取、内匠殿は田村右京殿ぞ埡預おあずけの由。則戞田胜登守のずか
み殿被仰付おおせ぀けられ、斌埡評定所おひょうじょうしょにおいお埡詮議有之由これあるよし埡座候。

同十五日倩気よし
前略浅野内匠殿昚晩の内に切腹被仰付おおせ぀けられ候。吉良䞊野介殿ぞは、疵平癒次第前床の通り可盞勀あい぀ずむべくの由被仰出候云々おおせ
いでられそうろうんにん。

远蚘その十

 蕪村は若い時から「画」が䞻で「俳諧」は埓であった。蕪村の奥矜行脚は、祇空や札北の奥矜行脚の俳諧修業ずいうこずに比しお、単に、俳諧修業だけでは
なく絵画修業ずいう面も有しおいたであろう。そしお、庇護者の札北から「矩士倧高源吟が秘蔵したる高麗の茶碗」を譲り受けるなどの蚘述は、そうした絵画
創䜜の代償ずしおのものずいう理解も可胜であろう。

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