中村 粲著の「大東亞戰爭への道」より引用(P401_P410)
保安隊、デマ放送に踴り反亂す
盧溝橋事件發生から三週間後の七月二十九日、北平東方の滿州で中國保安隊
による大規模な日本人虐殺事件が發生した。世に謂ふ「通州事件」である。
中國に氣兼ねする余り、我國の歷史學者が國を緘し、教科書も新聞も雜誌も
一行すら書かうとせぬこの世紀の大虐殺——。恨みを飲んで殺された二百數十
名の同胞への鎮魂の氣持を入めて、この事件を書き留めておかう。
通州の冀東防共自治政府は、昭和十年、親日家の殷汝耕が南京政府から離脫
して創設した政權で、一万余冀東保安隊を有してゐた。この保安隊は、昭和八
年塘沽停戰協定に基づいて置かれたものであつたが、所要以上の人員を有し、
また銃と劍だけでなく、機關銃や野砲も持ち、保安隊と稱し得る以上の戰鬥能
力があつた。
さて通州の寶通寺に中國第二十九軍の一個營が駐屯してゐたが、七月二十五、
二十六日廊坊、廣安門の兩事件が發生するに至つて、通州特務機關も、この寶
通寺部隊の處理を考へる必要に迫られた。この部隊は日中關係惡化と共に、去
就すこぶる曖昧になり、放置しておくのは危險と判斷されたのである。そこで
廊坊事件直後の二十六日、日本側は寶通寺部隊に對して北平への撤退を求める
最後通告を行なつた。
だが中國軍からの回答はなく、遂に二十七日早朝、我軍は攻擊を開始、正午
までに、寶通寺部隊は敗走、潰滅した。ところがこの戰鬥で、支援のため飛來
した關東軍の爆擊機が、誤つて寶通寺兵營と鄰接する冀東保安隊幹部訓練所に
爆彈を投下し、數名の保安隊員が死亡するといふ不幸な事態が起きたのである。
保安隊は我が爆擊機が對地戰鬥を開始するや、好奇心から隊員一同が訓練所校
庭に飛出して爆擊を見物してゐたのだが、飛行機には冀察と冀東の境界線も保
安隊訓練所の位置も分からず、腳下で騷いでゐる保安隊を二十九軍の一味と速
斷したのも無理のないことであつた。誤爆の報に接するや、細木特務機關長は
直ちに冀東政府の殷汝耕長官を往訪し陳謝するとともに機關長自ら現場を視察、
遺族の弔慰に奔走した。更に翌二十八日には保安隊教導總隊幹部一同に對して
誤爆について釋明し、慰撫に努めたのであつた。
丁度、事件の起こつた二十七日頃、デマを流すので有名な南京放送(中國國
民政府の御用放送)が「盧溝橋で日本軍は二十九軍に慘敗し、豐台と廊坊は完
全に中國軍が奪還した。中央は陸續、華北の戰野に兵を進めつつあり、日本軍
の潰滅も旬日のうちであらう」と事實と正反對の放送を流した。南京放送は最
後に「軍事會議の結果、蔣委員長は近く二十九軍を以て大舉冀東を攻擊し、偽
都•通州を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにすることを決議した」と叫んでゐた。
これは我が北平特務機關が聽取したのである。
このデマ放送が北平方面の實狀に疏い通州の中國兵に相當の心理的動搖を与
へたことは疑ひない。通州保安隊は張慶余指揮の第一總隊と張研田指揮の第二
總隊であつたが、早くから人民戰線運動の影響を受けてゐた。「日本軍敗走」
「冀東攻擊」といふ南京のデマ放送は、彼らの抗日態度を決定的ならしめ、日
本側に付いてゐるよりも二十九軍側に寑返つた方が有利であるとの誤つた判斷
を抱かせたに違ひない。
折も折、通州の日本守備隊は、主力が南苑攻擊に向ひ、留守部隊は藤尾小隊
四十名、山田自動車中隊五十名、それに憲兵、兵站、兵器部その他を合はせて
百十名程度の微弱な兵力でしかなかつた。我が部隊の手薄なこの時期を狙つて、
張慶余、張研田の兩保安隊隊長は非望を實現せんとしたのである。
七月二十九日撗曉、保安隊は日本軍民への襲擊を開始した。夜陰に乘じて長
官公署を襲つて殷汝耕を拉致し、主力は日本軍守備隊を襲擊した。我方の殘留
兵力は極めて僅少であつたが、千數百を算する敵の攻擊に對して死力を盡くし
て戰つた。守備隊には輕機關銃、小銃、手榴彈があるのみで重火器はなかつた。
保安隊の裝備の方が遙かに優れてゐた。守備隊は敵の集中砲火を浴び、死傷者
の續出する中で擊退に努めたが、居留民や特務機關まで守る余裕はなかつた。
鬼畜と化した中國保安隊の日本居留民に對する暴虐は、この間に進行してゐた。
また通州特務機關は、一個中隊ほどの保安隊の襲擊を受け、二名の少年給(日
本人)を含む機關員が死力を盡して應戰したが、數十倍の敵には抗し難く、遂
に全員が壯絕な最後を遂げ、特務機關は全滅した。
惡獸も及ばぬ獵奇の慘殺劇
中國保安隊は我が守備隊や特務機關を攻擊したのみならず、日本居留民の家を
一軒殘らず襲擊し、無辜の居留民(多數の老幼婦女子を含む)に對して掠奪、
暴行、凌辱、殺戮などおよそ殘虐の限りを盡した。中國兵特有の獵奇的な殺害、
處刑の場面が白晝堂々、各所で展開された。その凄慘なること、かつての南京•
濟南兩事件を上回り、我軍の危懅した通り、尼港事件の再現となつたのである。
東京裁判で弁護側は、同事件に關する外務省の公式聲明を証據として提出し
たが、ウェップ裁判長はこれを卻下した。所謂“南京事件”で裁判所が中國側
の公式資料を証據として採用したことを考へると、公平を欠いた裁判指揮であっ
た。しかし虐殺現場を目擊した証人の宣誓口供書は受理されたので、そこから
慘劇の一端を拾ひ出してみよう。
當時、天津步兵隊長及び支那駐屯步兵第二連隊長で、七月二十八日南苑戰鬥
に參加した後、三十日午後通州に急行して邦人救援に當つた萱島高証人は凡そ
次の如く証言した。
「旭軒(飲食店)では四十から十七∼八歲までの女七、八名が皆強姦され、
裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、その中四、五名は陰部を銃劍で
突刺されてゐた。商館や役所に殘された日本人男子の屍体は殪どすべてが首
に繩をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絕したものだ
つた」
まさになぶり殺しではないか。中でも悲慘を極めた旅館•近水樓での慘劇に
ついて通州救援の第二連隊步兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
「近水樓入口で女將らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顏だけに新聞
紙がかけてあつた。本人は相當に抵抗したらしく、著物は寑た上で剝がされ
たらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃劍で突き刺した跡があつた
と記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散亂してゐた。帳場や配
膳室は足の踏み場のない程散亂し、掠奪の跡をまざまざと示してゐた。女中
部屋に女中らしき日本人婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだやう
だつた。折り重なつて死んでゐたが、一名だけは局部を露出し上向きになっ
てゐた。帳薄配膳室では男一人、女二人が橫倒れ、或いは上向いて死んで居
り、鬥つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巢のやうだつた。
女二人は何れも背部から銃劍を突き刺されてゐた。階下座敷に女の屍体二つ、
素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行つたこと
のあるカフェーでは、繩で絞殺された素っ裸の女の屍体があつた。その裏の
日本人の家では親子二人が慘殺されてゐた。子供は手の指を揃へて切斷され
てゐた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置し
てあつたが、胸腹の骨が露出し、內藏が散亂してゐた」
(注)近水樓を襲擊したのは武裝した黑服の學生團と保安隊であつた。彼
等は女中數名を慘殺、殘る十數名の男女從業員•宿泊客に對して金品を強
奪した後、全員を麻繩で數珠つなぎにして銃殺場に引出し、處刑したので
あつた。その凄慘極まる處刑場の情況については、當時だれ一人これを知
る者もなかつたが、當日近水樓に泊り合はせた同盟通信特派員•安藤利男
氏が命がけで銃殺場から脫走し、北平に辿り著いた結果、世界はその慘劇
の實相を知つたのであつた。安藤氏の手記は『續對支回顧錄』に、体驗談
は寺平前揭書に收錄されてゐる。安藤氏の体驗記は「通州の日本人大虐殺」
として『文藝春秋』昭和三十年八月號に揭載され、その後『文藝春秋にみ
る昭和史』第一卷(昭和六十三年)にも轉載されたが、それには、いかに
も戰後のものらしい解釋がつけ加へられてゐる。
支那駐屯步兵第二連隊小隊長として七月三十日、連隊主力と共に救援に赴い
た櫻井文雄証人によれば
「守備隊の東門を出ると、殪ど數間隔に居留民男女の慘殺死体が橫たはつて
居り、一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戶每
に調查してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老
婆、腹部を銃劍で刺された妊婦等の屍体がそこここの埃箱の中や壕の中など
から續々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と兩手を切斷され慘殺
されてゐた。婦人といふ婦人は十四、五歲以上はことごとく強姦されて居り、
全く見るに忍びなかつた。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺
されて居り。陰部に帚を押し入んである者、口中に土砂をつめてある者、腹
を縱に斷ち割つてある者等、見るに耐へなかつた。東門近くの池には、首を
繩で縛り、兩手を合はせてそれに八番鐵線を貫き通し、一家六名數珠つなぎ
にして引き回された形跡歷然たる死体があつた。池の水は血で赤く染まつて
ゐたのを目擊した」
實に惡鬼も目をそむける酷たらしい淫虐の情景が次々と証言されて行つた。
それは正しく惡獸も及ばぬ極惡無道の所業であった。
(注)お決まりの虐殺方式 右の東京裁判証言に明らかな如く、通州事件
でも、頭部切り落とし、眼球抉り取り、胸腹部斷ち割り、內藏引き出し、
陰部突刺など支那軍特有の獵奇的虐殺が日本人同胞に對して行はれてゐる。
日清戰爭以來、お決まりの慘殺パターンと云つてよい。
事件は保安隊の計畫的行動(中國側新資料)
在留日本人三百八十名中、慘殺された者二百六十名。冀東防共自治政府二カ
年足らずの歷史は、ここに通州事件と云ふ世紀の慘劇を以て幕を下ろした。中
國人が日本人を虐殺した數多くの事件の中でも、その凄慘なることで通州事件
を凌ぐものはない。その殘忍なること、惡鬼すらかくまではすまじ、と思はれ
る極惡の所業であつた。通州事件發生は昭和十二年七月二十九日、“南京事件
”は十二月である。“三十万人虐殺”などの荒唐無稽を筆者は信じないが、假
に南京で激昂した日本人兵による若干の暴虐が行はれたとしよう。筆者は、も
し通州事件なかりせば、五カ月後の所謂南京事件は發生しなかつたであらうと
考えてゐる。それ故、歷史教科書などで、通州事件に言及せずして“南京大虐
殺”を強調するのでは、甚だ偏頗な歷史教育になるのではないかと思ふ。
通州事件は冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舍を誤爆され、疑心暗鬼
となつて起した反亂であるとの說が我國では流布してゐる。つまり誤爆した日
本側に責任がある、とする例の日本惡玉論の亞流である。だが、日本軍誤爆說
は昔日のものであり、もはや中國でさへ通用しない。誤爆があつたのは昭和十
二年七月二十七日だが、誤爆を知つた細木特務機關長は直ちに冀東政府長官•
殷汝耕を往訪陳謝すると共に、自ら現場を視察し、遺族の弔慰に奔走、翌二十
八日保安隊教導總隊幹部一同に對し、誤爆原因について釋明、慰撫に努めてゐ
る。誤爆原因說では保安隊の反亂やその後の日本人大虐殺は說明し切れず、通
州事件の說明としてはいま一つ釋然とせぬものが殘つてゐたのだ。
所が近年になつて、通州事件は冀東保安隊第一、第二總隊の計畫的行動であ
ることが中國側資料によつて明らかとなつた。例えば張慶餘(當時冀東保安隊
第一總隊長)の「冀東保安隊通縣決起始末記」(元國民黨將領抗日戰爭体驗記
叢書『七七事變』所載)や「戰火蔓延、平津陷落」及び「冀東保安隊の決起に
ついて」(武月星他『盧溝橋事變風雲編』)等である。詳細は割愛するが、要
はかうである。
昭和十年十一月に冀東防共自治委員會が成立して河北保安隊が冀東保安隊と
改稱されるや、第一總隊長•張慶餘は河北省主席•商震に指示を仰いだところ、
暫く表面を糊塗すべしと云はれた。十二月、冀察政務委員會が發足して宋哲元
が委員長に就任すると、張慶餘は第二總隊長•張硯田と共に哥老會(明代から
の秘密結社)の首領•張樹聲を通じて宋哲元と面會した(張慶餘•張硯田とと
もに哥老會會員)。宋哲元は兩名の抗日決意を「政府を代表して」歡迎すると
述べ、軍事訓練を強化して準備工作をしつかりやれと命じ、各々に一万元を贈
つた。二人が「委員長に從つて國家に忠誠を盡す」旨を述べると、宋哲元「素
晴らしい、素晴らしい」と云つた。通州での決起はこの會見と關係がある——
かう張慶餘は告白してゐるのだ。
翌昭和十一年春には、張硯田の第二總隊內にすでに中共支部が結成されてゐ
た。宋哲元との會見以後、冀東保安隊は第二十九軍(宋哲元軍長)と秘密裡に
連攜を保つたが、昭和十二年七月蘆溝橋事件が發生すると、張慶餘は河北省主
席•馮治安に指示を仰いだ(宋哲元は北平に不在)。馮は第二十九軍の開戰に
呼應して通州で決起し、同時に一部保安隊で豐台を側面攻擊して挾擊の效果を
舉げよと指示すると共に第二十九軍參謀長•張 亭と連絡と連絡せしめ、張越
亭は直ちに冀東保安隊第一、第二總隊を先頭序列に編入した。
他方、張慶餘、張硯田總隊長は、通州特務機關長細木中佐が、第二十九軍の
通州攻擊を防ぐために開いた軍事會議の席上、密かに示し合はせて細木機關長
を欺き、分散してゐた配下の保安隊を通州に集結させるやう提案した。兩名を
信賴してゐた細木中佐はこれに贊成、かつ散在してゐた日本居留民を保護する
ため通州に集合させたのであつた。期くして準備が整ふや、七月二十八日夜十
二時を期して通州城門を閉鎖し、一切の交通、通信を遮斷して決起に移つたの
であつた。
中國側の最新資料によれば通州反亂に至る事情は大要右の通りである。「誤
爆」など何處にも出てこない。通州事件は二年間にわたる隱密裡の計畫に基づ
く日本人襲擊事件だつたのであり、日本機に兵舍を誤爆され、疑心暗鬼となつ
て保安隊が起した事件などでは全然ない。
事件は右の如く計畫に基づく反日蜂起ではあつたが、保安隊がその計畫の實
行に踏切つたについては、誤爆のやうな突發事件によつてではなく、別の、も
つと打算的な原理によつて動かされたと見るべきであらう。既述の如く、南京
政府は「日本軍敗走」といふデマ放送を流してゐた。「日本軍を破つた」宋哲
元の二十九軍が冀東に攻め入んできたら自分達の運命はどうなるのか。この際、
冀東政府についてゐるのは甚だ危險である。機先を制して殷汝耕を生けどりに
し、これを宋哲元と蔣介石に獻上するなら、必ず恩賞に与ることができるに違
ひない。これが南京のデマ放送を信じた反亂者の思惑だつたのである。そして、
昨日まで友軍であつた日本守備隊に對し、その兵力の最も手薄な時を見計らつ
て蜂起、襲擊を敢へてしたのであつた。
殺のために殺を好む
保安隊のこのやうな動機は、信義を踏みにじつても強者につくといふ、權謀
術數渦卷く戰亂に明け暮れてきた支那民族特有の叛服常なき性格に根ざすもの
であり、信義を重大なものと考へる我が國民の到底理解し難いところである。
(注)通州人の特性 通州人は由來、輕佻浮華、輕較の術に長じ、打算的
で義俠心がないと云はれる。金、元、明、清各朝の興亡史に「通州陷る」
「通州降る」などの文字が見えるのもこのためだと云ふ。通州に昔「渡橋
降伏」といふ言葉があつた。敵が八里橋(通州城西門から八華里にある橋
で通州八景の一つ)を渡つてしまへば降伏するに如かず、の意味である。
このやうに鼓騷城外に迫れば戰はずして通州人の心膽は冰の如く冷たくな
り、忽ちにして腰を拔かしてしまふ性向があると論ずる向きもあるが(中
野江漢「事變と北支の風物」、『文藝春秋』昭和十二年九月號)、通州事
件を考へる上で參考になるかも知れない。
斯かる背信行為そのものが許し得ないことであるが、假に百步讓つて、日本
守備隊に對する攻擊は、保安隊がすでに共產思想に染まつてゐたことからして
理解できる面があるにしても、無辜の日本居留民二百六十余名の慘殺は全く殺
のために殺を好む鬼畜も所業であり、天人共に許さざる蠻行である。罪なく、
抵抗力もなき幼兒•婦人に對してさへ、一片の憐れみの情を示すこともなく、
ただ日本人であるからと云ふ理由で白晝平然と犯し、掠め、凌辱し、慘殺して
行つた彼等支那保安隊は、人身を裝ふ惡鬼惡獸と云はずして何と呼ぶべきであ
らうか。
通州事件なければ“南京事件”なし
通州事件の報が傳はるや、我が國民の憤慨は頂點に達し、轟々たる世論が日
本全土に沸騰した。この民族の痛憤が、四カ月後の南京攻略に於て若干の報復
行為となつて爆發したとしても、あながち不思議ではない。
凡そ報復は人間感情の本質的な部分に屬する。一体、どの個人が、どの民族
が、己の肉親や同胞を理由なく辱められ、なぶり殺されて報復の念を抱かなか
つたであらうか。
所謂“南京大虐殺”が虛實とり混ぜて大聲で喧傳されてゐる。だが、次のこ
とだけは確言してよいだらう。即ち、濟南事件や通州事件など、支那側による
日本人虐殺事件がなかつたならば、“濟南事件”はいかなる形でも起こらなか
つたであらう、といふことだ。
明治以來、支那人による日本人虐殺は無數に行はれてきたが、その逆、即ち
日本人による支那人虐殺の例は、昭和十二年支那事變發生までは皆無に近いか
らだ。南京に於て日本軍に多少の軍規違反があつたのは事實であらう。便衣に
變裝して難民區に導入した支那兵に對して銃劍などの方法による處分が一部で
行はれたこともまた事實であらう。しかしそれは、“無辜の市民に對する虐殺
”では決してない。だが、中國側が、それをしも“虐殺”と呼ぶのであれば、
それ以前に濟南や通州で日本人を大量虐殺したのは中國人であつたといふ事實
を、どうしても指摘しておかねばならない。“南京事件”を論ずるには、それ
に先行する濟南事件や通州事件を看過する譯にはゆかないのだ。率直に云へば、
南京で何がしかの事件が發生したとしても、それは、それ以前に濟南や通州で
日本人虐殺を演じてきた支那人の責任なのである。原因を作つた方こそ責めら
れるべきなのであり、この點についての認識を誤つてはならない。」
そいけんジャ×も×コロも黃色いサルどもはこの世から抹殺するのが一番
たい。
ハイルヒトラー
ユダヤ人と黃色人種をこの世から抹殺せよ。石鹼にしちまえ!!!!!!
ブラックレインコート團