ぢぃ wrote:
>> 昔、もっと湖北に近い米原から敦賀、小浜線を
>> 経て出雲市や大社へ行く急行もありましたが、
>> ダメでしたね。
>
> 名古屋9:30→大社20:31の401D/出雲市8:01→名古屋18:40の
> 402D「大社」かな。福井からの編成を敦賀-天橋立間で併結
> していたんですよね。
歴史的にいろいろ変遷を経ていますが、
http://hpcgi2.nifty.com/ousaka/aisho.cgi?aisho=asso
http://hpcgi2.nifty.com/ousaka/aisho.cgi?aisho=TiS
名古屋と金沢から来た急行を敦賀で連結してました。
> あまり意味無かったと思うんだけど
一日に1本ではねぇ…オマケに小浜線や宮津線を通る
のでは…当時の新聞は「従来の京都乗り換えという常識を
破った」とかもてはやしていたような記憶がありますが。
# 例によって乗りもしない汽車…もとい記者が書いたん
# でしょうけど。
--
/-------- 嶋田 誠 (SHIMADA,makoto) ------------
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○○ ■スパム除け加工施工済■ ○○
米原から豊岡までの「大社」のルートは京都経由に比べて大回りな印象があり
ますが、実は大差ありません。現在の営業キロで、「大社」のルートは220.7km、
京都経由で216.1km、その差はわずか5km未満。なので、新幹線を使わずに米原・
名古屋あたりと山陰線豊岡以西を乗り換えなしで結ぶ列車として見た場合、「大
社」はそう無意味な列車でもなかったのです。ただ、乗り換えてでも新幹線で時
間を短縮することが一般的になっていくと、「大社」のような列車の存在意義も
次第に薄れたようで。「最長片道切符の旅」にも、米原から鳥取まで同列車を利
用するおばあさんの話が出ていますが、むしろ「そんな利用の仕方をする人がい
るんだ」的驚きを持って紹介されていたと思います。
もちろん、小浜線・宮津線内から名古屋や北陸や山陰線への連絡列車としての
働きもあったでしょう。また、北陸から山陰へは「大社」のルートなら近道でも
ありますし。
個人的には、天橋立発着に短縮されてからもしばらく「大社」を名乗っていた
のが不思議でした。
ni...@ics.nara-wu.ac.jp
NIDE Naoyuki wrote:
> 米原から豊岡までの「大社」のルートは京都経由に比べて
> 大回りな印象がありますが、実は大差ありません。現在の
> 営業キロで、「大社」のルートは220.7km、京都経由で216.1km、
> その差はわずか5km未満。なので、
距離は大して違わなくても時間的にはどうでしょうか。
ヨン・サン・トオの時点で米原→松江間が8:57もかかって
います。一方で京都→松江間を〔白兎〕を利用するとして
当時は新快速はなく、また普通列車の本数も少なかったの
ですが、京都で〔白兎〕に繋がる列車として米原13:00発
の富山発大阪行き普通列車だと京都で40分ほども待ち時間
がありますが、それでも米原→松江間8:19です。〔こだま〕
を使えば7:04です。これでは、「乗り換え無し」と「北陸
-山陰直通」という意味しかありません。
> 「最長片道切符の旅」にも、米原から鳥取まで同列車を利用する
> おばあさんの話が出ていますが、むしろ「そんな利用の仕方を
> する人がいるんだ」的驚きを持って紹介されていたと思います。
ま、そういう暇のある人か物好きぐらいしか利用
しなかったのでしょうね。
> もちろん、小浜線・宮津線内から名古屋や北陸や山陰線への
> 連絡列車としての働きもあったでしょう。
結局、この働きだけで後年、運転区間が短縮されて
しまいますが、やっぱり廃止になってしまいますね。
> 個人的には、天橋立発着に短縮されてからもしばらく「大社」
> を名乗っていたのが不思議でした。
単に改名するのが面倒だったのでしょう。帯広止まり
の〔まりも〕とか高知止まりの【しまんと】などと同じ
ようなものかと。
これのなれの果ての快速が晩年はキハ53のワンマン
単行運転だったのには驚きました。小浜以東は2両増結
していましたが。