02、 人生の目的と達成するための手段。

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Jul 9, 2015, 5:03:30 PM7/9/15
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小野友幸 様

(^◇^)
おはようございます。(^◇^)

どこでプレーしても
俺の成長はあるわけで。

本田圭佑
(日本の現役プロサッカー
選手 / 1986~)


(^◇^)
いつも
ありがとうございます。


(^◇^)
健やかに
お過ごしください。


01から続く、

「ドゥッカ」はしばしば「苦」と
訳されますがそれ以上のものです。

ドゥッカはたしかに精神的、
肉体的苦を意味しますが、

それはまた人生は失望に満ちて
いることを意味します。

私たちは、物事が今あるよりも
別のものであることを好みます。

私たちが歳を取ると、
若いままであったらと思います。

私たちが貧乏であると、
お金があったらと思います。

苦(ドゥッカ)は、
生、
病、
老、
痛み、
絶望、
好きな人と別れること、
嫌いな人と一緒にいなければならないこと」です。

これらすべては
苦(ドゥッカ)の見本であり、
四聖諦における第一の真理です。

 人生における物事の本性が何であれ、
私たちは常に物事が
今あるままより
別のものであることを切望します。

「人生とは不満足である」という
事実に直面したがりません。

私たちは、
あれやこれやの物を
もっと求めることにより、

この不満足を和らげようと努めます。

 このことが、
四聖諦の第二の真理へと導きます。

苦の原因は三毒と呼ばれる、

貪欲あるいは
執着、
怒りあるいは
憎しみ、そして
迷妄な心に根を持ちます。

私たちは、人々や物に執着しがちです。
そしてそれから引き離されると、
落胆に苦しみます。

私たちは、
それらが
永遠に続くように執着し、
永続しないという事実を受け入れ難いことに気づきます。

私たちは好きでないものに対し
怒り、あるいは
嫌悪を感じます。

 仏教は、
「怒りはそれが向けられている対象よりも、
怒っている本人を害する」と教えています。

怒りは血液を熱くする原因になり、
不快な容貌を作り出します。

私たちが誰かに対して怒れば、
それだけ相手は反応し、
怒りは増大します。
怒りは非生産的であり、
問題を解決しません。

私たちの心は、
物事をあるがままに
見ないために惑わされています。

それは、
無常(アニッチャー)、
失望(ドゥッカ)、

永続する自己や実体がないこと
(アナッター)です。
物質的なもの、
非物質的なものすべてが変化し、
無常である主体です。

 私達は今、
各自の椅子に快適に座っていることでしょう。

しかし、
この後3時間も動かずに座り続けたら、
椅子を快適だと思えるでしょうか。

あるいはもし皆さんが
1ヶ月も座り続けたら、

多分足を壊し、動くことが不可能に
なっていることに気づくでしょう。

あるいは、もし
私達が100年間その椅子に座り続けたら、
おそらく白骨になっているでしょう。

そして椅子の方もかなり
みすぼらしくなっていることでしょう。

 快適と思われるものから出発しても、
すぐに不愉快なものに変化してしまいます。

すべては関係しています。
私たちが物事を見る仕方は、

時間、
空間、
現在の状況に基づいています。

私たち自身は変化の主役です。
体の中のすべての
細胞は絶えず
年を取り、
死に、置き換わります。

私たちの思い、考えは絶えず
変化し修正されます。

この美しい世界へ来てからの
皆さんの思いや考えは、
来る前のそれとは違っています。

それはずいぶんと変わりました。
私達の中で変化しないものがあるでしょうか。

私はそうは思いません。
それゆえにブッダは、
究極的な感覚において、

あなたというもの
あるいは変化しない
実在は存在しないと語りました。

機械の中でボタンを
押して動かしている

幽霊がいるわけではありません。
この変化という概念、

そして無我という考え方への理解は、
受け入れるのが難しい、
それゆえ苦です。

四聖諦における第三の真理は、
「苦を超えること」に関わります。

それは苦の原因である、
貪欲、
怒り、
迷妄を越えることです。

この「苦を乗り越えること」は
「涅槃」ネハンと
名づけられます。

「涅槃」ネハンは場所ではなく、
「物事をあるがままに見て、

迷妄マヨイによって曇ることが無い
心の状態」と述べられています。

それは心の状態以上のもので、
推測や詳述することが不可能です。

 ブッダは涅槃について
次のように語っています

比丘ビクたちよ、
「いまだ生じていないもの、
生成されていないもの、
作られていないもの、
合成されていないもの」が存在する。

もし
この、
「いまだ生じていないもの、
生成されていないもの、
作られていないもの、
合成されていないもの」が

無ければ、
明らかに、
「生じ、生成され、作られ、
合成されたもの」からの
解脱はありえない。

しかし比丘ビクたちよ、
「いまだ生じていないもの、
生成されていないもの、
作られていないもの、
合成されていないもの」が

在るゆえに、
あれやこれやの
「生じ、生成され、作られ、合成されたもの」
からの解脱ゲダツは明白なのである。

 ある者は
「いまだ生じていないもの、
生成されていないもの、
作られていないもの、
合成されていないもの」を

神と関連付けます。
しかし、
仏教徒は
神という言葉を
使うことに慎重です。

神は様々な人にとって
異なるものを意味します。

ある人々はこの
世界を作った
私たちのように、

人間に似せて
神を語るでしょう。

また他の人々は、
キリスト教の宗教哲学者
ポール・ティリッヒのように、

「神とは存在の基礎であり、
存在の真実である」と語ります。

他方で、
そういうものは超越的な存在を
語るのにふさわしくない、として
神を定義したがらない人々もいます。

 仏教徒が神という言葉を避けるのは、
その言葉を取り巻く混乱のためです。

仏教徒は
「いまだ生じていないもの、
生成されていないもの、
作られていないもの、
合成されていないもの」である

涅槃ネハンについて語ります。
涅槃は多くの非仏教徒たちが
非難する虚無主義ではなく、

生成を越えたところにある状態
―超越的な状態です。

それは私たちの知っている
世界のいかなる物事にも
比較することが出来ないので、
いかに定義すべきか難しいのです。
すべての記述は不適当なものです。

 四聖諦の第四番目は、
涅槃の状態を得るために
ブッダが説いた方法で、
聖なる八正道と呼ばれています。

なぜ聖なる(アーリア)と言う言葉が
この道に使われるか、
不思議に思われるかもしれません。
道を歩むものは、
聖者あるいは価値有る人と考えられているからです。

八正道の八つの段階とは、
正見、
正思惟、
正語、
正業、
正命、
正精進、
正念、
正定です。

 正見は四聖諦によって導かれる、
苦を乗り越える知識です。
それは真理の
全体的理解を含むものではありませんが、
真理に対する信頼によって、
道に従っていけば
涅槃ネハンが得られるということです。

 正思惟はいつも思考と行動に気づいていることで、
いかなる生き物に対しても害することを避けます。

正語は話すことに気づいていることで、
聞き手にとって有益なことを話します。

正業は行動について気づいていることです。
そして、
「生命を奪わない。
与えられていないものをとらない。

性的不道徳をしない。
嘘や騙すことをしない。
心をゆがめる傾向のある

アルコールや薬物を取らない」という
五戒を守ります。

自らと他の生命あるものに対して
害になるような、
いかなる行動も根本的に避けるべきです。

次回へ続きます。

ねはん【涅槃】の意味
ねはん【涅槃】とは。
《(梵)nirvāṇaの音写。
吹き消すことの意》仏語。

1 煩悩 (ぼんのう) の火を消して、
 知慧 (ちえ) の完成した悟りの境地。

 一切の悩みや束縛から脱した、
 円満・安楽の境地。仏教で理想とする、
 仏の悟りを得た境地。2 釈迦。

03へ続けます。自己を高められると
それに準じて、自己境地も開けます。


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