私が小学校の頃、「全然」という言葉は
否定の文章で使われるのだと(たぶん)習いました。
最近では「全然」は肯定に使っても良いという議論が
あちこちでなされています。
それによると「全然きれいだ」は(文脈抜きで)正しい。
日本語大辞典を見ると、
「全然」の用法にはいくつかあって、
否定・肯定、両者の用法があります。
そのなかでも、「きれい」とか「きたない」とかの
程度をあらわすことが可能な形容詞・形容動詞を修飾する場合は
あくまで否定形が正しい用法で、
文脈によっては肯定形が許されることもある、
という理解が正しいように思えるのですが
皆様はどのようにお考えでしょうか?
#肯定形が許されるのは、
#「新品同様にきれい」の代りに「全然きれい」と言うように、
#100%きれいな状態が具体的に指定されている時です。
私もです。
> そのなかでも、「きれい」とか「きたない」とかの
> 程度をあらわすことが可能な形容詞・形容動詞を修飾する場合は
> あくまで否定形が正しい用法で、
> 文脈によっては肯定形が許されることもある、
> という理解が正しいように思えるのですが
私もそう理解してます。
現状の「全然かっこいい」のような使いかたは、おそら
く「断然かっこいい」あたりからの類推で使われるよう
になったもので、過去にあった100%肯定のための使いか
たとは直接の関係はないのでしょう。つまり肯定の意味
で「全然」を使うのは正しい、ということを過去をひも
といて主張するのは私にいわせればピント外れ。
とはいえ、ちゃんとした文章で「全然」が程度を表す肯
定の副詞として使われることは現在でもほとんどないよ
うですし、形容詞や副詞が流行語やスラングとして本来
とは逆の意味で使われることはままある話であって、そ
れが日本語の根幹に大きな悪影響を及ぼす心配はないの
ではないかと思います。
「断然」とか「全然」のような漢語の副詞はもともと日
本人にはピンとこないものであって、意味もわからず一
種の教養として受け入れているようなものなのですから、
あとはその教養を絶対のものと考えるかそうでないかの
差でしかないのでしょう。
--
太田純(Junn Ohta) (株)リコー/新横浜事業所
oh...@sdg.mdd.ricoh.co.jp
『全く』はどうですか?
「この問題は複雑ですか?」
「全く。」
という不完全な返答をされた場合、「全く複雑ではない。」と感じますか? そ
れとも「全く複雑である。」と感じますか?
それとも判定不能ですか?
「全く複雑である」と感じます。
私にとって「まったく」は肯定否定に関するかぎりまっ
たくもってニュートラルです。後ろに否定の文句がくれ
ば否定。こなければ肯定。そういう意味で「全然」とは
ぜんぜん違います。
...と書いていて思ったけど、私も「全然」を肯定に使
ってますね。「ぜんぜん違う」のように否定っぽい文で
使われているから気にならないけど
「違う?」
「ぜんぜん」
と答えたら、やっぱり
「ぜんぜん違わない」
というのがデフォルトの解釈になりそうです。
「相手に対して答える」という日本語の性質から考えると、
これで否定になっているのではないでしょうか。
この例の場合「うん。ぜんぜん違うよ。」と言う返答の方が
肯定している事になるでしょう。
--
Izumi
for-...@clubaa.com
そうです。
> この例の場合「うん。ぜんぜん違うよ。」と言う返答の方が
> 肯定している事になるでしょう。
そうです。
誤解しやすい文章だったなと反省しているのですが、私
の発言の意味は
(a) 私も「ぜんぜん違う」のように「全然」を肯定に使
っていることに気付いた
(b) 「ぜんぜん違う」は否定っぽい文章なので肯定に使
っても私は気にならないようだ
(c) (b)のような私でも、「ぜんぜん」とだけ答えたら
やっぱり(本来の否定である)「ぜんぜん違わない」
がデフォルトの解釈になるだろう
ということです。
「違う」を肯定しているということでしょうか。
「違う」自体否定の意味を持っているので「ぜんぜん違う」
は私にとっては否定しているという感覚なのですが。
なので
>> (c) (b)のような私でも、「ぜんぜん」とだけ答えたら
>> やっぱり(本来の否定である)「ぜんぜん違わない」
>> がデフォルトの解釈になるだろう
という矛盾と言いますか綾といいますか、違和感とか
そういうものを感じません。
# 「ぜんぜん」+「肯定」を耳にしすぎて、自分の感覚に
# 自信はもてなくなっているのですが。
--
Izumi
for-...@clubaa.com
そういうことです。
> 「違う」自体否定の意味を持っているので「ぜんぜん違う」
> は私にとっては否定しているという感覚なのですが。
うーむ、わからなくなりました。「ぜんぜん」の後に否
定の意味をもつ肯定表現(打ち消しのない表現)がきたら
それは「ぜんぜん」の使いかたとしてOKである、つまり
我々が小学校のころ正しい使いかたとして習ったもので
ある、ということでしょうか?
それならそれでOKなのですが...。
> >> (c) (b)のような私でも、「ぜんぜん」とだけ答えたら
> >> やっぱり(本来の否定である)「ぜんぜん違わない」
> >> がデフォルトの解釈になるだろう
> という矛盾と言いますか綾といいますか、違和感とか
> そういうものを感じません。
この文の意味がわかりません。Izumiさんは
(a) 「違う?」
(b) 「ぜんぜん」
という会話で、(b)を
(b1) 「ぜんぜん違う」
(b2) 「ぜんぜん違わない」
のどちらであると感じるのでしょう?
正しい使い方と認識しています。
他には「ぜんぜんだめ」とか。
>> (a) 「違う?」
>> (b) 「ぜんぜん」
という会話の(b)は
>> (b2) 「ぜんぜん違わない」
と解釈します。
記事<ajajar$1a27rk$1...@ID-93253.news.dfncis.de>では
太田さんの記事<ajaeod$eov$1...@ns.src.ricoh.co.jp>で
>> (c) (b)のような私でも、「ぜんぜん」とだけ答えたら
^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>> やっぱり(本来の否定である)「ぜんぜん違わない」
>> がデフォルトの解釈になるだろう
何故『(b)のような私でも』と言われるのかが分からないということを
表現したかったのです。(分かりにくい書き方をしてすみません。)
--
Izumi
for-...@clubaa.com
"Junn Ohta" <oh...@src.ricoh.co.jp> wrote in message
news:ajatum$inq$1...@ns.src.ricoh.co.jp...
> fj.sci.lang.japaneseの記事<ajajar$1a27rk$1...@ID-93253.news.dfncis.de>で
> for-...@clubaa.comさんは書きました。
> > 「違う」を肯定しているということでしょうか。
>
> そういうことです。
>
> > 「違う」自体否定の意味を持っているので「ぜんぜん違う」
> > は私にとっては否定しているという感覚なのですが。
>
> うーむ、わからなくなりました。「ぜんぜん」の後に否
> 定の意味をもつ肯定表現(打ち消しのない表現)がきたら
> それは「ぜんぜん」の使いかたとしてOKである、つまり
> 我々が小学校のころ正しい使いかたとして習ったもので
> ある、ということでしょうか?
「違う」という形容詞は
完全に同一…………完全に相違
という両端のある線上の一点を指し示すからではないでしょうか。
つまり、「全然違う」=完全に相違、「全然違わない」=完全に同一
それに比べて「きれい」という形容詞の場合は、
完全にきれいという端点がなく、きれいさには果てがないように思います。
一方で、「全然きれいでない」といっても、
汚いことこの上ないわけではありません。つまり
……汚い……きれいでも汚くもない……きれい……
という線上の一点の指定で、「全然きれいでない」というのは、
対象が「きれいでも汚くもない」の領域にあるか、
それを通り越して「汚い」の領域に入っていて、
いずれにせよ「きれい」とは100%言えない状態なのではないでしょうか。
一方で、「全然きれい」と言いたくても、
100%きれいな状態という端点がないから言いようがない。
"Junn Ohta" <oh...@src.ricoh.co.jp> wrote in message
news:aj8oku$sgo$1...@ns.src.ricoh.co.jp...
> fj.sci.lang.japaneseの記事<aj8gft$pp8$2...@pin3.tky.plala.or.jp>で
> nak...@silk.plala.or.jpさんは書きました。
> とはいえ、ちゃんとした文章で「全然」が程度を表す肯
> 定の副詞として使われることは現在でもほとんどないよ
> うですし、形容詞や副詞が流行語やスラングとして本来
> とは逆の意味で使われることはままある話であって、そ
> れが日本語の根幹に大きな悪影響を及ぼす心配はないの
> ではないかと思います。
私は時々、「全然きれい」という言い回しをする人は、
「全然」の用法が間違っているのではなくて、
「きれい」という形容詞の概念が違うのではないかと感じます。
つまり
完全にきれいでない…………完全にきれい
という端点のある評価軸として捉えているのではないかと。
どうしてそう思うかと言うと、「全然きれい」なわけではない
他のものが何故「全然きれい」なのではないかを
きれいでない点の列挙で説明することが多いからです。
その人にとっては、「全然きれい」という状態は、
「欠点が一つも指摘できない」という具体的状態なわけです。
そして、そのような減点法評価を聞くと、
間違った言葉遣いに感じるのとは別種の違和感を感じます。
私は「ぜんぜん違う」が気にならないのだから、「ぜん
ぜん」とだけ聞かされたら「ぜんぜん違う」と続くのか
「ぜんぜん違わない」と続くのか迷ってもいいはずなの
だが...というのが「(b)のような私でも」の意図です。
迷ってもいいはずなのに迷わず「ぜんぜん違わない」と
続くのだと思ってしまうのは我ながら不思議...。
両端しか指さない場合でも「ぜんぜん同じ」とはいいに
くいので、「ぜんぜん」の効果はそれだけではないので
しょう。やはり否定の気配が必要というか...。
> それに比べて「きれい」という形容詞の場合は、
> 完全にきれいという端点がなく、きれいさには果てがないように思います。
> ...
> 一方で、「全然きれい」と言いたくても、
> 100%きれいな状態という端点がないから言いようがない。
これはありそうですね。でも端点とまで考えずに範囲で
あってもよさそうに思います。「きれい」の範囲に入っ
ているだけでは「ぜんぜんきれい」とはいいにくいけど、
逆にその範囲から外れていることがはっきりしていれば
「ぜんぜんきれいじゃない」とはいえる、と。
> 私は時々、「全然きれい」という言い回しをする人は、
> 「全然」の用法が間違っているのではなくて、
> 「きれい」という形容詞の概念が違うのではないかと感じます。
> つまり
> 完全にきれいでない…………完全にきれい
> という端点のある評価軸として捉えているのではないかと。
どちらかといえば「きれい」か「きれいでない」かの二
分法で考えているのではないですかね。「きれいかきれ
いでないか人によって評価が違うこともあるけど、これ
がきれいでないと考える人はいないはず」という状態が、
その人にとっての「ぜんぜんきれい」なのではないかと。
なぜそう思うかといえば、そういう人たちの「ぜんぜん
きれい」は「きれいでないなんてことはぜんぜんない」
の短縮形に思えるからです。つまり、そういう人たちが
使った場合でも「ぜんぜん」にはやはりどこか否定の気
配があるように感じるわけです。
ただ、ここで「きれいでないなんてことはぜんぜんない」
が「ぜんぜんきれい」と同値になるためには「きれい」
か「きれいでない」かが二分法になっていなければなら
ないわけですね。
うーん、でもやっぱりまだ自分のしゃべっていることに
確信がもてない。まだ違っているような気がする...。
記事<ajbb3e$mh9$1...@ns.src.ricoh.co.jp>において太田さんは書かれました。
>> 私は「ぜんぜん違う」が気にならないのだから、「ぜん
>> ぜん」とだけ聞かされたら「ぜんぜん違う」と続くのか
>> 「ぜんぜん違わない」と続くのか迷ってもいいはずなの
>> だが...というのが「(b)のような私でも」の意図です。
「ぜんぜん」の後には否定が来るというルールに従っているだけのような……。
(A)「ぜんぜん違う」・・・・・「違う」が否定の意味を持っているのでOK。
(B)「ぜんぜん違わない」・・・直前の言葉「違う」を否定しているのでOK。
(B)は会話の一部ですから否定する対象は直前の相手の言葉「違う」
になります。従って、その否定は当然「違わない」となります。
ですから私にとっては、
「ぜんぜん違う」のように「ぜんぜん」の後には否定が続くというルールに
従う私にとって(むしろそういう私だからこそ)
「違う?」
「ぜんぜん」
という会話の「ぜんぜん」は「ぜんぜん違わない」と解釈する。
という感覚なのです。
「ぜんぜんOKっすよ!」というような使い方をする人達にとって
上記会話の「ぜんぜん」は一意ではないように思われますから。
--
Izumi
for-...@clubaa.com
こちらこそくどくど説明させてしまってすみません。
> 「ぜんぜん」の後には否定が来るというルールに従っているだけのような……。
> (A)「ぜんぜん違う」・・・・・「違う」が否定の意味を持っているのでOK。
> (B)「ぜんぜん違わない」・・・直前の言葉「違う」を否定しているのでOK。
なるほどなるほど。すると、じつは「ぜんぜん」のあと
に肯定形がくるか否定形がくるかはどうでもよいことで、
相手のいうことを完全に否定したいだけ、というわけで
すね。だとすると、
「私はこうだと思うんだけど、どう?」
「ぜんぜん」
の「ぜんぜん」は
「ぜんぜん思わない」
「ぜんぜん違う」
のどちらであるか判別できず、また判別する必要もなく
て実はどちらでもよいのだ、ということかしら?
> 「ぜんぜんOKっすよ!」というような使い方をする人達にとって
> 上記会話の「ぜんぜん」は一意ではないように思われますから。
そうするとつまり、最近の用法では
(a)「どう? 最近快調?」
「ぜんぜん快調っすよ!」
(b)「最近ちょっと不調?」
「ぜんぜん快調っすよ!」
のどちらもあり得るので「ぜんぜん」だけでは相手のい
うことを肯定しているのか否定しているのかわからない、
ということでしょうか。
(a)と(b)を並べてみると、質問が肯定的か否定的かにか
かわらず、答える側は自分の都合で答えていて、その場
合「ぜんぜん」は肯定や否定であるというよりも「相手
の期待や心配を裏切るほど」という意味があるのかなと
思えます。それならたしかに相手の質問が肯定的か否定
的かはどうでもよい、と。
ところで、(b)では相手の「不調?」に対して否定の意味
をもっている「快調」と答えていますが、これはIzumi
さんのおっしゃる「『ぜんぜん』の後には否定がくる」
というルールにのっとっていますか? 「快調」そのもの
には負のニュアンスがないので「のっとっていない」こ
とになるのかな?
>> なるほどなるほど。すると、じつは「ぜんぜん」のあと
>> に肯定形がくるか否定形がくるかはどうでもよいことで、
>> 相手のいうことを完全に否定したいだけ、というわけで
>> すね。だとすると、
単に「ぜんぜんの後には否定の意味をもつ言葉がくる」ということです。
否定の対象は場合によるでしょうが、通常は相手の発言になるでしょう。
相手の発言を否定する意図が在っても下で例に挙げられている
「ぜんぜん快調」の様に否定の意味を持たない言葉を「ぜんぜん」の後に
もってくることはできません(でした)。
>> 「私はこうだと思うんだけど、どう?」
>> 「ぜんぜん」
>>
>> の「ぜんぜん」は
>>
>> 「ぜんぜん思わない」
>> 「ぜんぜん違う」
>>
>> のどちらであるか判別できず、また判別する必要もなく
>> て実はどちらでもよいのだ、ということかしら?
話の内容、流れから「ぜんぜん」と答えた人が「どう?」をどのように
理解したかによるとしか言えません。
上記文章だけを見れば「ぜんぜん思わない」以外の解釈はしませんが。
# 「1+1=の答は10だと思うけど、どう?」--------「全然違う」
# 「エピソード2は面白いと思うけど、どう?」---「全然思わない」
>> そうするとつまり、最近の用法では
>>
>> (a)「どう? 最近快調?」
>> 「ぜんぜん快調っすよ!」
>>
>> (b)「最近ちょっと不調?」
>> 「ぜんぜん快調っすよ!」
>>
>> のどちらもあり得るので「ぜんぜん」だけでは相手のい
>> うことを肯定しているのか否定しているのかわからない、
>> ということでしょうか。
そう思っています。
>> (a)と(b)を並べてみると、質問が肯定的か否定的かにか
>> かわらず、答える側は自分の都合で答えていて、その場
>> 合「ぜんぜん」は肯定や否定であるというよりも「相手
>> の期待や心配を裏切るほど」という意味があるのかなと
>> 思えます。それならたしかに相手の質問が肯定的か否定
>> 的かはどうでもよい、と。
なるほど。そう考えるとうまく理解できそうです。
>> ところで、(b)では相手の「不調?」に対して否定の意味
>> をもっている「快調」と答えていますが、これはIzumi
>> さんのおっしゃる「『ぜんぜん』の後には否定がくる」
>> というルールにのっとっていますか? 「快調」そのもの
>> には負のニュアンスがないので「のっとっていない」こ
>> とになるのかな?
のっとっていないと判断します。理由は書かれている通りです。
--
Izumi
for-...@clubaa.com
他の方からもフォローがないかな、と思って少し待っていたのですが、なさそう
なので、、、
実はこの質問をしたのは、息子が自分のサイトに「管理人への100の質問」の
ようなプロフィールページを作っており、そこにこんな記述があったからなので
す。
「家庭環境は複雑ですか?」
「全く」
読んだ私は「全く 複雑でない」と読み取りましたが、「あれ? やっぱりこの
答え変かな?」とその直後に思いました。
自分の意識のなかで家庭環境が複雑なんていうことはあるわけない、と思ってい
るので、「全く」という言葉を「全く~ない」と思った。 しかし、何の予備知
識も持っていない人にはこの答えは「全く複雑である」なのなあ…?
そこで、あまりはっきりと状況を特定せずにまずこちらで質問させていただいた
次第です。
ここでもう一度伺います。
「全く複雑ではない。」と感じますか? それとも「全く複雑である。」と感じ
ますか?
ちなみに、
私 「ウチの家庭環境複雑なん?」
息子「複雑なわけないやん。」
「全く」がニュートラルなものだから、どっちにも取れる、と。
その場の状況やら、その人が持つ常識やらに当てはめて、
適当に推測してくれ、みたいな。
> 「全く複雑ではない。」と感じますか? それとも「全く複雑である。」と感じ
> ますか?
前者。
# つーか、はい/いいえ、で答えれ
--
K-ichi
『イイエと言える日本』ということですね。
なるほど。
大槻文彦著(昭和11第82版)には、副詞「マッタク。
マルデ。スベテ。残ラズ。」とあります。
この辞典は用法まで細かく説明しているわけで
はないようですが・・・
これを見ている限り、私的には、肯定と否定どち
らに用いるかといえば、「どちらの場合もあり」で
あるとおもいます。
漢字的には、「すべて」+「しかる」だから、「全然」
を用いた文は「ホゲホゲのすべてに就いてホニ
ャララだよ。」という感じに、捕らえております。
ということで、否定形を修飾すれば否定で、肯定
形を修飾すれば肯定になるという線が自然でしょ
う。
まぁ、言葉は時代によって、大衆の心理的な変化で
変化していくものでしょうから、私が参照した辞典の
時代とは多少事情が変わっているかもしれません。
また、私の意見は誤解だと騒ぎ立てる人も居るか
もしれませんが。
PS; 標準語ならば、(大衆の心理的な変化ではなく)
「鶴の一声だけで変わる」ものじゃん。
--
OHTSUKI MASAYA (大槻昌弥)
Web http://www.asahi-net.or.jp/~JC5M-OOTK/
"Nakagawa" <nak...@silk.plala.or.jp> wrote in message
news:aj8gft$pp8$2...@pin3.tky.plala.or.jp...
もしもこれが正しいとしたら、「ぜんぜん」を否定だけ
でなく肯定にも使うようになったというよりは、強調を
表す流行語としての副詞に「ぜんぜん」が加わっただけ
のことなのかもしれません。
要するに、「すげー」とか「ちょー」とか「ばり」とか
の一種として「ぜんぜん」ということばが使われている
だけなのかも、ということですが。
だとすると「ぜんぜん」の意味なんてそれこそどうでも
いいことになりそうです。:-p
会話で質問に答えるときなら「なんて質問してんだよ!」
という意味もあるかも。
「あたしのこと好き?」
「まったくう」
はどういう意味だろうか? :-)
ダンナがそういう言葉遣いが嫌いで、そう言う言葉遣いを聞くと、張り倒した
くなるわけです。
しかし、奥様は実はそれを期待している。
すなわち
「奥様はマゾだったのです」
--
___ わしは、山吹色のかすてーらが大好きでのぅ
[[o o]] ふぉっふぉっふぉ
'J' 森下 お代官様 MaNMOS 英夫@ステラクラフト
PGP Finger = CD EA D5 A8 AD B2 FE 7D 02 74 87 52 7C B7 39 37
で、ダンナがナゾーさま、と。φ(.. )
いやいや、ナゾーさまだったら
「あたしのこと好き?」
「ロンブローゾ……」
としかいわないか。
その(オリジナルの)意味をよく保存していたのは形容動
詞の形である「全然たり」でしょうね。で、これが「全
然と」という副詞になって、さらに「と」が脱落したと。
「悠々(ゆうゆう)たり」が「悠々と」になって、さらに
現在の「ゆうゆうセーフだ」のような副詞になったのと
同じでしょう。
「全然たり」「全然と」は実際の用法としても「ホゲホ
ゲのすべてに就いてホニャララ」という意味で使われて
いたのではないかと思います。「全然」の形でも文語と
してはこの意味を残していたのでしょうけど、口語にな
ってからは「まるで」とか「まったく」と同じレベルに
堕落したのでしょうね。
肯定の用法として口語に近いものでは、大辞林に漱石の
「坊っちゃん」から引いた「一体生徒が全然悪るいです」
という用例がありました。
> 肯定の用法として口語に近いものでは、大辞林に漱石の
> 「坊っちゃん」から引いた「一体生徒が全然悪るいです」
> という用例がありました。
漱石の初期の作品には、その時期に漱石周辺で使われていたらしき表現で今は廃
れてしまったものが他にもありますね。たとえば、
「やがて勘定を払って、ついでに下女にからかって、二階を買いきったような大
きな声を出して、そうして出ていった(野分け)」の「~にからかう」とか、
「その声には、黄なのも、青いのも、赤いのも、黒いのもあるが(吾輩は猫であ
る)」の「黄な」とか、
萩原@グリフィス大学
いま残っているのは「黄な粉」としてだけですかね。
遠州、三河、尾張、それと福岡のあたりに方言として残っている「黄ない」を入
れてもいいけど、これはすでにイ形容詞化していますしね。
萩原@グリフィス大学
福岡なら「黄なか」でしょ。他には「黄な色」なんていう言いかたも。
--
ふなつ
tmp...@netscape.net
『今様こくご辞書』(石山茂利夫,読売新聞社,1998.8.15)に、
「全然」――打消しを伴わなければ誤用か
という一節があります。(読売新聞日曜版の連載を単行本化したもの)
その中に、『日本国語大辞典』の編纂者である松井栄一氏が採集した
明治・大正期の「打消しを伴わない全然」の用例が紹介されています。
採集元は、小栗風葉『青春』(明治39年)、安部能成『自己の問題とし
て見たる自然主義的思想』(明治43年)、石川啄木『病院の窓』(明治44
年)、森鴎外『灰燼』(大正元年)、芥川龍之介『羅生門』(大正4年)…。
これを誤用ではなく「元来の用法」と判断して、『日本国語大辞典』
の全然の項に新しく追加されたのが
<残ることなく。すべてにわたって。ことごとく。すっかり。全部>
という意味。
松井栄一氏の学説では、「全然+打消し表現」の全然は“陳述副詞”。
誤用だとして現在批判されている「全然+肯定表現」は“程度副詞”。
『日本国語大辞典』に追加された上記の新しい語釈は、事態のあり方
を示す“情態副詞”なのだそうです。# ワタクシニハムツカシスギ
> 「全然たり」「全然と」は実際の用法としても「ホゲホ
> ゲのすべてに就いてホニャララ」という意味で使われて
> いたのではないかと思います。「全然」の形でも文語と
> してはこの意味を残していたのでしょうけど、口語にな
> ってからは「まるで」とか「まったく」と同じレベルに
> 堕落したのでしょうね。
『今様―』の一節の末尾で著者は次のように締めくくっています。
| それにしても、いつごろから、全然という言葉に、「普通、下に
|打ち消しか否定的な語が伴う」という“常識”が生まれたのだろう
|か。そもそもだれが言い出したことなのか。それがどんな経路で広
|まり、“常識”と見られるほどの勢力を持つに至ったのか。不思議
|だ。実に不思議である。
> 肯定の用法として口語に近いものでは、大辞林に漱石の
> 「坊っちゃん」から引いた「一体生徒が全然悪るいです」
> という用例がありました。
「悪るい」(悪い)は否定的な語ですから、肯定の用法といえるかは
微妙な気もします。
おもしろそうですね。読んでみます。
> 「悪るい」(悪い)は否定的な語ですから、肯定の用法といえるかは
> 微妙な気もします。
どうかなあ。「全然悪い」は私の皮膚感覚:-)ではいわ
ゆる「誤用の全然」の範疇に入るのですが...。