カント的な哲学と現象学哲学の根本的な違いというのはなんだと思いますか?
フッサールは「現象学によって論理学の基礎付けができる」と考えたようで、
『論理学研究』という“大冊”を書いているけど、カントやヘーゲルと同様、
それは論理学に対しての誤解の産物以外の何物でも無い。
何を根拠に論理学への誤解というのでしょうか。
フッサールは、カントのような、主観、客観の二元論ではないと思いますが。
前提から結論を形式的に導出するような哲学ではないのですから、誤解しよう
にもかみ合わないとおもいますが。
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SEO Shirou mailto:ses...@myself.com
同感です。カントの主観、客観という図式に対して、私はフッサールは、客観というとらえ方とは異質でしょう。自分がこのくだものがおいしいと実感したならそれはたしかなものだが、自分のそうした実感から遠ざかれば遠ざかるほど、知識も、伝聞も、臆見を含んでくる。神話にいたってはもはやドクサそのもの。科学というものさえドクサから隔離された世界ではない。ただ、そうしてくると、「厳密な学としての」という意味が、何をもって「厳密な学」と言わしめているのか、ここのところはどう思いますか?
反証をはじめから拒絶する言明は、実在認識にとっては意味のないことですね。何らかの反証の可能性がなければ科学的な問題に臨む姿勢とはいえないでしょう。いかなる案も試行的と見るのが哲学の立場にとっては大切なこと。
厳密な学問としての哲学を再建しようとしたのは分析哲学者だが、それ以前にドイツでは新カント主義と現象学派が出てきた。マックス・ヴェーバーのような社会学者も新カント主義に属する西南ドイツ学派。
厳密な学としての哲学は、形而上学を排斥した分析哲学にその傾向を認めますが、価値の問題を二元論においた新カント主義や、現象学的手法(ドクサをぺポケーする)以前のものに比して、「厳密な学」といってるのではないでしょうか。
In article <3fc21...@news.premium-news.net>, 〔“〆”〕<〔“〆”〕@['' ! '';]> writes
> 哲学というのは、ひょっとして、何か重大な歴史主義に陥っているのじゃない
> のか。分析哲学が、厳密な学としての哲学を再建している間に、とてつもない
> 勢いで哲学を追い越していったものがありはしないか?
> 今のアメリカに、それを感じるのですがねえ。それがなんなのか・・・
重大な歴史主義って... 哲学ってのは昔からそんなものです。アメ
リカの分析哲学とかは、ある意味では、昔からの議論を繰り返した
だけ。
反証可能性とかっていまだに使う人いるけど、反証可能性自体は曖
昧で使い物にならないと思う。どんな議論でも、前提はあるわけで、
そのうちのいくつかは、前もって認めておくものです。つまり、「
それをいちゃぁ、おしまいよ」な反証不可能な前提は必ずあるのさ。
それをすべて否定すると、ニヒリズムか相対主義しか残らない...
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Shinji KONO @ Information Engineering, University of the Ryukyus,
河野真治 @ 琉球大学工学部情報工学科,
反証可能性があいまい世界に引きずり込むから・・・という姿勢は
科学という方法論を、否定するものだよ。この方法でやったらこうであった。
こうなるであろう。それでいいじゃないか。何も、反証可能性にブラインド
することはやりすぎだよ。
それから、河野さんの反証可能性への誤解?は、仮象問題と、ごっちゃに
なっているんじゃないのでしょうか。さらに、分析哲学に対する見方は
倫理哲学を真理値の有無という目で割り切ろうという価値一元論、自然主義の
誤謬そのものだと思うね。
「現象学によって論理学の基礎付けができる」な~んて考えることが、論理学
に対しての全くの誤解。
> フッサールは、カントのような、主観、客観の二元論ではないと思いますが。
その点に関しては、フッサールはカントとは違っていたとしても、二人とも
(二人は二人なりに!)論理学を誤解していたことに変わりはない。