> 唯一神というのは、人間とどうかかわっているのでしょうか。
> 御意見をお聞かせください。
梵我一如
この言葉の意味を初めて知った時は、なかなかの感動
でした。“無(无)”と共に、私の人生観に大きな影響を
与えた言葉のひとつです。
http://www.yk.rim.or.jp/~mitsunob/Cont/7EconThot/et720.html
これなんか、けっこう面白いと思います。SF のネタと
してはすでに新鮮味がありませんけど。ネットは広大だわ。
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すべては無の見ている夢 ならば良い夢を 酔生無詩
▲ Nachi Yumesawa --夢沢那智--
-▲猫- φ(^^;) yume...@mac.com
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/9202/
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>唯一神というのは、人間とどうかかわっているのでしょうか。
>御意見をお聞かせください。
かかわっているというより、既にこの世の諸々、あるいはあの世の諸々は、すべては
神の体である。ということでしょう。
神とは、
物質的、形的に目に見えるものすべてであり、
物理的、目に見えぬものの法則そのものであり、
人間的心情:愛等を持つ人格的存在であり、
生産的、破壊的、均衡的すべての力を保持されるものであり、
人間の考えること、行う事のすべてを把握されておられる存在である。
よって、地上の人間には、神の姿すべてを捕らえることは不可能である。
真のメシアが降臨くださったときには、神は彼の体の中で思惟し行動され、進化・深
化される。
人間は、言葉以上に「神に生かされているのである」。
神がいなければ人間もいなかったはずである。
「神は人間が作り出したものである」と、のたまわれる御仁は無知蒙昧であると言え
るでしょう。
ぼんがいちにょ【梵我一如】
インドのウパニシャッド哲学の根本思想。
宇宙の根本原理である梵(ブラフマン)と我(アートマン)とが同一であるというも
ので、このことを直観すれば、輪廻を超越できるとする。
この意味のことをおっしゃっていると解釈してよいのでしょうか。
> > > 唯一神というのは、人間とどうかかわっているのでしょうか。
> > > 御意見をお聞かせください。
> > 梵我一如
> ぼんがいちにょ【梵我一如】
> インドのウパニシャッド哲学の根本思想。
> 宇宙の根本原理である梵(ブラフマン)と我(アートマン)とが同一であるというも
> ので、このことを直観すれば、輪廻を超越できるとする。
> この意味のことをおっしゃっていると解釈してよいのでしょうか。
「かかわり」という事なので、己の中の神性を理解するという意味で用いました。
一神教、多神教、哲学などのいかなる思弁であろうとも真実へ向かった真理の
探求こそが神との「かかわり」であると私は思っています。
ただし、輪廻の超越自体は副次的な概念であり、パラダイムシフトの結果として
そういった認識にいたろうとも梵我一如の本質ではないと解釈しています。
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EN yasuhi...@jcom.home.ne.jp 【月下独酌】
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> イスラム教とキリスト教の衝突も一神教の衝突でしょうが、どう思いますか。
十字軍の昔から政治と経済の略奪であり宗教が主因ではないと思います。
唯一神の場合は
自分を含めた全ての事象が神の管理下にあるわけで、
それを信仰する信者間では共通のルールを構築しやすいとは言えるかと。
また、他の神を信仰する人間に対しては
相手の信仰する神を否定する傾向にあることもいえるかも。
つまり「仲間か敵か」の2択に陥りやすいのではないかと。
キリスト教とイスラム教の関係のように、
同一神を信仰していながら神の使いの立場及び教義が違う場合は特に。
--
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Taro Yoshida E-mail ta...@dcc.co.jp
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> また、他の神を信仰する人間に対しては
> 相手の信仰する神を否定する傾向にあることもいえるかも。
否定はできないと思います。
> つまり「仲間か敵か」の2択に陥りやすいのではないかと。
> キリスト教とイスラム教の関係のように、
> 同一神を信仰していながら神の使いの立場及び教義が違う場合は特に。
キリスト教とイスラム教が同一神しているという意見は時々耳にしますが
これは、どういう意味において同一神とあなたはいっているのでしょうか。
また、神はアラーのみというシュプレヒコールをするイスラム教徒は
あなたのいう同一神という認識があると思いますか。
その理由はなんでしょうか。
From: "J_Saita3 premium" <J_Sa...@hotmail.com>
Subject: Re: 一神教を考えよう
Date: Wed, 9 Jul 2003 23:47:48 +0900
> "Taro Yoshida" <ta...@dcc.co.jp> wrote in message
> news:befudb$7ru$1...@dccns.dcc.co.jp...
> > In article <3f085...@news.premium-news.net>, J_Sa...@hotmail.com
> says...
> > また、他の神を信仰する人間に対しては
> > 相手の信仰する神を否定する傾向にあることもいえるかも。
> 否定はできないと思います。
> > つまり「仲間か敵か」の2択に陥りやすいのではないかと。
> > キリスト教とイスラム教の関係のように、
> > 同一神を信仰していながら神の使いの立場及び教義が違う場合は特に。
> キリスト教とイスラム教が同一神しているという意見は時々耳にしますが
> これは、どういう意味において同一神とあなたはいっているのでしょうか。
コーラン(の解説書)でも読んでみて下さい。
旧約及び新約聖書の神とコーランの神が同じであると言うのはコーランの記述です。
岩波文庫に上中下巻の3点セットでありますよ。
その意味で言うなら原意においてユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は
同じ方なのです。
> また、神はアラーのみというシュプレヒコールをするイスラム教徒は
> あなたのいう同一神という認識があると思いますか。
認識がなければコーランを読んでいないと思われます ^^;
伝統的な解釈は
「アッラー(神)について間違った認識を(ユダヤ・キリスト教徒は)している 」
と言ったところでしょうか?
なお、「アッラー」とはアラビア語で「神」を意味する単語であって
固有名詞ではなかったのではないかな? まぁ、他に「神」に相当する
存在がないので誤解は生じない訳です。
I'm master of I myself, | e-mail kyr...@fan.gr.jp
I'm friends of yours, and | Web http://www.fan.gr.jp/~kyrina/
I'm slave of God. | 宮越正織
> なお、「アッラー」とはアラビア語で「神」を意味する単語であって
> 固有名詞ではなかったのではないかな? まぁ、他に「神」に相当する
> 存在がないので誤解は生じない訳です。
英語的に考えると "The God"、こういう場合はキャピタライズして、固有名詞
的に考えるわけです。
アッラーってのも定冠詞込ですが、大文字小文字(どころかあらゆる文字)がわ
からないので、固有名詞的なのかどうなのか…
#あと、キャピタライズに関してドイツ語のことは考えない:-P
日本語には定冠詞って概念がないのでその辺りも理解しにくいところかも知れ
ませんね。「いわゆる神」なんて訳しちゃうと、疎外感バリバリ。
多くの日本人はムスリムと付き合いが少ないせいか、イスラームの知識が全く
といっていいほどないです。
クルアーンは長いからしんどい方には、岩波新書から「イスラーム文化」(井
筒俊彦)って非常に良い本が出ているのでそれを勧めします。
#私もまだハディースには手をつけていませんが…
--
___ わしは、山吹色のかすてーらが大好きでのぅ
[[o o]] ふぉっふぉっふぉ
'J' 森下 お代官様 MaNMOS 英夫@ステラクラフト
PGP Finger = CD EA D5 A8 AD B2 FE 7D 02 74 87 52 7C B7 39 37
全ての意味において同一神です。
両宗教の違いは、
時代
(キリスト教成立時には、イスラム教の預言者ムハマンドは産まれていない)と
預言者の立場
(キリストはキリスト教では「神の子」、イスラム教では「預言者の一人」)と
そこに神から下された言葉程度ですから。
>また、神はアラーのみというシュプレヒコールをするイスラム教徒は
>あなたのいう同一神という認識があると思いますか。
あるでしょう。イスラムの基本中の基本ですから。
>その理由はなんでしょうか。
コーラン。
この辺の事情をコーラン紐解いて調べるのは大変でしょうから参考資料を。
イスラミックセンターの イスラームとはなにか
http://www.islamcenter.or.jp/jpn/Islamtowa.htm
に簡単にまとめてあるようです。
#ちなみにわたしはキリスト教徒でもイスラム教徒でもありません。
>イスラム教とキリスト教の衝突も一神教の衝突でしょうが、どう思いますか。
>"crx" <kimi...@crux.ocn.ne.jp> wrote in message
>news:bec0rh$rpa$1...@nn-tk102.ocn.ad.jp...
イスラム教もキリスト教も共に同じ神を信じているつもりなのですが、共に自ら、神
についての理解が発展途上であるために(また当然、自分達も発展途上の洞察のみで
あるため)敵を他に見ているのです。敵は自分の心の内部に潜んでいるのが分から
ず、長い長い戦いを続けているのです。自分の内部での戦いですから、「一人相撲」
ということです。とばっちりを受けるのは回りの純真な人々です。
神は深化しつづけ、「今、神は愛です。」(しかしここで、では愛とは何かの視点が
必要であるが、それは後程ということにして・・・)
愛であるはずの神を信じられれば、戦争なんてあるはずはないのです。
「神は愛である。」ということが本当に信じられる人物は、極、限られているという
わけです。
ですからみんなが、「神は愛である。」との全き理解に達することが重要ということ
です。
crx
only 09038...@ky.tu-ka.ne.jp
can receive 100 letters
ta...@dcc.co.jp (Taro Yoshida) wrote in message news:<beikc5$30$1...@dccns.dcc.co.jp>...
> In article <3f0c2...@news.premium-news.net>, J_Sa...@hotmail.com says...
> >"Taro Yoshida" <ta...@dcc.co.jp> wrote in message
> >news:befudb$7ru$1...@dccns.dcc.co.jp...
> この辺の事情をコーラン紐解いて調べるのは大変でしょうから参考資料を。
>
> イスラミックセンターの イスラームとはなにか
> http://www.islamcenter.or.jp/jpn/Islamtowa.htm
> に簡単にまとめてあるようです。
>
> #ちなみにわたしはキリスト教徒でもイスラム教徒でもありません。
なかなかコンパクトでわかりよい資料をありがとうございました。
ただ同じ神かどうかという議論に私はあまり関心がありません。
コーランを読みなさい、井筒さんの本にでていますとかいう議論はなにか的外れな気がするのです。同じ神といってふんぞり返っている方々へ。同じ神?そうでしょうか。
どこかの本に書いてあるから同じ神?コーランに書いてあるから同じ神?
まだ本を読んでないのですねなどとピンとはずれなことを言ってる人もいますがこういう人は、同じ神だから、はい、これで、一神教の問題はおわり、とでもいってるようですね。こういうかたは、このトピックではお呼びではないのでもうひっこんでいてくださいね。
本題に戻します。
この記事に返信したのはあなたの指摘したurlが、単に、本を読んでるとか、あの本を見ろとかの不毛な返答記事ではなく、人にわかってもらおうという真心ある記事だったからです。そのいみで、Taro
Yoshida氏にまず、感謝いたします。
さて、同じ神であるかどうかという議論と、一神教を考えるということの問題の本質とはかなり乖離があると思いますね。
・そもそも同じ神を指している、という言い方そのものですが、擬人化して表現してるところがまずはじめに、正確さを欠いているのではないでしょうか。神がいかなる実態なのか誰も知らないのです。マホメットが神に選ばれた神からの言葉を預かった人などといっても、それが本当だと、誰が絶対的見地から証明できるというのですか。信じた人のみが受け入れるだけではないでしょうか。1+1=2というような公式で演繹できることではないですよね。なのに、神という実態が存在していて、しかも、それは、擬人化されて、表現できるもので、さらに、マホメットがその未解明の神なる実態がほんとうにあってその未解明の神なるものに神の言いたいことを伝言したなんてことが真実であると誰も証明することはできません。ただ、信じるということができるかできないか野問題にすぎません。
・つぎに、どうしてキリスト教の信じる神とイスラム教の信じる神とが元は同じであったとしてその教えが違うといえるのでしょうか。コーランと聖書が違うから?
本当でしょうか。どこが違うのですか?
もし違ったた内容のことが神なるものにかかれていたとして、それがどうかしましたか?ただ書かれていたという事実があるだけで、なんら、それぞれが信じる神なるものの実態というか本体が違うことの証明にはなりません。
・そうすると、
?「神の存在も確証できない。ただ、しんじているだけ」
?「神なる実態が同じものあると仮定したとして、神の教えが違っているという事実を確証することもできない」
?「ただ神がいると信じてるものが、
同じ神であると信じている異教徒同士で
同じ神であるが神の教えを違えて解釈していると信じているものがいる」
?「?の者たちが、私たちこそ、神の教えを正しく解釈していると信じて
異教徒に敵意をもって実力行使を行っている集団が国家レベルで存在している」
一神教の持つある種のストレートさは、自分たちの信じている神のみが本当の神であり、自分たちの信じている神以外の神を信じているものたちは、ゴイム(獣)であるとか、異教徒は、人間ではない。正しい神と自分個人との契約で成り立っているのが神とのただしい契約であり、異教徒の神と異教徒が何を契約しようが、そいつらは獣であるり、すくなくともまともな人間ではない、という解釈が根底にながれている、ここに一神教のある種の特徴があると私は思います。
こうした一神教的な特徴は、なにも、一神教のみのものではなく、政治的な主義や、仏教などのような一神教でない宗教においてでさえ、たとえば創価学会と日蓮正宗のような同属遇い争う宗教対立があります。これも一神教的だと思います。
以上、以上一神教的な特徴を私は感じており産ます。
> こうした一神教的な特徴は、なにも、一神教のみのものではなく、政治的な主義や、仏教などのような一神教でない宗教においてでさえ、たとえ
ば創価学会と日蓮正宗のような同属遇い争う宗教対立があります。これも一神教的だと思います。
> 以上、以上一神教的な特徴を私は感じており産ます。
貴方が言われた事の方が宗教を奉じている社会集団の外的特徴を列記しているだけであり
「宗教そのもの」とは本来同次元で語られる話ではありません。人間集団のダイナミズムに
ついて話されたいのなら社会学か政治のグループに行かれた方が宜しいのでは?
>さて、同じ神であるかどうかという議論と、一神教を考えるということの問題の本質とはかなり乖離があると思いますね。
>
>・そもそも同じ神を指している、という言い方そのものですが、擬人化して表現してるところがまずはじめに、正確さを欠いているのではないでしょうか。神がいかなる実態なのか誰も知らないのです。マホメットが神に選ばれた神からの言葉を預かった人などといっても、それが本当だと、誰が絶対的見地から証明できるというのですか。信じた人のみが受け入れるだけではないでしょうか。1+1=2というような公式で演繹できることではないですよね。なのに、神という実態が存在していて、しかも、それは、擬人化されて、表現できるもので、さらに、マホメットがその未解明の神なる実態がほんとうにあってその未解明の神なるものに神の言いたいことを伝言したなんてことが真実であると誰も証明することはできません。ただ、信じるということができるかできないか野問題にすぎません。
>
同感です。同じであるとかないとかは意味のない議論です。
同じだからなんだというのでしょうか。解釈が違うことで間違った宗教だと見
くだしているわけです。つまり、同じ神であるかどうかなどという次元の議論
は何の意味もない空論です。
>・つぎに、どうしてキリスト教の信じる神とイスラム教の信じる神とが元は同じであったとしてその教えが違うといえるのでしょうか。コーランと聖書が違うから?
>本当でしょうか。どこが違うのですか?
>もし違ったた内容のことが神なるものにかかれていたとして、それがどうかしましたか?ただ書かれていたという事実があるだけで、なんら、それぞれが信じる神なるものの実態というか本体が違うことの証明にはなりません。
そうですね。違うということを証拠だてることは誰にもできないと思います。
むしろ、不可知なものを自分たちだけは正しく知っているという思い込みがな
んとも狂信的で気持ちの悪いものです。
世の中の宗教というのが、こうした信じるという原点で成り立っているという
ことを、人々は、常に認識すべきでしょう。それが、「正しい。よって、的を
裁く」ということになりますと、横暴が大手を振ってまかり通ります。
一神教というのは、一心狂と重なるものではないでしょうか。他人も自分と同
じように分かってない人だ。そういう基点で眺めることなく、常に自分たちが
絶対的だと言い張ることは、本当は何も正しい証明がないのに、その自分の狂
信で相手をこの世から葬り去るところに行き着くものです。
これは、宗教のナショナリズムのようなものです。
>こうした一神教的な特徴は、なにも、一神教のみのものではなく、政治的な主義や、仏教などのような一神教でない宗教においてでさえ、たとえば創価学会と日蓮正宗のような同属遇い争う宗教対立があります。これも一神教的だと思います。
>
多くの日本人は葬式仏教を利用しているのみです。仏教そのものに触れるのは
葬式のときのみ。しかし、大きな声で念仏を唱えることは御利益があるという
信仰をもった集団もありまして、こううなると現世御利益のための現実的な道
具です。
こうなると、日本人も一心狂で、なんら一神教の他を間違いとののしる人々と
と変わるものではありません。しかし、一神教でも他を認めて尊重する方もい
ることはいるでしょう。それでも、ただ自分はこれを信じているだけで、絶対
的な見地で正しいことを証明できるわけではないと言い切る人は本当に一神教
信者にいるのかはなはだ疑問。
日本人はヤオヨロズの神々を信じる国だという人もいますが、これは、かなり
うがった見方。ただ、神などはこまったときの神頼みくらいにしか意識しない
無信仰心しか持ち合わせないだけ。せっせと現世利益にしか動かないまさにゴ
イム。
--
虎雄 mailto:gahs...@arizona.co.jp
> なかなかコンパクトでわかりよい資料をありがとうございました。
前提と環境と仕事以外アッラーになりたいよ~
十字軍は、最初の一回目だけは聖地回復という目的が漂って
いましたが、以後は悉く略奪目的やそれに乗じた人身売買等の
経済活動ですね。当時の十字軍関係者以外が見れば、単なる野
盗です。
シンプルな話ですが、戦略には強者の戦略と弱者の戦略があ
ります。強者は現状維持をしようとし、弱者は現状打破をしよ
うとする。
弱者の立場になった人たちは、打破をするために手を組みま
す。その組み方のルールが「民族を同じくする」であれば民族
自決主義を唱えるでしょうし、「宗教を同じくする」であれば
見かけ上宗教戦争っぽくなるでしょう。
要するに、そういうことであって、キリスト教とイスラム教
の違いによる反目は主として手段であって本質ではないもので
す。実際、十字軍の頃やそれ以前のアラビア世界が栄えていた
時代は、イスラム教もキリスト教も平和的に共存していました。
例えばイスラム教の学者がキリスト教を研究して大家になって
いたり、ヨーロッパの学者がそれを学びに留学してきていたく
らいです。
--
頼光 mailto:rai...@mug.biglobe.ne.jp
本を紹介することは「人にわかってもらおうという真心」が無いと断じる姿勢に
まず問題を抱くことが必要でしょうね。
>さて、同じ神であるかどうかという議論と、一神教を考えるということの問題の本質
>とはかなり乖離があると思いますね。
>・そもそも同じ神を指している、という言い方そのものですが、擬人化して表現して
>るところがまずはじめに、正確さを欠いているのではないでしょうか。
「同じ」が擬人化?
>ただ、信じるということができるかできないか野問題にすぎません。
何が問題なのでしょう?
>・つぎに、どうしてキリスト教の信じる神とイスラム教の信じる神とが元は同じであっ
>たとしてその教えが違うといえるのでしょうか。コーランと聖書が違うから?
>本当でしょうか。どこが違うのですか?
>もし違ったた内容のことが神なるものにかかれていたとして、それがどうかしました
>か?ただ書かれていたという事実があるだけで、なんら、それぞれが信じる神なるも
>のの実態というか本体が違うことの証明にはなりません。
こんなのは、それこそ「本を読め」で済む話でしょう。
世の中にはたくさん、そういうことを研究したり解説している本が出ています。
例えば、小室直樹の「日本人のためのイスラム言論」なんか、いいですね。
>・そうすると、
>?「神の存在も確証できない。ただ、しんじているだけ」
>?「神なる実態が同じものあると仮定したとして、神の教えが違っているという事実を確証することもできない」
「確証」という単語をどうやら動詞として使っているようですが、それは私の
知らない用法です。いくつか辞書も引いて確認しましたが、通常は「確実な証拠」
という名詞として使う単語でしょう。
どういう意味で使っているのですか?
>一神教の持つある種のストレートさは、自分たちの信じている神のみが本当の神で
>あり、自分たちの信じている神以外の神を信じているものたちは、ゴイム(獣)で
>あるとか、異教徒は、人間ではない。正しい神と自分個人との契約で成り立ってい
>るのが神とのただしい契約であり、異教徒の神と異教徒が何を契約しようが、そい
>つらは獣であるり、すくなくともまともな人間ではない、という解釈が根底になが
>れている、ここに一神教のある種の特徴があると私は思います。
異教徒は人間ではない、というのはキリスト教の考え方であって一神教という
レイヤーの話ではないでしょう。
モーゼだってエクソダスのときにすらエジプト人を「人間ではない」なんて言っ
ていません。
イスラムのカリフでも、そんなことを言った人は、少なくとも私は知りません。
>こうした一神教的な特徴は、なにも、一神教のみのものではなく、政治的な主義
>や、仏教などのような一神教でない宗教においてでさえ、たとえば創価学会と日
>蓮正宗のような同属遇い争う宗教対立があります。これも一神教的だと思います。
>
>以上、以上一神教的な特徴を私は感じており産ます。
遠藤氏が「社会集団の外的特徴」と述べていますが、私も同意。
もっと、何がしたいのか考えることをお勧めします。
--
頼光 mailto:rai...@mug.biglobe.ne.jp