蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その十)
下館中村風篁邸での「阿満図」に続いて、『新花摘』では、早見晋我(「その六」で触れた)について記述している。その出だしのところは次のとおりであ
る。
[又、晋我、介我門人といへる翁有けり。一夜(注・ある夜)風篁がもとにやどりて(注・泊まって)、書院(注・座敷)にいねたり、長月(注・九月)十九
日の夜なりけり。月きよく露ひやゝかにて、前栽の千くさに(注・前庭の千草に)むしのすだくなど、ことにやるかたなくて、雨戸はうちひらきつ、さうじ
(注・障子)のみ引たてふしたり(注・寝ていた)。四更(注・午前二時)ばかりに、はしなく(注・ふと)まくらもたげて見やりたるに、月朗明にして宛
(あたか)も白昼のごとくなるに、あまたの狐ふさふさとしたる尾をふりたてゝ、広縁のうへにならびゐたり。]
蕪村の『新花摘』は、安永六年(一七七七)、年齢にして六十二歳の頃に起草しものであるから、かれこれ、三十年弱に遡っての回想録ということになる。
その随分前の回想録に、「長月(注・九月)十九日の夜なりけり」とは、どうにも首を傾げたくなるような、何か、その当時の書き付けなどがあって、そうい
うものを目にしての叙述のような印象すら受けるのである。
それは、丁度、芭蕉の「笈の小文」(道中常に携行して書き付けしたものの記録集)のようなものがあって、そういう書き付けたものを参考としながら、そ
れを絵画や俳諧の創作時に活かしているような、そんな印象を、この記述などから受けるということにほかにらない。
それはひとえに、蕪村が、この晋我に捧げた俳詩の「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)が、その背景にあるということは言うまでもない。晋我が亡く
なったのは、延享二年(一七四五)一月二十八日、享年七十五歳であった。時に、蕪村は三十歳で、その前年に、宇都宮で、『寛保四年宇都宮歳旦帖』を世に
出して、俳諧宗匠としての、終世の号になる、「蕪村」の号を名乗った頃でもある。
この早見晋我については再掲することとなるが、晩年は北寿老仙と称して、其角門で、その「晋我」の「晋」は、其角の号の一つの「晋子」の「晋」に由来
があるものであろう。其角亡き後、佐保介我門に入り、当時の結城俳壇の長老格の一人であったろう。
ここで、先(「その八」)に紹介した晋我などが登場する俳書などを再掲して置きたい(なお、下記の「周午」は雁宕の前号として、蕪村の年譜などを付記
して置く)。
○1『きくいたゝき』(正徳三年成・一七一三)晋我・我尚(雁宕九歳?)
○2『今の月日』(享保七年刊・一七二二) 周午・晋我・我尚・杏坡
○3『百華実』(享保八年刊・一七二三)周午(雁宕一九歳? 蕪村七歳)
○4『点取俳諧』(享保八年成・一七二三) 周午・晋我・杏坡
○5『百千萬』(享保十年刊・一七二五) 周午・晋我・杏坡
○6『享保万年丙午結城連』(享保十一年成・一七二六) 周午・晋我・杏坡
○7『享保十七年壬子年』(享保十七年成・一七三二) 周午・晋我
○8『綾錦』(享保十七年刊・一七三二) 我尚(故人)・周午(雁宕三〇歳?=立机?)
○9『夜半亭歳旦』(元文三年成・一七三八)雁宕・晋我(蕪村二三歳、前年に宋阿門入門)
○10『夜半亭歳旦』(元文四年成・一七三八)雁宕・晋我(蕪村二四歳、号は「宰鳥」)
○11『桃桜』(元文四年刊・一七三九) 雁宕・晋我(同上)
○12『夜半亭歳旦』(寛保元年成・一七四一) 雁宕・晋我(蕪村二五歳、筑波詣で?)
○13『宇都宮歳旦』(寛保四年刊・一七四四)雁宕(蕪村二九歳=『宇都宮歳旦帖』を編む=立机)
上記の俳書の成立時などを見ていくと、○1『きくいたゝき』(正徳三年成・一七一三)は嵐雪七回忌追善句集で、雁宕の『俳諧一字般若』に、「『きくい
たゝき』に『不侫若年常に随って給仕す』」とあり、雁宕が若年にして(九歳の頃か)、父の我尚や伯父(我尚の義兄弟)の晋我に伴われて句会などに出入り
していたことがうかがえる。また、『きくいたゝき』は嵐雪の高弟・周竹編で、雁宕の前号が周午とすると、その「周」は周竹の「周」に由来があるのかもし
れない。
また、○2『今の月日』(享保七年刊・一七二二)は、我尚の亡くなった(享保六年)翌年の刊行で、いわば、我尚追善句集ともいえるものである(潭北
編)。そして、我尚が亡くなったときに、その長子の周午(雁宕)は、十八歳の頃で、この『今の月日』では、結城の主要俳人として登場してくる。さらに、
○8『綾錦』(享保十七年刊・一七三二)では、周午(雁宕)は、三十歳の頃で、ここでは、我尚の跡を継いで、結城の宗匠格の俳人としてその名を留めてい
る。
そして、蕪村が俳諧宗匠格として登場するのは、○13『宇都宮歳旦』(寛保四年刊・一七四四)で、蕪村は、二十九歳、雁宕は、四十一歳の頃ということ
になる。
こうして、周午(雁宕)と蕪村との軌跡を見ていくと、結城の俳人・早見晋我は、砂岡雁宕を育てて、そして、蕪村が独り立ちするのを見届けて、その翌年
(延享二年)に、その七十五年の生涯を閉じたということになる。
ここで、『晋我追悼曲』(北寿老仙をいたむ)の成立時期に触れると、晋我が亡くなった延享二年(一七四五)説と、そして、その三十三回忌の頃にあたる
安永六年(一七七七)説との二つがあり、さらに、七回忌の頃にあたる宝暦二年(一七五二)説も十分に考えられる(これらのことについては、下記のアドレ
スのものを再掲して置きたい。)
また、この『晋我追悼曲』(北寿老仙をいたむ)が収録されている『いそのはな』は、晋我の継嗣の桃彦(二世晋我)が、父早見晋我(一世晋我)の五十回
忌追善集として編纂して、寛政五年(一七九三)に刊行している(この全文の翻刻は『蕪村全集四(講談社)』に収録されている)。この『いそのはな』に
は、晋我(一世)と百里との両吟歌仙が収載されており、当時の三大俳人(蕪村『むかしを今』所収「序」の「巴人・百里・琴風」)の一人の百里(嵐雪の高
弟)と両吟歌仙を巻くということは、晋我が、結城の宗匠格の俳人であったということも物語っているであろう。
さらに、この蕪村の回想録の『新花摘』は、安永六年(蕪村・六十二歳)の起草であり、この当時、晩年の蕪村は、しきりと、若き関東出遊時代の頃に思い
を馳せていたということも、併せ、特記をして置く必要があろう。
とにもかくにも、結城の宗匠格の俳人の早見晋我は、俳諧史上の一角に、その名を留めている、与謝蕪村と砂岡雁宕を育み、終世支援を続けた俳人であったと
いうことで、蕪村の俳詩『晋我追悼曲』(北寿老仙をいたむ)と併せ、忘れ得ざる俳人の一人としての位置づけをして置きたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/59567829.html
(再掲)若き日の蕪村(四十~四十三)の(四十)
[○連作和詩編「北寿老仙をいたむ」は、北寿の亡魂を供養するため「釈蕪村」と署名して己れの心身を僧体(清浄)にし、自作詩を詠唱して読経にかえたの
であろう。「百拝して書す」と結んだのは、これは写経文のように浄書して寺に納めたことを示している。それはあくまでも仏の世界に逝った北寿と僧蕪村と
の密かな語らいだった。
この『蕪村伝記考説』の、「自作詩を詠唱して読経にかえた」・「これは写経文のように浄書して寺に納めた」・「仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密か
な語らいだった」という指摘は、この俳詩(註・連作和詩)に接して同じような感慨を抱く。そして、この感慨は、この俳詩が、晋我没後直後の延享二年に作
られたものではなく、後年の、安永六年に、延享二年当時を回想して創作したものだとする、安永六年説の次の疑問を解きほぐしてくれる一つのキィーポイン
トと理解をしたいのである。
http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html
※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入
り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)
の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門
下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七
十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後
の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるま
まに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して
「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしている
が、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永
六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というので
ある。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪
村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出
版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれな
い。(上記のネット記事)
さらに、上記の『蕪村伝記考説』の指摘に、先に触れた次の事項の再確認をしたいのである。
※阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作ら
んとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興
宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざり
しに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨
(すつ)るやしらず。 釈蕪村
(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何
をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れ
の言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ご
してきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をした
ためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )
※※これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回
忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文も
その当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土
宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見ら
れる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老
仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没して
いる)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐
潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を
書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景に
あるように思えてくるのである。]