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押印定型詩について(詩論的話)

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Kadokawa

unread,
Aug 19, 1999, 3:00:00 AM8/19/99
to
押印定型詩について
お好きな詩があればここでご紹介ください
ご自身の傑作でも結構です
頭韻、脚韻、にこだわりません
心に染みる韻の真髄をご紹介ください
(漢詩、俳句は除外してください)

Kadokawa

unread,
Aug 19, 1999, 3:00:00 AM8/19/99
to
失礼しました 押韻定型詩です。

Kadokawa wrote:

> 押印定型詩について

Kouichi Kishida

unread,
Aug 20, 1999, 3:00:00 AM8/20/99
to
In article <37BBEB1F...@do.dion.ne.jp>,
Kadokawa <kado...@do.dion.ne.jp> wrote:
>押韻定型詩について

定型詩とは?

漢詩だと, 絶句とか律詩とか, また時代を宋まで下れば「菩薩
蕃」とか「沁園春」とかいったいくつかの「詞」の定型があり
ますが, 日本の詩だと何をもって定型というのでしょうか?

ときどきは, わたしも, 西欧のソネットを真似て, 4+3+3+4=14
行の詩を試みたりすることはありますが, しかし, 韻のことは
あまり気にしたおぼえがありません. もちろん, 傑作などはひ
とつもないし, ....

----------------------
Kiss cedar, Call witch!


Kouichi Kishida

unread,
Aug 20, 1999, 3:00:00 AM8/20/99
to
In article <37BBEB1F...@do.dion.ne.jp>,
Kadokawa <kado...@do.dion.ne.jp> wrote:
>押韻定型詩について
>お好きな詩があればここでご紹介ください

たとえば次のような詩は kadokawa さんの分類では
押韻定型詩の部類に入るのでしょうか?


----------------------------------------------

黒い小人
北村太郎(荒地詩集 1953 所収)


心の霧のなかから,ほそい光が
洩れてくる?

秋の夜の暗い舗装道路を,品川へ
歩いていった.たくさんのゴムが軋っては消えた.
重たい空が上にある.木犀の
匂いが,「罪の淵よりも暗く,音楽や
香水よりも甘く」--二つの影が
すれちがって過ぎた.

心の霧のなかから,しずかな涙が
きらめいてくる?

固いレインコートの襟を立てて,ゆるやかな
傾斜を上っていった.重たい
空が上にある.暗闇の
どの部分も,少しずつためいきをついていた.
夥しい綴り字が,僕の靴のしたで
落葉のうに埋れていった.

心の霧のなかから,小さな呼びかけが
きこえてくる?

夜の腕のなかに,鋼鉄の陸橋と
醸造会社のネオンが現れてきた.僕の
近視眼の向うに「闇も,光りも
空から下りてくる」--ねむそうに
瞬いている街灯の下へ,黒い
小人が歩いていった.

----------------------------------------------

この詩は北村さんの作品としては,できがいいほう
だとは思えませんが,たぶん,この詩を書いたころ,
北村さんは新聞記者として地回りをやっていて,一
方わたしはひとりの不良少年として,この詩にうた
われた風景のなかを黒い小人よろしく歩まわってい
たので,なにか親しみがもてるのですが,....

Kadokawa

unread,
Aug 21, 1999, 3:00:00 AM8/21/99
to
Kouichi Kishida wrote:

> たとえば次のような詩は kadokawa さんの分類では
> 押韻定型詩の部類に入るのでしょうか?
>
> ----------------------------------------------
>
> 黒い小人
> 北村太郎(荒地詩集 1953 所収)
>

Kishidaさん
さっそくのご紹介、ありがとうございます。
何か心に染み入る深いものが流れてます。
繰り返し読ませていただきました。

ある種の形式の束縛のなかで
光るものがうごめいていると思います。

四行の詩節、六行の詩節・・・といった定型はもちろんのこと
その他に、何か「新しい定型」があるならいろいろ見てみたい
そんな思いを持っています。

(口語自由詩はそれはそれで好きですが)

ですから変則的定型詩も定型詩ととらえて
たとえば「原則として脚韻を踏んでいる」
そんな詩も私は押韻定型詩に見たてています。

紀元前268年以前に(アショーカ王以前に)
『仏陀の言葉(スッタニパータ)』の詩句の中の古いものは作られ
それらはパーリー語で韻を踏んで作られていたようですが
当時の話言葉に近いかたちでの韻文を
(読むというより吟詠していた美しい韻文を)
私は邦訳で意味しか味わえないのが
残念です。
『スッタニパータ』が
幾世紀にも渡って形が崩されずに伝わってきたのは
韻文によるところが大きいと思います。
何か、人の魂を根底から揺さぶる魅力が意味だけでもありますが
韻の美しい吟詠ならさらにすばらしいものでしょう。

日本語で
詩は、はたしてどのような型ができるのか
どのような韻が踏めるのか
わたしにはよく分かりませんが
俳句の有季定型によさがあるように
詩のそれぞれの定型にも
すぐれた特徴があるように思えてなりません。


みゅる吉Jr.

unread,
Aug 22, 1999, 3:00:00 AM8/22/99
to
Kadokawa wrote...
>押印定型詩について
>お好きな詩があればここでご紹介ください


日本で定型押韻詩といえば、福永武彦・中村真一郎・加藤周一等の「マチネ・ポエ
ティク」運動を思い出します。が現在ではまったく黙殺された感があります。福永の
訳詩集『象牙集』は秀逸ですが。

時代とともに移り変わる文芸思潮、それはロマン主義とマニエリスムの間を揺れる
フーコーの振り子のようなものだと認識しております。ロマン主義が形式を打破しよ
うとするものなら、マニエリスムは究極の形式至上主義、その意味では日本の近・現
代詩はまだマニエリスムを経験してない、と思います。詩歌という範疇では藤原定家
がいますが。
また中華における四六駢儷文と唐宋八家文の関係なども、形式か内容か、といった文
芸思潮の顕現の典型と見ることが出来ます。

漢字かな混じりの日本語で、定型押韻詩を書くということ。これは難しい取り組みに
思えます。押韻が押韻としてうまく機能しないように思えるし(無理に押韻をやらか
すと戯れ歌のようになってしまう、といったこともあります)、定型についても俳句
や短歌のように簡単にはいかない、労多くして実りの少ない困難な道に思えます。日
本語表現は自由(無限定ともいえます)でありすぎる分、統一された形式を見出す、
という点では不利だと思います。短歌はともかく、俳句というストイックな完成され
た定型詩があるので、現代詩としてはなかなか手を出せない、といったこともあるか
もしれません。


定型押韻詩ではありませんが、形式をも含めた詩の完成度の高さ、という点から吉田
一穂の名を挙げたいと思います。他に形式に心を砕いた日本語の詩人としては、日夏
耿之介、北園克衛、鷲巣繁男を想起します。こうして並べると難物揃いに見えます
ね。

時代を遡れば、アイヌ語の『ユーカラ』、沖縄・奄美の『おもろそうし』などはどう
でしょうか?抒情詩ばかりが目立つ日本の文学の系統からすれば、どちらも異彩を
放っているように思われますが。


論点が大きく外れていないことを祈ります。
近頃老人力を発揮してきたようなので。


Kadokawa

unread,
Aug 22, 1999, 3:00:00 AM8/22/99
to

みゅる吉Jr. wrote:

> Kadokawa wrote...
> >押印定型詩について


>
> 日本で定型押韻詩といえば、福永武彦・中村真一郎・加藤周一等の「マチネ・ポエ
> ティク」運動を思い出します。が現在ではまったく黙殺された感があります。福永の
> 訳詩集『象牙集』は秀逸ですが。
>

みゅる吉Jr.さん、ありがとうございました。さっそく福永の訳詩集『象牙集』を読もう
と思います。

henry

unread,
Aug 23, 1999, 3:00:00 AM8/23/99
to

Kadokawa wrote in message <37BBEB1F...@do.dion.ne.jp>...
>押韻定型詩について
1990年「新潮」7月号、1990年アルク「日本語」7月号で
飯島耕一が「ソネットとか4行何節とかいった定型にとどまらず、
形式性への配慮の強いものはみんな受け入れて行く」という意味での
押韻定型詩を提唱したのを読んだことがあります。
マルチ・ポエティクより許容範囲を広くして。

1991年5月には日本語の押韻定型詩の可能性を信じて「中庭」
を創刊してます。(飯島耕一、稲葉三千男、梅本健三、松本恭輔)

1999年、今はどうなっているんでしょうね。ご存知のかた、教
えてください。

Shogo

unread,
Aug 24, 1999, 3:00:00 AM8/24/99
to
Kishidaさん、勉強になりました.

それからちょっと気になったのですが、ネットニュースで北村太郎
さんの詩を記すことは、いわゆる「著作権」の問題に抵触する可能
性はないのでしょうか?

もっとも私は著作権についてそれほど知識は持ち合わせていません
が.
老婆心ながら.

--
::::: Shogo YONAN, 『 陽南 彰悟 』 :::::
*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*

Kouichi Kishida <k...@sra.co.jp> wrote in message
news:7pjii9$aoe$1...@sranhh.sra.co.jp...


> In article <37BBEB1F...@do.dion.ne.jp>,
> Kadokawa <kado...@do.dion.ne.jp> wrote:
> >押韻定型詩について
> >お好きな詩があればここでご紹介ください
>

> たとえば次のような詩は kadokawa さんの分類では
> 押韻定型詩の部類に入るのでしょうか?
>
>
> ----------------------------------------------
>
> 黒い小人
> 北村太郎(荒地詩集 1953 所収)
>
>

SAKAI Naoko

unread,
Aug 25, 1999, 3:00:00 AM8/25/99
to
さかい%納屋さんおつかれさまです。

>>>>> In article <7pt8l8$e4g$1...@sranhh.sra.co.jp>, k...@sra.co.jp (Kouichi Kishida) writes:

k2> ところで, ふと思ったのですが, 俳句や和歌などの短詩型文学の場合,
k2> 作品の全文引用なしには, 詩論の展開はほとんど無理のような気がす
k2> る? その場合, 著作権はどのような扱いになっているのでしょう?

正当な引用は著作権法に認められた行為ですから、っていま手元にないのです
が…最低限作者名を明示した上で(収録詩集等の出典もあるほうがよい)、議論
全体とのバランスが適切であれば問題ないと思います。というか、問題が起き
たというはなしを知らない。

議論に必要な部分を引用するわけなので、それがやや長い文であることも当然
ありうるわけで。Netnews の話ではありませんが、Sonnet くらいだと全文引
用した上で論じるのがむしろ普通のようです。国文学でも長歌くらいだとまあ
全文引くもののようで。

つーか、うん千行あるような長大な作品扱う論文だと20行くらい一気に引用し
たりすることはあるわけで、全文かどうかよりも議論の内容と比べて引用の量
が適切かどうかですよね。

もちろんこれは詩論をする上での引用についていっているので、たんに他人の
作品を書き写して投稿するような記事だと、場合によっては問題になることも
起こるかもしれません。発表の場を選ぶ権利が作者にはありますから。実例を
挙げることはできませんが、ありそうなものとしては、電子メディアに一切関
わらないことを信条にしているような人の作品を紹介するとか、Netnews なり
WWW なり別の電子メディアに発表されたものを無断転載するとか、メイリング
リストで共同制作した詩を他の作者に無断でだれかが投稿しちゃうとか…

---
さかい なおこ


henry

unread,
Aug 26, 1999, 3:00:00 AM8/26/99
to

henry wrote in message <7pp4sr$gt6$1...@news-jp1.nifty.ne.jp>...
>
『福永武彦・魂の音楽』(首藤基澄 著)の中で
三好達治の興味深い話があった。以下引用文(P.197~P.198)。
「三好は日本語の押韻詩は日本語の声韻的価値の貧弱さ--
 母音が常に小刻みに、語の到るところに、まんべんなく散在してゐて、
 常に均一の一子音一母音の組合せで、無限に単調に連続すること
 (「マチネ・ポエティクの詩作に就いて」)--と、日本語の措辞法--、 
 主語、客語、動詞--の単調さのために、絶対に不可能であると考えて
 いるのである。しかし、マチネとしては、日本語にそうした制約があるが
 故に一層定型押韻詩を試み、日本語を豊かにしなければならないという
 論理が成り立つわけだが、自負するところの強かったマチネ同人は、三好
 の批判を決定打と感じ、定型押韻詩の試みを放棄してしまう。」

 難しい詩論はよくわかりませんが
 たとえ常に均一の一子音一母音の組合せであっても、脚韻の響き具合が心地
 いいと感じるのはなぜでしょうか。
 あれから随分たち、言語のとらえ方はかなり変わってきたように思うのです。
 たとえば、G.レイコフのような人が登場してきたりして。その視点から
 比喩の構造を見て古い詩(脚韻的なもの)を読んでいると、新鮮で私は面白
 いです。たとえ、日本語に訳したら変則的な母音の脚韻だけになっても。
 (もっとも私には作れませんが。読むだけです。)

 
 

Kouichi Kishida

unread,
Aug 28, 1999, 3:00:00 AM8/28/99
to
In article <7pn26l$kjb$1...@news1.kcom.ne.jp>,

=?iso-2022-jp?B?GyRCJF8kZSRrNUgbKEJKci4=?= <wissel...@hotmail.com> wrote:
>Kadokawa wrote...
>>押印定型詩について
>
>日本で定型押韻詩といえば、福永武彦・中村真一郎・加藤周一等の「マチネ・ポエ
>ティク」運動を思い出します。が現在ではまったく黙殺された感があります。福永の
>訳詩集『象牙集』は秀逸ですが。

「マチネ・ポエティク」は,同世代の「荒地」あたりとくらべると,運動の
エネルギーつまり他人に働きかける力が弱かったように感じます.あくまで
個人的な感想ですが ...

それにしても,加藤・中村 おふたりのその後の江戸趣味回帰はなぜなので
しょうか? 中村さんの「江戸漢詩」など,わりとおもしろく読みましたが,
批評精神はいささか弱いように感じられた.

> 時代とともに移り変わる文芸思潮、それはロマン主義とマニエリスムの間を揺れる
> フーコーの振り子のようなものだと認識しております。ロマン主義が形式を打破しよ
> うとするものなら、マニエリスムは究極の形式至上主義、その意味では日本の近・現
> 代詩はまだマニエリスムを経験してない、と思います。詩歌という範疇では藤原定家
> がいますが。
> また中華における四六駢儷文と唐宋八家文の関係なども、形式か内容か、といった文
> 芸思潮の顕現の典型と見ることが出来ます。

四六駢儷文については中国人以上に達者だった弘法大師空海和尚の文学論
(文鏡秘府論やその簡略版である文筆眼心抄)があまり高く評価されてい
ない(というか後世にあまり影響をあたえていない.いま日本で詩を書い
ている人で空海の論文を読んだ人はほとんど皆無なのでは?)というのも,
おもしろい現象ですね.

-----

それはさておき,現在ふつうにわれわれの目や耳にふれる定型詩の代表的
な例は (それらが韻を踏んでいるかどうかはともかくとして) さまざまな
流行り唄の歌詞でしょう.そして,非定型短詩の例は,たくさんのコマー
シャル・コピーの類.マス・メディアを通じて流れてくるそれらを見聞き
しているうちに,人びとの心のなかに「詩」とはそういうものだという固
定観念が自然にかたちづくられてしまう.

「現代には詩がない,なんて誰が一体言うのでしょうか.むしろ,われわ
れの周囲は悪い詩で一ぱいなんだというべきです.」と,いまから40年
以上も前に鮎川信夫さんが指摘した状況(「われわれの心にとって詩とは
何であるか」,詩と詩論2・所収, 1954)が,いまもまったく変っていな
いということでしょう.

----------------------
Kiss cedar, Call witch!

For me, this is the 1st weekend in
Tokyo in August.


Kadokawa

unread,
Aug 28, 1999, 3:00:00 AM8/28/99
to

Kouichi Kishida wrote:

> 四六駢儷文については中国人以上に達者だった弘法大師空海和尚の文学論
> (文鏡秘府論やその簡略版である文筆眼心抄)があまり高く評価されてい
> ない(というか後世にあまり影響をあたえていない.いま日本で詩を書い
> ている人で空海の論文を読んだ人はほとんど皆無なのでは?)というのも,
> おもしろい現象ですね.

Kishidaさん
貴重なお話ありがとうございました。

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