今週のヒロのコーナ―は、
なぜ日本が負ける戦争をはじめたか?
の疑問を解く凄く興味を惹かれた人物、
石原莞爾にDVDで、でくわし、
調査しました。
NHKの、その時歴史は動いた,ではなく、
永遠のゼロの主演、岡田准一司会
夢と野望の人生 ザ、プロファイラー NHKのほうですが、
まだ、youtubeにはありませんでした。
史実の編集の仕方で、
今回はこうも変わるのかと、
今回のは格段違った捉え方なので、調べた次第です。
それでも
NHKなので、
肝心な箇所はモザイクの様に抜けてる可能性があり、
わたしなりに、ウキペディヤ等で時系列で追ってみることで、
パズルを幾つか埋めることができ、
よりよく私流のプロファイルが出来てきました。
そこで、私見を今回、
ヒロのコーナーに乗せることにしました。
結構複雑な時代背景なので、
極力まとめますが、長くなります。
石原 莞爾将軍(いしわら かんじ)
(1889年1月18日生まれ、1949年8月15日没、60歳)
個性:
世俗的権威に無頓着、
軍閥にも属せず、
尊敬出来ない上官にははっきりと反抗、
部下には優しい、
陸軍異端児でありながら勉強せずとも常に一番の優等生、
彼は喧嘩哲学を知っていた天才でした、
彼の理論で日本が動けば、
アメリカに勝った可能性は見えていたでしょう?
1923年2月 -- 陸軍大学校を首席で卒業後(34歳)、
第一次世界大戦後の分析の命でベルリンに留学。
これからの戦争は全工業生産力、
資源力が問われる国々の総力戦であると見、
「世界最終戦論」を書いています。
その内容は、
今後をするどく見抜いています。
それは、
第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパに変わり西洋ではアメリカ中心、
東洋では白人植民地支配を解放し日本がアジアの中心となる。
半世紀後に、アメリカと日本の最終戦争が起き、
飛行機、核兵器が主役となる戦争となると予想。
当時ドイツではすでに、半世紀後の核兵器見通しがありました。
石原は飛行機、核兵器に着目しました。
資源力がない日本でも、
技術力で勝る日本ができる高効率兵器を主軸としたのです。
結果、東西の統一、絶対平和が来る。
地球人口は半減、
しかし
戦争は新しい文明を産む母であると見、
日本がその勝者になるとしたのです。
その第一段:
日本国力はすこぶる貧弱で、この日本国土では限界、
そこで満州と蒙古を武力で手に入れることを計画します。
第一次世界大戦の反省で世界軍縮ムードのなか
世界大恐慌をグローバリストが起こします、
全世界が国内問題で手を焼いてる隙に、
不況対策現状打開策としても満蒙入手が第一とし、
計画を整え、
戦争を起こす大義名分の謀略として、
満鉄を自ら破壊し、
中国軍の仕業とする計画を、
1931年9月の終わりに実行とします。
しかしこの計画が漏れて、日本参謀本部、
上層部が止めに来ることが解り、
早めの9月18日に実行します。
満蒙入手の彼の理論:
馬賊と変わりない支那軍では、
せっかく日露戦争で追いやったロシアに再度
満州侵入がされ日本が脅かされる、
このことに対する本庄関東軍司令官の命令による
自衛行動であり、侵略ではないと
持論を主張。
そして、
日本が信用できるアジアのチャンピオンとしての基盤確立すべく、
日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと説き、
石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視し
アジア盟友を育てようと考えており、民族協和で
日本及び中国を父母とした独立国「東洋のアメリカ」建国計画。
そして、白人植民地アジアを同様に開放し、
日本リードのアジア連盟国としてアメリカと対峙する。
これが、
石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるため、
満州人が自営できる満州国建国を第一段階としたのです。
そして、今後、戦争不拡散政策を敷きます。
その背景には、
1935年8月1日 - 石原は参謀本部作戦課長(46歳)となつており、
ソビエト極秘書類に、
ソ連極東兵力は日本の3倍、
飛行機、戦車は5倍となっていいたのに驚愕。
日本の国防上欠陥を満州事変で作ったことを知り、
1937年日本に重要産業5か年計画を敷き、
鉄生産を2~3倍、航空機を10倍とし、
戦争は5年間行わない。
そして、
蒙古侵略を必死で止めさせようとします。
しかし、この第一段さえ、
達成できませんでした。
1936年の二・二六事件の際、
石原は本国で参謀本部作戦課長と、、
東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立ちました。
この時の石原の態度について、
昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、
満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐。
安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、
石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしますが、
石原は逆に
「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。
この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、
参謀本部に入った。
反乱軍は、
石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、
何もすることができなかった
庁内においても、
栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ
「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、
昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と
威嚇的に訊ねられるも、
石原は「俺にはよくわからん。
しかし、自分の考えは、
軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、
「こんなことはすぐやめろ。やめないと討伐するぞ」と罵倒します。
石原の凄まじい気合いにおされて、栗原は殺害を中止し、
石原は事なきを得ています。
1936年 6月19日 - 参謀本部戦争指導課長、
実質的最高責任者となります。
1937年 日中戦争の切っ掛けとなった盧溝橋事件に際して、
持論の不拡大方針を唱え、日本からの派兵に反対。が、
南から中国軍6万が北京へ来るとの偽情報で派兵することとなり、
さらに、意に反してさらなる派兵となります。
その、2か月後、
自分の意志で参謀本部を去ります。
私のはめ込むモザイクですが、、
満州に再び行き戦争拡大派の東條英機の配下にはいっています。
そして、
本国参謀本部では拡大方針を止められないと判断し、、
止めさせようと満州現場に赴き、
統制派軍閥である東條英機の戦線拡大政策を止めようとしたと、
捉えます。
そして、
1938年 満州支配方式について関東軍参謀長、
東條英機中将をまともに批判し、
戦争不拡散を理解しない東條を
「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにし、
以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、
「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと罵倒し、
事ある毎に東條を無能呼ばわりし、罷免されます。
石原理論:
「日本は100円で1000円の買い物をしているのと同じだ、10円、20円のうちは
わからないが、すぐに財布が空になる。東條の手口は、
やたら手を広げて破産にむかう貧乏会社と同じである。
一方、アメリカは100万円で、同じ1000円の買い物をするようなものだ。
今の日本は我慢の不拡散、国力増強に努めよ」
中國は今までと違い、石原の読み通り、
アメリカグローバリストの援助で戦争に耐え、
日中戦争が、長期戦、泥沼化し、日本の体力を奪っていきます。
1940年 - 陸軍大将となった,東條英機に、
石原は「国の将来を託せる人物ではない」と糾弾しますが、
罷免されて3月1日待命。
1941年- 9月 - 辞職。
この年、アメリカが日本への石油輸出停止政策を取ります。
アメリカとの戦争やむなし色濃いくなるのをみて、
石原は、「石油がほしいから戦争するという馬鹿があるか!」
石油なしで開戦とは、もう負けではないか。とおもったのでしよう。
しかし、引き続き、東條は開戦の準備をしますが、
天皇から開戦やめろの命がでると、
直ぐに、その策を模索します、
が、
すでに、グローバリストの計画にはまった日本は、抜けられず、
1941年12月8日、真珠湾攻撃で太平洋戦争を始めます。
石原の東條能力の読みは、多分、
東條は官僚としては優秀であるが、
哲学をもたず、喧嘩の仕方をしらないバカでした。
空母不在でおんぼろ戦艦停泊中の真珠湾攻撃の、
わずか半年後、
1942年6月、ミッドウエー開戦で日本空母を無くし敗北。
その年、東條には戦局の打開策が見えず、
石原を呼び、今後の戦局の考えを聞きます、
石原、「戦争の指導など、君にはできないことぐらいは、
最初から分かっていることだ、
このままいけば日本を亡ぼしてしまう、
一日も早く総理大臣を辞めなさい。」と意見しています。
1945年8月15日 - 終戦となり、
石原は東久邇宮内閣組閣本部の近衛と緒方竹虎からの内閣顧問就任要請を断り、
石原莞爾の全国遊説をはじめます。
敗戦後、GHQから喚問された答えが振るっています。
GHQ:誰が最大の戦争犯罪者だ?
石原: 原爆投下を許可したトルーマン大統領、
GHQ:誰がこのような戦争に日本を駆り立てたのか?
石原:ペリーが、日本乗っ取り計画で開国させたからだ、
それまで、日本は鎖国していたのだから。
そうこうして、石原は罪を問われなかったのです。
敗戦後、3万も集まった将来を悲観する人々に、
「敗戦は神意なり、
負けてよかった、
勝った国はますます軍備増強の躍進をするが、
日本は国防費が不要になるから、
これを内政に振り向ける。
そして、
敗れた日本が世界史の先頭に立つ日がくるのですよ」
と説いています。
そして、
我々は、蹂躙されても構わないから、
絶対戦争放棄に徹して生きていくべき!と言っています。
確かに、戦後、70年以上日本はアメリカが
アジア、東ロシア支配の基地として抑えた
隠れ日本植民地を十分蹂躙してきましたが、
日本はそれを利用してさらに進化させ、
どんな難問にも、それをバネにのびてきました。
そして、確かに、
和(WA:
We Are One)の文化力で
世界史の先頭に立つ日が来ているようです。
石原の「我々は、蹂躙されても構わないから、
絶対戦争放棄に徹して生きていくべき!」は理解できます。
彼なら
これができる経験と哲学があります、
が、
現代の我々は、それがありません、
ですから、
蹂躙しにくく、
相手国もする必要のないような
国策が必要になってきていると思います。
石原莞爾曰く:
「わしが理想郷を心に描いて着手した満州国が、
心なき日本人によって根底からふみにじられたのである。
在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。
その意味において、わしは立派な戦争犯罪人である。
独立に協力した中国人に対してまことにすまなかった。」
と述べています。
1949年、敗戦から4年、マッカーサーに宛てた提案、
「新日本の進路」という
石原莞爾将軍の遺書としておくり、
一月後、1949年 8月15日 、 終戦日に60歳でお亡くなりになってます。
石原は戦争責任を取り、この日を選び自決されたと私はおもうのですが?
近代日本史で石原莞爾のことは、習わないし、
知りませんでしたが、この名前を入れると
中国語のサイトがドバーツと出てきました。
youtubeを開けてみると、
きれいな落ち着いた時事解説のような中国語でしたが、
内容はわからず。
しかし、
中国人は日本人より石原のことをよく知っているのは、
明らかです。
さて、次回は本題、
なぜ石原莞爾は日本軍暴走を止められなかったか?
と展開してみましょう。
石原莞爾
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE