国や地域、言葉、文化、宗教、習慣などの違いにかかわらず、駆けっこ等の競争をするときにはゴール(運動の指標)を一つに限定しなければならないことは、遠い昔から子供でももっている世界共通の概念・認識である。しかし、従来の教育では「運動の指標は一つにしなければならない」という限定条件を述べていない。それどころか、従来の教育(学問)の基礎とでも云うべきガリレイの相対性原理は複数の運動の指標を一度に使うことが不可避条件となっているのである(従来の教育の欠陥)。
それでは、日本語ウィキペディア百科事典(Wikimedia Foundation)で、日常生活においても決して避けることの出来ない「運動」を調べてみる。すると、そこには太文字で、
【この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。】
という断り書きが張り付けられている(2014年1月)。言い換えれば、運動の意味そのものが定まっておらず、当然、関係する基本事項の「直交座標系」「慣性系」「ガリレイ変換」「距離」「落下」にも上記の断り書きが張り付けられている(20件以上)。すなわち、従来の学問は根本的に間違っているという結論に到達する。
ところで、アインシュタインの相対論は、ガリレイの相対性原理と光速度一定の原理の二つを土台として構築されているのである。従って、ガリレイの相対性原理が破綻すれば、相対論も自動的に消滅する。
ここで仮に、相対性原理の破綻を無視しておいて、*MuMu-Chanさんの質問「相対論の光時計、間違ってませんか?」を取り上げ、アインシュタインの幼稚な間違いを暴いておく。「光時計」とは、例えば船の系の床と天井に設置した鏡の間を光が同一経路を辿って恒常的に往復運動を繰り返す装置のことであり、この装置を設置して静かに沖合を航行している船の系を「現象制御系」と名付けておく。一方、その船の光時計を見ている例えば陸地の系を「傍観系」と名付けておく。ここで重要なのは、陸地の傍観系には鏡など設定されていないが、光の経路はジグザグに折れ曲がって観測されることになっている。しかし、鏡が無ければ光をジグザグに折り曲げられないことは子供でも知っている経験事実である。従って、傍観系で観測される光は現実本物でないことは自明。すなわち、傍観系の現実本物でない光に光速度一定の原理を適用して展開する相対論は、支離滅裂な論法である。
上記の内容に関する学術的な説明については、学問の会のHP【世界規模の間違い http://st-nagaya.jp/ 】の第二部の論文集を参照されたい。そこでは「時間の正体」などについても論じている。
また「子どもの権利条約と洗脳教育」については、特に下記のリンク先で確認されたい。
項3:国連、アムネスティ、ユネスコ、~ ( http://st-nagaya.jp/doom1.pdf )
項8:悪の枢軸 日本の法務省 ( http://st-nagaya.jp/doom6.pdf )