これは不確定性原理ですか?
皆さんには「そんな事、知ってるよ!」と言われそうですが、世間的にはいまだに誤解も多いようなので・・・。
1.ハイゼンベルグの思考実験
以下の話は良くご存じと思います。
[ハイゼンベルグの思考実験]
γ線顕微鏡で電子の位置を連続的に測定する実験を行ったとします。目的は電子の運動軌道です。ところで光学顕微鏡は(γ線も電磁波)、測定対象から反射する光の波長の短さ以上の解像度は得られません。電子は点粒子ですから(← 本当にそうなの?(^^;))、各瞬間でその位置をある程度正確にとらえるためには、ある程度波長の短い強力なγ線を必要とします。それで次のようになります。
「時間間隔⊿tで次々に電子の座標を測定したとしても、測定結果はとびとびの値になり一般的にどのような曲線にも載らない。測定精度を上げれば上げるほど(より強力なγ線を使うほど)、より無秩序な傾向になる。滑らかな曲線とみなせるような結果を得るのは、非常に測定精度の低いケースでウィルソンの霧箱などがその場合である。」
ただしウィルソンの霧箱では、その滑らかな曲線が点粒子である電子に対して太すぎる曲線(帯)となり、とても電子の位置を正確に捉えたものとは言えない状況になります。結果として「無限小変位ベクトルを無限小時間で割った値の収束する極限としての速度は、存在しない」という事態になります。
すなわち「電子の位置と速度を同時に正確に測定するのは不可能」という事態です。原因は、γ線の光子が電子をキックするからです。ここから「正確な測定は不可能と考えられる」ので「電子は確定した位置と速度を持たないと考えられる」こととなり、これが「不確定性原理だ!」となります。
電子に確定した位置と速度がないという事は、電子には運動軌道が存在しないと言ってるのと同じです。しかし常識的に考えると「この不確定性原理」には、本質的に納得できない点があります。
(1) まず光子は電子をキックするのか?。電磁波は完全な横波なので、進行方向には力を及ぼさないはずだ。光子は電子をキックしないのでは?。
(2) 次に光子が電子をキックするとしても、それはγ線顕微鏡という特定の測定手段を使ったからではないのか?。測定機構が測定対象に影響を及ぼす事は否定できないが、だからと言って電子に運動軌道が存在しないと何故言える?。それは測定とは別の話だ。
(3) さらに現状では測定対象に影響を及ぼす測定手段しかなかったとしても、将来的には対象にほとんど影響を及ぼさない測定手段が開発されるかも知れない。「この不確定性原理」はとても物理原理とは思えない。
要約するとこんなところだと思います。(1)は光電効果の帰結です。だから光子は電子をキックしますけれど、本当に光子は電子をキックしなければ良かったのにね。そうであれば未だに我々は、古典力学のパラダイスにいられたかも知れないのにね・・・。
それはそれとして、(2)と(3)はとてもまっとうな考えだと思います。「この不確定性原理」に論理の飛躍がある事を、正しく言い当てているからです。
・・・とここまで書いてきて、なんかのっけから誤解されるような出だしになってしまったなぁ(^^;)。
2.別の実験事実
というわけで、[ハイゼンベルグの思考実験]とは別の不確定性原理を支持する実験事実があるはずです。電子に対する2重スリット実験です。接近したごく細い2つのスリットに一つの電子を発射し続けたら、光波のように回折像が得られる事がわかってしまった。もう一つあげるとしたらトンネル効果でしょうか。
これらの現象のインパクトは大きく、古典力学の体系と整合させるために、物質波とかパイロット・ウェーブなどの仮説も考えられましたが、現状ではこれらの現象は電子の運動軌道を否定するものだという解釈に落ち着いた、というところだと思います。「現状では」と言っても、ずいぶん昔の話ですが(もう21世紀の20年が経ちました(^^))。
ところがハイゼンベルグが[ハイゼンベルグの思考実験]を提出したのは1927年。その頃から電子の2重スリット実験案はあったものの、当時の技術レベルではこれも思考実験で行うしかなかった。複数の電子で電子回折が現実に最初に確認されたのは1961年。1個の電子を発射し続ける態になったのは、1974年ということです(^^;)。という事は歴史的経緯としては、1927年の当時、[ハイゼンベルグの思考実験]とは別に不確定性原理成立の予感は(理論予想が)、すでにあったという事になります。
3.その位置づけは?
では[ハイゼンベルグの思考実験]はどう位置付けたら妥当なんでしょう?。ハイゼンベルグは、確定可能な観測量のみに基づいて理論を組み立てるべきだと考え、行列力学を作ったとどこかで読みましたので、γ線顕微鏡の話に(2)や(3)ような反論が現れるのは覚悟の上で、ある意味納得ずくでの提出だった気はします。しかし背景には不確定性原理が成り立つであろうという、その当時の業界の予感もあったわけです。ただその原理は、いまだ現実の実験で実証されたものではありませんでした。という事は、不確定性原理は絵に描いた餅である可能性もあったわけです。そこでそれを絵に描いた餅にしないために、その[思考実験]は提出されたと思います。
「電子の位置と速度を同時に正確に測定する古典的実験に関する思考実験」が理論的に成り立ってしまったら、いくら不確定性原理を唱えたところで無駄だからです。だからその[思考実験]の目的は、古典的測定による量子力学に対する反例を防ぐことだったと思います。その目的のために、その[思考実験]自体は古典的測定に対する反例の形をとったという、とてもわかりずらい構図です。
ポイントは、光子による電子のキックです。光電効果という量子効果です。我々は量子効果から逃れられないであろうという予想です。それを認める事は、けっきょく不確定性原理を認めるのと同じようなものだと思います。[ハイゼンベルグの思考実験]に、論理的に曖昧なところがあるのは事実です。
4.どういう心持ちで?
ではどういう態度で量子力学にのぞめば妥当なんでしょう?。個人的には次だと思います。以下は、ランダウの量子力学1(非相対論的理論)の「第1章 量子力学の基本概念」の「§1.不確定性原理」冒頭の抜粋です。
[抜粋]
2重スリット実験において、電子は回折を起こす。古典的猫像では、電子はどちらか一方のスリットを通り、他方のスリットを通過した像と、干渉を起こす事はない。従って回折像の発生は、電子の軌道を否定する。
ただしこのような事は、電子の回折実験のような原子的現象、非常に狭い空間領域の非常に軽い粒子について顕著な現象と考えられる。
原子的現象を記述する力学、いわゆる量子力学,波動力学においては、粒子の軌道という概念は存在しない。これが不確定性原理の内容である。
量子力学は、物理の理論の中で特異な位置を占める。量子力学は古典力学を、その極限の場合として含み、それと同時にこの極限の場合を、それ自身の基礎づけのために必要とする。それは以下の事情による。
不確定性原理により電子は定まった軌道を持たないので、電子の運動からは力学的特徴付けがいっさい失われ、一般的にどのような力学的記述も不可能になる。従って電子の運動の定量的記述には、十分な精度で古典力学に従う物理的対象が、別に必要である。電子が、この古典的対象と相互作用すれば、一般に後者の状態は変化する。変化の性質と大きさは、電子の状態に依存するから、それを電子の状態の特徴付けとして用いる。
古典的対象はふつう「測定器」と言われ、これが電子と相互作用する過程を「測定」と言う。いいかえれば「測定」とは、いかなる観測者とも独立に行われる、古典的対象と量子的対象との、あらゆる相互作用の過程を指す。
より一般性を持つ理論は、その極限であるような一般的でない理論とは独立に、理論的に閉じた形で定式化されるのが普通である。しかし量子力学の基本命題を定式化する際には、原理的に古典力学の使用を避ける事ができない。その意味で量子力学は、特異な理論である。
量子力学で測定の過程は、非常に重大な特徴を持つ。測定の過程は、測定を受ける粒子に常に作用を及ぼす。測定精度を決めると、その作用を任意に弱くする事は原理的に不可能、という特徴である。測定の精度が高いほど粒子への作用は強く、非常に低い精度の測定においてのみ、その作用を事実上無視できる。この事は、粒子の力学的特徴は、それを測定して初めてわかるという事実と関連してきわめて重大である。もし測定の作用を任意に弱める事が可能なら、それは測定される量が、測定とは無関係である事を意味するから。電子の場合で言えば、電子の軌道が、測定とは無関係に存在する事になるが、それは実験的に否定される。
[抜粋終]
上記には、なぜ[ハイゼンベルグの思考実験]でなければならなかったのかが、全て要約されいると思います。というか、これを読んでそう思ったのですけれど・・・(^^;)。
論理的には不確定性原理ありきなわけです。理論において「ありき」ということは、不確定性原理も多くの実験事実から理論的・論理的に導かれた原理(仮定)であるという、当然の事実を示します。
返信ありがとうございます。
光子(電磁場)が電子を動かすというのはわかります。仰るようにリニアモータや加速器と同じ原理であれば(進行波増幅管の説明を読んでも)、エネルギー総量の大きな電磁場は、電子を動かすはずです。ただこれは光電効果とは違う気がします。
[ハイゼンベルグの思考実験]での想定は、古典的には電子にほとんど影響しないくらいエネルギー総量の小さなγ線を用いても(いい加減な比喩で言うと)光子が電子に直接衝突するために、光子は電子をキックするであろう、というところだと思います。
・・・と思うのですが、進行波増幅管の話が出てきたのには、次が関係していると思いました。
>二重スリット実験では外村先生が単一量子よりも小さい電流密度で、単一量子の存在しない体積と距離の飛行経路による干渉縞を観察した実例があります。
この実験では波動の性質だけが成り立ち、2個スリットがあったらまったく量子のないところでも干渉縞が発生したのです。
だから電子は量子ではありません。
電子は波動です。
しかも素電荷よりも小さく、方向を2分して、それぞれが小数に2つのスリットに流れたのです。
電子は量子のように見えるソリトン波動(つなみ)なのです。
電子は小数に流れるものです。
外村先生とは、もと日立製作所の外村彰氏のことですか?。技術的には不可能とまで言われた、1個ずつの電子の回折実験を成功させたことで超有名ですが、だから普通の(?)二重スリット実験かと思っていました。
「単一量子より小さい電流密度で干渉縞を観察した」というのを調べてみても、なかなか検索にヒットしません。どこを調べれば良いか、教えていただけませんか?。
ddt>【光子(電磁場)が電子を動かすというのはわかり・・、電子を動かすはずです。ただこれは光電効果とは違う気がします。】
伴 公伸>『光電効果hνと同じです。
その原理が見えていないようなので説明しましょう。
積項のνとは振動数、周期のことです。エネルギーの単なる意味でhνが使われたわけではありません。波動の意味を忘れないでください。
光電効果はどんな光に対しても起きるのではなく、限られた特定の振動数にのみ起きるのです。
多くの物理研究者は「特定の振動数に限る」重要なポイントなのにお忘れになってます。
光電効果の起きるとき、特定の輝線そして、暗線がその光電子に具体的に対応します。
それ以外の光波はそのときの光電効果に無関係です。
輝線の振動数、暗線の振動数はご存知のように元素の原子番号ごとに特定です。
この性質から元素の種類を調べる化学装置も数種類あるくらいです。
夏の夜に遊ぶ花火にはいろいろな炎色が楽しめるのも、その性質の応用です。
特定の振動数に一致する光でないと光電効果は発生しません。
だから光電型化学(原子、核種)分析機器のセンサ特性が特定のスペクトル帯に分布しています。
例えば銀塩写真は可視光線の全てに反応して撮像するために、発明後の改良がありました。
写真発明直後は限られた1スペクトルにしか陰影を作る光化学反応ができなかったのです。
可視光の帯域全体に撮影可能な改良をして、パンクロームフィルムと呼び、現代ではモノクローム(白黒)写真が完成したのです。
さらに光電効果においては遷移確率、存在確率の合成確率、レーザーの原理を考慮すると、私の予測ではその光子の位相は電子殻軌道周期と光子の振動と位相が同期しているはずです。』
ddt>【[ハイゼンベルグの思考実験]での想定は、古典的には電子にほとんど影響しないくらいエネルギー総量の小さなγ線を用いても(いい加減な比喩で言うと)光子が電子に直接衝突するために、光子は電子をキックするであろう、というところだと思います。】
伴>『ふーんどうやら「ハイゼンベルクの思考実験の想定」は不確定性の前回のΔxΔp≧h/4πよりも緩い、値の範囲の緩く広がった別個のもう一つの演算Δx⋅Δp≑ℏとして有名らしいですね。
光子は量子と波動の2重性を有すると現在の学説はしますが、学説は間違いです。
外村博士の実験から証拠を示して反論ができます。
ハイゼンベルグが輝線と暗線の振動数に対応しない電子殻を持った元素の電子に、まだ光子が電子に力を作用すると考えたとしたら、そうだとしたらハイゼンベルクもまた間違っています。
間違いは現実の光電効果における光色選択特性の実験に証明できます。
光子は特定の振動数において、特定の元素種の原子の原子核内電子だけに力を作用します。
それ以外の電子には作用しません。
対応できない振動数の光子のエネルギーが大きくても小さくても全く無関係です。
ここがハイゼンベルクの間違いです。
一方でハイゼンベルクの思考実験に「電子にほとんど影響しないくらいエネルギー総量の小さなγ線を用いても・・光子は電子をキックするであろう」という意味が存在するなら、ハイゼンベルクは大したもんだ、やるもんだと私はハイゼンベルクを高く評価します。
それを実現した外村博士の方法が特に重要だと思うのです。』
伴>「二重スリット実験では外村先生が単一量子よりも小さい電流密度で、単一量子の存在しない体積と距離の飛行経路による干渉縞を観察した実例があります。この実験では波動の性質だけが成り立ち、2個スリットがあったらまったく量子のないところでも干渉縞が発生したのです。だから電子は量子ではありません。電子は波動です。しかも素電荷よりも小さく、方向を2分して、それぞれが小数に(比率は少数対少数)2つのスリットに流れたのです。電子は量子のように見えるソリトン波動(つなみ)なのです。電子は(ハイゼンベルクが小さなエネルギーで少量のガンマ線を飛ばそうとしたのと同じに)小数に流れるものです。」
ddt>【日立製作所の外村彰氏・・技術的には不可能とまで言われた、1個ずつの電子の回折実験を成功させたことで超有名ですが、だから普通の(?)二重スリット実験かと思っていました。】
伴>『その通り日立製作所の外村先生です。飛行機の格納庫のような背の高い実験室で大きな体積の真空装置内を、鉛直に長い距離に電子を落下させました。』一定の直流で実験しました。
電流を滑らかに絞って行き、電流量を少なくしました。
単位時間あたり
電流=素電荷✕電子の個数✕流量
だとすれば、
電子の個数=電流/ 素電荷/流量
ですが、装置の中に滞在する電子の個数が2に満たずとも、スクリーンに1つの点が撮影されたのです。注意しなければいけませんが、一点だからといって電子の量子1個の到着をまだ意味していません。
さらに絞って1に満たないとき、1に満たないことは証明が難しいでしょうが、証明できずとも1に満たない条件があったはずです。
例えばスクリーンに像の一点が生まれる間隔が数分間以上、または数秒開いていれば、その点像発生のない期間はまさに1に満たない条件と呼ぶのが量子説の要件でもあります。
外村先生の論文にはそういうコマ撮り写真があるのです。
実験はby プリズムというスリットの代わりの分岐路ですが、干渉がおきる2重スリットの機能は同じです。干渉が生じるには同時に分岐位置にそれぞれ電子が存在しなければいけません。
2に満たないとき、1に満たないときは、分岐路のそれぞれに同時には電子が存在しないので干渉の発生の条件を満たしていません。
もし分岐路のそれぞれ片方(の電子)だけで干渉条件が揃うなら、干渉縞は単一孔一つのスリットであろうと干渉してしまうことになります。
そうなると、どこでも干渉が存在してることになり、特定条件でしか存在できない、たまさかの珍しい観察に矛盾するのです。
あらゆる物理現象の中でスリットさえあれば常にあるはずの干渉が2重の特別な条件でしか成り立たないというなら、分岐路のそれぞれに電子が同時に存在しないとならない。
したがって装置の体積の中に電子の数が2に満たないとき、1に満たないときに干渉縞が生じたとしたら、量子説を実験が否定し、電子の波動説を証明したことになります。』
ddt>「単一量子より小さい電流密度で干渉縞を観察した」というのを調べてみても、なかなか検索にヒットしません。どこを調べれば良いか、教えていただけませんか?。
伴>論文を含んだ三つ以上の文献と私の書信に対して外村先生から頂いた返答があります。本も紹介できるはずです。
今沢山の書類の中に埋まっているので見つかったらまたお知らせします。
「single-electron」
A.Tonomura:
%"Demonstratiion of single-electron buildup of an interference pattern"
Am.J.Phys.57(1989)p.117-120.
%手元にある
ddt>「単一量子より小さい電流密度で干渉縞を観察した」というのを調べてみても、なかなか検索にヒットしません。どこを調べれば良いか、教えていただけませんか?。
伴>外村先生が日本物理学会と金属学会に投稿した論文が名前だけ2つわかったのでまず早速送ります。3つ目は読み物です。4つ目はこれから出版される記事です。
外村先生がベクトルポテンシャルを観察するためにアハラノフ=ボーム効果を利用して写真観察する目的で作った装置は、基本部分が電子2重うスリット実験装置なので、その基本実験に関する記事となっています。その装置がホログラフィー電子顕微鏡とよばれていますが、よく読み込めば電子の干渉縞が電子よりも小さい、微小単位の単電子以下の電子の存在しないはずの条件の一定の微電流でしかも量子だとしたらスリットの片側しか電子が通っていない条件で干渉縞を構成する1点像ポイントが発生している様子が写真と説明でわかります。
1
A.Tonomura:
"Demonstration of single-electron buildup of an interference pattern"
Am.J.Phys.57(1989)p.117-120.
2
最新のホログラフィー電子顕微鏡とその応用,外村彰,金
属,vol59,10,p8から12,1989
3
岩波文庫
量子力学を見る 外村彰 岩波書店 p33から 56, 1995,9
4
提示した外村の査読済み論文1の学会名をうっかり読み間違えていました。
Am.J.Phys.はAmerican Journal of Physicsでした。
A.Tonomura:
"Demonstration of single-electron buildup of an interference pattern"
Am.J.Phys.
ddt^3です。論文および文献の紹介、ありがとうございます。
ところで光電効果の話です。
>
・・・光電効果はどんな光に対しても起きるのではなく、限られた特定の振動数にのみ起きるのです。
・・・光電効果の起きるとき、特定の輝線そして、暗線がその光電子に具体的に対応します。
それ以外の光波はそのときの光電効果に無関係です。
輝線の振動数、暗線の振動数はご存知のように元素の原子番号ごとに特定です。・・・
各元素に吸収されやすい周波数があるのは事実ですが、それ以外の光波は全く無関係なのですか?。自分はそれをシュレーディンガー方程式なんかを使って計算できるわけではありませんが、流通している話としては、光電効果には限界波長があり、限界波長より短い波長の光波では輝線,暗線とは無関係にその効果が起きるとなっています。起きやすいかどうかは別として。もちろん流通してる話がいい加減なのかも知れません。だからおききします。
(輝線,暗線と一致しない)十分に短波長の光を当てたら、電子が渋々電離してきたという実験結果は、一つもないんですか?。
次に紹介いただいた文献ですが、「1.A.Tonomura:"Demonstration of single-electron buildup of an interference pattern"Am.J.Phys.57(1989)p.117-120.」は見つけました。ただいかんせん英語なのですぐには読めません(^^;)。
「2.最新のホログラフィー電子顕微鏡とその応用,外村彰,金属,vol59,10,p8から12,1989」はまだ入手していません。
「3.岩波文庫量子力学を見る 外村彰 岩波書店 p33から 56, 1995,9」もまだです。
「4.日本電子情報通信学会ベクトルポテンシャルを感じる電子波 - 会誌 2000年12月www.journal.ieice.org › conts › kaishi_wadainokiji」は読みました。
で、これは4.に関するコメントでしょうか?。
>外村先生がベクトルポテンシャルを観察するためにアハラノフ=ボーム効果を利用して写真観察する目的で作った装置は、基本部分が電子2重うスリット実験装置なので、その基本実験に関する記事となっています。その装置がホログラフィー電子顕微鏡とよばれていますが、よく読み込めば電子の干渉縞が電子よりも小さい、微小単位の単電子以下の電子の存在しないはずの条件の一定の微電流でしかも量子だとしたらスリットの片側しか電子が通っていない条件で干渉縞を構成する1点像ポイントが発生している様子が写真と説明でわかります。
4.は、ベクトルポテンシャルが物理的に実在するという検証報告で、「単一量子より小さい電流密度で干渉縞を観察した」という話には読めませんでした。「よく読み込んでない」だけかも知れませんが。
そういう訳なので、直接おききします。
(1) 注意しなければいけませんが、一点だからといって電子の量子1個の到着をまだ意味していません。
とありますが、では何が輝点を作ったのですか?。
(2) 装置の体積の中に電子の数が2に満たないとき、1に満たないときに干渉縞が生じたとしたら、量子説を実験が否定し、電子の波動説を証明したことになります。
電子1個でも干渉縞を作れるのだから、1以上2未満でも干渉縞は現れるというのが自分の了解です。1未満で干渉縞が生じたら量子説を否定した事になりますが、
>例えばスクリーンに像の一点が生まれる間隔が数分間以上、または数秒開いていれば、その点像発生のない期間はまさに1に満たない条件と呼ぶのが量子説の要件でもあります。外村先生の論文にはそういうコマ撮り写真があるのです。
という事であれば、その間には電子は来ていなのだから、単純に干渉は起こっていないというのが、自分の意見です。
最後に光電効果という言葉を不用意に使ったかも知れませんが、[ハイゼンベルグの思考実験]の電子は、原子に束縛されていない自由粒子という想定のはずです。なので、
>一方でハイゼンベルクの思考実験に「電子にほとんど影響しないくらいエネルギー総量の小さなγ線を用いても・・光子は電子をキックするであろう」という意味が存在するなら、・・・
そういう意味しか存在しないと思います。
伴>・・・光電効果はどんな光に対しても起きるのではなく、限られた特定の振動数にのみ起きる・・輝線の振動数、暗線の振動数はご存知のように元素の原子番号ごとに特定です。・・・
ddt>・・十分に短波長の光を当てたら、電子が渋々電離してきたという実験結果は、一つもないんですか?。
伴>実験には多様なバンド間の多様な種類の遷移を用いるべきではありません。もちろん混じり気のないデータを得るために全ての実験においてです。どんな実験でもパラメーターの条件は混合させてはならないのです。光電効果が殻内電子のエネルギーバンド間の昇降による遷移だとするなら、ただ一つの特定遷移だけで、ハイゼンベルクは思考実験をするべきです。
ddtさんの引用した事例は多様なバンド間の多様な種類の遷移による光電効果を用いた事例です。
工業的にはターゲット(受光部)に希土類を塗るはずです。希土類だと仕事関数が下がるので放出が増えます。希土類は原子番号が大きいので電子殻が多重の殻からできていて、束縛の弱い電子が多数のバンドに広がっているでしょう。多様なバンド間の多様な種類の遷移を用いたのです。すると広い光色幅の感度が得られるかもしれませんが、原理が変わったわけではありません。
まあ専門家でもないし、その仕事を続けたわけではありません。確認してみてください。
でもNHKの技術研究所で43年前に撮像管班というグループで1年半も吉川重夫先生に教えを受けていました。先端技術者ではあったのです。
ddt>次に紹介いただいた文献ですが、・・・
「4.日本電子情報通信学会ベクトルポテンシャルを感じる電子波 - 会誌 2000年12月部)www.journal.ieice.org › conts › kaishi_wadainokiji」は読みました。
で、これは4.に関するコメントでしょうか?。
伴>そう理解してください。ちょっと焦って失敗送信して都合よく辻褄合わせしてます。
「伴>外村先生がベクトルポテンシャルを観察するためにアハラノフ=ボーム効果を利用して写真観察する目的で作った装置は、基本部分が電子2重うスリット実験装置なので、その基本実験に関する記事となっています。その装置がホログラフィー電子顕微鏡とよばれていますが、よく読み込めば電子の干渉縞が電子よりも小さい、微小単位の単電子以下の電子の存在しないはずの条件の一定の微電流でしかも量子だとしたらスリットの片側しか電子が通っていない条件で干渉縞を構成する1点像ポイントが発生している様子が写真と説明でわかります。」
ddt>4.は、ベクトルポテンシャルが物理的に実在するという検証報告で、「単一量子より小さい電流密度で干渉縞を観察した」という話には読めませんでした。
伴 >4はそのとおりです。そのとおりベクトルポテンシャルAが学会と外村先生の関心事、主題です。1、3は私が推します。
伴> 注意しなければいけませんが、一点だからといって電子の量子1個の到着をまだ意味していません。
(1)?ddt>とありますが、では何が輝点を作ったのですか(1)?。
伴>電子波の津波(ソリトン)です。電子の量子よりも小さい単位が連続して到達する中で、装置の中には量子の集中する質点が飛行できる条件は存在しません。
スリット(バイプリズム)の左右どちらを通ったか、カウンタがもしあれば、量子は必ず整数に数えるのです。m個とn個としましょう。
m対nの分数、または比は、数理では有理数とよびます。
この分数と比は、決して無理数にはなりえません。
この分数と比は、必ず有理数にしかなれないのです。
もし有理数にならなかったら、そのときは絶対に量子ではないのです。
これを判定基準としてみましょう。
つねに電流は安定していて、量は微小となるように絞り制御された直流が回路に流れています。
スクリーンには数分または数十分間干渉点の着弾しない期間があります。
すると装置には単電子の存在しない期間が必ずあり、もしかすると、実験期間中にただの一度も装置の中にないということになります。
そのとき論理をたどると干渉は存在しません。
しかも干渉は同時に左側スリットと右側スリットに電子がいないといけないのでした。
片側だけで干渉できるなら、干渉は珍しい現象ではありません。
干渉測定の実験装置を使わなくても、いつでもどこでもあなたの周りに干渉が見えているはずです。
矛盾していると明白ですから電子は量子ではありません。
続けて推論をします。
その電流は左側スリットと右側スリットに分かれて流れます。
等分にわかれるのではなく、きっと偏るでしょう。
そこで電子の数とスクリーンに現れた着弾点の数が等しく同一としましょう。
たとえば、着弾点の数が奇数なら必ず電流は左右スリットの通り方が偏っています。
着弾点の数ときっちり電流が流れるかといえば、その実験期間はそれと無関係に流れているので、奇数とも偶数とも言えぬ実態があります。
判定には判断材料が未だ足りないが、数理上には量子説にとって端数の存在が大きな疑問になります。
そして、左右の合計電流は1個の電子よりも小さく、実験は小数に制御されました。
10分から数時間しないと1点の着弾もスクリーンに描けなかったのです。
外村先生はそういう条件を作り上げたのです。
小数と小数の分数と比は、分母の整数倍の分子に限り有理数です。
小数と小数の分数と比は、一般に実数です。
必ず有理数とはすでに言えないのです。
もし電子の量子なら分数と比は必ずや有理数にならないと量子の個数が整数でないことになり矛盾が生じます。
量子性の存在に疑いを深める大きな矛盾です。
ところが関係理論式は実数数空間の無理数を避けた理論式ではありません。
線形数理による無理数を含んだ線形の数空間に決定されています。
有理数だけをつないで理論式の曲線を数空間に連続して描くとしたら曲線は連続できずにブチ切れるのではないでしょうか。
曲線ごと写像する汎関数で分数と比を演算したとします。
分母は整数ですから隣の整数とは距離があります。整数には等間隔の等しい距離が直近の整数との間にあり、飛び離れています。また分子も同じに整数ですから、飛び離れています。写像を繰り返し曲線を滑らかに連続するためにはとくに特殊な曲線や汎関数でない限りできません。
うまくできる確率が低い。
これは滑らかに絞って電流を減じた線形制御の存在を否定し、矛盾します。
伴>装置の体積の中に電子の数が2に満たないとき、1に満たないときに干渉縞が生じたとしたら、量子説を実験が否定し、電子の波動説を証明したことになります。
(2)?ddt> 電子1個でも干渉縞を作れるのだから、1以上2未満でも干渉縞は現れるというのが自分の了解です。
伴>電子1個のとき論理をたどると干渉は存在しません。
スリットの片側だけで干渉できるなら、干渉は決して珍しい現象ではありません。
干渉測定の実験装置を使わなくても、いつでもどこでもあなたの周りに干渉が見えているはずです。
特別なときにしか存在できず、常時の存在ではなく、単一電子の干渉は論理が矛盾していると明白ですから単電子の干渉は論理の前提に矛盾した欺瞞です。
伴>例えばスクリーンに像の一点が生まれる間隔が数分間以上、または数秒開いていれば、その点像発生のない期間はまさに1に満たない条件と呼ぶのが量子説の要件でもあります。外村先生の論文にはそういうコマ撮り写真があるのです。
ddt>という事であれば、その間には電子は来ていなのだから、単純に干渉は起こっていないというのが、自分の意見です。
伴>そうでしょう。干渉は起きていません。回路条件は実験中連続して、ずっと装置内の電子は空となる直流の電流条件です。量子が源から流れていないので、一つも干渉縞を描けません。量子には干渉が描けない条件です。
ddt>[ハイゼンベルグの思考実験]の電子は、原子に束縛されていない自由粒子という想定のはずです。なので、
伴>自由粒子の電子またはいかなる自由量子に対して振動周期が一致し、しかも位相の同期がない光子は力の作用を及ぼせません。それが光電効果です。
まだ納得なさらない、光電効果現象の原理を飲み込めないのが不思議です。
たとえば宇宙の遊泳飛行士を撮影した写真のバックには高エネルギーの光子ガンマ線が多数横切っています。しかし暗黒の闇が写真に撮影されています。そこに自由量子がまったくないと言えるでしょうか。あれば、強烈な輝き一点を発するはずです。宇宙ステーションISSの窓から撮影した風景にも、地球の成層圏にもddtさんのいう現象が存在するならとんでもなく明るい異常点が見えるはずです。
異常点が存在しないので、ハイゼンベルクの想定は思考実験としても現実と大きく異なり間違っています。
伴>一方でハイゼンベルクの思考実験に「電子にほとんど影響しないくらいエネルギー総量の小さなγ線を用いても・・光子は電子をキックするであろう」という意味が存在するなら、・・・
ddt>そういう意味しか存在しないと思います。
伴>あれだけの業績を残したハイゼンベルクも身の回りの現象を自分の目で見れない、体得すべきものを経験から学べないただのあほとなってしまいます。
口が悪すぎたですかね。未知の問題を研究していく過程にあるので、真理をすべて知るほとけさまのようにはこたえられません。
上手い答えをまだ知らぬのに、問われると重荷です。
たとえば、未だ行ったことのない、タイのバンコックのおいしい食べ物は何?と聞かれて、おいしい食べ物がたくさんあるのに、無いよ。知らないよとこたえるように。
割り引いてください。
誰かの説を覚え込もうとせずに、自分の内面に問いかけ自分で正しい答えを導くように努力してください。
ウィキペディアをしらべた
光電効果の発生する原因はこれ以外にあるまい。
それ以外の光電効果の発生理由があったらお知らせください。
「物理学において、原子のスペクトル線は、それぞれ電子のエネルギー準位間の遷移に伴う吸光・発光により説明される。水素のスペクトル線を説明できる最も古くシンプルなモデルは、ニールス・ボーアによって考案されたボーアの原子模型である。電子が高いエネルギー状態から低いエネルギー状態へ遷移する場合、特定の波長を持つフォトンが放出され、低いエネルギー状態から高いエネルギー状態への遷移の場合、同じ波長を持つフォトンが吸収される。」
輝線に関するリュードベリの式と棋戦の系列がいつ頃見つけられたかを表にしてみた。
ハイゼンベルク 〜1976年
リュードベリの式 〜1919年,
(リュードベリの式 1/(m+a)^2 - 1/(n+b)^2}
「ボーアモデルにおける準位間のエネルギー差、つまり放出/吸収されるフォトンの波長は、リュードベリの公式によって与えられる」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AB%E7%B3%BB%E5%88%97
水素のときここで n は始状態の主量子数、n′ は終状態の主量子数で=m
ライマン系列 (n′ = 1) 〜1906年〜
バルマー系列 (n′ = 2) 〜1885年〜
パッシェン系列 (n′ = 3) 〜1908年〜
ブラケット系列 (n′ = 4)
プント系列 (n′ = 5)
ハンフリーズ系列 (n′ = 6)
その他の系列 (n′ > 6)
反射や屈折エネルギー変化はないーハイゼンベルクの見落とし
ハイゼンベルクがラザフォードの散乱実験を念頭において不確定性原理を論じたそうです。
その論理にはいくつかの間違いが見つかります。
三つもある間違いを物理学者さんたちが全員見落としてしまいました。
「ひとつめの間違い」
散乱実験には鏡の反射、プリズムの屈折のように光線の進行向きの変化がおきますが。反射や屈折の現象にエネルギーの変化があるでしょうか。
色が変わらず明るさが暗くもならないなら光子のエネルギーには変化がありません。
鏡とはそういうものです。鏡にはエネルギーの交換がないのです。
ラザフォードの実験も多面鏡の実験と考えるべきです。
なぜならラザフォードの実験には光電効果から発する外乱が含まれていないからです。
ところがハイゼンベルクは下記のかぎ括弧の中のように光線によって原子の運動量が変化すると考えました。
光子のエネルギーに変化がないなら原子の運動量もまた変化しないでしょう。
これがハイゼンベルクの一つ目の間違いです。
「粒子に光(ガンマ線)を当て、跳ね返った光を顕微鏡で見ることによって粒子の位置qと運動量pを測定する場合を考えました。この場合、粒子に当てる光の波長λ(ラムダ)を短くすれば位置の測定精度は良くなりますが、その代わりに粒子は大きく跳ね返されて運動量が乱されてしまいます。反対に光の波長を長くすれば位置の測定精度は悪くなりますが、粒子の反跳は抑えられて運動量の乱れは小さくでき、結局のところ、粒子の位置の測定誤差イプシロンε(q)と運動量の乱れ(擾乱)イェータη(p)の間にはトレードオフの関係が成り立つことになり」と考えたそうです。
ハイゼンベルクにはまだ二つ目の間違いがあります。
「ふたつめの間違い」
光電効果現象のときにのみ、原子は光子とエネルギーの交換をします。
それ以外に光子と原子のエネルギーの交換は起きません。
ハイゼンベルクはラザフォードの散乱実験に光電効果と同じくエネルギーの交換があると間違えています。
「みっつめのまちがい」
ハイゼンベルクはパラメーターを複数同時に混合させて実験を考えてしまいました。
実験はパラメーターの系列をただ一つに行うのが基本です。二つ三つと同時に変化があるような混合した変化要素があるとどのパラメータが寄与したか不明なことから実験値から誤りのない理論を導くには難しくなります。
ハイゼンベルクは運動量の変化にパラメーターを複数混合させています。
どのようにパラメーターを混合させているか説明しましょう。
光電効果の現象では原子には輝線と暗線という原子固有の振動数があり、その振動数の光子だけとエネルギーの受け渡しを行います。
エネルギーの受け渡しがあれば光子の運動量は変化するでしょう。
ところが電子の遷移に基づいたスペクトル系列が、物理学者ならご存知のように発見年度と合わせて「リュードベリ、ライマン系列 (n′ = 1) 1906年、バルマー系列 (n′ = 2) 1885年、パッシェン系列 (n′ = 3) 1908年、ブラケット系列 (n′ = 4)、プント系列 (n′ = 5)、ハンフリーズ系列 (n′ = 6)、それ以外」とご存知でしょう。
1901年生誕〜1976年没のハイゼンベルクはそれを知っていたでしょう。
ところがハイゼンベルクは原子がすべての波長を受け入れると「粒子に当てる光の波長λ(ラムダ)を短くすれば位置の測定精度は良くなりますが、その代わりに粒子は大きく跳ね返されて運動量が乱されてしまいます。反対に光の波長を長くすれば位置の測定精度は悪く」と考えてしまいました。
光電効果のとき決まった色の光子にしか、原子は光子とエネルギーの交換をしないのです。
そしてラザフォードの散乱実験には光電効果のようなエネルギー交換は原子と光子の間に起きていません。
ddt^3です。
>ddtさんの引用した事例は多様なバンド間の多様な種類の遷移による光電効果を用いた事例です。
・・・という事にはならないと思うんですよ。ボーアの仮定を用いてリュドベリック定数だのライマン系列だのは導いた事がありますので、原子のエネルギー準位がどこまでも拡がっているのは、さすがに知っています。
おききしたかったのはそういう事ではなく、いくらでもあるエネルギー準位のどれともまぐれ当たりしないような光を当てたとき、電子は出てこないんですか?という話です。
・・・と考えた時に、エネルギー準位は上にいくほど間隔が詰まっていくので、条件がちょっとまずいなと思いました。そこでこういう条件ではどうでしょう?。
原子内のある電子の現在のエネルギー準位から次のエネルギー準位へ遷移するには十分なエネルギーを持つが、次の次の準位へ遷移するにはエネルギー不足な光子がやってきます。その光子は、正確なエネルギー準位差の仕事を出来ないので、そうめったに電子には衝突しませんが、衝突した時には電子を次の準位へ遷移させ、余ったエネルギーは減衰した光として散乱される。
これが普通の描像だと思います。コンプトン散乱は、こういうものだと憶測します。自分の考えとしては、確率は低いかも知れないが、電子はあらゆる光子を受け入れます。
>たとえば宇宙の遊泳飛行士を撮影した写真のバックには高エネルギーの光子ガンマ線が多数横切っています。しかし暗黒の闇が写真に撮影されています。そこに自由量子がまったくないと言えるでしょうか。あれば、強烈な輝き一点を発するはずです。
単純に考えると、正確なエネルギー準位差を持たないγ線だから、発光する(衝突する)確率も低いのだという事になりますが、「エネルギー準位は上にいくほど間隔が詰まっていく」事を考えると、そうもいきませんね(^^;)。ちょっと調べてみます。
>ハイゼンベルクがラザフォードの散乱実験を念頭において不確定性原理を論じたそうです。
その論理にはいくつかの間違いが見つかります。
「ひとつめの間違い」
まずハイゼンベルグがラザフォ-ドの散乱実験を念頭において「アナロジー」を考えたのは、別に問題ないと思うんですよ。当時、超微小なものを測定した実験結果としては、それくらいしかありませんでしたから。じっさいラザフォ-ドの実験は、原子核の大きさを測れる可能性を、初めて示唆したものでした。
次にラザフォ-ド散乱そのものについてですが、これは光子と原子核の衝突ではなく、α線(ヘリウム原子核)と金原子核との衝突実験で、この過程は古典的なクーロン力模型だけで説明できます。実際にラザフォ-ド散乱は計算したことがありますので(古典的過程なので)。
>なぜならラザフォードの実験には光電効果から発する外乱が含まれていないからです。
本当は、α線の(光子の)金原子核の(電子の)運動に対する効果が、含まれているんです。金原子核の質量が、α線の質量に対して十分大きいとして、α線の(光子の)金原子核に(電子に)対する効果が、計算上無視されてるだけです。
「ふたつめの間違い」
>光電効果現象のときにのみ、原子は光子とエネルギーの交換をします。
それ以外に光子と原子のエネルギーの交換は起きません。
コンプトン散乱の実験結果より、そうは思えません。
「みっつめのまちがい」
同上。
という訳で、けっきょくこれかな?と思いました。
>電子1個のとき論理をたどると干渉は存在しません。
スリットの片側だけで干渉できるなら、干渉は決して珍しい現象ではありません。
「電子1個の時も、その1個の電子は両方のスリットを通過した」が、現在の答えだと思います。それがランダウが愛想もくそもなく言ってくれた、「不確定性原理は、粒子の運動軌道を否定するものだ」だと思います。
伴>ddtさんの引用した事例は多様なバンド間の多様な種類の遷移による光電効果を用いた事例です。
ddt様Q> おききしたかったのは・・・エネルギー準位のどれともまぐれ当たりしないような光を当てたとき、電子は出てこないんですか?という話です。
伴>出てくるわけがありません。電子と原子がエネルギーを交換する現象を光電効果とよび、電子と原子がエネルギーを交換できるのは光電効果だけです。原子を加熱すると励起状態に電子殻の電子がなりますが、特別な高温状態のプラズマにならないと電子が自由になることはありません。エネルギーの低い光子を少なく照射するときには、プラズマ状態の原子は生まれでません。プラズマが作り出せる光子はエネルギーが高く、かつ光子の量が多いときなので、まぐれあたりでない振動数(光色)の量子流量の少ない、暗い光では原子がプラズマになりません。
ddt様Q>そこでこういう条件ではどうでしょう?。「原子内のある電子の現在のエネルギー準位から次のエネルギー準位へ遷移するには十分なエネルギーを持つが、次の次の準位へ遷移するにはエネルギー不足な光子がやってきます。その光子は、正確なエネルギー準位差の仕事を出来ないので、そうめったに電子には衝突しませんが、衝突した時には電子を次の準位へ遷移させ、余ったエネルギーは減衰した光として散乱される。」 これが普通の描像だと思います。
伴>これがおきたら、リュードベリの系列等の輝線も暗線もどちらも差異がなくなり、それらの現象の区別の存在理由がなくなります。現象の真のありさまでは余ったエネルギーは一般に原子の熱となって温度上昇が観察されるのです。高エネルギーの高振動数の量子が光電効果に入射すれば、ddt様の説ならば、出力の電流には線形性がなく、量子が来るたびに大きな階段波の振動を発生し、必ず目にとまるほどの断続階段を観察することになります。しかしそんな階段信号は存在しません。
ddt様>コンプトン散乱は、こういうものだと憶測します。自分の考えとしては、確率は低いかも知れないが、電子はあらゆる光子を受け入れます。
伴>上記ddt様説の「コンプトン散乱・・・光子を受け入れます。」にはいくつかの条件を混在させたddt様の間違いが存在します。まずコンプトン散乱には自由電子が発生しません。コンプトン散乱はグラファイト結晶シート片にx線を照射したのです。するとコンプトン散乱では試料結晶の原子の温度が上がります。温度上昇のエネルギーが光子から奪われ、波長が伸びます。しかしコンプトン散乱では結晶を構成する原子の位置は変わりません。電子殻の直径が温度によって変動するという説は存在しません。原子に付属束縛された電子も平均中心位置が変わらないのです。位置距離の増減はイオン結合の分子の原子間距離です。この事件には無関係です。そして光子を受け入れるのは電子ではなく原子です。したがって電子は位置を変えないので電子の運動量をx線光子は増減させず、電子の運動エネルギーを増減させることもありません。
すなわち特定振動数の光子でないと電子は受け入れません。
伴>たとえば宇宙の遊泳飛行士を撮影した写真のバックには高エネルギーの光子ガンマ線が多数横切っています。しかし暗黒の闇が写真に撮影されています。そこに自由量子がまったくないと言えるでしょうか。あれば、強烈な輝き一点を発するはずです。
ddt様>単純に考えると、正確なエネルギー準位差を持たないγ線だから、発光する(衝突する)確率も低いのだという事になりますが、「エネルギー準位は上にいくほど間隔が詰まっていく」事を考えると、そうもいきませんね(^^;)。ちょっと調べてみます。
伴>ddt様がおっしゃるコンプトン散乱が宇宙空間を浮遊する量子にたまたまの不特定の振動数を持った光子により発生するはずです。それがグラフェンに限らず、原子なら発熱し、十分高温なら発光します、ところが写真に映ると漆黒の闇なので、原子がそこに存在しないか、もしくは高温になるほどの光子が届いていないか、光子と出会ったのに光子を吸収できずに通り過ぎてしまったのです。発光するほど高温になるはずの光子が届いていると期待される宇宙なので、光子と原子が出会ったのに少なくとも一点はあったはずの量子との衝突には衝突せず素通りしたことになるでしょう。
原子には電子も含まれてるので光子は電子を素通りし、電子は光子とやはり反応しなかったのです。自由電子と光子との出会いの場合は超高周波進行波増幅管または加速器の効果と同じです。光電効果に似て特定の振動数以外には自由電子と光子が出会っても素通りしてしまいます。
ddt様>ハイゼンベルグがラザフォ-ドの散乱実験において「アナロジー」を考えたのは、別に問題ないと思うんですよ。当時、超微小なものを測定した実験結果としては、それくらいしかありませんでしたから。じっさいラザフォ-ドの実験は、原子核の大きさを測れる可能性を、初めて示唆したものでした。
伴>DDT 様の言うように時代背景を材料にすれば許容できる可能性があります。しかし量子の二重性を論じる現代の我々には厳密さが不足します。そして時代背景にハイゼンベルクと我々にはどちらも同じ情報が届いていたはずなので許容できない間違いです。おまけに「1913年にボーアは「原子および分子の構成について」という3部作の論文の第1論文[1]の中で、新たな原子模型を提示した。」と Wikipedia がいってますので、この情報もまたハイゼンベルクには届いています。ハイゼンベルクはボーアのモデルとリュードベリの発表と光電効果も知ってる状態なので私と同じ条件です。
時代最先端の知識・不確定性になんとか結びつけたいという、「人類の期待」が目をくらませ、みんなが忖度したのか私以外をだますのです。
伴>光電効果現象のときにのみ、原子は光子とエネルギーの交換をします。それ以外に光子と原子のエネルギーの交換は起きません。
ddt様>コンプトン散乱の実験結果より、そうは思えません。
伴>一部同意します。例えば熱エネルギーの交換は原子とγ線の間にコンプトン散乱にあります。しかし原子核にも電子殻にもそれらが試料のステージにしっかりと束縛されていることから座標位置の変化はありません。位置の変化のないことから運動量にも運動エネルギーにも光子から受けた影響はありません。我々の主題は運動エネルギーについてですよね。
まぜこぜでは論は運べません。
伴>電子1個のとき論理をたどると干渉は存在しません。スリットの片側だけで干渉できるなら、干渉は決して珍しい現象ではありません。
ddt様>「電子1個の時も、その1個の電子は両方のスリットを通過した」が、現在の答えだと思います。それがランダウが愛想もくそもなく言ってくれた、「不確定性原理は、粒子の運動軌道を否定するものだ」だと思います。
伴>実証で論を主張しましょう。有名人の言葉は無効です。彼の言葉の裏にどこにでもあるはずといっているのです。ところがあるはずの現象が、珍しいとしたら、どこにでもあるようなふりをした人間が嘘をついたのです。ランダウが嘘を言っていることが未だわからないのですね。
心理学では私の論理よりもランダウの言い訳を尊重する人類の心理行動を後光(ハロー)効果と呼びます。ランダウは高名ですからね。ddt様に真実の証拠をいくら積んでも、ランダウ側を続けようとするバイアスがあるかぎり、足を引っ張ろうと続く地獄の責め苦が私に降り掛かってきます。この苦しさを割り引くことが私側にはできません。
ddt様側でなんとか減らしてください。
ddt^3です。ご紹介いただいたURL、
1) http://ne.phys.kyushu-u.ac.jp/seminar/MicroWorld/Part3/P37/Compton_effect.htm
2) http://fnorio.com/0163Compton_effect/Compton_effect.html
は、以前から知っていましたが今回じっくり読み返してみました。特に2)は、高校生対象と言いながら、非常に詳しい解説だと思います。
読み返した結果、次の描像は仰るように成り立たないなと思いました。ありがとうございます
・原子内電子のエネルギーの1.5準位分の光子がやってきた時、その電子は準位を一個あげ、余った0.5準位分のエネルギーは減衰した光としてコンプトン散乱される。
光電現象が起こるのは、恐らく正確に準位差分のエネルギーを持った光子がやってきた時だと、了解しました。また自由粒子としての電子は光電現象を起こせないので(それには原子核が必要)、「ハイゼンベルグの思考実験」において光子が電子をキックする事を、光電効果と呼んだのは不用意過ぎました。あらためて言います。勉強になりました。
歴史的経緯としては、コンプトンがコンプトン効果を正式に論文に載せたのは1922年。その結果を受けてウィルソンがノーベル賞を取ったのは1927年。ハイゼンベルグがその思考実験を提出したのも1927年ですから、ハイゼンベルグは確実にコンプトン効果の事を知っていたと思います。そうすると自由粒子としての電子を光子がキックする現象は、光電効果ではなく「コンプトン効果」とするべきでした。「光電効果」と言ってしまったのは自分であって、ハイゼンベルグは別にそんな事は言っていません(^^;)。
で、ここからが問題です。masaban様は、コンプトン散乱を認めていないと読めるからです。
>後半に記事があり、図22,23,24がC.T.R.Wilson, Proc.Roy. Soc.,104,p1〜、1923年)
の写真だそうです。・・・過飽和水蒸気に刺激が加わると微小な水滴が発生しますが、この霧箱の中にコンプトン散乱のグラファイトやグラフェンは存在しませんから、コンプトン散乱の実験ではありません。
軌跡をたどるとなにか刺激物、たとえばエネルギーを吸収し、水蒸気の温度を下げる微粒子が左から来て、右へ伝わり、なにか連鎖反応が起きたとわかる写真です。
でもそれだけで反跳電子と決めつけるのは、ターゲットのグラファイトも存在しないことから異常な判断です。
なんと霧箱実験者はノーベル賞をもらったそうですね。
コンプトン効果は、別にグラファイトにX線を当てた時だけに起きる現象とは思えません。実際2)の2.(3)には、
・散乱光子の波長変化量は散乱体原子の種類に依存しない。
という結果も得られていた、という記述があります。だから霧箱の中にグラファイトがなくても良いと思えます。
さらに2)によれば、その霧箱の軌跡実験では光電効果による光電子によるものと思える軌跡の数と、コンプトン散乱によるものと思える反跳電子の軌跡の数の比が、光電効果による光子の吸収係数とコンプトン効果による光子の散乱係数の比の理論値とほぼ一致した、という定量的結果まで述べられています。つまり、光電効果とコンプトン効果は、どちらも「ある」と。
少なくとも、1),2)を読む限り、コンプトン効果を否定する矛盾はありません。
もちろん現在のURLにあるものは、既存の学説を支持する過去の実験や理論的成果の良いとこ取りに決まってます。しかしだからといって全てが嘘ではないでしょう。それは個人の判断ではないですか?。これに関連して言うと、例えばランダウです。
ランダウは確かに高名です。高名だから最初、ランダウの本を手に取ったのは事実です。しかし、
・不確定性原理は、粒子の運動軌道を否定するものだ.
という主張そのものが、自分の知っている実験/観測事実を余りに見事に表現してくれたものだったから、自分はランダウの言を受け入れます。
さらに自分は、ランダウの書いた専門書をそれ以外にも数冊読んでいます。ランダウが「弾性学」を書いたなんて知らないと思うのですが(自分の専門)、チィモシェンコなんかより、出色の出来だと自分は思います。そういう経緯で、自分はランダウを信頼しています。ランダウが高名だからではありません。
ところで、
>心理学では私の論理よりもランダウの言い訳を尊重する人類の心理行動を後光(ハロー)効果と呼びます。ランダウは高名ですからね。ddt様に真実の証拠をいくら積んでも、ランダウ側を続けようとするバイアスがあるかぎり、足を引っ張ろうと続く地獄の責め苦が私に降り掛かってきます。この苦しさを割り引くことが私側にはできません。
という事ですが、あなたは次のような覚悟は御あるのですか?。あなたの意見は、少なくとも現在の主流とは違うのは、ご存知と思う。
だから・・・、
・いくら実験事実を示しても、己の都合の良い部分だけをつまみ食いし、都合の悪い事実は無視する態度がある。
それを確証バイアスと言う。
そういう人達には、何をいっても無駄なのだ。
という意見があるのも、ご存じでしょう。なので、
・・・足を引っ張ろうと続く地獄の責め苦が私に降り掛かってきます。この苦しさを割り引くことが私側にはできません。
などと言うのはやめましょう。
お互い様です。
我慢しましょう。
お互い、大人なんだから。
伴>毎回のお返事を見るたびいつも緊張してしまいます。
楽しみで待っているはずなのに一方で開くのに躊躇します。
私と同じ疑問を持つ、同志とまみえる楽しみだったのですが、毎回の返事には疑問を疑問とせず容認する側の返答がガツンとやってくるから緊張しています。
ddt様はどちらの立場なのでしょう。これは不確定性原理ですかの開始点で主題は(ddt様>)「(光子が電子をキックする)という量子効果です。我々は量子効果から逃れられないであろうという予想です。それを認める事は、けっきょく不確定性原理を認めるのと同じようなものだと思います。[ハイゼンベルグの思考実験]に、論理的に曖昧なところがあるのは事実」だったからddt様を同士だと伴は思ったのです。
ddt様>コンプトン効果は、別にグラファイトにX線を当てた時だけに起きる現象とは思えません。実際2)の2.(3)には、散乱光子の波長変化量は散乱体原子の種類に依存しない。という結果も得られていた、という記述があります。だから霧箱の中にグラファイトがなくても良いと思えます。
伴>コンプトン効果には的があって、的は霧や分子ではありません。コンプトン効果の的は共有結合の結晶です。分子やイオン結合の結晶ではありません。ところが霧箱では霧が的になっています。ターゲットが水分蒸気ならイオン結合した水分子がターゲットでしょう。霧箱にはパラフィンを的にした実験もあったようです。ターゲットがパラフィンならイオン結合したパラフィン分子がターゲットでしょう。イオン結合の分子を衝突で分解させると分極したイオン片が飛びます。イオンが飛べば霧箱にイオンの飛跡が現れます。イオン結合の分解とコンプトン効果の単電子の反跳現象とは全く無関係です。
ddt様>さらに2)によれば、その霧箱の軌跡実験では光電効果による光電子によるものと思える軌跡の数と、コンプトン散乱によるものと思える反跳電子の軌跡の数の比が、光電効果による光子の吸収係数とコンプトン効果による光子の散乱係数の比の理論値とほぼ一致した、という定量的結果まで述べられています。つまり、光電効果とコンプトン効果は、どちらも「ある」と。
伴>ほぼ一致した比は、それぞれの1単位をブドウなのか、リンゴなのか、電子なのか、原子核なのか、光子か確認できているわけではありません。霧箱の実験で絡み合った長さの異なる、縮れた糸状の飛跡を、ただそうあってほしいという願いながら分類をした人類の期待がバイアスになっています。
ddt様>例えばランダウです。・・「・不確定性原理は、粒子の運動軌道を否定するものだ.という主張そのものが、自分の知っている実験/観測事実を余りに見事に表現してくれたものだったから、自分はランダウの言を受け入れます。
伴>信じてはなりません。実証を積み上げて矛盾を突いた論証を前に私が披露しています。
ランダウがいうように量子の運動軌道を否定するのはそれなりに構いません。
でも干渉の発生には光源と経路に条件がありました。私が実証から積み上げた論理をddt様は肝心要を読み飛ばし読み損ねたようです。
もう一度詳細に論証します。
たとえば断面積が0でない穴には常に複数の経路があります。なぜなら断面積が0でないのだから占める面積が0の量子は経路を選んで通れるからです。
断面積が0でない単一ただ一つの穴をとおる量子はddt説に従えば経路の異なる我が身の分身と干渉ができます。
ddt説に従えば量子はどの穴を通ろうとも常に干渉が生じます。
ところでddt様の周りの空間は、多数の穴の連結した球面を持った球体の中にある空間とみなせます。
ddt様は網目状の穴の多数空いた球体の中にいるのです。
するとddt様のまわりには光線がたくさんとおってますから干渉縞が至るところに観察できることでしょう。
ところが干渉縞はめったに観察できません。
2重スリットがないと観察できないのです。
少なくとも2つの量子を同時に通過させていなければいけないはずの干渉です。
その決定的条件に反し単一の量子で、単独にただ1回ただひとつの穴を通過して干渉がおき、干渉縞を発生するなら、複数のスリットは干渉に必要なく、干渉性の光源もまた必要ありません。ここにddt説は2重スリットの装置だけに現れる理由を失っています。
短くまとめると
たとえば断面積が0でない穴には常に複数の経路があります。ただ一つの量子だけで干渉でき、おまけにその量子には2つの経路に分布する性質があるというなら、たとえば断面積が0でない穴には常に複数の経路があります。
決定的条件を必要せず、特定の条件以外に干渉が発生するなら、常にどこでも、あなたの身の回りで干渉縞が観察できなければなりません。
でも現実には干渉縞は存在しません。
ddt説はこのように現実と矛盾します。
ddt説とよびましたが、学説であるなら学説に論理の矛盾があり恣意的に強引な結びつけをした欺瞞があります。
ddt様>あなたの意見は、少なくとも現在の主流とは違うのは、ご存知と思う。
伴>知っているので毎回の返事で緊張します。実証と推論を積み重ね正論を述べています。
読み飛ばさず、正しい演繹を試みてください。
もし私の推論中に疑問や間違いの発見があったら伝えてください。
ddt^3です。masaban様へ。
まず言い訳します。
光電効果についてですが、調べてみると、光電効果がどのような条件で起こるのかを明確に述べたものやところは、ほとんど見当たりませんでした。一方で限界波長の話はどこにでも出てきます。なので、前々回の自分のように考えてる連中は、けっこういるのではないか?と思えてきました。
次にコンプトン散乱に関するウィルソンの霧箱実験です。
>伴:コンプトン効果には的があって、的は霧や分子ではありません。コンプトン効果の的は共有結合の結晶です。・・・イオンが飛べば霧箱にイオンの飛跡が現れます。イオン結合の分解とコンプトン効果の単電子の反跳現象とは全く無関係です。
コンプトン効果の的は、その理論を信じれば電子です。しかも「散乱光子の波長変化量は散乱体原子の種類に依存しない」という結果も得られていたので、「何でも良いんじゃねっ?」って事で、ウィルソンの霧箱が用意された気がします。水蒸気の「電子」でもかまわないよと(その理論を信じればですが)。
そういうわけで、あなたの言うような可能性は、常にあります。
1) 実験を行うためには実験計画を立案しなければならないが、その段階で実験結果の評価に対する理論負荷性は避けられない。(成功した実証実験は本当は、反証されなかった事を示すだけ)
2) 実験結果を知らされる側(読む側)は、だから可能であれば実験条件などを確認すべきなのですが(イオンを飛散させないくらい低レベルのX線だったのか?とかを)、普通は「そういう事も考慮済みの話なんでしょ」と、良いとこ取りの話の論理に穴がなければ受け入れる。
3) このような基礎実験については、常に過去の結果の検証と追試が行われているはず。
なのでいつの日か、ウィルソンの霧箱実験結果は誤りだったと言われる時が来ないとは限りません。
また「ddt説(?(^^))」についてですが、もう少し考えてお応えしたいと思います。時間を下さい。
というわけで今回は当たり障りのない(?(^^;))ところで、ハイゼンベルグの「意図」について述べさせてください。最初の文書で、
・[ハイゼンベルグの思考実験]に、論理的に曖昧なところがあるのは確かです.
と書きましたが、この曖昧さはその前に書いた「論理的飛躍」の事です。しかもこの飛躍は、読んだ側の(ある意味で誘導された)誤解だと思えます。
一方でハイゼンベルグ自身は、これもある意味で確信犯的に意図的に、現実の物理系とは違う設定を持ち込んでいます。この点でハイゼンベルグに迷いはなかったはずです。
最初の文書で述べたように、当時量子現象に関して「不確定性原理のようなもの(・・・・・)」があるんじゃないか?、というコンセンサスはあったと思います。もう普通の古典力学や電磁気学では、量子現象をカバーし切れないかも知れないという。
しかし、それがどれほど重大な結果を招くかは、それほど気づかれていなかったようです。ハイゼンベルグはもともと、(確率的ではない)確定的に観測可能な量に基づいて理論を組み立てるべきだと考え(ただし実証主義ではない)、シュレーディンガーより先に行列力学を提出した人だったので、その重大さにいち早く気づいたと思います。しかも当時はまだ外村先生もいなかったので、「不確定性原理のようなもの(・・・・・)」に対する直接的な実験を行える遥か以前だった。という事は、観測の影響を原理的にはいくらでも弱める事を可能とする古典的実験は当然できるという常識も、また残っていた。
もし古典的観測が出来てしまったら、不確定性原理は反証されます。なのでハイゼンベルグは、古典的観測に対する反例を提出する必要に迫られた。でもその反例実験は当時の技術レベルで行うのは不可能だったから、思考実験です。
(1) 電子は完全に古典力学的な粒子で、粒子性のみを持つ。
(2) 光子は完全に古典電磁気学に従う波動性を持つ。
(3) ただし光子は電子と衝突できる(量子効果)。
(1),(2)は古典的観測を成立させる条件です。現実の物理系ではありません。(1),(2)だけだったら古典的観測は可能ですが、それが出来なくなるのはもちろん(3)のせいです。古典的観測を成立させる条件で不備を導くと言いながら(それが反例)、最初から量子効果を組み込んであるんですから、論理的にはちょっとひどいよねというのが、「我々は量子効果から逃れられないであろうという予想です。それを認める事は、けっきょく不確定性原理を認めるのと同じようなものだと思います」になります。しかし不確定性原理効果が現実に起こり得る事は、いちおう示されたわけです。不確定性原理は夢物語(不可能)ではないと。それは受け入れがたくて、最初は非常な反発をよんだそうです。
以上まとめれば、
(4)[ハイゼンベルグの思考実験]自体は、不確定性原理ではない。
(5)[ハイゼンベルグの思考実験]から、不確定性原理が導かれたのでもない。
(6) 不確定性原理は、当時のコンセンサスとして既に漠然と了解されていた(結果の重大さは別)。
となります。これらについては賛成していただけると思うのですが、どうでしょう?。
このようにちょっと胡散臭い[ハイゼンベルグの思考実験]ですが、事の重大さをみんなに気づかさせるのには成功したようです。後にハイゼンベルグはその思考実験について、「あれは量子力学宣伝用のキャッチコピーみたいなもんさ」と言ったとか言わなかったとかの逸話も(噂も)ありますから、現実の物理系とは違う事は重々承知で、確信犯的に意図的に誤解の誘導も良しとしたのかな?。その宣伝効果は、いまだに現在も続いてますよね?(^^;)。
[追伸]
大げさにいうと「物理的実在の粒子性と波動性」を自分が受け入れたのは、けっこう若い時でした。恐らくボーアの考えに影響されました。
・粒子だ波動だというけれど、それらは日常経験の抽象に過ぎないではないか。それは理想化だ。物理的実在が粒子か波動でなければならないと、誰が決めたんだ?。
似たような状況として、反相対性理論のサイトがけっこうあります(面白いので読んでしまう)。
・時空間が相対的などと勝手に決めるな!。時空間が絶対的なのは、経験から明らかだ。
・じゃあ、時空間が絶対的と誰が決めたんだ?。ニュートンの独断じゃないの?。
というわけで現状で自分は、がちがちの多数派のようです(^^;)。
ddt様>光電効果について・・・どのような条件で起こるのかを明確に述べたものやところは、ほとんど見当たりませんでした。一方で限界波長の話はどこにでも出てきます。なので、前々回の自分のように考えてる連中は、けっこういるのではないか?と思えてきました。
伴>結構たくさんの方々が、物理学の専門家、そして光電管を用いる技術者にddt様説派のみなさまがいます。DDT様がおっしゃるように私は異端派に違いありません。多勢に無勢なので波風を被らないように口を閉じているべきなのですが、他の確たる主張があり、そのとおりみちを遮る大岩を砕かねばならない状況があります。黙っていられない。という私の側の事情が強い主張となって今回の事態に至っています。私の主眼が知りたいとしたら、「masaban」 「伴公伸」をキワードに探し、日本物理学会、電子情報通信学会、FACEBOOK、jimdo,HATENABLOG]の記事を御覧ください。
>伴:コンプトン効果には的があって、的は霧や分子ではありません。コンプトン効果の的は共有結合の結晶です。・・・イオンが飛べば霧箱にイオンの飛跡が現れます。イオン結合の分解とコンプトン効果の単電子の反跳現象とは全く無関係です。
ddt様>コンプトン効果の的は、その理論を信じれば電子です。しかも「散乱光子の波長変化量は散乱体原子の種類に依存しない」という結果も得られていたので、「何でも良いんじゃねっ?」って事で、ウィルソンの霧箱が用意された気がします。水蒸気の「電子」でもかまわないよと(その理論を信じればですが)。そういうわけで、あなたの言うような可能性は、常にあります。・・なのでいつの日か、ウィルソンの霧箱実験結果は誤りだったと言われる時が来ないとは限りません。
伴>ゴールして当確が決定したはずの学理から引き戻して可能性に過ぎない仮設まで引きもどした。私にはすでに十分な利益があります。なぜなら他の確たる主張があり、そのとおりみちを遮る大岩が小さくなって、通り道ができたのです。なら、「散乱光子の波長変化量は散乱体原子の種類に依存しない」という結果も、黙っていられます。じつは興味の主流ではないのです。
ddt様>「ddt説(?(^^))」についてですが、もう少し考えてお応えしたいと思います。時間を下さい
伴>また好きなときにどうぞ。投函に気がつけばお返事します。
DDT様> ・・今回は当たり障りのない・・「・・誤解・・ハイゼンベルグ自身は、これもある意味で確信犯的に意図的に、現実の物理系とは違う設定を持ち込んでいます。この点でハイゼンベルグに迷いはなかったはずです。・・ハイゼンベルグはもともと・・行列力学を提出した人だったので、その重大さにいち早く気づいた・・観測の影響を原理的にはいくらでも弱める事を可能とする古典的実験は当然できるという常識も、また残っていた。もし古典的観測が出来てしまったら、不確定性原理は反証されます。なのでハイゼンベルグは、古典的観測に対する反例を提出する必要に迫られた。でもその反例実験は当時の技術レベルで行うのは不可能だったから、思考実験です。
伴>そうであったかもしれません。そこでそのさきにつなぎをいわせていただくと彼の意図と同一の意味で、当然に数理に現れた性質を、そのまま受け入れるに留めるべきです。不確定性原理の実現した現実の観察を求め続けるべきではありません。どうしても言いたいとき、ビリヤードのたまを事例に「これこれ云々みたいなもの」であるべきです。要するに光が電子に衝突しあたかもビリヤード盤でぶつけ合う白球赤球の衝突のように力を作用できると電子と光子の粒子的な性質が信じられてはならなかった。
ddt様> (1) 電子は完全に古典力学的な粒子で、粒子性のみを持つ。(2) 光子は完全に古典電磁気学に従う波動性を持つ。(3) ただし光子は電子と衝突できる(量子効果)。(1),(2)は古典的観測を成立させる条件です。現実の物理系ではありません。(1),(2)だけだったら古典的観測は可能ですが、それが出来なくなるのはもちろん(3)のせいです。古典的観測を成立させる条件で不備を導くと言いながら(それが反例)、最初から量子効果を組み込んであるんですから、論理的にはちょっとひどいよねというのが、「我々は量子効果から逃れられないであろうという予想です。それを認める事は、けっきょく不確定性原理を認めるのと同じようなものだと思います」になります。しかし不確定性原理効果が現実に起こり得る事は、いちおう示されたわけです。不確定性原理は夢物語(不可能)ではないと。それは受け入れがたくて、最初は非常な反発をよんだそうです。 以上まとめれば、(4)[ハイゼンベルグの思考実験]自体は、不確定性原理ではない。(5)[ハイゼンベルグの思考実験]から、不確定性原理が導かれたのでもない。(6) 不確定性原理は、当時のコンセンサスとして既に漠然と了解されていた(結果の重大さは別)。となります。これらについては賛成していただけると思うのですが、どうでしょう?。・・確信犯的に意図的に誤解の誘導も良しとしたのかな?。その宣伝効果は、いまだに現在も続いてますよね?
伴>そうだろうとおもいます。
ddt様>[追伸]・・・自分は、がちがちの多数派のようです(^^;)。
伴>そのようですね。そういう方には「masaban」 「伴公伸」をキワードに探し、日本物理学会、電子情報通信学会、FACEBOOK、jimdo,HATENABLOG]の記事、たとえばhttps://masabanmasaban.jimdofree.com/
を御覧いただきたい。
矛盾を正してみたら、最小作用の原理が実はある特定の波動現象の性質だったことがわかります。この世の物理現象は同時に二つの現象が重なっているのです。かたほうは最小作用の原理の姿を見せる性質と決まっています。
それは物質波の位相に同期を起こす共鳴現象なのです。これを土台として物理は生じ、その観察から出来上がった数理はその土台に影響を受けています。
ddt^3です。
ここに(対話原理小論)、
http://www.ritsumei.ac.jp/se/re/yamadalab/taiwa.pdf
山田廣成氏の考えがまとめられています。
最初「電子は意志を持つ」と聞いた時どうも受け入れ難いなと思いましたが、上記の冒頭にあるように、学生に量子力学を教える時に人間集団の意志決定プロセスとのアナロジーを使ってみたら思いのほか受けが良かったので、逆に電子には意志のようなものがあるとモデル化してみたら、思いのほか量子力学をすっきり説明できた、というところだと思います。
ここで意志のようなというのは、これは普通に考える意志ではないからです。確率選択(不確定性原理)を意志と呼び、意志は確率選択という現象だと解釈するようです。しかし個々の確率選択だけではランダム選択になり方向性を持たず意志にならないので、集団としては選択が一定の方向に偏ると仮定されます。それが対話(干渉現象)です。また自然には階層性があり、階層間の圧力にも依存して方向性が生じるとも仮定されるようです。
山田氏の経歴を調べてみると、(言葉は悪いですが)実務で実用的な業績をちゃんと上げた来た人ですので、普通に量子力学の計算などは朝飯前だと思います。なのでとりあえず、量子現象に対して人間集団の意志決定プロセスの言葉を当てはめてみたら、文系の人にも説明しやすくなったと。これだけでは単なる言葉の遊びですが、山田氏はそれを一種の自然観として提出します。何故なら氏の考える意志は、観測できる物理現象の観察に基づくものだからです。先日ご紹介した中込照明も、その物理現象の新解釈を自然観として提出してます。個人的には、このような試みには反対しません。
そしてそれは自然観なので、逆に人間集団にも適用できる事にもなります。それで氏の3冊の哲学書(?)になると思えますが(Amazonで売ってます)、地球の平和というのが「まさに意志をもって選択すべきもの」なのか「予定調和的なもの」なのかは、それらを読んでないのでわかりません(^^;)。ただし、非常に誤解を受けやすいですよね。すでに仏教系やスピリチュアル系っぽいHPで、対話原理は引用されています。
(人類のではなく、地球の平和というところが、たぶんミソ(^^))。
>「波動ですが、これは定義として非局所的な実体であるというのは同意されますか?粒子は局所的な実体ですが、貴方は電子は局所的では無いと仰っているのですね?先ず YES NOでお答えください。」
対話原理小論の14ヶ条によれば、物理的実体は全て粒子ですから、波動のように非局所的に拡がった実体はないわけです(もちろん自然観に基づく仮定です)。
>「波動とは何か、粒子とは何かを理解されていないようなので尋ねしています。それがこの公開討論の目的なんですから。 そして申し上げています。物質が波動であるならば、私たちには見ることができませんよ。霧箱のお話をしました。霧箱で電子の軌跡は目に見えます。しかし、波動である光の軌跡を見ることはできません。光が電子を散乱させれば、散乱された電子は見ることができます。
同14ヶ条によれば、シュレーディンガー方程式の波動関数に実体はなく情報伝達関数(機能)だとなり、その結果が干渉現象として発現する。これは言い当て妙かも知れませんが、その前提は、場を独立した物理的実在と認めず、全ての相互作用を情報伝達機能に過ぎないとする仮定から来てる気がします(これは現在の物質観と相いれません)。
ええと確か、第二量子化により電磁場方程式は光のシュレーディンガー方程式に化けたはずなので、そうすると光に実体はなく光の軌跡(光線)は本来見れるわけないと。見たと思ったのは、例えば電子を介して伝達された情報に過ぎないというところでしょうか?。
問題は、以上のような話に大多数はどう反応をするかです。失礼ながら以下を勝手に引用させて頂きます。
https://okwave.jp/qa/q9817649.html
上記の回答No.4です。
>・・・波動の描像で説明できるかどうかは誰も否定してないというか話題にもなってませんよね。・・・波動で説明できたら粒子を使って説明してはダメ、って決まりは何もないので、波動に基づく描像の話は、粒子だと思って良いかという話には直接関係しませんよね。
これが典型的な反応だと思います。現在の多数派の意見では、「物理的実在とは、波動的性質と粒子的性質を併せ持つ何か(何かある事は認める)」ですから、話がかみ合わないわけですよ。それぞれの仮定のもとでは波動でも説明できるし、粒子でも説明できるし、波動と粒子の性質を併せ持つ何かによっても説明できる。どれかの仮定を受け入れれば他とは相いれないが、どれが妥当であるかは現状ではわからないよと。この点で波動説も粒子説も何か説に比べて部が悪いです。何か説は波動にも粒子にも転べるし、わからないものは議論の対象としないと一番言いやすい。
個人的には山田氏や中込氏のような意見は、常にあって良いと思っています。
(対話原理小論)、http://www.ritsumei.ac.jp/se/re/yamadalab/taiwa.pdf山田廣成氏の考え
を読んでみたが、ddt^3様を通訳にせぬと私にはその内容をいまだに全く理解できない。
そこまで書いてないようにしか読解力の不足か、見えない。