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無責任体制ここに始る(Re: 君が代は自然 をよんだ歌?)

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domus

unread,
Mar 10, 1999, 3:00:00 AM3/10/99
to
Shiro <h9s...@tky2.3web.ne.jp> wrote in article
<7c0bpf$vu$1...@news2.tky.3web.ne.jp>...
> domusさんの<01be68e2$080cb260$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp>から
> >無条件降伏により日本という国家が滅亡したにも拘わらず、国家を滅亡
> >に導いた軍国主義政権の一翼を担った天皇制を完全に廃止しなかったが
> >為に、未だに国民の間に不毛な論争が延々と続くのです。
> >
> >この不毛の論争に終止符を打つためには天皇制の廃止を検討するしか有
> >りません。
>
>  いーじゃないですか、天皇制で。
>  千数百年の天皇制で日本の敗戦はたった一回。優秀じゃないですか。
>
>  「日本の天皇制の歴史は、天皇を利用した者達の歴史である。」なので
> 無条件降伏は軍国主義達が無能だっただけで、天皇制の問題では有りませ
> ん。

無条件降伏と言う事態を余りに甘く考え過ぎていませんか。敗戦後日本の被
害が比較的軽微で済んだのは結果論に過ぎません。時と場合によったら、日
本全土が略奪、強姦、暴行、殺戮の修羅場と化し、最悪の場合には日本人が
この列島を追われて(恰もユダヤ民族の如く)流浪の旅に出なければならな
い事態とて全く絵空事では無いのです。現に小規模とは言うものの、北方領
土の島民は島を追われたではありませんか。若し日本を制圧する軍隊が、ア
メリカではなくソ連だったら、多くの日本人がこの日本列島を追われた可能
性だって有り得たのです。朝鮮やドイツの様に国家が分断される事態だって
十分有り得たのです。

天皇制の歴史の大半は確かにおっしゃる通りでしょう。しかし時代によって
は天皇がかなりの実権を握っていた時代も無かった訳ではありません。帝国
憲法下の昭和天皇の時代は正にそうした希少な時代の一つです。戦前から昭
和天皇は今と変わらない象徴の如き存在だと誤解されているとしたらそれは
大きな間違いです。帝国憲法下では昭和天皇は、帝国日本の統治者であり、
陸海軍の統帥者だったのですから。当時の日本においてはこれ以上の権力者
、これ以上の権威者は存在しなかったのです。

国の最高権力者であり最高権威者であった天皇が国の進路を誤って国家存亡
の危機に導いた以上、それ相応の責任を取るのはある意味で当然です。敗戦
後天皇が然るべき責任を取らず、天皇の統治者、統帥者としての責任追及を
誰もしようとしなかった事により戦後社会の無責任体制は始ったと言っても
過言ではありません。

敵国の軍事法廷(東京裁判)で裁かれたのは戦争犯罪です。私がここで問題
にしているのは、とかく左右両陣営の間で意見の別れる戦争犯罪に纏わる倫
理や人道の問題ではありません。戦争を起こし、その戦争に負けた結果、国
家が主権を喪失したのです。この由々しき事態を招来した結果責任を一体こ
の国では誰が取ったのでしょう。この由々しき事態を招来した結果責任を一
体この国では誰に取らせたのでしょう。


--
怒夢巣

yutaka

unread,
Mar 11, 1999, 3:00:00 AM3/11/99
to
In article <01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp>, "domus"
<arti...@pc.highway.ne.jp> wrote:

> 帝国憲法下では昭和天皇は、帝国日本の統治者であり、
> 陸海軍の統帥者だったのですから。当時の日本においてはこれ以上の権力者、
> これ以上の権威者は存在しなかったのです。

帝国憲法によれば、その責任はそれぞれ補弼する大臣を以て最終とする、となって
いましたけど。権限の源ではあっても、それを自分の意志で行使できる立場ではな
かった筈です。天皇親政なんぞが敷かれていたわけではない。

> 国の最高権力者であり最高権威者であった天皇が国の進路を誤って国家存亡
> の危機に導いた以上、

それはあまりに、陸軍だの内閣だの議会だの朝日を筆頭とする新聞だの国民だのの
責任を無視した言いようでは。
帝国憲法でも、天皇は立憲君主なんであって、専制君主ではありませんでした。

> 戦争を起こし、その戦争に負けた結果、国
> 家が主権を喪失したのです。この由々しき事態を招来した結果責任を一体こ
> の国では誰が取ったのでしょう。この由々しき事態を招来した結果責任を一
> 体この国では誰に取らせたのでしょう。

確かに取るべきなのに取らなかった人も居た様で、また国民が旧軍に全責任をなす
りつける思想に飛びついた結果いまの無責任体制が始まったと言えなくもないのか
も知れませんが…。
それにしても、『責任はない』と憲法に明記されている天皇に取らせろ、ってのは
無責任きわまりない話ですね。
--
  子 坎
  乾 艮    (株)数理システム 科学技術部 乾 艮
 酉 卯      西澤 隆           兌   震
  坤 巽       yut...@msi.co.jp         坤 巽
   午                            離

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 11, 1999, 3:00:00 AM3/11/99
to
清水です。

過去何回も書いたような記憶もありますが、性懲りもなくまた書きます。

記事 <01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> で,
domus <arti...@pc.highway.ne.jp> さんは書きました;

>>  「日本の天皇制の歴史は、天皇を利用した者達の歴史である。」なので
>> 無条件降伏は軍国主義達が無能だっただけで、天皇制の問題では有りませ
>> ん。
>
>無条件降伏と言う事態を余りに甘く考え過ぎていませんか。敗戦後日本の被
>害が比較的軽微で済んだのは結果論に過ぎません。

あの、ポツダム宣言の正式名称は、「日本国の降伏条件を定めたる宣言」で
して、これを受諾することにより無条件降伏することになったのは、大日本
帝国陸海軍です。決して大日本帝国政府ではありません。

・ポツダム宣言 第4項

無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的
助言者に依り日本国が引続き統御せらるべきか、又は理性の経路を日本国
が履むべきかを日本国が決意すべき時期は到来せり。

・ポツダム宣言 第13項

吾等は日本国政府が直に全日本軍隊の無条件降伏を宣言し、且つ右行動に
於ける同政府の誠意に付き、適当且つ充分なる保障を提供せんことを同政
府に対し要求す。右以外の日本国の選択は、迅速且つ完全なる壊滅あるの
みとす。


つまり、国家としては、あくまで「ポツダム宣言」に盛り込まれた降伏条件
を受入れた、条件降伏なのですが...

# ドイツのように「政府なく主権者なし」の状態だったわけではない。


>時と場合によったら、日本全土が略奪、強姦、暴行、殺戮の修羅場と化し、
>最悪の場合には日本人がこの列島を追われて(恰もユダヤ民族の如く)流浪
>の旅に出なければならない事態とて全く絵空事では無いのです。

まぁ、連合国がポツダム宣言を守らないならそうなりますが、連合国は文明
の名において枢軸国と戦っていたわけですから、そういう想像はとりあえず
不要だと思います。

・ポツダム宣言 第10項

吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめん
とするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せるものを含む
一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は
日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を
除去すべし。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せ
らるべし。


で、絵空事を前提とするなら、もっと溯って、たとえばハル・ノートを受諾
して大陸から撤退しても対日禁輸措置が解除されず、さらに米英から無理難
題を吹っかけられて、日本全土が略奪、強姦、暴行、殺戮の修羅場と化すと
いう想定も有り得ますね。そして「なぜ、あの時に立たなかったのだ?」と
いう政治責任論も出るかもしれません。つまり、「あの時に開戦したから、
独立国としての体面が保てたのだ」という論もありえる、ということです。

# 私がこれを支持しているということではありません。為念。

なので、絵空事に基づく論は、ほどほどにした方がよかろうと存じます。


>現に小規模とは言うものの、北方領土の島民は島を追われたではありま
>せんか。

これは、ポツダム宣言で保障された日本の領土の中に、北方領土が明示的に
入っていなかったからでしょうね。

・ポツダム宣言 第8項

「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく、又日本国の主権は本州、北海道、
九州、四国及び吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。


>若し日本を制圧する軍隊が、アメリカではなくソ連だったら、多くの日本
>人がこの日本列島を追われた可能性だって有り得たのです。

まぁ、それを避けるためにあのタイミングでポツダム宣言を受諾するべく、
昭和天皇と政府・枢密院の和平派要人が動いたのだと私は考えています。


>朝鮮やドイツの様に国家が分断される事態だって十分有り得たのです。

うーむ、ポツダム宣言を受諾することでそれを避け得たのでは。


>戦争を起こし、その戦争に負けた結果、国家が主権を喪失したのです。

日本国の政府の主権は喪失していないでしょう。潜在主権までは否定されて
はおらず、一時的に制限下におかれたというのが、法的には正しい理解だと
思います。

>この由々しき事態を招来した結果責任を一体この国では誰が取ったの
>でしょう。この由々しき事態を招来した結果責任を一体この国では誰
>に取らせたのでしょう。

たぶん、A級戦争犯罪人にすべて被せて済ませたのだと思います。


※ ポツダム宣言の条文は、江藤 淳 監修「終戦工作の記録」講談社文庫の
記述に、適宜、句読点と送り仮名を追加して、平仮名表記にした。

--
清水 和佳%浜松は静岡ではないと主張する会
.
遠州浜松出身、神戸/宝塚/船橋/越谷/千葉/西宮 経由、三鷹市牟礼在住
ksh...@dd.iij4u.or.jp / ksh...@hk.airnet.ne.jp / ksh...@sfc.co.jp

Yoshihide SHIMAZU

unread,
Mar 11, 1999, 3:00:00 AM3/11/99
to
嶋津です。
本題からずれるかも知れませんが。

Kaz SHiMZ wrote in message <7c7vlf$69j$1...@news00.iij4u.or.jp>...


>記事 <01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> で,
>domus <arti...@pc.highway.ne.jp> さんは書きました;
>

>>現に小規模とは言うものの、北方領土の島民は島を追われたではありま
>>せんか。
>これは、ポツダム宣言で保障された日本の領土の中に、北方領土が明示的に
>入っていなかったからでしょうね。
> ・ポツダム宣言 第8項
> 「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく、又日本国の主権は本州、北海道、
> 九州、四国及び吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。
>>若し日本を制圧する軍隊が、アメリカではなくソ連だったら、多くの日本
>>人がこの日本列島を追われた可能性だって有り得たのです。
>まぁ、それを避けるためにあのタイミングでポツダム宣言を受諾するべく、
>昭和天皇と政府・枢密院の和平派要人が動いたのだと私は考えています。

ところで、ポツダム宣言受諾は昭和20年8月15日だったわけですが、
その3日後の8月18日未明のソ連軍による占守島奇襲(強襲?)上陸と
それに対抗した91師団他の占守島守備隊の戦闘はどのように受け取れば
良いのでしょうか?

戦史に関わる話ですので fj.sci.military にもクロスポストします。

--
Advanced Data Technologies,Corp.
嶋津吉秀 shi...@adtech.co.jp


Masanobu Ueda

unread,
Mar 12, 1999, 3:00:00 AM3/12/99
to
上田です。
Yoshihide SHIMAZU wrote in message <7c8fdc$c57$1...@nn-os001.ocn.ad.jp>...
>嶋津です。

>ところで、ポツダム宣言受諾は昭和20年8月15日だったわけですが、
>その3日後の8月18日未明のソ連軍による占守島奇襲(強襲?)上陸と
>それに対抗した91師団他の占守島守備隊の戦闘はどのように受け取れば
>良いのでしょうか?
>
>戦史に関わる話ですので fj.sci.military にもクロスポストします。
>


 えっ、そんなことがあったのですか。宜しければ、詳しく教えていただきたいので
すが、お願いします。
            ma...@lime.ocn.ne.jp

Yoshihide SHIMAZU

unread,
Mar 12, 1999, 3:00:00 AM3/12/99
to
嶋津です。
たった1つの資料に基づいた主観的な説明かも知れませんが。

Masanobu Ueda wrote in message <7c8pj6$grt$1...@nn-os001.ocn.ad.jp>...


>上田です。
>Yoshihide SHIMAZU wrote in message <7c8fdc$c57$1...@nn-os001.ocn.ad.jp>...

>>ところで、ポツダム宣言受諾は昭和20年8月15日だったわけですが、
>>その3日後の8月18日未明のソ連軍による占守島奇襲(強襲?)上陸と
>>それに対抗した91師団他の占守島守備隊の戦闘はどのように受け取れば
>>良いのでしょうか?
>>
>>戦史に関わる話ですので fj.sci.military にもクロスポストします。
>
> えっ、そんなことがあったのですか。宜しければ、詳しく教えていただきたいの

>すが、お願いします。

 占守島は約12kmの海峡を挟んでカムチャッカ半島に面する千島列島
最北端の島(東西16km、南北30km)で、第2次対戦中は北方防衛
の重要拠点であると同時に日本本土の最北端でした。
 守備兵力は、第91師団の1個旅団強、戦車第11連隊、陸軍及び海軍
の飛行隊若干でしたが、8月15日以降18日までの間に一部の部隊は
北海道本土へ引揚げたようです。

 8月15日以降も、対岸のカムチャッカ半島ロパトカ岬からの散発的な
砲撃はあったようですが、18日0時頃からは本格的な砲撃が始まり、
2時頃に連隊規模以上の兵力による上陸が開始された。これを「停戦の
軍使派遣ではなく侵攻」と判断した司令部は指揮下の全部隊に戦闘戦備を
下令し、反撃が開始された。同日昼過ぎには隣の幌筵島からの援軍を受け
組織的な反撃体制が整った守備隊は、ソ連軍を上陸海岸近くまで撃退し、
戦線は膠着状態となった。
 ただし、この戦闘で守備隊は多大の損害を受け、例えば戦車11連隊で
は稼動戦車は半数を割り、連隊長はじめ中隊長、小隊長の大半は戦死し、
大尉が連隊の指揮を取る状態となっていた。

 18日夕刻には守備隊は攻勢を中止し、ソ連軍に対し停戦の軍使を派遣
し停戦交渉を開始したが進展を見なかった。停戦の合意が成立したのは
21日であった。この間も大隊規模の衝突が繰り返され、ソ連軍の上陸は
続けられた。

 8月23、24の両日をかけて守備隊は武装解除し、占守島の戦闘は
完全に終結した。その後、全将兵はシベリアに抑留され、彼らの復員は
22年末から24年であった。
                以上、「戦車第十一連隊史」を参考

占守島の戦いが、殆どの人に知られていないのは、
(1)敗戦後に行われた戦闘である為、陸軍中央に十分な戦闘報告が行え
なかった。また、新聞等でも報道されなかった。
(2)戦闘参加部隊が1個師団強と少なく、前線指揮官級将校の大半が
戦死している。また、戦闘終了後抑留され、戦闘記録等をまとめる
余裕が無かった。
(3)米陸海軍が相手の南方戦域の戦闘の場合は、戦後米軍側からの情報
もあったが、相手のソ連軍との戦史面での情報交換はしばらく行わ
れなかった。
(4)資料が殆ど無い為、戦史雑誌等でも触れられる機会が少なかった。
(5)平和条約締結に障害になると考えた政府が意図的に隠した。(邪推?)
等が理由ではないかと思っています。

 なお、「戦車第十一連隊史」に記されている資料のうち、個人の回想以外
を参考の為、以下に示します。
・秘められた戦史「対ソ戦闘唯一の勝利の記録・占守島攻防戦」
        (週間現代・昭和42年11月9日)
・昭和史の天皇 千島・樺太篇
・戦史叢書「北東方面陸軍作戦」(2)千島樺太北海道の防衛戦より第6章
        (防衛研究所戦史室)
・証言私の昭和史 占守島いまだ停戦せず
・北千島占守島のおける独立歩兵第282大隊・戦車第11連隊の戦闘
        (自衛隊綜合教育部戦史編纂室)

 ここで引用資料とした「戦車第十一連隊史」は正史ではなく、元戦車
第11連隊の有志の方からなる「戦車第十一連隊史編集委員会」により、
昭和51年3月に編集発行されたものであり、関係者にのみ配布された
非売品である事を付記しておきます。

Yoshihide SHIMAZU

unread,
Mar 12, 1999, 3:00:00 AM3/12/99
to
嶋津です。
現時点で入手可能な関連資料を見つけましたので追加しておきます。

別冊歴史読本 戦記シリーズNo.44 太平洋戦跡慰霊総覧 
  1998/12/26 (人物往来社)ISBN4-404-02690-0
pp70-73 占守島(北千島)

Hideyosi

unread,
Mar 12, 1999, 3:00:00 AM3/12/99
to

Masanobu Ueda <ma...@lime.ocn.ne.jp> wrote in article


<7c8pj6$grt$1...@nn-os001.ocn.ad.jp>...
> 上田です。
> Yoshihide SHIMAZU wrote in message <7c8fdc$c57$1...@nn-os001.ocn.ad.jp>...

> >嶋津です。


>
> >ところで、ポツダム宣言受諾は昭和20年8月15日だったわけですが、
> >その3日後の8月18日未明のソ連軍による占守島奇襲(強襲?)上陸と
> >それに対抗した91師団他の占守島守備隊の戦闘はどのように受け取れば
> >良いのでしょうか?
> >
> >戦史に関わる話ですので fj.sci.military にもクロスポストします。
> >
>
>
>
 えっ、そんなことがあったのですか。宜しければ、詳しく教えていただきたいの

> すが、お願いします。

悪魔のスターリンを信じた陸軍が馬鹿だったんですね。
スターリンもヒトラーに条約破棄されて進軍されたのでそれと同じことをしただけ

しょう。もはやここまでの日本なんぞ相手のの条約守るよりも戦後の利権を優先し
たんでしょう。
当時は国連もなく国際連盟を離脱した日本なんて何されても文句いう国はなかった
んですからね。
守備隊は抵抗しなくてもやられる可能性があったので必死に戦ったんでしょう。
ポツダム宣言にはソ連ははいってなかったのかな?
ソ連との戦争開始はポツダム宣言受諾直前で法的にはソ連が日ソ中立条約を一方的
に期限前に破棄してから日ソ共同宣言が出された1950年代にはいるまで戦争状

にあったのではないでしょうか?ポツダム宣言を受諾してもソ連とは戦争状態はつ
づい
ていたというか始まったばかりの状態でしょう。

Kusano Hiroaki

unread,
Mar 13, 1999, 3:00:00 AM3/13/99
to
>> >ところで、ポツダム宣言受諾は昭和20年8月15日だったわけですが、
>> >その3日後の8月18日未明のソ連軍による占守島奇襲(強襲?)上陸とれに対
抗した91師団他の占守島守備隊の戦闘はどのように受け取れば
>> >良いのでしょうか?

はじめまして、Kusanoと申します。
一般人ですがこの件に関して答えたいのでメッセージを送信しました。

この件に関しては大日本絵画刊の「アーマーモデリング」と言う雑誌に
詳しい事が書かれています。
今、手元に無いので(会社に置きっぱなし)細かくは書けませんが、
大本営からの停戦命令を受けた後にソ連から幸福手続きの使節が
くるという情報があったので待機していたところ、占守島北の海岸に
明らかに戦闘部隊と思われる軍団4000人(!)が上陸して来たので
「これはもはや使節ではない」とカンジタ占守島守備隊は大本営発表
の停戦命令に追記される「ただし、自分を守るための先頭はやむを
得ない」に準じて応戦したそうです。
占守島防衛隊は後方の防衛隊にしては珍しく南方から転進してきた
精鋭部隊で構成されていて、戦車部隊も所持する第一線の部隊で
あったそうです、また上陸したソ連軍も重戦車(スターリンなど)を揚陸
する手段を持っていなかった為に、火力支援が対岸のソ連領土からの
重砲のみだったという事が守備隊にとって幸いし、戦闘は日本軍優位
に進み、最後は完全な停戦命令が下り、戦闘は終了したそうです。

記載したことはうろ覚えなので、アーマーモデリングの第2号か3号を
参照してください、大きい書店ならばバックナンバーがあると思います。


Kaz SHiMZ

unread,
Mar 13, 1999, 3:00:00 AM3/13/99
to
清水です。

記事 <7c8fdc$c57$1...@nn-os001.ocn.ad.jp> で,
Yoshihide SHIMAZU <shi...@adtech.co.jp> さんは書きました;

>ところで、ポツダム宣言受諾は昭和20年8月15日だったわけですが、

えー、政府が受諾を最終決定し、スイス政府に米英支ソ政府への伝達を依頼
するべく日本時間の8月14日午後11時に在スイス公使宛の訓電を出し、
現地時間の14日中にスイス政府から米英支ソ政府へ通告されているので、
対外的にはポツダム宣言の正式受諾は14日になると思います。

>その3日後の8月18日未明のソ連軍による占守島奇襲(強襲?)上陸と
>それに対抗した91師団他の占守島守備隊の戦闘はどのように受け取れば
>良いのでしょうか?

戦闘行動の停止命令(大本営命令)は8月16日午後4時に出されていま
す。これには、8月25日までに一切の武力行使は停止、と書かれている
ようです(原文みつからず)。また、連合国側からの指定としては、停戦
・武装解除の手順に関して、マニラ交渉(8月20日~)で「直に戦闘を
停止し其の武装を解除すること(一般命令第1号)」と指定されています。

つまり、8月20日までは、明示的な戦闘停止令が有効になっていなかっ
たことになります。

で、日本が国家として降伏を表明したので、引き続き、日本軍と連合軍が
休戦協定を締結して局地停戦、武装解除という手続きを踏むのが筋だと思
います。ここで、占守島はソ連軍が強襲してきたわけで、日本側守備隊の
戦闘は自衛措置であり、かつ、戦闘停止令が有効となったと判断しうる8
月20日以前に勃発しているので、こちらは問題ないと思います。

# 現に戦闘中の部隊に対して一方的な戦闘停止令を下すことは殺戮を容認
# することなので、これは拒否しうる、というのが私的解釈。こういうケ
# ースでは局地的に停戦・休戦協定が必要だと思う。

さて、ソ連軍の行為の是非はと言うと... 火事場泥棒的ですが、全面的・
局地的な休戦協定が締結されておらず、戦闘停止令も有効になっていなか
ったのですから、これもまぁ、グレーゾーンというか、真珠湾攻撃よりは、
弁明の余地がありそうな気がします。

要するに、まだ、戦争中だった、という解釈で済ませうると思います。

# むしろ、日ソ中立条約の一方的破棄を問題にすべきなんだろうねぇ...

TK

unread,
Mar 13, 1999, 3:00:00 AM3/13/99
to
なんで政府は北方4島しか返還要求しないんでしょうね。

全千島と南樺太を要求してから、妥協していくほうが世界の普通のやり方だよね。


特に相手がロシアなんだから。

どうも、発想があまちゃんなんだよね。性善説だよね。


Shiro

unread,
Mar 13, 1999, 3:00:00 AM3/13/99
to
domusさんの<01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp>から

>無条件降伏と言う事態を余りに甘く考え過ぎていませんか。敗戦後日本の被
>害が比較的軽微で済んだのは結果論に過ぎません。時と場合によったら、日
>本全土が略奪、強姦、暴行、殺戮の修羅場と化し、最悪の場合には日本人が
>この列島を追われて(恰もユダヤ民族の如く)流浪の旅に出なければならな
>い事態とて全く絵空事では無いのです。現に小規模とは言うものの、北方領
>土の島民は島を追われたではありませんか。若し日本を制圧する軍隊が、ア
>メリカではなくソ連だったら、多くの日本人がこの日本列島を追われた可能
>性だって有り得たのです。朝鮮やドイツの様に国家が分断される事態だって
>十分有り得たのです。

 最悪の場合を予想し、徹底抗戦を主張した人達もいます。


>天皇制の歴史の大半は確かにおっしゃる通りでしょう。しかし時代によって
>は天皇がかなりの実権を握っていた時代も無かった訳ではありません。帝国
>憲法下の昭和天皇の時代は正にそうした希少な時代の一つです。戦前から昭
>和天皇は今と変わらない象徴の如き存在だと誤解されているとしたらそれは

>大きな間違いです。帝国憲法下では昭和天皇は、帝国日本の統治者であり、
>陸海軍の統帥者だったのですから。当時の日本においてはこれ以上の権力者
>、これ以上の権威者は存在しなかったのです。

 タテマエはそうかもしれませんが、ホンネは違うと思います。
 帝国憲法の条文で天皇が統治者と統帥者と定義されていても、実際に天皇が
統治権と統帥権を行使する事を認められていなければタテマエとして「当時の
日本においてはこれ以上の権力者、これ以上の権威者は存在しなかった」とは
言えても以下の例もあるのでホンネでそうだとは言えないと思います。
 統治権の例: ポツダム宣言受諾が決まった時、クーデターを起こし新しい
天皇の元で戦争を継続しようと計画した人達がいた。
 統帥権の例: 大陸で紛争が起きた時、軍中央(天皇の統帥権の代行者)の
不拡大命令を現地の軍が無視した。


>国の最高権力者であり最高権威者であった天皇が国の進路を誤って国家存亡
>の危機に導いた以上、それ相応の責任を取るのはある意味で当然です。敗戦
>後天皇が然るべき責任を取らず、天皇の統治者、統帥者としての責任追及を
>誰もしようとしなかった事により戦後社会の無責任体制は始ったと言っても
>過言ではありません。

[天皇の責任]
 天皇はずっと名目上の最高権力者だった思います。帝国憲法の条文がどうで
あれ、実質的な最高権力者ではなかったと思います。
 例えば戦争の計画について、天皇が計画作成を命令したり、提出された計画
について修正を命令したり却下したりしていたなら実質的な最高権力者と言え
ます、しかし、寡聞にしてその様な例は知りません。
 知っているのは、軍の責任者が提出した計画書を少し質問した後で許可と言
う例なので名目上の最高権力者だったと思っています。
 名目上の最高権力者が責任を取るのは変だと思います。  

[無責任体制]
 戦前から無責任だったと思います。戦後になって無責任になった事例を教え
て下さい。

 
>敵国の軍事法廷(東京裁判)で裁かれたのは戦争犯罪です。私がここで問題
>にしているのは、とかく左右両陣営の間で意見の別れる戦争犯罪に纏わる倫

>理や人道の問題ではありません。戦争を起こし、その戦争に負けた結果、国


>家が主権を喪失したのです。この由々しき事態を招来した結果責任を一体こ
>の国では誰が取ったのでしょう。この由々しき事態を招来した結果責任を一
>体この国では誰に取らせたのでしょう。

 第二次大戦は総力戦の戦争でした。このため、敗戦の責任は総力戦の参加者
すなわち全国民の責任だと思います。
 全国民の責任なので、特定の個人が責任を取ったり、あるいは、特定の個人
に責任を取らせるのは不適切です。

--
Shiro mailto:h9s...@tky2.3web.ne.jp

Yoshihide SHIMAZU

unread,
Mar 14, 1999, 3:00:00 AM3/14/99
to
嶋津です。

Kaz SHiMZ wrote in message <7cd152$4qq$1...@news00.iij4u.or.jp>...


>清水です。
>
>記事 <7c8fdc$c57$1...@nn-os001.ocn.ad.jp> で,
>Yoshihide SHIMAZU <shi...@adtech.co.jp> さんは書きました;
>
>>ところで、ポツダム宣言受諾は昭和20年8月15日だったわけですが、
>
>えー、政府が受諾を最終決定し、スイス政府に米英支ソ政府への伝達を依頼
>するべく日本時間の8月14日午後11時に在スイス公使宛の訓電を出し、
>現地時間の14日中にスイス政府から米英支ソ政府へ通告されているので、
>対外的にはポツダム宣言の正式受諾は14日になると思います。

終戦の詔勅という形で日本全土、日本国民に公表されたという意味で
8月15日と書きました。

>>その3日後の8月18日未明のソ連軍による占守島奇襲(強襲?)上陸と
>>それに対抗した91師団他の占守島守備隊の戦闘はどのように受け取れば
>>良いのでしょうか?
>
>戦闘行動の停止命令(大本営命令)は8月16日午後4時に出されていま
>す。これには、8月25日までに一切の武力行使は停止、と書かれている
>ようです(原文みつからず)。また、連合国側からの指定としては、停戦
>・武装解除の手順に関して、マニラ交渉(8月20日~)で「直に戦闘を
>停止し其の武装を解除すること(一般命令第1号)」と指定されています。
>
>つまり、8月20日までは、明示的な戦闘停止令が有効になっていなかっ
>たことになります。

 戦車第11連隊史によれば、8月17日に第91師団には「一切の戦闘
行動停止、但しやむを得ない自衛行動は妨げず。その完全徹底の時期を
18日16時とする。」との第5方面軍命令が届き、隷下各部隊に伝達さ
れています。

>で、日本が国家として降伏を表明したので、引き続き、日本軍と連合軍が
>休戦協定を締結して局地停戦、武装解除という手続きを踏むのが筋だと思
>います。

 つまり、8月14(15)日の時点で国家間の戦争は終結しているわけで、
その日以前から交戦状態にあった戦線では当該司令部間の交渉により停戦、
武装解除が行われるのは当然です。

>    ここで、占守島はソ連軍が強襲してきたわけで、日本側守備隊の
>戦闘は自衛措置であり、かつ、戦闘停止令が有効となったと判断しうる8
>月20日以前に勃発しているので、こちらは問題ないと思います。

 占守島守備隊の自衛戦闘及びその戦闘の終結処理を問題としているのでは
なく、8月15日以前は交戦状態に無かった占守島に対して何故上陸戦闘が
行われたか?であります。
 上陸戦は小部隊による遭遇戦でありえるはずは無く、十分な準備の下に行
われる戦略行動であるはずです。このように考えた場合、ソ連軍およびソ連
政府はどのような意図の下に北千島侵攻作戦を8月18日をもって開始した
か? であります。

で、このような事実を踏まえた場合、demus氏の問題提起に対し、


Kaz SHiMZ wrote in message <7c7vlf$69j$1...@news00.iij4u.or.jp>...
>記事 <01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> で,
>domus <arti...@pc.highway.ne.jp> さんは書きました;
>>現に小規模とは言うものの、北方領土の島民は島を追われたではありま
>>せんか。
>
>これは、ポツダム宣言で保障された日本の領土の中に、北方領土が明示的に
>入っていなかったからでしょうね。
> ・ポツダム宣言 第8項
> 「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく、又日本国の主権は本州、北海道、
> 九州、四国及び吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。
>
>>若し日本を制圧する軍隊が、アメリカではなくソ連だったら、多くの日本
>>人がこの日本列島を追われた可能性だって有り得たのです。
>
>まぁ、それを避けるためにあのタイミングでポツダム宣言を受諾するべく、
>昭和天皇と政府・枢密院の和平派要人が動いたのだと私は考えています。
>

>>朝鮮やドイツの様に国家が分断される事態だって十分有り得たのです。
>
>うーむ、ポツダム宣言を受諾することでそれを避け得たのでは。

 北千島侵攻阻止戦闘に触れずして、上記ように結論付け、かつ

<7cd152$4qq$1...@news00.iij4u.or.jp>に戻って、
ソ連軍の占守島侵攻に対して、


>さて、ソ連軍の行為の是非はと言うと... 火事場泥棒的ですが、全面的・
>局地的な休戦協定が締結されておらず、戦闘停止令も有効になっていなか
>ったのですから、これもまぁ、グレーゾーンというか、真珠湾攻撃よりは、
>弁明の余地がありそうな気がします。
>要するに、まだ、戦争中だった、という解釈で済ませうると思います。

と、とらえるのは安易に過ぎるのでは愚考する次第です。

で、真珠湾との比較ですが、
 宣戦布告に先立つ奇襲攻撃を擁護するつもりはありませんが、真珠湾攻
撃は開戦必至の状況下で行われた攻撃であるに対して、占守島侵攻は一方
が国際的に降伏を宣言し、戦闘部隊が武装解除準備を行っている状況下で
行われた事を考えると、上記の清水氏の見解には疑問を持ちます。

# 無理が通るのが国際政治だと言っちゃえば実もふたもありませんが。

Yoshihide SHIMAZU

unread,
Mar 14, 1999, 3:00:00 AM3/14/99
to
嶋津です。

TK wrote in message <7cdeh8$14t$1...@news.telewaynet.ad.jp>...
>なんで政府は北方4島しか返還要求しないんでしょうね。
>全千島と南樺太を要求してから、妥協していくほうが世界の普通のやり方だよね。

 1875年の千島樺太交換条約で、千島列島は日本、樺太はロシアと領土は
確定しています。一方、南樺太は日露戦争で獲得した領土です。
 従って、全千島の返還要求はそれなりの根拠はありますが、南樺太の
返還要求は国際法的にも根拠がありません。

 日本政府が返還要求を択捉島以南の4島に限定しているのは、明治政府
発足以前に日露和親条約(1854)によりこれら4島が日本領土と確定して
いるので、ポツダム宣言にいう「小諸島」と判断しているからです。

TK

unread,
Mar 14, 1999, 3:00:00 AM3/14/99
to
なるほど、ありがとうございます。

ポツダム宣言を飲んだからですね。

でも、沖縄は全部かえって来ましたよね。ですから要求だけでもすればいいのに・・

なんて思いますけど。

Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 14, 1999, 3:00:00 AM3/14/99
to
よしだ@AOLです。

Shiro wrote:

> domusさんの<01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp>から
> [...]

それは正確な情報を知らされ、権限をもって行為を行った場合でしょう。
大本営発表の偽情報でほぼ洗脳され、治安維持法や隣組制で監視され、
ちょっと批判をしただけでひっぱっていかれる国民に責任を押し付けて
どうするんですか?

僕の家内の家族は、腰抜け日本軍が逃げたあと、満州におきざりにさ
れました。娘や母親はロシア兵におかされるのを恐れて、丸坊主になり
顔に泥をぬりたくり、命辛々、引き揚げてきたといいます。その家族まで
含めて責任をとれって、いうのでしょうか。

責任をとるのは、あきらかに天皇をはじめ、日本国をほろぼした連中で
しょう。彼らが責任をとらないものだから、僕の岳父は、勲章も年金も受
け取るのを拒否しました。こういう廉直の士もいたことをお忘れなく。

>  全国民? L 責任なので、特定の個人が責任を? 謔 A たり、あるいは、特定の個人
> に責任を取らせるのは不適切です。

これは論理的におかしい。全国民の責任なら、全国民であるから、天皇
以下全国民が責任をとるべきだ、ということになります。阿南は自裁し
ました。祖父の話では、僕の生まれた町でも何人かのおとなが割腹して
責任を果たしたと聞きます。割腹は悲惨だが、筋は通っています。天皇
は?皇族は?職業軍人は?戦争屋の企業家は?裁判官は?弁護士は?
政治家は?どう責任をとったのでしょうか。

こういうエピソードはいかがかしら。

1946年5月、国民は激しく飢えていた。帝都で、天皇への大規模な抗議
集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった。そして(天皇ではなく)皇族の
方々の台所のひとつを覗く機会を得た。

冷蔵庫には、配給では絶対姿をあらわさないブリ、ヒラメ?
り、牛肉もあった。魚市場では、常に宮内省用にいいところは全部、とりのけ
られていた。皇族用の献立が見つかった。つぎのごとし:

_お通しもの_ 平貝 キウリ ノリ、 酢のもの _おでん_ 種物、マグロ、ハンペン、
ツミイレ、大根、わさび _さしみ_ マグロ _からあげ_ ヒラメ _御煮つけ_ 竹の子、
ふき _みそおでん_ ねぎ、さといも 他二品

さらに豊富な主食がこれに加わる。皇族で、この「美味んぼ」のレベルである。
天皇は一体何を食べておられたのか。責任を感じて、飢えた国民のことを
本気で考えておられたのだろうか、という疑念は、当然起こりうる。

江戸期、名藩主として名を残した人たちは、飢饉のときは領民と同じ献立で、
飢えをしのいだという。領民が一汁一菜なら、汁をはぶいた藩主さえいた。

怒無巣さん、歴史はいろいろなことを僕らに教えてくれますね。おたがい勉強
しましょう。

よしだまさゆき


kou

unread,
Mar 14, 1999, 3:00:00 AM3/14/99
to

> こういうエピソードはいかがかしら。
>
> 1946年5月、国民は激しく飢えていた。帝都で、天皇への大規模な抗議
> 集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった。そして(天皇ではなく)皇族の
> 方々の台所のひとつを覗く機会を得た。
>
> 冷蔵庫には、配給では絶対姿をあらわさないブリ、ヒラメ?
> り、牛肉もあった。魚市場では、常に宮内省用にいいところは全部、とりのけ
> られていた。皇族用の献立が見つかった。つぎのごとし:
>
>
_お通しもの_ 平貝 キウリ ノリ、 酢のもの _おでん_ 種物、マグロ、ハンペ
ン、
>
ツミイレ、大根、わさび _さしみ_ マグロ _からあげ_ ヒラメ _御煮つけ_ 竹
の子、
> ふき _みそおでん_ ねぎ、さといも 他二品
>
> さらに豊富な主食がこれに加わる。皇族で、この「美味んぼ」のレベルである。
> 天皇は一体何を食べておられたのか。責任を感じて、飢えた国民のことを
> 本気で考えておられたのだろうか、という疑念は、当然起こりうる。

このエピソードはどっからでてきたの?
当時、共産党が、
「朕はたらふく食ってるぞ。汝臣民飢えて死ね」
といったスローガンを掲げて、デマを飛ばしたり、
宮中へデモをかけているという話は聞いたことがありますが、
皇族用の献立が見つかったという話は、初めて聞きました。
ここまで詳しく書いている以上、誰がそれを見つけたのか、
またどっからでてきた話なのか、わかっていると思いますので、
是非、おしえてください。

domus

unread,
Mar 14, 1999, 3:00:00 AM3/14/99
to
yutaka <yut...@laputa.msi.co.jp> wrote in article
<yutaka-1103...@laputa.msi.co.jp>...

> In article <01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp>,
"domus"
> <arti...@pc.highway.ne.jp> wrote:
>
> > 帝国憲法下では昭和天皇は、帝国日本の統治者であり、
> > 陸海軍の統帥者だったのですから。当時の日本においてはこれ以上の権
> > 力者、これ以上の権威者は存在しなかったのです。

> 帝国憲法によれば、その責任はそれぞれ補弼する大臣を以て最終とする、
> となっていましたけど。権限の源ではあっても、それを自分の意志で行使
> できる立場ではなかった筈です。天皇親政なんぞが敷かれていたわけでは
> ない。

もう一度帝国憲法の関連条文を読み直してみたのですが、どうも合点が行き
ませんな。

確かに帝国憲法第55条にそうした記述はありますね。

第五十五条第一項 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス

国務大臣は天皇を輔弼する義務を負い、それに基づいて天皇が発っした勅令
、詔勅に対して責任を負うという規定です。しかしこれは、国務大臣の天皇
に対する輔弼の義務を規定したもので、天皇が国務大臣の輔弼を受けなけれ
ばならないという天皇に対する義務規定では無いと思います。何故ならこの
条文の属する第四章は大臣の職責に関して言及した章であり、天皇の職責、
権限に関して直接的に言及した章では無いからです。(天皇に関する条項は
第一章。)

と言う事は大臣が進言し、天皇の名で発した勅令、詔勅は大臣が責任を取る
と定めたに過ぎないと言う解釈も成り立ちます。大臣の進言に基づかず、天
皇自らの意志による勅令、詔勅(実際にあったかどうかは別として、天皇が
その様な命令その他を発する事をこの条項が禁止しているようには読めませ
ん)に関する大臣の責任に関する言及は無いのではないでしょうか。

次に第二項を見てみると

同条第二項 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要

と有り、全ての勅令、詔勅には国務大臣の署名が必要だと言う事です。凡て
のと言う事は国務大臣の進言によらない天皇独自の意志に基づく勅令、詔勅
についても国務大臣の署名が必要だと言う事ですから、これは一見天皇の独
断による勅令、詔勅、に制限を付けている様にも思えます。

55条第一項、第二項を併せて読めば、「大臣が進言して天皇が発した勅令、
詔勅は大臣が責任を取る、大臣の進言に基づかない勅令、詔勅に対しても大
臣の署名が無ければ効力が無い事になるので、結果として大臣も責任を負う
。」と読めるのですが、後者の場合、天皇に責任があるか無いかは曖昧です
。しかしここは百歩譲って大臣が署名する事により天皇には責任は及ばない
と解釈しておきましょう。

そこで次に天皇の権限に言及した第一章を見てみると、

第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

と有りますから、この国の統治者は天皇であると先ず述べた上で、天皇は神
聖不可侵な存在だと規定し、その天皇が陸海軍を統帥すると規定しておりま
す。ここで重要なのは第3条の存在です。前述の第55条第二項絡みで、天皇が
国務大臣の進言に基づかない勅令、詔勅を発しようとした場合や、国務大臣
の進言に天皇が異議を唱え天皇自らの意志に基づく勅令、詔勅を発しようと
した場合で、国務大臣がその内容に同意しかねる場合、国務大臣は果たして
その勅令、詔勅への署名拒否が出来るのだろうかと言う事です。署名拒否を
することは、天皇の意志にはナンビトも逆らえないという第3条違反と成るの
ではないでしょうか。国務大臣は自らの意志に反して形式を整える為に勅令
、詔勅に署名する事が有り得ると言う事です。

だとすれば、第55条第二項の規定により一見天皇の独断による勅令、詔勅を
制限している様にも見て取れますが、この規定は有名無実で実効性が無いと
言う事になりましょう。実効性が無いだけならまだしも、国務大臣の意志に
反して署名された勅令、詔勅に対しても、前述の如く天皇は一切その責任を
取らず、国務大臣だけが責任を取ると言う決まりだとすれば、これはもう無
責任体制を法的に体系化したに過ぎない極めて問題の有る憲法だと言わざる
を得ません。如何に責任が天皇に及ばない様にするかという苦心の跡は窺え
ますが、憲法としては失格です。

尚、第9条に基づく命令が第55条の適用対象なのかどうか不明です。55条に命
令に対する言及が無い以上、適用対象外の様にも読めるのですが。若し対象
外だとしたら、この命令に対する責任は一体誰が取るのでしょう。大臣も天
皇も誰も責任を取らないと言う事に成るのでしょうか。

第九条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民
ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令
ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス

何れにせよこの憲法が憲法として機能する為には重要な前提がある事を忘れ
てはなりません。それは天皇教の存在であり、それに基づく「神である天皇
は絶対に過ちは犯さない。」という前提です。何故なら天皇は過ちを犯さな
い前提だからこそ何の責任も取らないと言う規定でも何ら問題が生じないと
解釈出来るのであって、若し過ちを犯す場合も有り得ると言う前提では責任
の所在を不明確にしたままでは問題が発生する事は明らかだからです。しか
し実際には生身の人間であった天皇にそれを求める事は事実上不可能です。
従ってこの憲法によれば、万一天皇が間違った判断をした場合には帝国及び
帝国臣民には悲惨な運命が待っていると言う事になるのです。(事実そうな
りました。)

> > 国の最高権力者であり最高権威者であった天皇が国の進路を誤って国家
> > 存亡の危機に導いた以上、

> それはあまりに、陸軍だの内閣だの議会だの朝日を筆頭とする新聞だの国
> 民だのの責任を無視した言いようでは。
> 帝国憲法でも、天皇は立憲君主なんであって、専制君主ではありませんで
> した。

一見立憲君主制の様にも見えますが、前述の第3条が有る以上、天皇はどんな
ことでも為しうると解釈できるのではありませんか。天皇に異議を唱えたり
、天皇の言動を制限する事は即ち第3条違反と成ると思われますので。(実
際にその様な状況が有ったかどうかではありません。帝国憲法を忠実に解釈
すればそうなるのではと言う事です。)

> > 戦争を起こし、その戦争に負けた結果、国家が主権を喪失したのです。


> > この由々しき事態を招来した結果責任を一体この国では誰が取ったので
> > しょう。この由々しき事態を招来した結果責任を一体この国では誰に取
> > らせたのでしょう。
>
> 確かに取るべきなのに取らなかった人も居た様で、また国民が旧軍に全責
> 任をなすりつける思想に飛びついた結果いまの無責任体制が始まったと言
> えなくもないのかも知れませんが…。

> それにしても、『責任はない』と憲法に明記されている天皇に取らせ
> ろ、ってのは無責任きわまりない話ですね。

天皇に責任は一切無いと言う事は明文化されていないのでは。責任を大臣が
負うと言う規定は前述の通りですが。(天皇も大臣と共同で責任を取る事を
禁じてはいないだろうと言う意味です。しかし天皇が責任を取る、天皇に責
任を取らせる行為は第3条違反と成るのかも知れませんね。)何れにせよ、国
家無責任体制を体系化した憲法その物が欠陥憲法だと言うだけの話でしょう


--
怒夢巣


ky

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to

>
>> こういうエピソードはいかがかしら。
>>
>> 1946年5月、国民は激しく飢えていた。帝都で、天皇への大規模な抗議
>> 集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった。そして(天皇ではなく)皇族の
>> 方々の台所のひとつを覗く機会を得た。
>>
>> 冷蔵庫には、配給では絶対姿をあらわさないブリ、ヒラメ?
>> り、牛肉もあった。魚市場では、常に宮内省用にいいところは全部、とりのけ
>> られていた。皇族用の献立が見つかった。つぎのごとし:
>>
>>
>_お通しもの_ 平貝 キウリ ノリ、 酢のもの _おでん_ 種物、マグロ、ハン

>ン、
>>
>ツミイレ、大根、わさび _さしみ_ マグロ _からあげ_ ヒラメ _御煮つけ_ 

>の子、
>> ふき _みそおでん_ ねぎ、さといも 他二品
>>
>> さらに豊富な主食がこれに加わる。皇族で、この「美味んぼ」のレベルである。
>> 天皇は一体何を食べておられたのか。責任を感じて、飢えた国民のことを
>> 本気で考えておられたのだろうか、という疑念は、当然起こりうる。
>
>このエピソードはどっからでてきたの?
>当時、共産党が、
>「朕はたらふく食ってるぞ。汝臣民飢えて死ね」
>といったスローガンを掲げて、デマを飛ばしたり、
>宮中へデモをかけているという話は聞いたことがありますが、
>皇族用の献立が見つかったという話は、初めて聞きました。
>ここまで詳しく書いている以上、誰がそれを見つけたのか、
>またどっからでてきた話なのか、わかっていると思いますので、
>是非、おしえてください。
>
>
フランス革命の時

マリーアントワネットを処刑するためにわざと流した「デマ」とそっくりだね


私も、出所に興味がある


ちなみに、明治天皇から今の天皇まで、食事記録は、全て保管してあるそうです、比
べてみたいね


Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
スレッド名を「皇族の食卓」と変更しました。

Masayuki YOSHIDA <mazyo...@aol.com> wrote in article
<01be6df8$d9c5f9e0$LocalHost@default>...
> [...]


> こういうエピソードはいかがかしら。
>
> 1946年5月、国民は激しく飢えていた。帝都で、天皇への大規模な抗議
> 集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった。そして(天皇ではなく)皇族の
> 方々の台所のひとつを覗く機会を得た。
>
> 冷蔵庫には、配給では絶対姿をあらわさないブリ、ヒラメ?
> り、牛肉もあった。魚市場では、常に宮内省用にいいところは全部、とりのけ
> られていた。皇族用の献立が見つかった。つぎのごとし:
>
> _お通しもの_ 平貝 キウリ ノリ、 酢のもの _おでん_ 種物、マグロ、ハンペン、
>
ツミイレ、大根、わさび _さしみ_ マグロ _からあげ_ ヒラメ _御煮つけ_ 竹の子、
> ふき _みそおでん_ ねぎ、さといも 他二品
>
> さらに豊富な主食がこれに加わる。皇族で、この「美味んぼ」のレベルである。
> 天皇は一体何を食べておられたのか。責任を感じて、飢えた国民のことを
> 本気で考えておられたのだろうか、という疑念は、当然起こりうる。

上記の投稿をしましたところ、15日朝現在、次の二通の質問が僕のニューズ・
サーバーで拾えておりますので、まとめてお答えします。

記事<01be6e48$3d49cce0$808a...@kou.wa2>において
"kou" <k...@wa2.so-net.ne.jp> 様から:

>このエピソードはどっからでてきたの?
>当時、共産党が、
>「朕はたらふく食ってるぞ。汝臣民飢えて死ね」
>といったスローガンを掲げて、デマを飛ばしたり、
>宮中へデモをかけているという話は聞いたことがありますが、
>皇族用の献立が見つかったという話は、初めて聞きました。
>ここまで詳しく書いている以上、誰がそれを見つけたのか、
>またどっからでてきた話なのか、わかっていると思いますので、
>是非、おしえてください。

記事<7ch0io$1fb$1...@news1.dti.ne.jp>において、
"ky" <yk71...@ops.dti.ne.jp> 様から:

>フランス革命の時
>マリーアントワネットを処刑するためにわざと流した「デマ」とそっくりだね
>私も、出所に興味がある
>ちなみに、明治天皇から今の天皇まで、食事記録は、全て保管してあるそうです、比
>べてみたいね

上記二通のご質問に共通しているのは、「デマ」という表現が使われている
点です。こちらがひとつの記事を書いたとたん、このような「ためにする」ため
の言葉を挿入するのは、いかがなものでしょうか。

たとえば、"ky"さんの、「わざと流したデマとそっくりだね」という言い方は、
どのような根拠に基づいているのでしょうかねえ。僕の記事とフランス革命
といったいどのような関連があるのでしょうか。

また"kou"さんのさりげなく「共産党」という単語を入れるところなど、僕を共
産党の息のかかった者であるというイメージを受け付けようとする意図が感じ
られて、なかなか巧みな文章であります。

いずれにしても、ご自分がもし僕が紹介したエピソードの出典をご存知ない場
合は、ただ「文献を教示ねがいます」と一言言えば済むのではありませんか。

さて、その文献ですが、僕が参照しましたのは、

  ねずまさし著「天皇と昭和史 下」(1976年、三一新書857)
  334ページ

であります。この名著は、1961年に至誠堂から刊行された「大日本帝国の
崩壊」と「象徴帝国の誕生」の二冊を一冊上下にまとめたものです。廉価で
入手しやすく一読されるとよろしいかと。また、皇室の献立については、
1946年7月号「真相」4号、「皇族は何を喰ってい(旧かな)るのかーー宮城
デモ報告記」にあるでしょう。ご確認をお願いします。

よしだまさゆき


yutaka

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
In article <01be6e5a$2d7050c0$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp>, "domus"
<arti...@pc.highway.ne.jp> wrote:

> もう一度帝国憲法の関連条文を読み直してみたのですが、どうも合点が行き
> ませんな。

最初に結論ありき、で読むからではないでしょうか。

> と有りますから、この国の統治者は天皇であると先ず述べた上で、天皇は神
> 聖不可侵な存在だと規定し、その天皇が陸海軍を統帥すると規定しておりま
> す。ここで重要なのは第3条の存在です。

この文言があったがため、三権を離れたところに“統帥権”が発生して軍部の独走
を招いた、と聞いたことがあります。
もしそうなら、確かに重要な存在でしょうね。

> だとすれば、第55条第二項の規定により一見天皇の独断による勅令、詔勅を
> 制限している様にも見て取れますが、この規定は有名無実で実効性が無いと
> 言う事になりましょう。

この解釈はどうも“法の網を潜る”様な感じで頂けませんが、仮にそうだとしても
、実際にそういう行動を昭和天皇がとり、専制的に国の針路を誤ったことにはなり
ません。

> 如何に責任が天皇に及ばない様にするかという苦心の跡は窺え
> ますが、

これも、ずいぶんと穿った見方ですね。
天皇を『好きな様に権力を行使できるが責任はない』存在にしようと腐心した、な
どと言われたら、帝国憲法策定にかかわった人達は泣くでしょう…。

> しか
> し実際には生身の人間であった天皇にそれを求める事は事実上不可能です。
> 従ってこの憲法によれば、万一天皇が間違った判断をした場合には帝国及び
> 帝国臣民には悲惨な運命が待っていると言う事になるのです。(事実そうな
> りました。)

帝国および帝国臣民が悲惨な運命に遭ったのは事実としても、それから「天皇が間
違った判断をした」ということは導けません。

> 一見立憲君主制の様にも見えますが、前述の第3条が有る以上、天皇はどんな
> ことでも為しうると解釈できるのではありませんか。天皇に異議を唱えたり
> 、天皇の言動を制限する事は即ち第3条違反と成ると思われますので。(実
> 際にその様な状況が有ったかどうかではありません。帝国憲法を忠実に解釈
> すればそうなるのではと言う事です。)

問題なのは、今のdomusさんの解釈ではなく、当時の解釈と運用の実際でしょう。
天皇はどんなことでもなし得ると解釈できるからと言って、当時天皇がどんなこと
でもなし得た、と言うことにはなりません。

唯一、終戦の詔勅だけは、事実上“白紙委任”の形で昭和天皇自ら発したと聞いて
いますけど。

MazYoshida

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
よしだ@AOLです。ご存知のようにAOLはクロスポストが
できませんので、fj.soc.historyのみになります。

yut...@laputa.msi.co.jp (yutaka) さんは書きました:

>In article <01be6e5a$2d7050c0$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp>, "domus"
><arti...@pc.highway.ne.jp> wrote:

> [...]


>> しか
>> し実際には生身の人間であった天皇にそれを求める事は事実上不可能です。
>> 従ってこの憲法によれば、万一天皇が間違った判断をした場合には帝国及び
>> 帝国臣民には悲惨な運命が待っていると言う事になるのです。(事実そうな
>> りました。)
>
>帝国および帝国臣民が悲惨な運命に遭ったのは事実としても、それから「天
皇が間
>違った判断をした」ということは導けません。

で、あなたは、天皇さんは間違った判断をされたとお考えですか。それとも、
間違った判断はされなかった、とお考えですか。後者であれば、そのように
信じていらっしゃる理由や根拠をお教えいただけると、うれしいですが。

>>
一見立憲君主制の様にも見えますが、前述の第3条が有る以上、天皇はどんな
>> ことでも為しうると解釈できるのではありませんか。天皇に異議を唱えたり
>> 、天皇の言動を制限する事は即ち第3条違反と成ると思われますので。(実
>> 際にその様な状況が有ったかどうかではありません。帝国憲法を忠実に解釈
>> すればそうなるのではと言う事です。)
>
>問題なのは、今のdomusさんの解釈ではなく、当時の解釈と運用の実
際でしょう。
>天皇はどんなことでもなし得ると解釈できるからと言って、当時天皇がどん
なこと
>でもなし得た、と言うことにはなりません。
>
>唯一、終戦の詔勅だけは、事実上“白紙委任”の形で昭和天皇自ら発したと
聞いて
>いますけど。

ここであなたが示唆しておられるのは、敗戦の詔勅だけは、事実上、天皇
さんがお決めになったのであって、他は臣下が勝手にやったことで、天皇
さんには、一切、責任はなかったということなのでしょうか。

もう一つ。天皇さんの責任追求を明治憲法の解釈によってかわそうとする人
たちがいますが、それは単に法による責任回避論に過ぎず、ナチス法がそれ
自体の妥当性を問われたように、明治憲法そのものの妥当性が問われた場合、
天皇さんは「不可侵性」をもっていたという規定では、正当化できないので
はありませんか。その点についても、どうお考えなのか、お示しいただけると
ありがたいのですが・・・。

YOSHIDA Masayuki


Hideyosi

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
ここでもへんなウヨクな評論家の説を信じとるやつがいるなあ・・・・・

以下のような史実に対してどのように思うでしょうね。

「梅津氏は参謀本部(軍の代表)として、重光氏は最高戦争指導会議
(日本政府の代表)として、全権委任され、降伏文書に調印したので
す。重光氏が天皇に調印出席に際して上奏した上奏文も残っています。

 しばらく前に「日本は無条件降伏はしていない。降伏したのは日本
軍だけ。だから有条件降伏だった」などというわけのわからないこと
を言っていた右翼な評論家がいましたが、この人は重光氏が全権大使
だったことを知らなかったんでしょうか...」

yutaka

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
In article <19990314234146...@ngol04.aol.com>,
mazyo...@aol.com (MazYoshida) wrote:

> で、あなたは、天皇さんは間違った判断をされたとお考えですか。それとも、
> 間違った判断はされなかった、とお考えですか。

判断を下す立場になかった、と考えています。

> もう一つ。天皇さんの責任追求を明治憲法の解釈によってかわそうとする人
> たちがいますが、それは単に法による責任回避論に過ぎず、ナチス法がそれ
> 自体の妥当性を問われたように、明治憲法そのものの妥当性が問われた場合、
> 天皇さんは「不可侵性」をもっていたという規定では、正当化できないので
> はありませんか。

すみませんが意味不明です。
「不可侵性」とやらが今の話に何か関係あるのですか?

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
清水です。

記事 <7ce011$t7g$1...@nn-os001.ocn.ad.jp> で,
Yoshihide SHIMAZU <shi...@adtech.co.jp> さんは書きました;

> 戦車第11連隊史によれば、8月17日に第91師団には「一切の戦闘


>行動停止、但しやむを得ない自衛行動は妨げず。その完全徹底の時期を
>18日16時とする。」との第5方面軍命令が届き、隷下各部隊に伝達さ
>れています。

おお、これは知らなんだ。

> 占守島守備隊の自衛戦闘及びその戦闘の終結処理を問題としているのでは
>なく、8月15日以前は交戦状態に無かった占守島に対して何故上陸戦闘が
>行われたか?であります。

ここはつまり、北方領土におけるソ連軍の動向を考えると、私の記事
<7c7vlf$69j$1...@news00.iij4u.or.jp> の

>>若し日本を制圧する軍隊が、アメリカではなくソ連だったら、多くの日本
>>人がこの日本列島を追われた可能性だって有り得たのです。
>
>まぁ、それを避けるためにあのタイミングでポツダム宣言を受諾するべく、
>昭和天皇と政府・枢密院の和平派要人が動いたのだと私は考えています。
>
>>朝鮮やドイツの様に国家が分断される事態だって十分有り得たのです。
>
>うーむ、ポツダム宣言を受諾することでそれを避け得たのでは。

は認識が甘い、ということですか? しかし、

> 北千島侵攻阻止戦闘に触れずして、上記ように結論付け、

はちと齟齬があるような気がします。

私は、満州と北方領土は切り捨てた(在留邦人を見捨てた)上で、日本固有
の領土と天皇制護持のために最後のタイミングでポツダム宣言を受諾した、
と当時の日本政府の行動を見ているのでありまして、その文脈では北千島侵
攻阻止戦闘は、満州や華北における休戦協定を無視した一方的な武装解除・
シベリアへの強制連行と同じ背景を持っているとは思いますが、あえて無視
可能だと思います。

# ちなみに、私の祖父母と父は、「見捨てられた」満州引揚者です。

昭和20年6月9日の梅津参謀総長の上奏(満州方面視察報告)により、ソ連が
参戦した場合に満州・北方領土の保全が不可能なことは政府指導者の共通認
識になっていたハズですから、記事 <7c7vlf$69j$1...@news00.iij4u.or.jp>
の結論は変わりません。日本列島というか北海道以南の領土の保全は確保す
る、本土決戦は避けてドイツのような「政府なく主権者なし」の事態になる
のを回避する、という意図が和平派要人にあった、と認識しています。なの
で、私の観点からは、北千島や樺太や満州の事態は無視しうる、と。これが
北海道や九州で起こったのであれば見直しが必要ですが。

たとえ、ソ連には日本分割占領の意思があったとしても、それはあのタイミ
ングでポツダム宣言を受諾したことでかわし得たし、日本政府にはそういう
意図があったと認識する、ということです。このへんの認識は、終戦交渉が
近衛特使のソ連派遣の挫折から、在外公館を経由しての対英米直接和平交渉
へと推移する過程を鑑みた結果です。

しかしながら、

><7cd152$4qq$1...@news00.iij4u.or.jp>に戻って、
>ソ連軍の占守島侵攻に対して、
>>さて、ソ連軍の行為の是非はと言うと... 火事場泥棒的ですが、全面的・
>>局地的な休戦協定が締結されておらず、戦闘停止令も有効になっていなか
>>ったのですから、これもまぁ、グレーゾーンというか、真珠湾攻撃よりは、
>>弁明の余地がありそうな気がします。
>>要するに、まだ、戦争中だった、という解釈で済ませうると思います。
>
>と、とらえるのは安易に過ぎるのでは愚考する次第です。

この指摘は前述の通り、8月17日の方面軍指令を知らなかったので、
甘受いたします。真珠湾との比較も同様です。

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
清水です。

記事 <01be6df8$d9c5f9e0$LocalHost@default> で よしださんは書きました;


> こういうエピソードはいかがかしら。
>
> 1946年5月、国民は激しく飢えていた。帝都で、天皇への大規模な抗議
> 集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった。そして(天皇ではなく)皇族の
> 方々の台所のひとつを覗く機会を得た。
>
> 冷蔵庫には、配給では絶対姿をあらわさないブリ、ヒラメ?
> り、牛肉もあった。魚市場では、常に宮内省用にいいところは全部、とりのけ
> られていた。皇族用の献立が見つかった。つぎのごとし:

(以下省略)

記事 <01be6e48$3d49cce0$808a...@kou.wa2> で,
kou <k...@wa2.so-net.ne.jp> さんは書きました;

>このエピソードはどっからでてきたの?

米内光政だったか井上成美だったかの伝記に、よしださんの挙げられたエピ
ソードと類似の話が紹介されています。たしか、食材は実際に搬入されてい
たのだが、実際の各宮家の食事はまったく豪華でもなかった、よって大膳寮
を初めとする宮内庁の改革が必要だ、という言を米内か井上が吐いた、とい
うことです。ついでに、当時の宮内庁を「伏魔殿」とも言っていました。

# いつの時代にも、悪徳側近が跋扈する、ということなのでしょう。

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
清水です。

記事 <36ECAB...@aol.com> で,
Hideyosi <hide...@aol.com> さんは書きました;

>以下のような史実に対してどのように思うでしょうね。
>
>「梅津氏は参謀本部(軍の代表)として、重光氏は最高戦争指導会議
>(日本政府の代表)として、全権委任され、降伏文書に調印したので
>す。重光氏が天皇に調印出席に際して上奏した上奏文も残っています。

重光氏が全権大使だったことから、「天皇の統治する日本国の政府が降伏し
たこと」は明白です。しかし、「無条件降伏であった」というの論理の飛躍
だと思います。上奏文や降伏文書の文面から判断する必要があります。

重光葵が「大日本帝国天皇陛下及日本国政府の命に依り且其の名に於て」、
梅津美治郎が「日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て」、1945年9月2日
に調印した降伏文書には「無条件降伏」および「無条件に降伏」という文言
は二個所出てきますが、それぞれ

・下名は茲に日本帝国大本営並に何れの位置に在るを問わず一切の日本国軍
隊及び日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布
告す

・下名は茲に日本帝国大本営が何れの位置に在るを問わず一切の日本国軍隊
及び日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し自身及其の支配下に
在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命ず

です。他には「無条件(に)降伏」なる文言はありません。

そして

・下名は茲に「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること並に右宣言を実
施する為連合国最高司令官又は其の他の特定の連合国代表者が要求するこ
とあるべき一切の命令を発し且つ斯る一切の措置を執ることを天皇、日本
国政府及其の後継者の為に約す

とあり、ポツダム宣言は「日本国の降伏条件を定めたる宣言」でして、日本
の主権の及ぶ範囲、持ちうる産業などにつき条件を明記しています。また、
天皇の地位確認を求めた東郷外相電に対するバーンズ回答にも、

降伏の時より天皇及日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其
の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下に置かるるものと

とあり、占領政策についても「降伏条項の実施」すなわち「ポツダム宣言の
実施」を要求しているのであり、「無制限の措置を執る」と宣言しているわ
けではないです。

よって、政府レベルでは有条件降伏である、と私は認識しています。


> しばらく前に「日本は無条件降伏はしていない。降伏したのは日本
>軍だけ。だから有条件降伏だった」などというわけのわからないこと
>を言っていた右翼な評論家がいましたが、この人は重光氏が全権大使
>だったことを知らなかったんでしょうか...」

うーむ、ポツダム宣言、バーンズ回答、降伏文書からは、無条件降伏を要求
されたのは日本軍(およびインド国民軍などの日本軍支配下の軍隊)であっ
たという主張を導出することは十分に可能であり、一方、重光氏が全権大使
だったことが、この主張の反証になるとは思えません。

どう影響するというのでしょうか?

というわけで、「わけのわからないことを言ってい」るのは、Hideyosi さん
の記事の方だ、と私には思えるのですよね。

ではでは。

MazYoshida

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
よしだ@AOLです。

yut...@laputa.msi.co.jp (yutaka) writes:

>In article <19990314234146...@ngol04.aol.com>,
>mazyo...@aol.com (MazYoshida) wrote:
>
>> で、あなたは、天皇さんは間違った判断をされたとお考えですか。それとも、
>> 間違った判断はされなかった、とお考えですか。
>
>判断を下す立場になかった、と考えています。

責任ある立場(あるいは地位)でありながら、責任を問われる場面にお
いて、あとになって責任を問われるような判断を下さなかったというこ
とですか。

あるいは、天皇さんには、そもそも責任を問われるような判断を下す立
場や地位そのものがなかったという風に理解されておられるのでしょうか。

それとも、そのような立場や地位にあったが、ご自身の責任をまぬがれる
法的装置が明治憲法や他の法律に存在したというご主張でしょうか。

>> もう一つ。天皇さんの責任追求を明治憲法の解釈によってかわそうとする人
>> たちがいますが、それは単に法による責任回避論に過ぎず、ナチス法がそれ
>> 自体の妥当性を問われたように、明治憲法そのものの妥当性が問われた場合、
>> 天皇さんは「不可侵性」をもっていたという規定では、正当化できないので
>> はありませんか。
>
>すみませんが意味不明です。
>「不可侵性」とやらが今の話に何か関係あるのですか?

ほら、大日本帝国憲法の第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という
あの「神聖不可侵性」の条項による正当化の話をしているのです。

こういうことです。

「判断を下す立場」の議論でも論じなければならないことでしょうが、天皇
の権限の問題があります。基本的には明治憲法の精神は、国体観念、つまり
日本書紀に書かれた天照大神の神勅に遡る「国体」を宣言し確認するという
性格を帯びているというのが、一般的な理解です。

そうであるならば、憲法上、天皇が保有する権限、つまり各種大権(それも
ものすごい権限!)を天皇の意思で行使すると、天皇を政治的な批判の矢面
にたたせることになってしまうのは、困るわけですね。従って、万世一系の
天皇の、さきほどあげた第三条の神聖不可侵性を保ちがたくなるわけです。
かくして、天皇責任論については、第55条のいわゆる「天皇超政論」つま
り天皇は、国務大臣の輔弼のままに行動し、その責任は国務大臣が負うとさ
れたことによる正当性が生まれるのです。

たぶん、あなたもこのあたりことで天皇に責任はないことを正当化されよう
としているのでしょうが、僕は限界があると思いますね。一つは、明治憲法
内での一貫性の欠如によるものです。これは、たとえば、「統帥権」の問題
で理解できるかも知れません。統帥事項については、ご存知のように、軍内
部のものが輔弼し、国務大臣の輔弼が及ばないという体制ができています。

もう一つは、憲法外での責任論です。天皇の社会的役割への注目です。天皇
制の社会のすみずみまで、国体観念が浸透しており、天皇は国民にとって、
宗教的・道徳的権威として、たとえば、教育の場では、教育勅語、軍人の模
範としては、軍人勅諭で君臨していたわけです。このような絶対的権威を考
慮すれば、とても「超政論」だけではかたづかないと思いますね。

YOSHIDA Masayuki


Hideyosi

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
Kaz SHiMZ wrote:

> うーむ、ポツダム宣言、バーンズ回答、降伏文書からは、無条件降伏を要求

> されたのは日本軍(およびインド国民軍などの日本軍支配下のR隊)であっ


> たという主張を導出することは十分に可能であり、一方、重光氏が全権大使
> だったことが、この主張の反証になるとは思えません。
>
> どう影響するというのでしょうか?
>
> というわけで、「わけのわからないことを言ってい」るのは、Hideyosi さん
> の記事の方だ、と私には思えるのですよね。
>
>

どうしても日本が無条件降伏したという事実を認めないための屁理屈にしか思え
ないですが?
こんなこと国際社会でとおるような論法でしょうか?
まづ無条件降伏の条件であるポツダム宣言を条件降伏の文書であると解釈し、軍
と日本を切り離す
ということ自体がおかしいのではないですか?
軍が無条件降伏をして日本が無条件降伏をしてないとすれば、日本は軍とは別に
条件降伏の条件
を出してあるべきですが、占領がはじまってからいろんなお願いをGHQにはし
てるがそれは
降伏した後であって降伏にあたっての条件を出してはいないですね。
一時国体の護持(天皇制の維持)を降伏条件にいれようとする動きはあったよう
ですが最終的に
は陛下の意志もあって無条件降伏になってます。昭和天皇のみづからの身はどう
なってもいい
死刑さえも覚悟されて無条件降伏されたことを無にする不忠もののウヨクの方々
の考えは真の愛国
者である右翼や愛国的左翼には理解不能の詭弁論ですね。

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
清水です。

記事 <01be6e5a$2d7050c0$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> で,
domus <arti...@pc.highway.ne.jp> さんは書きました;

>と言う事は大臣が進言し、天皇の名で発した勅令、詔勅は大臣が責任を取る
>と定めたに過ぎないと言う解釈も成り立ちます。大臣の進言に基づかず、天
>皇自らの意志による勅令、詔勅(実際にあったかどうかは別として、天皇が
>その様な命令その他を発する事をこの条項が禁止しているようには読めませ
>ん)に関する大臣の責任に関する言及は無いのではないでしょうか。


>ここで重要なのは第3条の存在です。前述の第55条第二項絡みで、天皇が
>国務大臣の進言に基づかない勅令、詔勅を発しようとした場合や、国務大臣
>の進言に天皇が異議を唱え天皇自らの意志に基づく勅令、詔勅を発しようと
>した場合で、国務大臣がその内容に同意しかねる場合、国務大臣は果たして
>その勅令、詔勅への署名拒否が出来るのだろうかと言う事です。署名拒否を
>することは、天皇の意志にはナンビトも逆らえないという第3条違反と成るの
>ではないでしょうか。国務大臣は自らの意志に反して形式を整える為に勅令
>、詔勅に署名する事が有り得ると言う事です。

そこらへんのチェックは、最終的には帝国議会に委ねられていたのでは。

第5条
天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条
天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第8条
天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ
帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
2.此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承
諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第9条
天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福
ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律
ヲ変更スルコトヲ得ス

第37条
凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
第38条
両議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各々法律案ヲ提出スルコト
ヲ得


>実効性が無いだけならまだしも、国務大臣の意志に
>反して署名された勅令、詔勅に対しても、前述の如く天皇は一切その責任を
>取らず、国務大臣だけが責任を取ると言う決まりだとすれば、

これはどちらかというと行政権というよりは立法権に関する行為であり、
連帯責任を帝国議会に負わせた形になっています。


>如何に責任が天皇に及ばない様にするかという苦心の跡は窺えますが、
>憲法としては失格です。

これには非常に共感するものがあります。(後述)


>何れにせよこの憲法が憲法として機能する為には重要な前提がある事を忘れ
>てはなりません。それは天皇教の存在であり、それに基づく「神である天皇
>は絶対に過ちは犯さない。」という前提です。

これはチト違うような気がします。むしろ「神である天皇には絶対に責任を
及ぼしてはならない」であって「過ちを犯すがごとき明確な判断は天皇個人
が下さないよう、二重三重に連帯責任を負うべき人間を設置する」だと私は
思うのです。

で、そこらへんの異同はさておき、結論としての

>何れにせよ、国家無責任体制を体系化した憲法その物が欠陥憲法だと言う
>だけの話でしょう。

には大いに同意します。

でも、それが戦前の日本の国体であり、それを変革しようとする政治家・
議員も結局は出てなかったのです。

第73条
将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国
議会ノ議ニ付スヘシ
2.此ノ場合ニ於テ両議院ハ各_其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サ
レハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレ
ハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

と改正条項はあったのですが、いつの間にか「不磨の大典」に嵩上げされて
しまったのは、国民性の問題なのか、政治家の問題なのか、天皇の問題なの
か... 宇垣軍縮も実施されたわけだし、第一次世界大戦の終結後、世界恐慌
で対外進出論が盛んになるまでの間の不戦運動・反軍思想盛んな間に何とか
できなかったのかねぇ、と私は考えたりするんですが。

# 加藤友三郎がもっと長生きしていればなぁ... とか。

yutaka

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
In article <19990315054307...@ngol01.aol.com>,
mazyo...@aol.com (MazYoshida) wrote:

> >判断を下す立場になかった、と考えています。
>
> あるいは、天皇さんには、そもそも責任を問われるような判断を下す立
> 場や地位そのものがなかったという風に理解されておられるのでしょうか。

繰り返しますが、国政に対して判断を下す立場になかった、と考えます。

> たぶん、あなたもこのあたりことで天皇に責任はないことを正当化されよう
> としているのでしょうが、

いいえ。天皇の責任を問う正当性に疑義を呈しているだけです。

> 一つは、明治憲法
> 内での一貫性の欠如によるものです。これは、たとえば、「統帥権」の問題
> で理解できるかも知れません。統帥事項については、ご存知のように、軍内
> 部のものが輔弼し、国務大臣の輔弼が及ばないという体制ができています。

不幸にも結果的にそうなってしまったらしいですが、それがどう天皇の責任に関係
するのでしょうか。
天皇が、三権でも統帥権でも、補弼する責任者の頭越しに権力を行使しまくったの
なら天皇の責任と言えるでしょうけど。そんな話は聞いたことがありません。

> もう一つは、憲法外での責任論です。天皇の社会的役割への注目です。天皇
> 制の社会のすみずみまで、国体観念が浸透しており、天皇は国民にとって、
> 宗教的・道徳的権威として、たとえば、教育の場では、教育勅語、軍人の模
> 範としては、軍人勅諭で君臨していたわけです。このような絶対的権威を考
> 慮すれば、とても「超政論」だけではかたづかないと思いますね。

なぜでしょうか。
僕は、為していないことについての行為責任や、為し得なかったことについての不
作為責任を問うのは不当であると考えるものですが、あなたはそうではないのです
か?

それとも、昭和天皇は文字どおりに現人神であらせられたので、その神通力を以て
あの混迷の時代のあらゆる状況を神の視座から明確に見極め、大権を発して日本国
を正しい道に導くことができた筈なのに、それをなさらなかった責任があると言う
ことですか?

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
清水です。

記事 <36ECE3...@aol.com> で,
Hideyosi <hide...@aol.com> さんは書きました;

>どうしても日本が無条件降伏したという事実を認めないための屁理屈に
>しか思えないですが?

では、「無条件降伏」の定義をお願いします。
それが私に対して説得力を持っていれば、考え直します。


>こんなこと国際社会でとおるような論法でしょうか?

通るでしょう。

たとえば、フランス政府は一時ドイツに降伏してビシー政府として南仏地域
にのみ主権を認められていますが、この降伏は条件降伏です。また、イタリ
アの連合国への降伏(1943年9月)も条件降伏です。戦争に負けたら無条件
降伏しかない、というのは国際社会の常識ではない、と思います。


>まづ無条件降伏の条件であるポツダム宣言を条件降伏の文書であると解釈し、
>軍と日本を切り離すということ自体がおかしいのではないですか?

文面に忠実に読めば、そういう解釈は別におかしくないでしょう。
また、トルーマン米大統領自身が、ドイツ降伏直後のラジオ演説で

「日本の陸海軍が無条件降伏するまで戦う」

と決意を述べているのですが、これは前任者のルーズベルト大統領が合意し
たカイロ宣言の「日本が無条件降伏するまで戦争を続行する」から一歩退い
ています。元駐日大使のグルーなど、知日派による「無条件を有条件化する
動き」が影響力を発揮していたものと私は認識しています。

参考文献:平川祐広「平和の海と戦いの海」講談社学術文庫
五百旗頭真 他「開戦と終戦」情報文化研究所

また、以下の条項を読むと、

・ポツダム宣言 第4項

無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的
助言者に依り日本国が引続き統御せらるべきか、又は理性の経路を日本国
が履むべきかを日本国が決意すべき時期は到来せり。

連合国側も、軍(軍国主義的助言者)と日本国を切り離して考えようとして
いるのが窺えます。連合国側もこうですから、おかしくはないでしょう。


>軍が無条件降伏をして日本が無条件降伏をしてないとすれば、日本は軍
>とは別に条件降伏の条件を出してあるべきですが、

はい、ポツダム宣言とバーンズ回答に明記された事項が降伏条件だ、と私は
書いています。軍とは別に、戦後の政治体制、主権の存続、許容される産業
などについての条件が書いてあります。


>占領がはじまってからいろんなお願いをGHQにはしてるがそれは
>降伏した後であって降伏にあたっての条件を出してはいないですね。

大綱しか決っていないので、実施の詳細が占領後に詰められた、という
ことでしょう。


>一時国体の護持(天皇制の維持)を降伏条件にいれようとする動きはあっ
>たようですが最終的には陛下の意志もあって無条件降伏になってます。

天皇の地位についてはバーンズ回答にある通り

日本国政府の確定的形態は「ポツダム宣言」に遵ひ日本国国民の自由に
表明する意思に依り決定せらるべきものとする

ですよね。連合国の意思によって決せられるものではなく、主権国家たる
日本の国民が決定するものとした、ですから「勝者が敗者の処理につき無
制限の権利を有するがごとき」無条件降伏には該当しない、という認識を
しています。

このスレッドにおける私の「無条件降伏ではない」という主張は、domus さ
んの記事 <01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> の、

>無条件降伏と言う事態を余りに甘く考え過ぎていませんか。敗戦後日本の被
>害が比較的軽微で済んだのは結果論に過ぎません。

という記述や

>時と場合によったら、日本全土が略奪、強姦、暴行、殺戮の修羅場と化し、
>最悪の場合には日本人がこの列島を追われて(恰もユダヤ民族の如く)流浪
>の旅に出なければならない事態とて全く絵空事では無いのです。

という記述に対して、「そこまでされる可能性まで受容した『無条件』な降
伏ではなかったと思う」と言っているのであって、たとえばマッカーサー元
帥が回顧録等で東京裁判や公職追放について言及している「それが合法かど
うかは関係ない、無条件降伏したではないか」に見られる意味での「無条件
降伏」とは少々異なるものです。このマッカーサー的文脈においても、

・ポツダム宣言 第10項

吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめん
とするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せるものを含む
一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は
日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を
除去すべし。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せ
らるべし。

という「降伏条件」は守られている、という認識を私はしているのです。

そして、こういう相違は可能な解釈の差だと思います。もしも Hideyosi さ
んが実証的に、根拠のある資料でもって反証していただければ、それなりに
敬意は払いますが、現在のところあなたの論述を「ご説ごもっとも」と受入
れる訳にはいかないと思います。客観的に検証可能な論拠がないので。


>昭和天皇のみづからの身はどうなってもいい死刑さえも覚悟されて無条件
>降伏されたことを無にする不忠もののウヨクの方々の考えは真の愛国者で
>ある右翼や愛国的左翼には理解不能の詭弁論ですね。

私はまず、史実と資料に忠実であろうと考えているので、ウヨクだの左翼だ
の愛国だのという物差しはどうでもいいんです。(ただし、基本的に集産主
義 Collectivism には真っ向から反対する立場ではあります。)結果的に、
それが不忠やら天皇賛美者やら非国民やら愛国的やらウヨクやらサヨクやら
という評価になろうが、レッテルを貼る側の勝手です。どうぞ御自由になさ
って下さい。

MazYoshida

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
Hideyosi <hide...@aol.com> writes:


この部分が気になります。

これ、事実ですか。それともHideyosiさんの希望ですか。
天皇さんが、ここまで覚悟しておっしゃっておられる文書に、今まで
出会ったことがありません。天皇さんは、ご自分が死刑になるどころか
「戦争犯罪者として処罰される」ことも皆目、念頭になかったという
文書や、せっせと国体維持におつとめの文書は、みつかるのですが・・・。

YOSHIDA Masayuki


>を無にする不忠もののウヨクの方々
>の考えは真の愛国
>者である右翼や愛国的左翼には理解不能の詭弁論ですね。

Hideyosi

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
「 吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめん

とするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せるものを含む
一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は
日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を
除去すべし。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せ
らるべし。」

これを条件降伏とあなたは解釈してるようですが、私はこれは近代戦争では
無条件降伏と読みます。
近代戦依然の全国民をみなごろしにしたり奴隷にしたりするようなのは
近代では無条件降伏でも国際法上違法と思います。
19世紀までは奴隷にしないまでも二級市民としてこき使うというのは
ありましたけどね。


Hideyosi

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
「死刑さえも覚悟されて無条件降伏されたこと」
私は、この我が身がどうなろうとも臣民と国土を
守りたという昭和天皇の言葉は命がなくなってもよい
と解釈してます。退位としか解釈してない人もいる
ようですけどね。

Takaaki Kubo

unread,
Mar 15, 1999, 3:00:00 AM3/15/99
to
条約を踏みにじって攻め込むなんてソビエトが戦後に
あったから無責任が蔓延っているんだ。

sobaka11

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
>
>唯一、終戦の詔勅だけは、事実上“白紙委任”の形で昭和天皇自ら発したと聞いて
>いますけど。
>--

なんか、誤解を生む表現ですね。
読み方では、皆の反対を押し切って自ら発したようにも見え
事実マスコミなんかもこう言った報道がされてますが、
実際は再三終戦を進言されたにもかかわらず「もう少し戦果をあげて」
と、取り合わず、沖縄占領後は、より良い条件で降伏せよとの命。
その良いの基準は天皇制の存続一点に絞られてたというのが実際では
ないのですか?

--
////////////////////////////////////
sobaka11
////////////////////////////////////


kou

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to

> また"kou"さんのさりげなく「共産党」という単語を入れるところなど、僕を共
> 産党の息のかかった者であるというイメージを受け付けようとする意図が感じ
> られて、なかなか巧みな文章であります。

はぁ。なんでこういう解釈するのかなぁ。
だって今の共産党って天皇制を事実上認めている(棚上げか)わけだし、
共産党系というレッテルをはることに意味があるのかな。
全然、「巧みな文章」じゃないですよ。
ちなみに我が家では、古いつきあいがあるらしくて、
赤旗(日曜版)とってます。(笑)

> いずれにしても、ご自分がもし僕が紹介したエピソードの出典をご存知ない場
> 合は、ただ「文献を教示ねがいます」と一言言えば済むのではありませんか。

ていうか、僕の知っている話とはあまりにかけはなれたエピソードだったし、
あそこまで詳しく書いている割には、出所が書かれていなかったので・・・

> さて、その文献ですが、僕が参照しましたのは、
>
>   ねずまさし著「天皇と昭和史 下」(1976年、三一新書857)
>   334ページ
>
> であります。この名著は、1961年に至誠堂から刊行された「大日本帝国の
> 崩壊」と「象徴帝国の誕生」の二冊を一冊上下にまとめたものです。廉価で
> 入手しやすく一読されるとよろしいかと。また、皇室の献立については、
> 1946年7月号「真相」4号、「皇族は何を喰ってい(旧かな)るのかーー宮城
> デモ報告記」にあるでしょう。ご確認をお願いします。
>

そうですか。「三一新書」ですか。
で、「誰がそれを見つけたのか」という質問には答えていただけない
のでしょうか。
デモ隊が宮城に侵入して、直接、皇族の方々の台所を覗いたわけ?
それって、事実として記録に残っているものなの?
また、天皇ではないとおっしゃってましたが、宮家って、当時宮城に
住んでいたのかな。
そのあたりのことをちゃんと書いてくれないと、信憑性がないと思うよ。

ところでその「真相」というのは、人民社の佐和慶太郎氏らによって
創刊され、あの「噂の真相」が創刊に当たり、あやかって誌名に
入れたほどのバクロ雑誌「真相」のことですか。
たしか「真相」の佐和慶太郎氏って、1951年に天皇の落胤に関する
誤りの記述などで逮捕され、懲役で服役したのを機に、「真相」を
休刊にしたんだよね。
う~ん是非とも読んでみたいなぁ。


Kaz SHiMZ

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
清水です。

記事 <19990315084839...@ng-fi1.aol.com> で,
Hideyosi <hide...@aol.com> さんは書きました;

>近代戦依然の全国民をみなごろしにしたり奴隷にしたりするようなのは
>近代では無条件降伏でも国際法上違法と思います。

なるほど、私は「国際法、あるいは文明、あるいは人道に基づく条件」が
ポツダム宣言に明記されているので「無条件(降伏)ではない」という主
張をしているのですから、「降伏の内容」に関する認識には大きな異同は
ないような気がします。

私は、このスレッドにおいては、「無条件降伏」をヘーグ条約やジュネー
ブ条約の占領条項に違反する、日本国民を殺戮したり、基本的人権を奪っ
て奴隷化したり、日本固有の領土と認められている日本列島から追放する
ような占領性政策までも受容するような降伏のことを差すものだと認識し
たうえで、日本の降伏はそれには該当しない、と書きました。

要するに、記事 <01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> や
<01be6bfd$287affc0$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> に見られる、domus
さん的解釈の「無条件降伏」ではなかろう、ということです。

MazYoshida

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
よしだ@AOLです。

hide...@aol.com (Hideyosi) writes:

くどいようですが、「この我が身がどうなろうとも
臣民と国土を守りたい」という昭和天皇の言葉は、
どこで見つかるのでしょうか。側近のどなたかの
日記に記述されているのでしょうか。解釈の問題で
はなく、文献の所在をお聞きしているのです。

YOSHIDA Masayuki


MazYoshida

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
よしだ@AOLです。

hide...@aol.com (Hideyosi) writes:

>
>「

やはり、ここでは、清水さんも提案されたように、hideyosiさんの
「無条件降伏」の定義を示された方が、よろしいと思います。

YOSHIDA Masayuki

Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
kou <k...@wa2.so-net.ne.jp> wrote in article <01be6f54$e28a4100$12d0...@kou.wa2>...

>
> > また"kou"さんのさりげなく「共産党」という単語を入れるところなど、僕を共
> > 産党の息のかかった者であるというイメージを受け付けようとする意図が感じ
> > られて、なかなか巧みな文章であります。
>
> はぁ。なんでこういう解釈するのかなぁ。
> だって今の共産党って天皇制を事実上認めている(棚上げか)わけだし、
> 共産党系というレッテルをはることに意味があるのかな。
> 全然、「巧みな文章」じゃないですよ。
> ちなみに我が家では、古いつきあいがあるらしくて、
> 赤旗(日曜版)とってます。(笑)

あなたの家で赤旗をとっているから、何がどうなんですか? 要するにあな
たは、余計なことばかり、書くからそういう風に理解されるわけですよ。あな
たが、「原因」。



> > いずれにしても、ご自分がもし僕が紹介したエピソードの出典をご存知ない場
> > 合は、ただ「文献を教示ねがいます」と一言言えば済むのではありませんか。
>
> ていうか、僕の知っている話とはあまりにかけはなれたエピソードだったし、
> あそこまで詳しく書いている割には、出所が書かれていなかったので・・・

で、あなたの知っている話って?



> > さて、その文献ですが、僕が参照しましたのは、
> >
> >   ねずまさし著「天皇と昭和史 下」(1976年、三一新書857)
> >   334ページ
> >
> > であります。この名著は、1961年に至誠堂から刊行された「大日本帝国の
> > 崩壊」と「象徴帝国の誕生」の二冊を一冊上下にまとめたものです。廉価で
> > 入手しやすく一読されるとよろしいかと。また、皇室の献立については、
> > 1946年7月号「真相」4号、「皇族は何を喰ってい(旧かな)るのかーー宮城
> > デモ報告記」にあるでしょう。ご確認をお願いします。
> >
>
> そうですか。「三一新書」ですか。

ええ、そう書いたでしょ。

> で、「誰がそれを見つけたのか」という質問には答えていただけない
> のでしょうか。

よごれた栄養失調の赤子を背負った母親、飢えて痩せ細った老人なんか
も、目撃したそうです。

> デモ隊が宮城に侵入して、直接、皇族の方々の台所を覗いたわけ?

「侵入」ではなくて、宮内省の許可を得て、岩瀬事務官の案内で、整然
かつ堂々と見たそうです。

> それって、事実として記録に残っているものなの?

確認されたら?

> また、天皇ではないとおっしゃってましたが、宮家って、当時宮城に
> 住んでいたのかな。

僕は皇族と記しました。宮内省の皇族です。「宮家」と、いったい
どこに書いたのでしょうか?

> そのあたりのことをちゃんと書いてくれないと、信憑性がないと思うよ。

だったら、きちんと反論されたらいいでしょう。僕の記事を信用しようが、しまい
が、あなたの勝手。しかし、あなたが気づくべきことは、ご自身が実証的手続を
ふんだ反論をまったくしていないことでしょう。そういうご自身の怠慢を棚に
あげて、ねずさんの本と「真相」を読まずして、いったいあなたの言っている
ことこそ、信憑性があるとお思いなのかしら。

> ところでその「真相」というのは、人民社の佐和慶太郎氏らによって
> 創刊され、あの「噂の真相」が創刊に当たり、あやかって誌名に
> 入れたほどのバクロ雑誌「真相」のことですか。

「真相」ってどういう雑誌なんですか、とどうして率直に質問できない
のかなあ、この人は(笑)。

> たしか「真相」の佐和慶太郎氏って、1951年に天皇の落胤に関する
> 誤りの記述などで逮捕され、懲役で服役したのを機に、「真相」を
> 休刊にしたんだよね。

「したんだよね」って、僕に同意を求めておられるんですか? もし
その情報に自信がなければ、ご自分でご確認されればいいでしょう
に。

> う~ん是非とも読んでみたいなぁ。

だったら、お読みになってから、この記事をお書きになられたらよろし
かったのに。

YOSHIDA Masayuki

Hideyosi

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
MazYoshida wrote:
>
> よしだ@AOLです。
>
> hide...@aol.com (Hideyosi) writes:
>
> >「死刑さえも覚悟されて無条件降伏されたこと」
> >私は、この我が身がどうなろうとも臣民と国土を
> >守りたという昭和天皇の言葉は命がなくなってもよい
> >と解釈してます。退位としか解釈してない人もいる
> >ようですけどね。
>
> くどいようですが、「この我が身がどうなろうとも
> 臣民と国土を守りたい」という昭和天皇の言葉は、
> どこで見つかるのでしょうか。側近のどなたかの
> 日記に記述されているのでしょうか。解釈の問題で
> はなく、文献の所在をお聞きしているのです。

昭和天皇が側近にかたった話(侍従かも??)の本
名前を失念しましたに昭和天皇が
「この我が身がどうなろうとも 臣民と国土を守りたい」
のような言葉を語るシーンがあります。
侍従や側近や著者の作文の可能性がゼロではないですが
私はこういった言葉は昭和天皇はだされていると思います。
この言葉をいわれたとして死刑になることまで想定したのか
退位してどっかの神社か寺で余生をすごそうとされたのかは
解釈のわかれるところですが・・・

Hideyosi

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
MazYoshida wrote:
>

> やはり、ここでは、清水さんも提案されたように、hideyosiさんの
> 「無条件降伏」の定義を示された方が、よろしいと思います。

私のいう無条件降伏とは一時的に主権がなくなり占領されること
軍隊は武装解除されること。
再軍備は戦勝国の許可がひつようなこと。
戦争犯罪人と領土の処分は戦勝国にまかされるということ。
戦後の国体についても介入を受ける可能性があることです。
皆殺しになるとか領土を追放され昔のユダヤ人のようになるとか
奴隷になるとかではありません。

tanaka takahisa

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
こんにちは
takahisa@sophiaです。

kou wrote in message <01be6f54$e28a4100$12d0...@kou.wa2>...


>
>そうですか。「三一新書」ですか。
>で、「誰がそれを見つけたのか」という質問には答えていただ
>けないのでしょうか。
>デモ隊が宮城に侵入して、直接、皇族の方々の台所を覗いたわ
>け?
>それって、事実として記録に残っているものなの?

>また、天皇ではないとおっしゃってましたが、宮家って、当時
>宮城に住んでいたのかな。
>そのあたりのことをちゃんと書いてくれないと、信憑性がない
>と思うよ。


食料メーデーの時の、皇族の冷蔵庫を覗いた一件、ってそれほど
有名な話ではないのですね。意外な気がします。
昔、何かの本で読んだときには、「銀シャリがいっぱいあった。
それを知ってあるところにはあるんだなという感慨をもった」
なんていう内容があったような気がします。書名は忘れてしま
いましたが。
 山本七平さんなども当時の「共産党を中心とする広範な反
天皇グループ」がとった「笑劇」として、重ねて「私の創作で
はない」とまで断って紹介しています。
(日本教について/イザヤ・ペンダサン・山本七平訳 1975)
 手元に当時の資料が何かあれば良いのですが... 

ただ、別の証言として、
「宮中では、戦前・戦中と変わりなくヤミのものは絶対に買うこ
とができません。お上のお食事は相変わらず、配給の七分づきの米
と丸麦のご飯、混ぜもの入りのパンでした。うどん、そば、そばが
き、すいとん、さつま芋、じゃが芋などもお食事代わりに召し上が
りました。
 国民が飢えていたこのころ、お上もまたご不自由な、苦しい日々
をお過ごしになっていたのです。
 当時のことについてお上は、昭和五十一年の夏、宮内庁づめの記
者たちとお会いになられた席上で、「戦後はすいとんなんか食べた
。芋類もね。わたしはむしろ米より芋のほうがすきなくらい」とお
っしゃられています」
 というのもあるようです。
(天皇陛下のパン職人/渡辺藤吉 1983・ただし別書からの孫引き)

実際に配給だけで暮らして死んでしまった裁判官もいたわけですから、
この話についても多少の誇張を考慮しなければならないでしょうが、
戦後、大元帥服で、スリッパを作られたという話といい、とりあえず、
天皇陛下の食卓も、帝国の元・現人神のわりには、それほど「美味し
んぼ」ってわけではなかったという程度に考えても良いのではないでし
ょうか。

冷蔵庫の中身と、陛下の証言、どちらも真実であれば、きっと別の誰か
が食べてらしたのでしょうね。


--
takahisa.
taka...@hoffman.cc.sophia.ac.jp


Hideyosi

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
Masayuki YOSHIDA wrote:
>
> 僕は皇族と記しました。宮内省の皇族です。「宮家」と、いったい
> どこに書いたのでしょうか?
>

戦前と戦後で皇族の範囲がかわってます。かなりの皇族が戦後、一般人(臣籍降
下ってまだ
いうの?)されてます。
宮家も戦前というか戦後しばらくは今よりたくさんありました。
戦争に負けたあと大分へらされました。
皇族っていっても本当に天皇の同居?の家族から遠い遠い親戚や皇族待遇になっ
ていた
朝鮮や満州の王家や皇帝の家柄、琉球王家の家柄、明治天皇のご落胤など沢山お
られるの
でいちがい皇族といわれてもよくわかりませんね。

tanaka takahisa

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to

こんにちは
takahisa@sophiaです。
自己訂正します
tanaka takahisa wrote in message <7cl6bo$3jn$1...@nn-tk004.ocn.ad.jp>...


>食料メーデーの時の、皇族の冷蔵庫を覗いた一件、ってそれほど
>有名な話ではないのですね。意外な気がします。
>昔、何かの本で読んだときには、「銀シャリがいっぱいあった。
>それを知ってあるところにはあるんだなという感慨をもった」
>なんていう内容があったような気がします。書名は忘れてしま
>いましたが。
> 山本七平さんなども当時の「共産党を中心とする広範な反
>天皇グループ」がとった「笑劇」として、重ねて「私の創作で
>はない」とまで断って紹介しています。
>(日本教について/イザヤ・ペンダサン・山本七平訳 1975)


 上記の本では、

「朕ハタラフク食ッテイル、汝臣民飢エテ死ネ」といったプラ
カードを掲げて宮城に乱入し、厨房の冷蔵庫を調べてその内容
を公表するあという笑劇

(文庫版p130)として紹介されてますが、

 手もとの年表(毎日グラフ緊急増刊「崩御・昭和天皇」)に
よれば、
1946年5月12日 世田谷区「米ヨコセ」デモが初めて宮城内に入
        り宮内省食堂を「検分」。
1946年5月19日 食料メーデーでプラカード事件

というように、別の出来事であったようです。


--
takahisa.
taka...@hoffman.cc.sophia.ac.jp

Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
よしだ@AOLです。

Hideyosi <hide...@aol.com> wrote in article <36EE1C...@aol.com>...


> Masayuki YOSHIDA wrote:
> >
> > 僕は皇族と記しました。宮内省の皇族です。「宮家」と、いったい
> > どこに書いたのでしょうか?
> >
>
> 戦前と戦後で皇族の範囲がかわってます。かなりの皇族が戦後、一般人(臣籍降
> 下ってまだ
> いうの?)されてます。

このスレッドでの皇族は、戦前の地位を継承していた皇族でしょう。宮城
の中に台所をお持ちだった皇族というわけです。

> 宮家も戦前というか戦後しばらくは今よりたくさんありました。
> 戦争に負けたあと大分へらされました。
> 皇族っていっても本当に天皇の同居?の家族から遠い遠い親戚や皇族待遇になっ
> ていた
> 朝鮮や満州の王家や皇帝の家柄、琉球王家の家柄、明治天皇のご落胤など沢山お
> られるの
> でいちがい皇族といわれてもよくわかりませんね。

満州の王家、琉球王家、明治天皇のご落胤は、宮城内に台所をお持ち
だったとは、ちょっと聞いたことがありませんし、第一、満州の王家は、は
まちとかひらめとかの刺身はちょっとお食べあそばさないように思います。
朝鮮王家なら、やはりキムチがメニューに入っているのでありませんか。
従って、宮城で目撃されたメニューは、日本の皇族のものだったと理解し
ています。

YOSHIDA Masayuki


Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
よしだ@AOLです。

tanaka takahisa <taka...@hoffman.cc.sophia.ac.jp> wrote in article
<7cl6bo$3jn$1...@nn-tk004.ocn.ad.jp>...
> [...]


> 食料メーデーの時の、皇族の冷蔵庫を覗いた一件、ってそれほど
> 有名な話ではないのですね。意外な気がします。
> 昔、何かの本で読んだときには、「銀シャリがいっぱいあった。
> それを知ってあるところにはあるんだなという感慨をもった」
> なんていう内容があったような気がします。書名は忘れてしま
> いましたが。
>  山本七平さんなども当時の「共産党を中心とする広範な反
> 天皇グループ」がとった「笑劇」として、重ねて「私の創作で
> はない」とまで断って紹介しています。
> (日本教について/イザヤ・ペンダサン・山本七平訳 1975)

>  手元に当時の資料が何かあれば良いのですが... 

山本七平氏って、イザヤ・ベンダサンご自身だった方と聞いて
いますが、外国人のふりをして、そういうことをおっしゃっておられ
たのですか。

YOSHIDA Masayuki


Kaz SHiMZ

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
清水です。

よしださん;

> くどいようですが、「この我が身がどうなろうとも臣民と国土を
> 守りたい」という昭和天皇の言葉は、どこで見つかるのでしょうか。

Hideyosi さん;

>昭和天皇が側近にかたった話(侍従かも??)の本
>名前を失念しましたに昭和天皇が
>「この我が身がどうなろうとも 臣民と国土を守りたい」
>のような言葉を語るシーンがあります。

鈴木貫太郎内閣の国務大臣だった下村宏(海南)の「終戦記」に、以下の
記述があります。御前会議で、バーンズ回答に示された連合国の降伏条件
を受諾することを、聖断にて決した模様を綴った部分です。

--

 御 諚
(20.8.14 午前11時)

御諚はいひ知れぬ感激のあとであつて、そこには原稿もなく速記も無い。
まだ亢奮のさめやらぬ中に私は生々しき心覚えのまヽメモを取ったが、
この御諚こそ終戦の中核をなすものであるから、左近司国務相太田文相
の両君の手記ともてらし合はし、さらに鈴木首相の校閲をへた。それだ
けに御諚としては最も真を写したものである事を明記しておく。


 外に別段意見の発言がなければ私の考を述べる。

 反対側の意見はそれぞれ能く聞いたが私の考は此前に申したことに変
りはない。私は世界の現状と国内の事情とを充分検討した結果、これ以
上戦争を継続することは無理だと考える。

 国体問題に就て色々疑義があると云ふことであるが、私は此回答文の
文意を通じて先方は相当好意を持つて居るものと解釈する。先方の態度
に一抹の不安があると云ふのも一応は尤もだが私はさう疑ひたくない。
要は我国民全体の信念と覚悟の問題であると思ふから、此際先方の申入
を受諾してよろしいと考へる。どうか皆もさう考へて貰ひたい。

 更に陸海軍の将兵にとつて武装の解除なり保障占領と云ふ様なことは
誠に堪へ難い事で夫等の心持は私には良くわかる。しかし自分は如何に
ならうとも万民の生命を助けたい。此上戦争を続けては結局我邦が全く
焦土となり万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍
び難い。祖宗の霊にお応えが出来ない。和平の手段によるとしても素よ
り先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いことは当然ではあるが、日本が
全く無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさへすれば更
に又復興と云ふ光明も考へられる。

(御諚の後半は省略)

--

死刑も覚悟されていたように読めなくはないのですが、その一方で「国体
の護持」についても相当な自信をお持ちであったようにも読めます。また、
終戦の詔書の以下の文面、

... 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世
ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト
共ニ在リ

を見ると、昭和天皇ご自身や詔書の作成にあたった面々は、国体が護持さ
れるというか、日本国民の意思に委ねられた以上は天皇制の廃止などとい
う事態にはなるまい、と思っていた節があるように私には思えます。

ところで、「終戦記」には、前述の御諚に続いて

--

御諚を承っているうちに頭は次第に下がっておもてを上げる者もない。
忍び泣く声がここかしこに聞こえてくる。御ことばのふしぶしに胸を打
たれる。たとえ我が一身はいかにあろうとも、国は焦土と化し、国民を
戦火に失い、何として祖宗の霊にこたえんやという御心を拝して、涕泣
の声は次第に高まってくる。さらに為すべきことはいとわない、マイク
の前に立ってもよいと仰せらるるに至り、忍び声を止めもあえず声をあ
げた ...

--

と海南調の名文が綴られており、むしろこちらの「解題」の方が人口に膾
炙していますね。鈴木貫太郎の「腹芸」や昭和天皇の「聖断」を取り上げ
た書物で、しばしば引用されています。

それから、マッカーサー元帥との第一回会談(昭和20年9月27日)で似た
ような話があったような事が言われていますが、日本の外務省が議事録を
未だに公開していないため、正確なところは不明です。相当前に、抄録が
文藝春秋に掲載されたような記憶もあります。マッカーサー元帥の伝記で
判るかもしれません。

domus

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
Kaz SHiMZ <ksh...@dd.iij4u.or.jp> wrote in article
<7c7vlf$69j$1...@news00.iij4u.or.jp>...
>
> あの、ポツダム宣言の正式名称は、「日本国の降伏条件を定めたる宣言」
> でして、これを受諾することにより無条件降伏することになったのは、大
> 日本帝国陸海軍です。決して大日本帝国政府ではありません。

> つまり、国家としては、あくまで「ポツダム宣言」に盛り込まれた降伏条
> 件を受入れた、条件降伏なのですが...

無条件降伏したのは帝国政府では無く、帝国陸海軍だと言う事ですか。しか
し帝国陸海軍の統帥者も、帝国の統治者も同じ昭和天皇ですからね。実際問
題そう簡単に分離して考えられるのでしょうか。軍と政府が表裏一体の関係
に有ると言うのが軍国主義国家の軍国主義国家足る所以でしょう。当時国民
の内の何割が、戦争に負けたのは日本軍であり日本国が負けた訳では無いと
認識していたのでしょう。大半の国民は日本がアメリカに負けたと単純に感
じていたのではありませんか。

> # ドイツのように「政府なく主権者なし」の状態だったわけではない。

その通りですね。当時帝国臣民は尽く天皇教に洗脳をされていた訳ですから
、軍国主義政府転覆は愚か批判すらしなかったのでしょう。(極一部の理性
的人間を除いて。)

> >時と場合によったら、日本全土が略奪、強姦、暴行、殺戮の修羅場と化
> >し、最悪の場合には日本人がこの列島を追われて(恰もユダヤ民族の如
> >く)流浪の旅に出なければならない事態とて全く絵空事では無いので
> >す。
>
> まぁ、連合国がポツダム宣言を守らないならそうなりますが、連合国は文
> 明の名において枢軸国と戦っていたわけですから、そういう想像はとりあ
> えず不要だと思います。

結果的には確かにそうなったのですが、しかし戦争当時、帝国政府は帝国臣
民に対し、連合国を鬼畜米英と称して徹底抗戦を要求していたのではありま
せんか。そんな獰猛野蛮な連中に対し、無条件降伏などしてしまったら何を
されるか解らないと考えるのが通常でしょう。若し連合国は紳士的国家の集
まりだから、約束した事は必ず守ってくれるに違いない、無条件降伏しても
臣民の生命、財産は保証されるから何も心配は無いと、時の帝国政府が考え
ていたとしたら、政府は臣民に対して全く嘘をついていた事になりますね。
帝国政府はこの虚言に対し臣民に謝罪しましたか。戦後日本国民は帝国政府
のついた嘘に対して何か責任追及をしましたか。

> で、絵空事を前提とするなら、もっと溯って、たとえばハル・ノートを受
> 諾して大陸から撤退しても対日禁輸措置が解除されず、さらに米英から無
> 理難題を吹っかけられて、日本全土が略奪、強姦、暴行、殺戮の修羅場と
> 化すという想定も有り得ますね。そして「なぜ、あの時に立たなかったの
> だ?」という政治責任論も出るかもしれません。

それは杞憂でしょう。日本が歴史始って以来の屈辱的敗北を喫した時でさえ
国民の間からは天皇を筆頭とする軍国主義政権が国家をミスリードした事に
対する責任追及の動きが一切起こらなかったのですから。この国の国民は黙
して語らぬ事が美徳だとでも思っているのですよ。きっと。或いは単なる無
節操な事勿れ主義者の集合なのかも知れません。

> なので、絵空事に基づく論は、ほどほどにした方がよかろうと存じます。

そう簡単に絵空事と片づけられない現象が半世紀以上経った今現在も世界各
地で繰り広げられていますからねえ。結果として絵空事が現実とならなくて
良かったとしか言いようがありませんね。

しかし仮にマッカーサー司令部が日本の降伏条件遵守の姿勢を取っていたと
しても、これが末端の兵士にまで徹底するかどうかという疑問もある訳です
ね。アメリカ兵からすれば、昨日までは憎っきJAPと思って命懸けで戦って来
た敵国へ乗り込んできたのですから。私は「無条件降伏後の日本の被害が比
較的軽微で済んだ」とつい思い込みで書いてしまいましたが、実際問題本当
に被害が無かったのでしょうか。当時は当然GHQによる報道管制も敷かれてい
た事でしょうから、アメリカ兵の起こした暴行事件など逐次報道されなかっ
たのではないかとも思うのですが。

> >現に小規模とは言うものの、北方領土の島民は島を追われたではありま
> >せんか。
>
> これは、ポツダム宣言で保障された日本の領土の中に、北方領土が明示的
> に入っていなかったからでしょうね。

> ・ポツダム宣言 第8項
>
> 「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく、?
> 海道、九州、四国及び吾等の決定する諸小島に局限せらるべ?

だとすると政府自民党の主張する北方領土返還要求には妥当性は有るのです
か。若し妥当性が無いのなら、ロシアに悪戯に金銭をふんだくられるだけの
北方領土返還要求などさっさと引っ込めた方が賢明だと思いますが。

> >�痰 5 日本を制圧する軍隊が、アメリカではなくソ連だったら、多くの?
> >本人がこの日本列島を追われた可能性だって有り得たのです。
>
> まぁ、それを避けるためにあのタイミングでポツダム宣言を受諾するべ
> く、昭和天皇と政府・枢密院の和平派要人が動いたのだと私は考えていま
> す。

受諾は時宜を得たタイミングであったと言う事ですか。しかしポツダム宣言
が発せられたのは7月26日です。帝国政府がこれを受諾したのは8月14日深夜
です。この間、広島、長崎で原爆による多数の一般市民の犠牲者を出し、受
諾決定当日の8月14日でさえ全国各都市への米軍による空爆の犠牲者が1500人
余りも出たのですよ。とても絶妙なタイミングで受諾したなどとは思えま
せんね。兎に角帝国政府の念頭にあったのは如何にして国体を護持するか、
如何にして昭和天皇の命を守るかであって、消耗品である臣民の命など二の
次三の次であった事は明白なのですから。

> >朝鮮やドイツの様に国家が分断される事態だって十分有り得たのです。
>
> うーむ、ポツダム宣言を受諾することでそれを避け得たのでは。

結果としてはそうなりました。しかしこれも飽くまで結果論の様な気がしま
す。当時ソ連が北海道を占拠する危険性は全く無かったのですか。

> >戦争を起こし、その戦争に負けた結果、国家が主権を喪失したのです。
>
> 日本国の政府の主権は喪失していないでしょう。潜在主権までは否定され
> てはおらず、一時的に制限下におかれたというのが、法的には正しい理解
> だと思います。

法的には確かにそうかも知れません。しかしそれが約束通り履行されるか否
かは実際にその状況に至らなければ誰にも解らない事でしょう。国際紛争の
大半は約束が約束通り履行されなかったり、約束した内容の解釈が締結国双
方で食い違ったりして起こるのではありませんか。約束が出来たからさあ明
日からもう安心と言う訳には行かないのですよ。日本の主権が比較的早期に
回復したのも飽くまで結果論に過ぎません。日本にとって丁度良い時に朝鮮
戦争が起こったからに過ぎません。

> >この由々しき事態を招来した結果責任を一体この国では誰が取ったの
> >でしょう。この由々しき事態を招来した結果責任を一体この国では誰
> >に取らせたのでしょう。
>
> たぶん、A級戦争犯罪人にす?

所謂戦争犯罪人の犯した罪と、国策を誤って国家存亡の危機に瀕する事態を
招来した政治責任とは全く性質が違うのではありませんか。

仮にA級戦犯にこれらの政治責任も含めて被せたとしても、これらの人々を裁
いたのは戦勝国の軍事裁判ではありませんか。日本人自らが裁いた訳ではあ
りませんね。政府も国民も押し並べて無節操、無責任な事に変わりは無いの
です。


--
怒夢巣

Takaaki Kubo

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to
>仮にA級戦犯にこれらの政治責任も含めて被せたとしても、これらの人々を裁
>いたのは戦勝国の軍事裁判ではありませんか。日本人自らが裁いた訳ではあ
>りませんね。政府も国民も押し並べて無節操、無責任な事に変わりは無いの
>です。


「平和に対する罪」なんて事後法の典型で、憲法39条違反だもんね。

Ohnuki Tsuyoshi

unread,
Mar 16, 1999, 3:00:00 AM3/16/99
to

Yoshihide SHIMAZU wrote in message <7ce11b$hi$1...@nn-os001.ocn.ad.jp>...

> 1875年の千島樺太交換条約で、千島列島は日本、樺太はロシアと領土は
>確定しています。一方、南樺太は日露戦争で獲得した領土です。
> 従って、全千島の返還要求はそれなりの根拠はありますが、南樺太の
>返還要求は国際法的にも根拠がありません。
>
> 日本政府が返還要求を択捉島以南の4島に限定しているのは、明治政府
>発足以前に日露和親条約(1854)によりこれら4島が日本領土と確定して
>いるので、ポツダム宣言にいう「小諸島」と判断しているからです。


で、確か日本は千島・南樺太を放棄はしたがそれがどこの帰属になるかは規定されて
いないので、今でも教科書の世界地図では千島・南樺太は白塗り(ロシアの色にも日
本の色にも塗られていない)と思いましたが...

北方領土は日本の領土としても、なお千島・南樺太の帰属は未確定という考え方もで
きるはずですよね。

交換条約の趣旨を考えれば、少なくともどちらか一方は日本の領土とするのが正しい
はずですが、敗戦で放棄させられたとすればやむを得ないかもしれません。でも放棄
した領土がロシアのものであるかは別問題のはず。

--------
大貫 剛
ohn...@netlaputa.ne.jp
http://www.netlaputa.ne.jp/~ohnuki/


Shiro

unread,
Mar 17, 1999, 3:00:00 AM3/17/99
to
Masayuki YOSHIDAさんの<01be6df8$d9c5f9e0$LocalHost@default>から
>それは正確な情報を知らされ、権限をもって行為を行った場合でしょう。
>大本営発表の偽情報でほぼ洗脳され、治安維持法や隣組制で監視され、
>ちょっと批判をしただけでひっぱっていかれる国民に責任を押し付けて
>どうするんですか?

 何の情報を知らせられていないのですか。
 何の権限を持っていないのですか。


>僕の家内の家族は、腰抜け日本軍が逃げたあと、満州におきざりにさ
>れました。娘や母親はロシア兵におかされるのを恐れて、丸坊主になり
>顔に泥をぬりたくり、命辛々、引き揚げてきたといいます。その家族まで
>含めて責任をとれって、いうのでしょうか。
>
>責任をとるのは、あきらかに天皇をはじめ、日本国をほろぼした連中で
>しょう。彼らが責任をとらないものだから、僕の岳父は、勲章も年金も受
>け取るのを拒否しました。こういう廉直の士もいたことをお忘れなく。

 ソ連の不誠実の証拠です。また、戦前から無責任だった証拠です。
 ご家族の方はどういう立場で満州にいたのでしょうか。満蒙開拓団として入
植していた、満州国官吏として赴任していた等。 


>これは論理的におかしい。全国民の責任なら、全国民であるから、天皇
>以下全国民が責任をとるべきだ、ということになります。阿南は自裁し
>ました。祖父の話では、僕の生まれた町でも何人かのおとなが割腹して
>責任を果たしたと聞きます。割腹は悲惨だが、筋は通っています。天皇
>は?皇族は?職業軍人は?戦争屋の企業家は?裁判官は?弁護士は?
>政治家は?どう責任をとったのでしょうか。

 理解出来ません。
 「特定の個人に責任を取らせるのは不適切です。」と言う意見の反論として
責任を取っていない人がいると言う主張をされている理由が理解出来ません。
 また、「全国民の責任なら、全国民であるから、天皇以下全国民が責任をと
るべきだ」と言うなら「大本営発表の偽情報でほぼ洗脳された国民」も責任を
取る事になります。
 割腹された方はどういう責任を果たされたのでしょうか。私が知っているの
は「部下を死なせたのに自分一人生き残る事は出来ない。」と言う将校の方の
物だけです、しかし、一人一人異なると思うのでご存じなら教えて下さい。


>こういうエピソードはいかがかしら。
>
>1946年5月、国民は激しく飢えていた。帝都で、天皇への大規模な抗議
>集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった。そして(天皇ではなく)皇族の
>方々の台所のひとつを覗く機会を得た。
>
>冷蔵庫には、配給では絶対姿をあらわさないブリ、ヒラメ?
>り、牛肉もあった。魚市場では、常に宮内省用にいいところは全部、とりのけ
>られていた。皇族用の献立が見つかった。つぎのごとし:
>
>_お通しもの_ 平貝 キウリ ノリ、 酢のもの _おでん_ 種物、マグロ、ハンペン、
>ツミイレ、大根、わさび _さしみ_ マグロ _からあげ_ ヒラメ _御煮つけ_ 竹の子、
>ふき _みそおでん_ ねぎ、さといも 他二品
>
>さらに豊富な主食がこれに加わる。皇族で、この「美味んぼ」のレベルである。
>天皇は一体何を食べておられたのか。責任を感じて、飢えた国民のことを
>本気で考えておられたのだろうか、という疑念は、当然起こりうる。

 この当時の貧乏、普通、金持ちの献立も分ると比較出来るので、何かご存じ
なら教えて下さい。
 
 疑問なのですが、何故、当時の最高権力者のマッカーサーに抗議せず、権力
の無い天皇に抗議したのでしょうか。思い付く理由は以下ですが、理由をご存
じなら教えて下さい。
 ・マッカーサーに直接だと弾圧される為
 ・権力を失った天皇に対する嫌がらせ
 ・権力を失った後も天皇に対する期待があった


>江戸期、名藩主として名を残した人たちは、飢饉のときは領民と同じ献立で、
>飢えをしのいだという。領民が一汁一菜なら、汁をはぶいた藩主さえいた。

 この話の出所を教えて下さい。
 江戸時代の藩主は権力をかなり持っていたと思うのですが、無権力と思われ
る皇族の話の続きに、この話が出て来た理由が分りません。

--
Shiro mailto:h9s...@tky2.3web.ne.jp

sobaka11

unread,
Mar 17, 1999, 3:00:00 AM3/17/99
to
千島は放棄したのでは?
アメリカとの条約で。

沖縄は「施政権返還」で領土自体は放棄してません。
日本政府は絶対 千島とは言いませんものね。
アメリカも当然沖縄はアメリカ領にする根拠がどこにも
なかったわけです。

本来、カイロ宣言の精神から言えば千島は日本の固有の
領土だと思うのですが。
残念な事です。

意味あいまいな北方領土なんて言葉を使ってる以上
十数個の国と国境を接し、かつ旧ソ連時代の連邦構成
国家がうじゃうじゃしてる国境のプロ、ロシアから領土を
取り戻そうというのはなかなか難しいし、そのうち国境の
概念も変わるかもしれません。

ボルシチでも飲みながら考えましょう。
--
////////////////////////////////////
sobaka11
////////////////////////////////////
>
>ポツダム宣言を飲んだからですね。
>
>でも、沖縄は全部かえって来ましたよね。ですから要求だけでもすればいいのに・

>
>なんて思いますけど。
>
>


sobaka11

unread,
Mar 17, 1999, 3:00:00 AM3/17/99
to
人道に対するじゃなかったかな

--
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sobaka11
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Takaaki Kubo wrote in message <7cllf2$puq$1...@news1.dti.ne.jp>...


>>仮にA級戦犯にこれらの政治責任も含めて被せたとしても、これらの人々を裁
>>いたのは戦勝国の軍事裁判ではありませんか。日本人自らが裁いた訳ではあ
>>りませんね。政府も国民も押し並べて無節操、無責任な事に変わりは無いの
>>です。
>
>

>「平和に対する罪」なんて事後法の典型で、憲法39条違反だもんね。
>
>


sobaka11

unread,
Mar 17, 1999, 3:00:00 AM3/17/99
to
>> これは、ポツダム宣言で保障された日本の領土の中に、北方領土が明示的
>> に入っていなかったからでしょうね。
>
>> ・ポツダム宣言 第8項
>>
>> 「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく、?
>> 海道、九州、四国及び吾等の決定する諸小島に局限せらるべ?
>
>だとすると政府自民党の主張する北方領土返還要求には妥当性は有るのです
>か。若し妥当性が無いのなら、ロシアに悪戯に金銭をふんだくられるだけの
>北方領土返還要求などさっさと引っ込めた方が賢明だと思いますが。

サンフランシスコ平和条約で日本は千島を放棄したのですが。
>> 「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく、?

アメリカがポツダムでスターリンとひそひそ話をしたのかな?
「ソ連も攻めてくれよ」
「一応条約あるからねえ直接的にはなかなか」
「その代わり、北海道から北あげるから」
「(^o^)・・・・そうなら話は別だ・・・」
「・・・北海道はやめておくけど千島くらいいいだろう・・・」

--
////////////////////////////////////
sobaka11
////////////////////////////////////


>
>> >痰オ日本を制圧する軍隊が、アメリカではなくソ連だったら、多くの?

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
清水です。

記事 <7cmaai$qer$1...@newsgw7.odn.ne.jp> で,
sobaka11 <syn...@pop2.odn.ne.jp> さんは書きました;

>アメリカがポツダムでスターリンとひそひそ話をしたのかな?
>「ソ連も攻めてくれよ」
>「一応条約あるからねえ直接的にはなかなか」
>「その代わり、北海道から北あげるから」
>「(^o^)・・・・そうなら話は別だ・・・」
>「・・・北海道はやめておくけど千島くらいいいだろう・・・」

英米で公開された外交史料から以下のことが判明しています。憶測するまで
もないです。

ヤルタ会談で、ルーズベルトとチャーチルがスターリンに対して、「対日参
戦協定」として以下の言質を与えています。

1. 外蒙古(モンゴル人民共和国 - ソ聯の傀儡国家)の現状維持
2. 日露戦争以前のロシアの権利復活
・樺太南部とその隣接諸島のソ聯帰属
・大連港の国際管理と旅順港のソ聯海軍基地としての租借権
・東支鉄道と南満州鉄道の、ソ聯の利権(優先権)を保護した形での
ソ支合弁会社の設立と共同運営
3. 千島列島のソ聯帰属

これらのソ聯の要求を、「日本撃破後に確実に満たす」ことに同意した、と。

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
清水です。

記事 <01be6fa6$86d65400$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> で,
domus <arti...@pc.highway.ne.jp> さんは書きました;

>無条件降伏したのは帝国政府では無く、帝国陸海軍だと言う事ですか。しか
>し帝国陸海軍の統帥者も、帝国の統治者も同じ昭和天皇ですからね。実際問
>題そう簡単に分離して考えられるのでしょうか。

英米は軍の「文民統制」を実現しえた民主国家ですから、彼らの政治思想の
中には「政府と軍の分離」あるいは「軍は政府の下風に立つもの」という前
提がアプリオリにあって、日本に対する降伏要求にもそれが反映されている
ということです。軍とは別個に政府が存在する、と。

>軍と政府が表裏一体の関係に有ると言うのが軍国主義国家の軍国主義国家
>足る所以でしょう。

「軍国主義」に対してそういう定義をされること自体には異論はなく、かつ、
それが戦時下日本の総動員体制の実態であったと論証されることにも強固に
反論する意図はありませんが、大日本帝国憲法の下の「天皇制」の実装がそ
の定義通りであったとは私は認識していません。

つまり、軍は本来、天皇制統治形態においても最高機関ではなく、あくまで
統治機関としての天皇の下風に立つものであったハズです。これを米国国務
省の知日派も理解しており、ポツダム宣言に反映(カイロ宣言よりも文面は
若干、緩和されている)にされていたという認識です。ようするに、

・ポツダム宣言 第4項

無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的
助言者に依り日本国が引続き統御せらるべきか、又は理性の経路を日本国
が履むべきかを日本国が決意すべき時期は到来せり。

であるとか

・ポツダム宣言 第10項

吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめん
とするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せるものを含む
一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は

日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化

に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教及び思想の自由並びに基本
的人権の尊重は確立せらるべし。

は、そういう対日理解があったから出てくる文面でしょう。降伏交渉はほと
んど日米交渉であり、終始降伏条件に関する主導権は米側にあったわけなの
で、日本サイドでどういう政治思想が主流であったかを考えるよりも、米側
の要求事項を(態度の変遷も含めて)正確に把握するほうが有益だ、と私は
思っています。

で、和平派要人、特に東郷外相や海軍の条約派(大角人事で退官した、降伏
時の山梨学習院院長や左近司国務相)や米内海相はそのあたりをほぼ正確に
理解していたのだと感じます。昭和天皇も最終的にはそちらの判断を是とし
たようです。

>大半の国民は日本がアメリカに負けたと単純に感じていたのではありませんか。

だから何でしょう?

私は「日本がアメリカに負けたのではない」などとは、生まれてこのかた主
張したことはないです。「日本は連合国に負けた、が、日本政府の降伏は無
条件降伏ではない」と主張しています。

あるいは、一般的に「負け = 無条件降伏」だという命題は、既に論証され
ているものなのでしょうか?


>その通りですね。当時帝国臣民は尽く天皇教に洗脳をされていた訳ですから
>、軍国主義政府転覆は愚か批判すらしなかったのでしょう。(極一部の理性
>的人間を除いて。)

いやー、これはどちらかというと、竹山道雄「昭和の精神史」にある

「理性はやましい沈黙を守っていた」

だと私は思っているのですけどね。俗に云う「我が身可愛さ」だと。


>結果的には確かにそうなったのですが、しかし戦争当時、帝国政府は帝国臣
>民に対し、連合国を鬼畜米英と称して徹底抗戦を要求していたのではありま
>せんか。そんな獰猛野蛮な連中に対し、無条件降伏などしてしまったら何を
>されるか解らないと考えるのが通常でしょう。

上記の文章では、主語がすりかわっているのにご自分ではお気づきになられ
ませんか? 帝国政府は戦争完遂のため、臣民に対して徹底抗戦を要求してい
ましたが、帝国政府の要人が悉く「無条件降伏などしてしまったら何をされ
るか解らないと考え」ていたわけではないです。そう考えたかもしれないの
は臣民の方で、政府要人がそこまでファナティックな連中ばかりではなかっ
たことは、降伏経緯を論述した研究書で明らかですよね。

そして、ポツダム宣言とバーンズ回答に見られる降伏条件を見た上で、昭和
天皇自らが

 国体問題に就て色々疑義があると云ふことであるが、私は此回答文の
文意を通じて先方は相当好意を持つて居るものと解釈する。先方の態度
に一抹の不安があると云ふのも一応は尤もだが私はさう疑ひたくない。
要は我国民全体の信念と覚悟の問題であると思ふから、此際先方の申入
を受諾してよろしいと考へる。どうか皆もさう考へて貰ひたい。

と判断されています。


>若し連合国は紳士的国家の集まりだから、約束した事は必ず守ってくれるに
>違いない、無条件降伏しても臣民の生命、財産は保証されるから何も心配は
>無いと、時の帝国政府が考えていたとしたら、

そういう考えではなかったと思いますよ。

国際法上の慣行と、ポツダム宣言とバーンズ回答の内容を鑑みて、上記の
御諚になったのでしょうし、これは和平派要人の認識でもあります。domus
さんのこの前提は

> 政府は臣民に対して全く嘘をついていた事になりますね。

を導出するための誇張を含んだ罠では?

まぁ、戦争中には理性が欠如した政策・声明が多発するのは防げませんから、
この文脈でこれを出しても、あまり説得力がないように思います。

>帝国政府はこの虚言に対し臣民に謝罪しましたか。戦後日本国民は帝国政府
>のついた嘘に対して何か責任追及をしましたか。

あなたがしてるのは責任追及ではないのですか? あ、domus さんが日本国民
ではないなら、私の勘違いですけど。で、責任追及は主権者たる国民の権利
ではありますが、義務かと言うと、そうでもなさそうな気がします。

>> そして「なぜ、あの時に立たなかったの だ?」という政治責任論も出るか
>> もしれません。
>
>それは杞憂でしょう。

はい、私にとっては domus 論も、これも、その「どちらも」杞憂に見える、
ということなんですけど。

>日本が歴史始って以来の屈辱的敗北を喫した時でさえ国民の間からは天皇を
>筆頭とする軍国主義政権が国家をミスリードした事に対する責任追及の動き
>が一切起こらなかったのですから。

domus 的史観においては、1945年12月8日の「戦争犯罪人追求人民大会」や
1946年4月7日の「幣原反動内閣打倒人民大会」はどういう評価になるんで
しょうか?

また、私の紹介した杞憂も、domus 氏の杞憂も、どちらも、現実よりも日本
社会が劣悪な状況に陥ることを懸念したものですので、現実に責任追及が一
切起こらなかったことをもって「杞憂だ」と言われるのであれば、同じ理屈
でもって domus 説を否定し得るすることになります。自家撞着ですね。

>しかし仮にマッカーサー司令部が日本の降伏条件遵守の姿勢を取っていたと
>しても、これが末端の兵士にまで徹底するかどうかという疑問もある訳です
>ね。アメリカ兵からすれば、昨日までは憎っきJAPと思って命懸けで戦って来
>た敵国へ乗り込んできたのですから。私は「無条件降伏後の日本の被害が比
>較的軽微で済んだ」とつい思い込みで書いてしまいましたが、実際問題本当
>に被害が無かったのでしょうか。当時は当然GHQによる報道管制も敷かれてい
>た事でしょうから、アメリカ兵の起こした暴行事件など逐次報道されなかっ
>たのではないかとも思うのですが。

あの、ご自分の主張を矮小化されてませんか? 私の主張はは記事
<01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> の

>時と場合によったら、日本全土が略奪、強姦、暴行、殺戮の修羅場と化し、
>最悪の場合には日本人がこの列島を追われて(恰もユダヤ民族の如く)流浪
>の旅に出なければならない事態とて全く絵空事では無いのです。

という domus 氏の所論に対する反論であって、占領政策の根幹を対象とした
論述ですから、実施の細部で虎の威を借りる米兵がいたとしても、それは思
考の次元が異なるものです。とりあえず考慮の対象外とします。


>> ・ポツダム宣言 第8項
>>
>> 「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく、?
>> 海道、九州、四国及び吾等の決定する諸小島に局限せらるべ?
>
>だとすると政府自民党の主張する北方領土返還要求には妥当性は有るのです
>か。

これに関しては、"Yoshihide SHIMAZU" <shi...@adtech.co.jp> さんの記事
<7ce11b$hi$1...@nn-os001.ocn.ad.jp> に書かれている通りでしょう。

>  日本政府が返還要求を択捉島以南の4島に限定しているのは、明治政府
> 発足以前に日露和親条約(1854)によりこれら4島が日本領土と確定して
> いるので、ポツダム宣言にいう「小諸島」と判断しているからです。

これを支持するかしないかは各人の勝手ですが、個人的には漁業権の共同管
理さえ実現すりゃええやん、と思っています。あ、話が逸れた.


>受諾は時宜を得たタイミングであったと言う事ですか。しかしポツダム宣言
>が発せられたのは7月26日です。帝国政府がこれを受諾したのは8月14日深夜
>です。

結局は陸軍中堅層を代表とする徹底抗戦派に降伏を受入れさせる、という国
内対策に時間がかかったと見るべきでしょう。和平派要人の数人はポツダム
宣言が出されたタイミングで「これは受諾すべき」と考えていますが、一方
で「陸軍が納まらんだろう」「和平を強行するとクーデターが起こるかもし
れぬ」という不安感もありました。しかし、米内海相の言が参考になります
が、秋以降の食糧の供給見込みが立たず、国内の士気と生産活動の低下は戦
争継続を不可能にするという認識もありました。

私は言葉は不適当と思ふが原子爆弾やソ聯の参戦は或る意味では天佑だ、
国内情勢で戦を止めると云ふことを出さなくて済む。私がかねてから時局
収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいでもないし、原子爆弾やソ聯参
戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従つて今日その
国内情勢を表面に出さなくて収拾が出来ると云ふのは寧ろ幸いである。
(8月12日の高木惣吉との面談で)

これらの認識を徹底抗戦派が「神懸かり」的発想でもって頑固として受容し
なかった、というのがポツダム宣言受諾までに時間が掛かった原因だと思い
ます。で、彼らを説得するには「国体護持の一札」が必要だった、と。

>この間、広島、長崎で原爆による多数の一般市民の犠牲者を出し、受
>諾決定当日の8月14日でさえ全国各都市への米軍による空爆の犠牲者が1500人
>余りも出たのですよ。とても絶妙なタイミングで受諾したなどとは思えま
>せんね。兎に角帝国政府の念頭にあったのは如何にして国体を護持するか、
>如何にして昭和天皇の命を守るかであって、消耗品である臣民の命など二の
>次三の次であった事は明白なのですから。

この主張に関して私は特に異論はないです。しかし、「国体の護持」に関し
て、概略、「東海地方に米軍が上陸すると、伊勢・熱田両神宮にある神器の
保全は難しい、神器の保全ができぬなら国体は護持できない、そのためにも
本土決戦は絶対にしてはならぬと思った」との昭和天皇の独白があります。
よって、

>結果としてはそうなりました。しかしこれも飽くまで結果論の様な気がしま
>す。

ではなくて、国体護持という目的意思によって、このタイミングで和平に動
いたという要素がある、とも認識しています。


>当時ソ連が北海道を占拠する危険性は全く無かったのですか。

北海道占拠に必要な部隊を輸送するための舟艇はまだ揃ってなかったハズで
す。ヤルタ会談当時のスターリンの話では、ソ聯の対日参戦は9月以降を予
定していたのに、原爆投下によりソ聯参戦前に日本が降伏する可能性が出て
きた(そしれソ聯が参戦しなければ、参戦を前提に約束されていた各種権益
を入手できない)ために予定を繰り上げています。

地続きの満州や小部隊しか駐屯していなかった千島列島・樺太ならまだしも、
北海道の占拠には数週間以上の時間が掛かるでしょうから、ポツダム宣言受
諾から休戦命令発効、降伏文書調印までのスケジュールを2週間程度と見積も
れば、まぁソ聯は北海道には届かないですね。問題はソ聯軍が停戦・休戦命
令を無視するかどうか... ですが、原爆の破壊力を見たらねぇ。

>所謂戦争犯罪人の犯した罪と、国策を誤って国家存亡の危機に瀕する事態を
>招来した政治責任とは全く性質が違うのではありませんか。

連合国側から見た「A級戦争犯罪人」とは、日本側から見た「国策を誤って
国家存亡の危機に瀕する事態を招来した政治責任」を負う人、とほぼ一致す
ると思いますが。

>仮にA級戦犯にこれらの政治責任も含めて被せたとしても、これらの人々を裁
>いたのは戦勝国の軍事裁判ではありませんか。日本人自らが裁いた訳ではあ
>りませんね。

これに関しては、かつて私はこう書きました。

> ちなみに、極東軍事裁判で不起訴になったから無罪、「みそぎは済んだ」、
> という態度には私は同意しません。わが国の法体系による審理が済んでいな
> いからです。ただし、極東軍事裁判で起訴された人については、二重に審理
> を行う必要はない、と考えていますが...

でもって、

>政府も国民も押し並べて無節操、無責任な事に変わりは無いのです。

にはある程度共感というか同じ感想を持っていますが、一方において、それ
が「一方的に非難されるべき、Negative な、邪悪なこと」だとまでは思っ
ていないのです。

そして、domus さんの論述の節々に牽強付会な点を見つけており、それを
指摘して問題提起させてもらってます。

ではでは。

sobaka11

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
具体的資料をありがとうございます。

>英米で公開された外交史料から以下のことが判明しています。憶測するまで
>もないです。
>
>ヤルタ会談で、ルーズベルトとチャーチルがスターリンに対して、「対日参
>戦協定」として以下の言質を与えています。
>
> 1. 外蒙古(モンゴル人民共和国 - ソ聯の傀儡国家)の現状維持
> 2. 日露戦争以前のロシアの権利復活
> ・樺太南部とその隣接諸島のソ聯帰属
> ・大連港の国際管理と旅順港のソ聯海軍基地としての租借権
> ・東支鉄道と南満州鉄道の、ソ聯の利権(優先権)を保護した形での
> ソ支合弁会社の設立と共同運営
> 3. 千島列島のソ聯帰属
>
>これらのソ聯の要求を、「日本撃破後に確実に満たす」ことに同意した、と。

3ところが該当するわけですね。
よく見ると、 2の一番目もかかわってますね。

第2次世界大戦の戦後処理の原則から言えばちょっと外れたところが
あるみたい。
するとアメリカはこの約束を冷戦のまさに始まった時にも忠実に守ったわけだ。
となると、日本の領土返還の主張も国際社会では厳しい状況ですね。

--
////////////////////////////////////
sobaka11
////////////////////////////////////

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
清水です。

記事 <01be7018$b35264c0$LocalHost@default> で,
Masayuki YOSHIDA <mazyo...@aol.com> さんは書きました;

>>>江戸期、名藩主として名を残した人たちは、飢饉のときは領民と同じ献立で、
>>>飢えをしのいだという。領民が一汁一菜なら、汁をはぶいた藩主さえいた。

>  # すみません。ちょっと説明するが面倒くさいので、
>  # 清水さんに、お願いしようかな。あれだけ城の知識
>  # があるのだから、きっとこの程度の逸話は・・・。

知ってますけど、自分の尻くらい自分で拭いてください。

# こういう場合、召喚が逆効果になるというのが歴史の鉄則 :-)


所詮、大名が領民の真似をしたとは言っても、せいぜいお救い小屋を建てる
だけの余力がある藩主で、しかも名主・庄屋クラスの餓死の危険性のないレ
ベルの真似で、米の比率は低いとはいえ穀物を口にしてますしね。

木の根を食って、自分の子供の死体は食うに忍びないので他人の子供の死体
と交換して食ってまで生き延びた、最下層の領民の真似までした大名の話な
んてのは、さすがに目にしたことはないです。

ある程度の版図を持つ藩主だったり、親藩の場合は幕府や商人から借金して
領外から食糧を移入して領民を救うことも可能でしたが、僻地の外様の小藩
が林立するような地域ではそれもできぬ、という側面もあります。また、上
記のような「名藩主」の買い占めのおかげで隣接地域の状況を悪化させたと
いう要素もあります。近隣小藩の犠牲の上に「名藩主」の名前を得た阿呆も
いる、ということです。

# 松平定信を念頭に置いて書いています。あたしゃ田沼贔屓なので :-)

そして、昭和天皇も江戸時代のこれらの名君程度の事は心がけておられた、
という話も、探せば出てくるでしょう。また、庶民で食うに困らぬ層も相当
数いたハズです。私の母親の実家も製粉業を兼業していた自作農で、農地解
放令にも抵触せず、食うには困らぬ生活をしていたそうです。特権階級とは
無縁の平民ですけどね。あるいは、都市生活者の「たけのこ生活」における、
家財道具の切り売りの相手になった都市近郊農民なんぞもそうです。

結局、名藩主の行為もそのレベルに合わせただけのものでして、こんなポー
ズと比較したところで意味はないでしょう。東條英機がゴミ箱漁って庶民の
生活を実感したり物見櫓に登ったり... というのが「所詮は憲兵的発想の政
治」と揶揄されたのと同様、よしださんも為政者のなすべきことの本質を見
間違えているのではないかしらん。


>僕は天皇はこの台所事件のころは、権力そのもの、皇族も権力そのもの、
>と理解していますけど。

え、ふつう台所事件のころの権力者といえば、マッカーサーの威を借りる
GHQの民生局に巣食っていた、米本国から流れてきたニューディーラー
ではないでしょうか。皇族にしても梨本宮などは巣鴨プリズンで他の戦犯
と同様の臭いメシ食ってますし。徳田球一も、GHQのバックアップがあ
る間は吠えまくってましたが、逆コースになったとたんに国外脱出するわ
けで...

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
清水です。

記事 <7cn6jc$6et$1...@nn-os001.ocn.ad.jp> で,
Yoshihide SHIMAZU <shi...@adtech.co.jp> さんは書きました;

> ソ連としては、日本本土主要部の分割占領は達成し得なかったわけですが、
>北海道に付属する択捉島以南の島嶼(いわゆる北方4島)と千島列島の占領
>は果たした、私は解釈しています。

はい、別記事 <7cpt14$r8s$2...@news00.iij4u.or.jp> にも書きましたが、スタ
ーリンには千島列島と南樺太は対日参戦の代償として入手する意図があった
わけでして、北方4島をソ聯は千島列島に含まれると言い、日本は北海道に
付属する島嶼だと言う、という解釈の相違を別にすれば、まぁ、ヤルタ会談
での合意通りにはなっていますね。

別の視点からこのへんを考えてみたのですが、ノモンハン戦でも張鼓峰事件
でも、日ソ間の紛争解決における境界線の確定は、「休戦協定発効時点での
軍事的な占領地域」を基準としていたので、連合国軍全体と全日本陸海軍と
の間の休戦協定が発効するまでに、ソ聯側は占領地域を拡大しようとしてい
たのではないか、と思い至りました。まさに唯物論的リアリズムというか、
千島列島の領有を確実にしておくために、口頭の合意だけでは信用ならん、
軍事的に占領しておく必要を感じていた、と。


> また、ソ連が北海道本島の一部占領を主張したとしても、米国の強硬な反
>対を受け実現は不可能であったと思われますが。

北海道については、ソ聯に侵攻計画があったのか、あったとしたら発動時期
はいつか、について確証が出てくるのを待った方がいいように思います。個
人的にはむしろ、満州から朝鮮半島と華北に行く方がソ聯軍の行動計画の優
先度が高かったのではあるまいか? と考えているのですが... スターリン時
代の記録は、はたして公開されるのかしら???


>#だんだん歴史のifに入っていきそうで、この辺で止めておこう。

ああ、そうですね。

Takaaki Kubo

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
>> > >サンフランシスコ平和条約で日本は千島を放棄したのですが。
>>
>> 日本は何処へ対して放棄したもんなのかな?
>>
>> サンフランシスコ講和会議にはソビエトは署名を拒否してたもんね。
>>
>
>ソビエトは冷戦がはじまってしまったのでアメ公がよばなかったんでしょう
>それで北方領土はかえってこなくなっちまった
>鬼畜米英は最後まで鬼畜だっちゅうの

平凡社のCD-ROM版世界大百科事典のサンフランシスコ講和条約には

、、、
[講和条約の調印] 講和会議は9月4日から8日まで開かれたがこれは
〈案文を基礎とする日本国との平和条約の締結および署名のための会議〉
で,審議のための会議ではなく,参加各国は態度表明の機会を与えられた
のみである。52ヵ国が参加し,うちソ連,ポーランド,チェコは署名を拒否した。
中国,朝鮮は招待されず,インド,ビルマは参加を拒否した。、、、

とあります。

アメ公がよばなかったんじゃなくて、ソ連は自発的に署名を拒否したもん
なんだ。

Kohei Mugitani

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
"TK" <moe...@po.teleway.ne.jp> writes:

>なんで政府は北方4島しか返還要求しないんでしょうね。
>
>全千島と南樺太を要求してから、妥協していくほうが世界の普通のやり方だよね。
>
>
>特に相手がロシアなんだから。

たしか、日本共産党は、これに近い主張じゃなかったっけ。
--
=====================================
麦谷 浩平@大和の国の住人
suzaku is (AMD K6/200)+(ASUSTeK P/I-P55TP4XE)+(FreeBSD2.2.7R)


Kohei Mugitani

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
"Yoshihide SHIMAZU" <shi...@adtech.co.jp> writes:

> また、ソ連が北海道本島の一部占領を主張したとしても、米国の強硬な反
>対を受け実現は不可能であったと思われますが。

実際に、ソ連は、留萌ー釧路を結ぶ線の占領を要求した事実があり
トルーマンに、拒否されて沙汰止みになった経緯があります。

Kiyofumi

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
mugi...@itl.tnr.sharp.co.jp (Kohei Mugitani) wrote:
>>"Yoshihide SHIMAZU" <shi...@adtech.co.jp> writes:
>> また、ソ連が北海道本島の一部占領を主張したとしても、米国の強硬な反
>>対を受け実現は不可能であったと思われますが。
>
> 実際に、ソ連は、留萌ー釧路を結ぶ線の占領を要求した事実があり
>トルーマンに、拒否されて沙汰止みになった経緯があります。

だから、1945年7月に2日間北海道を攻撃をしたのでしょ

俺の物って「ツバ」付けで

--

○o。., Kiyofumi
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

domus

unread,
Mar 18, 1999, 3:00:00 AM3/18/99
to
Shiro <h9s...@tky2.3web.ne.jp> wrote in article
<7cdq03$fk1$1...@news2.tky.3web.ne.jp>...
> domusさんの<01be6ae8$30cab320$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp>から
> >無条件降伏と言う事態を余りに甘く考え過ぎていませんか。敗戦後日本
> >の被害が比較的軽微で済んだのは結果論に過ぎません。時と場合によっ

> >たら、日本全土が略奪、強姦、暴行、殺戮の修羅場と化し、最悪の場合
> >には日本人がこの列島を追われて(恰もユダヤ民族の如く)流浪の旅に
> >出なければならない事態とて全く絵空事では無いのです。現に小規模と
> >は言うものの、北方領土の島民は島を追われたではありませんか。若し
> >日本を制圧する軍隊が、アメリカではなくソ連だったら、多くの日本人
> >がこの日本列島を追われた可能性だって有り得たのです。朝鮮やドイツ
> >の様に国家が分断される事態だって十分有り得たのです。
>
>  最悪の場合を予想し、徹底抗戦を主張した人達もいます。

同じ最悪と言っても最悪の意味が私とこの種の徹底抗戦を主張した人々とは
全く違うと思いますよ。私が想定する最悪とは前述の通りですが、徹底抗戦
を主張した人々の大半は、昭和天皇が処刑される事態を想定して最悪と言っ
ているのでしょう。

> >天皇制の歴史の大半は確かにおっしゃる通りでしょう。しかし時代に
> >よっては天皇がかなりの実権を握っていた時代も無かった訳ではありま
> >せん。帝国憲法下の昭和天皇の時代は正にそうした希少な時代の一つで
> >す。戦前から昭和天皇は今と変わらない象徴の如き存在だと誤解されて
> >いるとしたらそれは大きな間違いです。帝国憲法下では昭和天皇は、帝
> >国日本の統治者であり、陸海軍の統帥者だったのですから。当時の日本
> >においてはこれ以上の権力者、これ以上の権威者は存在しなかったので
> >す。
>
>  タテマエはそうかもしれませんが、ホンネは違うと思います。
>  帝国憲法の条文で天皇が統治者と統帥者と定義されていても、実際に天
> 皇が統治権と統帥権を行使する事を認められていなければタテマエとして
>「当時の日本においてはこれ以上の権力者、これ以上の権威者は存在しな
> かった」とは言えても以下の例もあるのでホンネでそうだとは言えないと
> 思います。
>  統治権の例: ポツダム宣言受諾が決まった時、クーデターを起こし新
> しい天皇の元で戦争を継続しようと計画した人達がいた。

クーデターと言うのは時の権力に対する暴力的権力奪取の企みですから、ク
ーデターを起こそうとする動きが有ったと言う事はむしろ、打倒すべき既成
の権力が存在する証ではないですか。その既成の権力の総本山が昭和天皇だ
った訳ですし。別の天皇を擁立しようとしたのは、クーデターを企てが側
が単に権威付けを狙ったに過ぎないのでは。

>  統帥権の例: 大陸で紛争が起きた時、軍中央(天皇の統帥権の代行
> 者)の不拡大命令を現地の軍が無視した。

不拡大命令を無視した事に対する処罰は課されましたか。(記憶が曖昧なの
でお尋ねします。)若し何の処罰も課されなかったとしたら、統帥権を有す
る者が統帥権を適正に行使しなかった不作為の罪がむしろ統帥権者の側に有
るように思いますが。平たく言えば職務怠慢。

或いは全く逆のケースも考えられます。不拡大命令を出したと言う事自体が
事実に反し、戦線拡大が昭和天皇を筆頭とする軍中央の考えだったと言う可
能性もあります。この場合には昭和天皇が職務怠慢であったと言う事には成
りません。

> >国の最高権力者であり最高権威者であった天皇が国の進路を誤って国家
> >存亡の危機に導いた以上、それ相応の責任を取るのはある意味で当然で
> >す。敗戦後天皇が然るべき責任を取らず、天皇の統治者、統帥者として
> >の責任追及を誰もしようとしなかった事により戦後社会の無責任体制は
> >始ったと言っても過言ではありません。
>
> [天皇の責任]
>  天皇はずっと名目上の最高権力者だった思います。帝国憲法の条文がど
> うであれ、実質的な最高権力者ではなかったと思います。

個人的にそう考えるのはあなたの自由ですが、その考えを第三者に説得しよ
うとするならば、それ相当の説得力有る資料なりを示して頂かないと、私と
してははっきり明文化された憲法の条文を優先せざるを得ません。

>  例えば戦争の計画について、天皇が計画作成を命令したり、提出された
> 計画について修正を命令したり却下したりしていたなら実質的な最高権力
> 者と言えます、しかし、寡聞にしてその様な例は知りません。

そんな事は無いでしょう。公式の文書(と言うよりこの手の文書は敗戦と同
時に廃棄されて証拠隠滅されたか、未だに隠匿されている)として記録され
ているかどうかは不明ですが、例えば1945年初頭、戦況が益々悪化してきた
為、早期戦争終結を側近が度々進言していたにも拘わらず、昭和天皇は戦況
が好転するまで戦争終結をすべきでは無いとこれを頑なに拒み、挙げ句の果
てにポツダム宣言受諾に追い込まれたと言う話は私のように歴史に造詣の深
くない人間でも耳にする話ですが、Shiroさんはご存知ないですか。

所で歴史に無知な人間の単純な質問(疑問)なのですが、所謂御前会議の議
事録は存在するのでしょうか。存在する場合、この文書は公開されています
か。

>  知っているのは、軍の責任者が提出した計画書を少し質問した後で許可
> と言う例なので名目上の最高権力者だったと思っています。

私は昭和天皇は統帥権を適正に行使なさったと認識しておりますが、若しShir
oさんのおっしゃる事が事実だとすると、昭和天皇は職務怠慢と言う事に成り
ますね。憲法に定められた職責をまともに果たさなかった事になりますから

>  名目上の最高権力者が責任を取るのは変だと思います。 

私の視点からすれば、当時実質的権力を掌握なさっていた昭和天皇に対し、
名目上の最高権力者などと過小評価する事は誠に失礼な事と思います。時の
最高権力者に然るべき責任をお取りいただく事は至極当然の事と考えます。

> [無責任体制]
>  戦前から無責任だったと思います。戦後になって無責任になった事例を
> 教えて下さい。

「戦前から無責任だった」と言う事ですが、これの主語は何ですか。

このスレッドの最初の記事で私は戦後無責任体制は昭和天皇によって始った
と書きましたが、帝国憲法を読み返して、この国の無責任体制は、敗戦後昭
和天皇の身の処し方によって始った訳では無く、帝国憲法制定と同時に始っ
たという認識に考えを改めました。Shiroさんが其の意味で「戦前から無責任
だった」と言われるならこの点に関しては同意します。

> >敵国の軍事法廷(東京裁判)で裁かれたのは戦争犯罪です。私がここで
> >問題にしているのは、とかく左右両陣営の間で意見の別れる戦争犯罪に
> >纏わる倫理や人道の問題ではありません。戦争を起こし、その戦争に負
> >けた結果、国家が主権を喪失したのです。この由々しき事態を招来した
> >結果責任を一体この国では誰が取ったのでしょう。この由々しき事態を
> >招来した結果責任を一体この国では誰に取らせたのでしょう。
>
>  第二次大戦は総力戦の戦争でした。このため、敗戦の責任は総力戦の参
> 加者すなわち全国民の責任だと思います。

総力戦だから全員に責任が有ると言う御意見、必ずしも完全には否定しませ
ん。しかし、総力戦に国民を駆り立てた人間(勢力)の責任と、有無も言わ
さず総力戦に駆り立てられた一般国民の責任の重さが全く等しいかと言えば
、それは前者の責任が後者とは比較に成らない程重い事は明白です。Shiroさ
んは総力戦なのだから責任は天皇を含めて皆同じだと主張なさるのですか。
少なくとも一般国民には宣戦布告する権限も、戦争終結を宣言する権限も有
りません。権限の無い人間と権限の有る人間の責任が全く同一だと言う主張
だとしたら、これは暴論です。

>  全国民の責任なので、特定の個人が責任を取ったり、あるいは、特定の
> 個人に責任を取らせるのは不適切です。

全員の責任とする事は誰も責任を取らないと言う事と同意です。然るべき立
場の人間が然るべき責任を取る、然るべき立場の人間に然る責任を取らせる
、これが責任有る社会の大前提です。


--
怒夢巣

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 19, 1999, 3:00:00 AM3/19/99
to
清水です。

記事 <01be7141$b168c940$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> で,
domus <arti...@pc.highway.ne.jp> さんは書きました;

>>  統帥権の例: 大陸で紛争が起きた時、軍中央(天皇の統帥権の代行
>> 者)の不拡大命令を現地の軍が無視した。

ここでいう統帥権の代行者とは参謀総長になると思いますが、参謀総長は不
拡大命令を出してましたっけ? 局長レベルからは出ていたと記憶しています
が、たとえば長城線突破の際には、最終的に総長・大臣とも事実を追認して
いますし、基本的に「軍中央」にも不拡大派と拡大派の双方がいて、ウダウ
ダと善後策を練っている間に現地情勢だけが進展していき、結局総長・大臣
名での不拡大命令は公的には出ていないと思うのですが。

# まぁ、当時の総長は宮様総長(閑院宮)だから周囲が配慮して事勿れ主義
# に陥っている側面もあります。天皇制体制の無責任問題の矮小版 :-)

というわけで

>不拡大命令を無視した事に対する処罰は課されましたか。

日本的官僚組織の悪弊は旧軍にも蔓延しており、日中戦争においては明示的
かつ疑問の余地のない不拡大命令は発せられておらず、よって、処罰もない、
という認識になります。まぁ戦争では時々刻々と状況が変化するので、細部
に渡って現地司令官の指揮権を縛るがごとき命令は出すべきではない、独断
専行が必要だし尊重すべき、という陸軍の参謀教育がイカンのかも。

ただし、北部仏印進駐の際には、協定により平和進駐を命ずる中央の意思が
明確であったのに反して、フライングで(協定発効前に)強行進駐を命じた
現地軍の責任者および現地指導に赴いた参謀本部の責任者は処罰されました。
(しかし、このとき処罰・左遷された冨永恭次が、その後復活して東條内閣
時代に陸軍次官だったいうあたりに陸軍人事の謎が... )

>或いは全く逆のケースも考えられます。不拡大命令を出したと言う事自体が
>事実に反し、戦線拡大が昭和天皇を筆頭とする軍中央の考えだったと言う可
>能性もあります。この場合には昭和天皇が職務怠慢であったと言う事には成
>りません。

これもまた日本的官僚組織の悪弊は旧軍にも蔓延しており、明示的かつ疑問
の余地のない拡大命令もまた、発せられていなかったハズです。

>>  例えば戦争の計画について、天皇が計画作成を命令したり、提出された
>> 計画について修正を命令したり却下したりしていたなら実質的な最高権力
>> 者と言えます、しかし、寡聞にしてその様な例は知りません。
>
>そんな事は無いでしょう。

このへんに関しては、升味準之輔「昭和天皇とその時代」山川出版社が参考
になると思いますが、昭和天皇は「本当にこれでいいのか? (考え直した方
がいいのではないか)」以上のことは、公式な拝謁・上奏の際には言ってい
ないようですし、そう言明された場合でも、もう一度同じ内容が繰り返し上
奏された時には裁可されています。

# 公式に自らの意思を貫いたのは 2.26事件の処理と降伏の時だけ、と。

それから、統帥権の運用には憲法だけではなく内閣官制も関与しており、特
に帷幄上奏は内閣官制により規定されています。ここらへんの関連法規(要
するに明示憲法の法体系)も考慮する必要がありますし、日中戦争の頃はど
うであったかについては大杉一雄「日中十五年戦争史」中公新書でも詳述さ
れていますが、決して単純な天皇親裁ではなかったことは確実です。

>例えば1945年初頭、戦況が益々悪化してきた為、早期戦争終結を側近が度々
>進言していたにも拘わらず、昭和天皇は戦況が好転するまで戦争終結をすべ

>きでは無いとこれを頑なに拒み、挙げ句の果てにポツダム宣言受諾に追い込
>まれたと言う話は私のように歴史に造詣の深くない人間でも耳にする話です
>が、Shiroさんはご存知ないですか。

このような解釈はツマミグイ的史料収集の結果であるデッチ上げで、実状と
は異なるのではないか、という疑問も、私のように降伏経緯に関する研究書
を数冊漁っただけの浅学な人間にもすぐ出てくる話ですが、domus さんの解
釈の根拠は何ですか? その信憑性はご自分で考慮されていますか?

たぶん、天皇自らの希望で昭和20年2月に連続して行われた、重臣六人との
謁見(戦局の見通しと終結に関する意見の徴収)の一環である、近衛文麿と
の問答(2月14日)のことをツマミグイ的に解釈した本を信用されているの
だと思いますが、

近衛は概略、「敗戦は必至であり、それに乗じて革新派勢力(陸軍の統制派
や革新官僚等を近衛はこのように見ていた)が、共産革命を企てるのは間違
いない」という見通しのもとに「これを防ぐには早期和平、その前提は陸軍
の粛軍、すなわち統制派を排除して皇道派か宇垣系の将官を登用すること」
を奏上しています。(いわゆる「近衛上奏文」はこの進言をまとめたもの)

これに対し、昭和天皇は

「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」

と返答されたということです(侍立していた内大臣の木戸幸一の記録)。

で、「中々話は難しいと思う」の想定対象は、和平なのか粛軍なのか、判然
としないものがありますし、他の史料に見えるこの前後の側近や重臣自身の
考えである、「戦況がある程度好転しないと、戦争終結を日本が言い出して
も連合国側は受諾しないだろう」という見通しに近いのではないか、という
解釈の方が妥当なような気がします。

連合国側ではスチムソン米陸軍長官が戦争をボクシングに喩えて、「相手が
弱みを見せた時に、折角勝ちかけている方がパンチを控える、などというの
は論外だ」と言ってますし、真珠湾攻撃で米国民が憤激していることも考慮
すると、「日本が劣勢になったとたんに手を上げても、相手が取り合ってく
れるわけがない」ということでしょう。

ただし、その時点での対日戦後処理案として公表されているカイロ宣言に明
示されたように、満州事変以後の占領地および朝鮮と台湾も放棄すれば和平
は可能でしょうが、それでは、本土決戦までも主張する徹底抗戦派が受容す
るはずがなく、国内分裂を憂慮する必要があり(昭和天皇以上に内大臣=側
近No.1の木戸がクーデター恐怖症だったという評価もある)、結論としては

「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」

になったという解釈を私はしています。

でもって、私が過去読破した史料の中には、「戦況が好転するまで戦争終結
をすべきでは無い」「これを頑なに拒み」に該当するような頑なな言動は、
一切出てこないのですよね。このような表現は、私見では「為にする誇張」
でしかないと思っているのですが、domus さんは、こちらの解釈が正しいと
する論拠、確実な史料をご存じなのでしょうか?

domus さんがこれ以上疑念を呈するのであれば、そちらから論拠を提出すべ
きです。さもなくば、単なる思い込みということになるでしょう。


>所で歴史に無知な人間の単純な質問(疑問)なのですが、所謂御前会議の議
>事録は存在するのでしょうか。存在する場合、この文書は公開されています
>か。

公的に正式な議事録は取られていませんが、8月9日の最初の聖断が下された
御前会議の内容は、迫水久常内閣書記官長の手記(「機関銃下の首相官邸」)
池田純久綜合計画局長官の記録(江藤惇監修「終戦工作の記録」に収録)で
公開されていますし、8月14日の二回目の聖断が下された御前会議の内容も、
迫水久常内閣書記官長の手記と下村宏国務大臣の回顧録(「終戦秘史」講談
社学術文庫、原題は「終戦記」)にて公開されています。「終戦記」の一部
は記事 <7clh30$hol$1...@news00.iij4u.or.jp> でも紹介しました。


>>  知っているのは、軍の責任者が提出した計画書を少し質問した後で許可
>> と言う例なので名目上の最高権力者だったと思っています。
>
>私は昭和天皇は統帥権を適正に行使なさったと認識しておりますが、若しShir
>oさんのおっしゃる事が事実だとすると、昭和天皇は職務怠慢と言う事に成り
>ますね。憲法に定められた職責をまともに果たさなかった事になりますから。

文春文庫の「昭和天皇独白録」には、昭和史研究家4人(伊藤隆・児島襄・
秦郁彦・半藤一利)の座談会形式の「解題」がついていますが、彼らの解釈
する憲法に定められた天皇の統帥権に係る職責の理解と domus さんの理解は
どうも異なるような気がします。一度目を通されることをお勧めします。


>このスレッドの最初の記事で私は戦後無責任体制は昭和天皇によって始った
>と書きましたが、帝国憲法を読み返して、この国の無責任体制は、敗戦後昭
>和天皇の身の処し方によって始った訳では無く、帝国憲法制定と同時に始っ
>たという認識に考えを改めました。

うーむ、西園寺公望のいう「憲政の常道」がネジ曲ったあたりから始まった
と私は思っています。で、これのきっかけはやはり、満州某重大事件の事後
処理だと思っているのですが...

# ここ、升味準之輔「昭和天皇とその時代」山川出版社に影響されてます。


>全員の責任とする事は誰も責任を取らないと言う事と同意です。然るべき立
>場の人間が然るべき責任を取る、然るべき立場の人間に然る責任を取らせる
>、これが責任有る社会の大前提です。

で、昭和天皇が然るべき立場にあったかどうか、冷静に議論されればいいの
ですよね。そして、思い込みに依存した議論は勘弁願いたいな、と。

Kohei Mugitani

unread,
Mar 19, 1999, 3:00:00 AM3/19/99
to
kiy...@db3.so-net.ne.jp (Kiyofumi) writes:

>mugi...@itl.tnr.sharp.co.jp (Kohei Mugitani) wrote:
>>>"Yoshihide SHIMAZU" <shi...@adtech.co.jp> writes:
>>> また、ソ連が北海道本島の一部占領を主張したとしても、米国の強硬な反
>>>対を受け実現は不可能であったと思われますが。
>>
>> 実際に、ソ連は、留萌ー釧路を結ぶ線の占領を要求した事実があり
>>トルーマンに、拒否されて沙汰止みになった経緯があります。
>
>だから、1945年7月に2日間北海道を攻撃をしたのでしょ

いや、不勉強にしてこれは、知りませんが、北海道のどこを、いつ
どのようなやり方で、攻撃したのでしょうか?

Kiyofumi

unread,
Mar 19, 1999, 3:00:00 AM3/19/99
to
mugi...@itl.tnr.sharp.co.jp (Kohei Mugitani) wrote:
>>> 実際に、ソ連は、留萌ー釧路を結ぶ線の占領を要求した事実があり
>>>トルーマンに、拒否されて沙汰止みになった経緯があります。
>>だから、1945年7月に2日間北海道を攻撃をしたのでしょ
> いや、不勉強にしてこれは、知りませんが、北海道のどこを、いつ
>どのようなやり方で、攻撃したのでしょうか?

# ソビエト軍が攻撃をしたのではありません。

http://www.aurora-net.or.jp/doshin/book/history.html

北海道空襲 1945年7月14・15日の記録   菊地慶一

終戦直前の7月、道東・道南の約80市町村が米軍による空襲を受けた。
遺族らの証言をもとに北海道空襲の全容を明らかにする。
A5判 340頁 ¥1600 送料¥380

domus

unread,
Mar 19, 1999, 3:00:00 AM3/19/99
to
sobaka11 <syn...@pop2.odn.ne.jp> wrote in article
<7coiqp$9mb$1...@newsgw7.odn.ne.jp>...
>
> 朝鮮、台湾、澎湖諸島、南樺太
> 千島列島
> のなかで最後の千島列島だけが性格が違うのに
> ナゼにアメリカは千島を入れて、日本は異議を
> 申し立てなかったんだろう?

日本がそれに異議申し立てしなかった理由は「とてもアメリカの機嫌を損ね
られる状況に無かった」って事でしょう。

機嫌を損ねるとどんな問題が有ったか。

1.日本の独立が(無期)延期される。
2.アメリカの気が変わって天皇家お取り潰しに成る。

まあ他にも理由は有ったかも知れませんが、この二つと千島とを比べれば千
島放棄位我慢、我慢て事だったのでは。

しかし後になって考えたら手放すのはやっぱり勿体無いと思い出したのでし
ょう。

--
怒夢巣


domus

unread,
Mar 19, 1999, 3:00:00 AM3/19/99
to
Shiro <h9s...@tky2.3web.ne.jp> wrote in article
<7clsmo$sfa$1...@news2.tky.3web.ne.jp>...

>  割腹された方はどういう責任を果たされたのでしょうか。私が知ってい
> るのは「部下を死なせたのに自分一人生き残る事は出来ない。」と言う将

> 校の方の物だけです、・・・

大元帥閣下も若し同じようにお考えになり、若し同じ様な行動を取られてい
たとしたら、私の昭和天皇及び天皇制に対する見方も180度違っていたかも知
れません。

残念な事です。


--
怒夢巣

Shiro

unread,
Mar 20, 1999, 3:00:00 AM3/20/99
to
Masayuki YOSHIDAさんの<01be7018$b35264c0$LocalHost@default>から

>>  疑問なのですが、何故、当時の最高権力者のマッカーサーに抗議せず、権力
>> の無い天皇に抗議したのでしょうか。思い付く理由は以下ですが、理由をご存
>> じなら教えて下さい。
>>  ・マッカーサーに直接だと弾圧される為
>>  ・権力を失った天皇に対する嫌がらせ
>>  ・権力を失った後も天皇に対する期待があった
>
>僕は、出典もとの、ねずさんの本と「真相」を明示しました。「思い付く」
>などとおっしゃらないで、まず、そうした文献をご確認してください。そう
>すれば、こういう愚問は出ないはずです。

 今回調べた朝日新聞の記事や他の方の記事から判断すると「台所事件」の起
こった時代に対する私の認識「国民はマッカーサーに文句は言えなかった、共
産党は天皇制廃止を主張していたが支持者は少ない、国民の多くは天皇には政
治家や官僚に対する影響力がまだ有ると思っていた」に大きな間違いはないと
考えるので、「愚問」とは思えません。

 ねずまさし著「天皇と昭和史 上・下」を読み納得すれば、「愚問」と思え
る様に成るのかもしれませんが、名著と言われても1961年の本を読むべき
か、新しい本を読むべきか迷います。

--
Shiro mailto:h9s...@tky2.3web.ne.jp

Shiro

unread,
Mar 20, 1999, 3:00:00 AM3/20/99
to
Masayuki YOSHIDAさんの<01be7018$b35264c0$LocalHost@default>から

>> >江戸期、名藩主として名を残した人たちは、飢饉のときは領民と同じ献立で、
>> >飢えをしのいだという。領民が一汁一菜なら、汁をはぶいた藩主さえいた。
>>
>>  この話の出所を教えて下さい。
>
>本当に、この程度の常識もご存知ないのですか?

>
>  # すみません。ちょっと説明するが面倒くさいので、
>  # 清水さんに、お願いしようかな。あれだけ城の知識
>  # があるのだから、きっとこの程度の逸話は・・・。

 歴史小説で実在の藩主を元にした名藩主の話は読んだ事は有ります。現在の
首切りしか考え付かない経営者達に是非読んでもらいたい内容でした。小説で
はなく史実ではどうなのか知りたくて質問しましたが、清水さんの記事で「名
藩主」についてある程度理解出来ました。


--
Shiro mailto:h9s...@tky2.3web.ne.jp

Shiro

unread,
Mar 20, 1999, 3:00:00 AM3/20/99
to
朝日新聞 昭和21年5月13日(月曜日)から引用(1200字近いので省
略している所が有ります。…の所です)
(注意:縮刷版でつぶれて読みにくい文字と旧字体の漢字と旧仮名遣いの仮名
を誤読している可能性有り。他の記事も同様)
  宮城へ大衆デモ
   世田谷の”米よこせ大会”
暖かい日曜日-世田谷下馬の…で、昼過ぎ一時半から”世田谷米よこせ区民大
会”が開かれた。集まったのは区内の労働組合、太子堂の町会有志、共産党機
関紙アカハタの人達を加えてざっと千余名、梅津四郎氏が司会者となり…等の
代表者が不慣れな演説ながら命懸けで叫んだ
 …(食料不足についての演説)…
…(食料不足についての解説)…、二時少し過ぎ、帽子なしの野坂参三氏が現
れ、早速われるような拍手に迎えられてトラックの飛び乗った
 日本人の前には今二つのおおきな問題がある、…
傾聴させた二十分、そして最後にこう結んだ
 我々の手に残された道がある、これは天皇の所にゆくより他はない、…
 今こそ直接天皇の所にゆかねばならない、君たちのデモの行先は天皇の所だ
それから…「…天皇に直接聞いて貰う事だ…」と緊急動議が出て可決、…かく
てトラック二台に分譲した代表者は…宮城坂下門へまっしぐら
門の所で衛士達と押し問答しばし、…そこへ今度は当直主管の岩瀬事務官がか
けつけて「ここで御用件を承ります」とやれば、代表者連「失礼な事をするな、
門前払いなどとんでもない」と…などみな総がかりで追い返し、…百十三人、
歴史あって以来はじめて赤旗が坂下門から宮城内へ進んだ、五時十分、おかみ
さんたち、大人の草履をべちゃべちゃ鳴らして歩く汚れた子供、そういう普段
着の行列が宮内省の玄関をくぐった。
運輸課長宅で岩瀬事務官が待っていたが、押しかけた代表者に無意味に頭をさ
げては代表者たちの話を”拝聴”しているばかりだった
ーーー引用終わりーーーー
野坂参三(当時):衆議院議員、共産党幹部。昭和21年始め頃中国より帰国、
それまでの幹部と異なり柔軟路線だったので人気があった(らしい)。


朝日新聞 昭和21年4月14日 によると
4月10日投票の衆議院選挙の結果は次の通り。
定数466 自由党141 進歩党93 社会党92 共同党14 
共産党5 諸派39 無所属80 未定2


朝日新聞 昭和21年5月2日(木曜日)によると
5月1日に宮城前広場で行われたメーデーには50万人が参加し各代表者の演
説、決議文・宣言文の朗読、メーデー歌の合唱の後、4地域に分れて行進した。
「華やかな祝典」と表現され、どこかに押しかけたと言う記事はない。


朝日新聞 昭和21年5月20日(月曜日)によると
5月19日に宮城前広場で25万人が参加して「食料メーデー」が行われた。
各代表者の演説、上奏文・決議文の採択の後、メーデー歌の高唱しつつ行進を
開始、同時に実行委員が宮内省へ12名、首相官邸へ13名、警視庁と検事局
へ5名それぞれ上奏文・決議文を持って出かけた。


Masayuki YOSHIDAさんの<01be6df8$d9c5f9e0$LocalHost@default>から


>1946年5月、国民は激しく飢えていた。帝都で、天皇への大規模な抗議
>集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった。そして(天皇ではなく)皇族の
>方々の台所のひとつを覗く機会を得た。

 5月12の日世田谷の”米よこせ大会”の参加者のうち113人がトラック
2台で宮城に行き皇族の台所を覗いたのに、5月1日のメーデーの50万人、
あるいは、5月19日の「食料メーデー」の25万人が皇族の台所を覗いた印
象を与えるこの記事は、「誤解させる事を目的とした記事」ではと疑いたくな
ります。
 ただし、ねずまさし著「天皇と昭和史 下」(1983年、第1刷第4版、
三一新書857)の該当個所332ページでは、5月1日に宮城前広場で50
万人にのぼるメーデーがのびのびと行われた話題に続けて、5月12の日世田
谷区民大会話題になります。人数も書いてないし、「怒りたった群集は宮城へ
向かった」と表現しているので、大規模なデモ隊が宮城へ向かった、と誤解さ
れる表現だとは思います。

 Masayuki YOSHIDAさんは誤解を元に記事を書いたのでしょうか。

 尚、1946年7月号「真相」4号、「皇族は何を喰ってい(旧かな)るの
かーー宮城デモ報告記」は世田谷区民大会の”決議文”の出典として揚げられ
ています。皇族用の献立については、出典を明示していません。

--
Shiro mailto:h9s...@tky2.3web.ne.jp

Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 21, 1999, 3:00:00 AM3/21/99
to
よしだです。

Kaz SHiMZ wrote in message <7cqdrh$7fo$1...@news00.iij4u.or.jp>...


>清水です。
>
>記事 <01be7018$b35264c0$LocalHost@default> で,
>Masayuki YOSHIDA <mazyo...@aol.com> さんは書きました;
>

>>>>江戸期、名藩主として名を残した人たちは、飢饉のときは領民と同じ献立で、
>>>>飢えをしのいだという。領民が一汁一菜なら、汁をはぶいた藩主さえいた。
>

>>  # すみません。ちょっと説明するが面倒くさいので、
>>  # 清水さんに、お願いしようかな。あれだけ城の知識
>>  # があるのだから、きっとこの程度の逸話は・・・。
>

>知ってますけど、自分の尻くらい自分で拭いてください。
>
># こういう場合、召喚が逆効果になるというのが歴史の鉄則 :-)
>
>
>所詮、大名が領民の真似をしたとは言っても、せいぜいお救い小屋を建てる
>だけの余力がある藩主で、しかも名主・庄屋クラスの餓死の危険性のないレ
>ベルの真似で、米の比率は低いとはいえ穀物を口にしてますしね。
>
>木の根を食って、自分の子供の死体は食うに忍びないので他人の子供の死体
>と交換して食ってまで生き延びた、最下層の領民の真似までした大名の話な
>んてのは、さすがに目にしたことはないです。
>
>ある程度の版図を持つ藩主だったり、親藩の場合は幕府や商人から借金して
>領外から食糧を移入して領民を救うことも可能でしたが、僻地の外様の小藩
>が林立するような地域ではそれもできぬ、という側面もあります。また、上
>記のような「名藩主」の買い占めのおかげで隣接地域の状況を悪化させたと
>いう要素もあります。近隣小藩の犠牲の上に「名藩主」の名前を得た阿呆も
>いる、ということです。
>
># 松平定信を念頭に置いて書いています。あたしゃ田沼贔屓なので :-)

松平定信を「阿呆」と評すれば、一体、昭和天皇の評価はどうなってしま
うのか、という質問は脇におくとして、江戸期の農業経済、定信の立場
(白河藩主かつ幕臣)、時代の思想性、天明飢饉などを考慮すると、彼
のやったことは、十分に評価できるでしょう。田沼は面白い人でしたが、
国への功罪を考えると、僕は、定信をA-として、田沼はC+ぐらいの格付
け評価しかしていません。

>そして、昭和天皇も江戸時代のこれらの名君程度の事は心がけておられた、
>という話も、探せば出てくるでしょう。

たとえば・・・?

>また、庶民で食うに困らぬ層も相当
>数いたハズです。私の母親の実家も製粉業を兼業していた自作農で、農地解
>放令にも抵触せず、食うには困らぬ生活をしていたそうです。特権階級とは
>無縁の平民ですけどね。あるいは、都市生活者の「たけのこ生活」における、
>家財道具の切り売りの相手になった都市近郊農民なんぞもそうです。


もし僕の記憶が正しかったら、向田邦子さんの「思い出トランプ」だったか、
その中の短編で、こうした都市近郊農民の目を「お地蔵さまの眼のような
抜け目ない眼」という風に表現されていたはずです。間違っていたら、ごめ
んなさい。

>結局、名藩主の行為もそのレベルに合わせただけのものでして、こんなポー
>ズと比較したところで意味はないでしょう。東條英機がゴミ箱漁って庶民の
>生活を実感したり物見櫓に登ったり... というのが「所詮は憲兵的発想の政
>治」と揶揄されたのと同様、よしださんも為政者のなすべきことの本質を見
>間違えているのではないかしらん。

僕は為政者がもっとも心がけなければならないのは、富と正義の正しい分
配であると考えている一人です。この意味で、東条英機は論外だし、田沼も
かなり問題がありますね。昭和天皇はどうでしょうか。

>>僕は天皇はこの台所事件のころは、権力そのもの、皇族も権力そのもの、
>>と理解していますけど。
>
>え、ふつう台所事件のころの権力者といえば、マッカーサーの威を借りる
>GHQの民生局に巣食っていた、米本国から流れてきたニューディーラー
>ではないでしょうか。皇族にしても梨本宮などは巣鴨プリズンで他の戦犯
>と同様の臭いメシ食ってますし。徳田球一も、GHQのバックアップがあ
>る間は吠えまくってましたが、逆コースになったとたんに国外脱出するわ
>けで...

マッカーサーが権力であることには、異存はないですが、天皇、皇族も権力
であったことは、例えば、共産党員の松島松太郎なんかが、「プラカード事
件」で「不敬罪」で訴追されたことからも、理解できるでしょう。国民が「不敬」
で警察権の介入を受け、特権階級が、戦前のままの法的庇護を受けるのは、
まぎれもなく権力者でありつづけている証左でしょうね。

YOSHIDA Masayuki

Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 21, 1999, 3:00:00 AM3/21/99
to
よしだです。

Shiro wrote in message <7d0688$q72$1...@news2.tky.3web.ne.jp>...
>(割愛)


>
>Masayuki YOSHIDAさんの<01be6df8$d9c5f9e0$LocalHost@default>から
>>1946年5月、国民は激しく飢えていた。帝都で、天皇への大規模な抗議
>>集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった。そして(天皇ではなく)皇族の
>>方々の台所のひとつを覗く機会を得た。
>
> 5月12の日世田谷の”米よこせ大会”の参加者のうち113人がトラック
>2台で宮城に行き皇族の台所を覗いたのに、5月1日のメーデーの50万人、
>あるいは、5月19日の「食料メーデー」の25万人が皇族の台所を覗いた印
>象を与えるこの記事は、「誤解させる事を目的とした記事」ではと疑いたくな
>ります。
> ただし、ねずまさし著「天皇と昭和史 下」(1983年、第1刷第4版、
>三一新書857)の該当個所332ページでは、5月1日に宮城前広場で50
>万人にのぼるメーデーがのびのびと行われた話題に続けて、5月12の日世田
>谷区民大会話題になります。人数も書いてないし、「怒りたった群集は宮城へ
>向かった」と表現しているので、大規模なデモ隊が宮城へ向かった、と誤解さ
>れる表現だとは思います。
>
> Masayuki YOSHIDAさんは誤解を元に記事を書いたのでしょうか。


僕は「大規模なデモ隊」という記述はしていません。また誤解を元に
記事を書いたわけではありません。「誤解させる事を目的とした記事」
と疑っておられますが、そのようなことはありません。僕が書いた目的
は「皇族は飢えた国民のことなど念頭になかった」という仮説を立証す
るひとつの事例を提供することにありました。したがって、それが目的
ですので、その目的に関係のないことで、誤解をさせる必要も理由もあ
りません。

> 尚、1946年7月号「真相」4号、「皇族は何を喰ってい(旧かな)るの
>かーー宮城デモ報告記」は世田谷区民大会の”決議文”の出典として揚げられ
>ています。皇族用の献立については、出典を明示していません。

で、「真相」には目を通されましたか?

YOSHIDA Masayuki

Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 21, 1999, 3:00:00 AM3/21/99
to
よしだです。

Shiro wrote in message <7d06a1$q73$1...@news2.tky.3web.ne.jp>...

要するに、あなたと僕の見解の相違でしょうね。

YOSHIDA Masayuki

Akinori MURAKAMI

unread,
Mar 21, 1999, 3:00:00 AM3/21/99
to
一部だけ、事実確認を

満州事変のさいに起きた明確な指揮系統無視は
「軍中央の不拡大命令を現地の軍が無視した」にあたりませんか?

(満州駐留の)関東軍(司令官)も(朝鮮駐留)軍(司令官)も
(石原氏他の参謀が有名だけど、明示的には司令官でしょうね)

満州事変のさいの関東軍司令官(本庄氏)が後に天皇の側にいるという人事も
変に思います。

結果的に満州事変を成功と判断した流れが15年戦争につながった
(個人的には日清、日露からの流れと思います)
という解釈をされる方は私だけじゃないと思います。

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 23, 1999, 3:00:00 AM3/23/99
to
清水です。

記事 <MEI.99Ma...@atlas.rc.m-kagaku.co.jp> で,
Akinori MURAKAMI <m...@atlas.rc.m-kagaku.co.jp> さんは書きました;

>満州事変のさいに起きた明確な指揮系統無視は
>「軍中央の不拡大命令を現地の軍が無視した」にあたりませんか?
>
>(満州駐留の)関東軍(司令官)も(朝鮮駐留)軍(司令官)も
> (石原氏他の参謀が有名だけど、明示的には司令官でしょうね)

おお、たしかに満州事変の際に林朝鮮軍司令官に対して金谷参謀総長名で

「関東軍増援の件、奉勅命令下達まで見合わされたし」

という電報が出されていますね。あたしゃ宮様総長の時代だけを想定して
(主として長城線突破以降を想定して)前の記事を書いていました。
どうもスイマセン。

これについて補足すると、金谷参謀総長が、事後の御裁可を昭和天皇に仰
いだ際に昭和天皇は「政府の支出決定がなければ裁可できぬ」と述べ、参
謀総長は非常に困ったので南陸相を通じて若槻禮次郎首相から「政府とし
ては朝鮮軍派兵の経費を支弁するつもりであります」と奏上させているの
ですよね。結局は事後承諾を得られたので処罰なし、と。

# 現地司令官の「独断専行」を積極的に是認するのが陸軍の伝統だし...


> 結果的に満州事変を成功と判断した流れが15年戦争につながった
> (個人的には日清、日露からの流れと思います)
> という解釈をされる方は私だけじゃないと思います。

満州事変が悪例になったのは確かではあります。が、同じ記事で書いてい
るように、私は直接的には満州事変の前の満州某重大事件(張作霖爆殺)
を田中義一内閣が(必ずしも首相個人の責任にあらず。小川鉄相などにも
連帯責任があると見ています)ウヤムヤに処理した方が現地軍の独走を許
すことのきっかけになったと思っています。

で、満州侵攻のきっかけは日露戦争の戦後処理のアイマイさにあるとは考
えていますが、日清戦争の戦後処理においては、満州はロシア、朝鮮は日
本という棲みわけで可と日本政府の首脳部は考えていたと認識しているの
で、日清戦争まで溯るのには賛同しません。(しかしロシアは日本の勢力
圏を北緯39度線以南に限定しようとしたので棲みわけ不可となった。)

また、蛇足ですが、私は「15年戦争」という呼称には反対な立場で、日中
戦争という名称を好んで使ています。日中戦争の始点は日華事変だと思っ
ているので。(満州事変は別処理可能だったと見ている。)

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 23, 1999, 3:00:00 AM3/23/99
to
清水です。

記事 <7d1t98$656$2...@news.zzz.or.jp> で,
Masayuki YOSHIDA <m-...@england.com> さんは書きました;

>松平定信を「阿呆」と評すれば、一体、昭和天皇の評価はどうなってしま
>うのか、という質問は脇におくとして、江戸期の農業経済、定信の立場
>(白河藩主かつ幕臣)、時代の思想性、天明飢饉などを考慮すると、彼
>のやったことは、十分に評価できるでしょう。

え?

思想性は反動そのもの(例証は「寛政異学の禁」だけで充分と思う)だし、
経済政策は縮小均衡のデフレ・農本主義(旧里帰農令)だし、どこをどう
やったら評価できるというのだろう :-)

米価安の諸式高を、庶民の生活水準を下げることなくどう調整するか悩ん
だ吉宗ならいざしらず、庶民の生活水準を下げることで調整しようとした
松平定信なんぞ、経済学士としては全く評価できません。天明飢饉に際し
て田沼は凶作地域に対して米の売り惜しみ、買い占めを禁ずる法令を出し
ているのに対して、松平定信は上方で米の買い占めを行っています。松平
定信が自藩のことしか考えていないのは明白です。親藩、しかも八代将軍
の孫だから黙認されただけのことで、単なるワガママ坊ちゃん :-p

また、定信のやったことを現代風に列挙すると、商工業の範囲縮小と直接
・間接税の増税と政府支出の削減、武士の借金踏み倒しを奨励、ついでに
言論弾圧、思想統制... ときてます。まぁ、文化大革命かポルポトの政策
そのものです。これが阿呆でなくてなんなのか...

このへんは、大石慎三郎氏の「大江戸史話」中公文庫・「徳川吉宗とその
時代」中公文庫・「江戸時代」中公新書・「将軍と側用人の政治」講談社
現代新書あたりを読めば論証されているので、ご一読を。

# ま、大石氏にかかると、最悪の殿様は水戸黄門になるのだが :-)


>>そして、昭和天皇も江戸時代のこれらの名君程度の事は心がけておられた、
>>という話も、探せば出てくるでしょう。
>
>たとえば・・・?

記事 <7cl6bo$3jn$1...@nn-tk004.ocn.ad.jp> で紹介されてますね。


>僕は為政者がもっとも心がけなければならないのは、富と正義の正しい分
>配であると考えている一人です。この意味で、東条英機は論外だし、田沼も
>かなり問題がありますね。昭和天皇はどうでしょうか。

昭和天皇は為政者じゃないでしょう。

戦前は「元首にして統治権の総覧者」、戦後は「象徴」で、いずれにせよ
為政者にお墨付きを与える立場ですが、戦前は「神聖にして不可侵」の故
に為政者ではない、というのが私の認識です。為政者に正統性を授与する
存在、というべきか。

で、昭和天皇はさておき、封建領主が「富と正義の正しい分配」をしていた
わけがないでしょう。

# あたしゃ「封建制は親の敵」福沢諭吉の方に軍配を上げますが...


>マッカーサーが権力であることには、異存はないですが、天皇、皇族も権力
>であったことは、例えば、共産党員の松島松太郎なんかが、「プラカード事
>件」で「不敬罪」で訴追されたことからも、理解できるでしょう。

で、裁判の結果は無罪だったんですよね。

>国民が「不敬」で警察権の介入を受け、特権階級が、戦前のままの法的庇護
>を受けるのは、まぎれもなく権力者でありつづけている証左でしょうね。

警察権の介入は受けたものの、戦前のままの法的庇護は受けられないという
ことが裁判の結果判明したのですから、判決によりすでに権力者ではない、
と証明されたことになりませんか? で、ここまで書くことで、プラカード事
件の意味が確定するのだ、と私なんぞは思っているのですが。

# 最後の論は「法社会学」に基づいております。エールリッヒやね。

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 23, 1999, 3:00:00 AM3/23/99
to
清水です。自己フォロー。

記事 <7d7t9d$qoa$1...@news00.iij4u.or.jp> で, 私は書きました;

>>マッカーサーが権力であることには、異存はないですが、天皇、皇族も権力
>>であったことは、例えば、共産党員の松島松太郎なんかが、「プラカード事
>>件」で「不敬罪」で訴追されたことからも、理解できるでしょう。
>
>で、裁判の結果は無罪だったんですよね。

これ、正確には、一審は1946年11月2日、不敬罪は効力を失ったとして無罪、
名誉毀損罪で有罪、1947年6月に二審で免訴... でした。なお、この事件を
伝え聞いたGHQは1946年10月9日に不敬罪が日本国憲法の理念にそぐわな
い、という見解を明らかにし、1946年11月3日に不敬罪についての大赦例が
公布され爾後不敬罪の適用は中止、1947年の刑法改正で不敬罪は廃止、と
いう経過を辿っています。

というわけで、記事<7d7t9d$qoa$1...@news00.iij4u.or.jp> の結論自体は特に
変化ありません。

Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 24, 1999, 3:00:00 AM3/24/99
to
よしだです。

Kaz SHiMZ wrote in message <7d7t9d$qoa$1...@news00.iij4u.or.jp>...


>清水です。
>
>記事 <7d1t98$656$2...@news.zzz.or.jp> で,
>Masayuki YOSHIDA <m-...@england.com> さんは書きました;
>
>>松平定信を「阿呆」と評すれば、一体、昭和天皇の評価はどうなってしま
>>うのか、という質問は脇におくとして、江戸期の農業経済、定信の立場
>>(白河藩主かつ幕臣)、時代の思想性、天明飢饉などを考慮すると、彼
>>のやったことは、十分に評価できるでしょう。
>
>え?
>
>思想性は反動そのもの(例証は「寛政異学の禁」だけで充分と思う)だし、
>経済政策は縮小均衡のデフレ・農本主義(旧里帰農令)だし、どこをどう
>やったら評価できるというのだろう :-)

「時代の思想性」と表現したんですけど。「松平定信の思想性」とは、言っ
ていませんよ。

僕は「過去」の人を評価するときは、今僕らが利用できるパースペクティヴ
では評価しません。たとえば、定信が生きた天明とか寛政とかという時代で、
何が可能か可能でないか、また天明とか寛政とかという時代の人間が持て
る知識なり展望なりが、当時の制約された社会のありかたを基礎にしてい
る以上、そうしたものを考慮して、彼がどれだけのことをやれたのか、で評
価します。

  # 今持っている知識で、佐高信のように、一刀両断にしても
  # 仕方がないんだよなあ。

>米価安の諸式高を、庶民の生活水準を下げることなくどう調整するか悩ん
>だ吉宗ならいざしらず、庶民の生活水準を下げることで調整しようとした
>松平定信なんぞ、経済学士としては全く評価できません。

庶民だけでなく、将軍家以下、すべての国民の生活水準を下げたのでしょう。
田沼のお陰で道徳心が低下しているから、それに耐えられなかったというの
が真相でしょう。

経済学のみで定信を嗤うのは、酷というものです。

>天明飢饉に際し
>て田沼は凶作地域に対して米の売り惜しみ、買い占めを禁ずる法令を出し
>ているのに対して、松平定信は上方で米の買い占めを行っています。松平
>定信が自藩のことしか考えていないのは明白です。親藩、しかも八代将軍
>の孫だから黙認されただけのことで、単なるワガママ坊ちゃん :-p

で、田沼は、誰と仲がよかったのですか?

手元に資料がないので、正確なことは言えませんが、上方で米を買い占めた
というより、藩のために買ったのでしょ。定信は幕臣であるとともに藩主です
からね。自藩を維持するのも、将軍から与えられた藩主の立派な使命です
からね。その程度のことで、「自藩のことしか考えていないのは明白です」と
責められたのでは、定信も浮かばれませんね。

将軍の孫だから黙認されたのなら、田沼はなぜ登用されたのでしょうね?

>また、定信のやったことを現代風に列挙すると、商工業の範囲縮小と直接
>・間接税の増税と政府支出の削減、武士の借金踏み倒しを奨励、ついでに
>言論弾圧、思想統制... ときてます。まぁ、文化大革命かポルポトの政策
>そのものです。これが阿呆でなくてなんなのか...

ひとくちでいうと、田沼が紊乱させた(当時の)道徳の修復と農業経済の再建
でしょう。「武士の借金踏み倒し」を「土建屋の債権踏み倒し」と一緒に考えて
はいけませんよ。言論弾圧、思想統制は言い過ぎで、正確には秩序維持で
しょう。当時では、このやり方が「最善」だったのです。民主主義や自由経済
じゃあないんだもん。

ここになぜ文化大革命やポルポトの政策が持ち出されるのか、理解できませ
んが・・・。

>このへんは、大石慎三郎氏の「大江戸史話」中公文庫・「徳川吉宗とその
>時代」中公文庫・「江戸時代」中公新書・「将軍と側用人の政治」講談社
>現代新書あたりを読めば論証されているので、ご一読を。
>
># ま、大石氏にかかると、最悪の殿様は水戸黄門になるのだが :-)

なぜ「:-)」のマークがついているのか、不可解ですね。

>>>そして、昭和天皇も江戸時代のこれらの名君程度の事は心がけておられた、
>>>という話も、探せば出てくるでしょう。
>>
>>たとえば・・・?
>
>記事 <7cl6bo$3jn$1...@nn-tk004.ocn.ad.jp> で紹介されてますね。

記事のIDを出されてもねえ。どうせなら、再録していただけるとありがたいん
ですけど。

>>僕は為政者がもっとも心がけなければならないのは、富と正義の正しい分
>>配であると考えている一人です。この意味で、東条英機は論外だし、田沼も
>>かなり問題がありますね。昭和天皇はどうでしょうか。
>
>昭和天皇は為政者じゃないでしょう。
>
>戦前は「元首にして統治権の総覧者」、戦後は「象徴」で、いずれにせよ
>為政者にお墨付きを与える立場ですが、戦前は「神聖にして不可侵」の故
>に為政者ではない、というのが私の認識です。為政者に正統性を授与する
>存在、というべきか。

戦争が政治ならば、宣戦布告と終戦させたことで十分、為政者と見なさ
れるでしょう。しかも、国家神道、政教一致の下、まさに「祭事」をつかさ
どったのですから、昭和天皇は、正真正銘の為政者ですよ。何を今更・・・。

>で、昭和天皇はさておき、封建領主が「富と正義の正しい分配」をしていた
>わけがないでしょう。

僕が為政者をどのように把握しているか、とお聞きになるから、そのように
お答えしたまでです。封建領主が「富と正義の正しい配分」をしたなんて、
一言も言ってはおりません。また彼らが、被差別部落民までかかえる階級
社会で、そういうことをできる立場にあったとは、とても思えませんね。

># あたしゃ「封建制は親の敵」福沢諭吉の方に軍配を上げますが...

ふーん、国家主義者の福沢をねえ。田沼のことといい、僕とはかなり見解が
ちがいますなあ。

>>マッカーサーが権力であることには、異存はないですが、天皇、皇族も権力
>>であったことは、例えば、共産党員の松島松太郎なんかが、「プラカード事
>>件」で「不敬罪」で訴追されたことからも、理解できるでしょう。
>
>で、裁判の結果は無罪だったんですよね。

あの事例ではね。しかし、「不敬罪」は「生きていた」わけです。

>>国民が「不敬」で警察権の介入を受け、特権階級が、戦前のままの法的庇護
>>を受けるのは、まぎれもなく権力者でありつづけている証左でしょうね。
>
>警察権の介入は受けたものの、戦前のままの法的庇護は受けられないという
>ことが裁判の結果判明したのですから、判決によりすでに権力者ではない、
>と証明されたことになりませんか? で、ここまで書くことで、プラカード事
>件の意味が確定するのだ、と私なんぞは思っているのですが。

警察権の介入という「庇護」では、そちらには、どうやら不足のようですね。

># 最後の論は「法社会学」に基づいております。エールリッヒやね。

ふーん、「生ける法」を持ち出されますか。しかし、一つの裁判例で、裁判
規範ができていると考えるのは早計どころか、こっけいに思うんじゃない
ですか。ただし、僕ではなく、エールリッヒ先生ですが・・・。

YOSHIDA Masayuki


Kaz SHiMZ

unread,
Mar 24, 1999, 3:00:00 AM3/24/99
to
清水です。

記事 <7d9eif$1nt$1...@news.zzz.or.jp> で,
Masayuki YOSHIDA <m-...@england.com> さんは書きました;

>「時代の思想性」と表現したんですけど。「松平定信の思想性」とは、言っ
>ていませんよ。

それは理解した上で、「時代の思想性」は吉宗の時代に開明的な方向に踏み
出したはずなのに、松平定信が反動的な方向に振り直したことを指摘してい
るのです。寛政の改革の前後の、田沼時代と文化文政時代を比較してみれば
自明でしょう。定信の思想は「前後の時代の思想性」から見て、退化という
か、反動あるいは旧弊墨守の復古調にすぎないのです。


>僕は「過去」の人を評価するときは、今僕らが利用できるパースペクティヴ
>では評価しません。たとえば、定信が生きた天明とか寛政とかという時代で、
>何が可能か可能でないか、また天明とか寛政とかという時代の人間が持て
>る知識なり展望なりが、当時の制約された社会のありかたを基礎にしてい
>る以上、そうしたものを考慮して、彼がどれだけのことをやれたのか、で評
>価します。

で、田沼どころか松平定信を溯ること100年以上の、荻原重秀や新井白石よ
りも退化した単なる復古反動政策を評価されるわけですか。保科正之よりも
権威主義的でかつ復古調で実状無視の政策連発なのですが...

>  # 今持っている知識で、佐高信のように、一刀両断にしても
>  # 仕方がないんだよなあ。

どちらかというと、よしださんが、元禄時代以降の政治経済体制の変動(貨
幣経済の進展に伴う政治基盤の変化)と、それに対応してきた江戸幕府の経
済官僚の政策の歴史を無視、あるいは知らないだけだと思います。


>>米価安の諸式高を、庶民の生活水準を下げることなくどう調整するか悩ん
>>だ吉宗ならいざしらず、庶民の生活水準を下げることで調整しようとした
>>松平定信なんぞ、経済学士としては全く評価できません。
>
>庶民だけでなく、将軍家以下、すべての国民の生活水準を下げたのでしょう。

ほほう、11代将軍家斉やその実父一橋治済の生活水準を下げる意図があった
とまで主張されますか。ぜひぜひ * ご自分で * 論証してみてくださいな。


>田沼のお陰で道徳心が低下しているから、それに耐えられなかったというの
>が真相でしょう。

前段は松平定信一派(門閥層)によるデマ(を大正時代に辻善之助が受け売り
したもの)に過ぎませんし、後段に至っては、「欲しがりません勝つまでは」
と何ら変わらないですね。スターリンの集団化政策とも共通していますが、庶
民は道徳心やら愛国心では食えません。下僚の長谷川平蔵の発案になる人足寄
場の設立はあったものの、大筋では農村で食い詰めて都市に出てきた連中を強
制的に帰農させようとしており、結局は飢饉で疲弊した農村をさらに疲弊させ
るだけの結果になっています。

本人が質素で意図は良かった、ということだけで高く評価してはいけません。
このあたりは「男子の本懐」浜口雄幸や井上準之助も同じですが。


>経済学のみで定信を嗤うのは、酷というものです。

政治はつまるところ経世済民です。

寛政の改革は都合6年で崩壊しており、松平定信は水野忠邦と違って、二度
と幕政に参画できませんでした。(ちなみに田沼時代は約15年続いた)


>で、田沼は、誰と仲がよかったのですか?

十代将軍家重でしょう。


>手元に資料がないので、正確なことは言えませんが、上方で米を買い占めた
>というより、藩のために買ったのでしょ。

えー、田沼の出した法令の意図は、上方・西国方面においては食糧の余剰が
あり、流通市場(という言葉はなかったのですが)を機能させれば、東北地
方で不足している食物をそちらから回すことが可能である、というものです。
なので「売り惜しみと買い占めを禁止」が全国的に命ぜられています。

>定信は幕臣であるとともに藩主ですからね。

ひとり禁制を破っていいとする理由にはならんでしょう。

>自藩を維持するのも、将軍から与えられた藩主の立派な使命ですから
>ね。その程度のことで、「自藩のことしか考えていないのは明白です」と
>責められたのでは、定信も浮かばれませんね。

えー、「自藩のことのみを考えてはいかん」というのが田沼幕閣の方針なの
ですけどね。それを定信が公然と破り、咎めだてされそうになったので門閥
層(守旧派)を集めて宮廷内クーデターを行った、というのが田沼失脚の真
相です。

大正時代以前の妄説に基づく定信擁護はどうでもいいです。最近の社会経済
的な意味での江戸時代の研究書を読んでから書いてください。徳川吉宗や水
野忠邦の政策はそれなりに社会の近代化というか貨幣経済、経済圏の広域化
に対応しているのですが、定信は韓非子の言うところの「株を守るの類なり」
でしかないです。どう号令したところで、御神君の時代に戻るわけがないの
だが... 権威でもってそれを強要したあたりが「阿呆」の証左。


>将軍の孫だから黙認されたのなら、田沼はなぜ登用されたのでしょうね?

綱吉、吉宗以来の側用人政治の伝統を継ぐものとして、九代将軍家重の遺
訓で十代将軍家治が重用した、ということになっています。幕府財政に予
算制度を取り入れ、商品経済の進展に着目して流通税(運上)の導入など
で財政改革に成功した(天明の飢饉までの間)などの功績はあります。


>ひとくちでいうと、田沼が紊乱させた(当時の)道徳の修復と農業経済の再建
>でしょう。

「農業経済の再建を目指した」という意図は確かですが、方法論が時代錯誤
もいいところで、文化大革命の下放政策・ポルポトの都市文明政策と依って
立つところが同一なのが問題なのです。貨幣経済、商品経済(すでに米単独
経済ではない)に突入していたということをまるで判ってない。

一方で田沼は、これらに対しては正しく認識しており、吉宗が先鞭をつけた
諸国物産の生産奨励や北方開拓(その目的は俵物の輸出による出島貿易の出
超を是正)や大規模農地開発に着手しています。そして商品経済の先進地域
であった上方経済圏に対して後進的な江戸経済圏が下風に立つ状況を、金銀
交換レートの是正によって打開しようとしたことなど、その経済認識と手腕
は非常に高く評価できます。

で、松平定信はこれら田沼の政策を頭から全否定しているだけ。


>「武士の借金踏み倒し」を「土建屋の債権踏み倒し」と一緒に考えて
>はいけませんよ。

ほう、ではどこが違うのですか? 「切り捨て御免」も実際には許容されなく
なっており、経済秩序の維持を考えたら、たとえ武士であっても借金踏み倒
しは社会混乱の原因になります。

江戸時代を通じて、ムチャクチャ長期間に渡る返済繰り延べは多数あっても、
借金棒引令は松平定信しか発していませんし、これが経済秩序に与える影響
を考えると

>言論弾圧、思想統制は言い過ぎで、正確には秩序維持でしょう。当時では、
>このやり方が「最善」だったのです。

とは到底思えません。矛盾していますね。

祖父の吉宗がその実用性に着目して解禁した、洋学(蘭学)まで禁じてしま
うのが「最善」なわけがないし、松平定信の政策は、門閥層の言い訳・擁護
を切り離して考えると、アンチ田沼、田沼の否定であり、単なる復古反動。

>民主主義や自由経済じゃあないんだもん。

定信に民主主義や自由経済を受容せい、とは言ってません。荻原重秀以来の
経済官僚の政策、吉宗以来の開明政策を否定するのは間違いだ、と言ってい
るのです。


>ここになぜ文化大革命やポルポトの政策が持ち出されるのか、理解できませ
>んが・・・。

上記の通り。(ちなみに私の説ではなく大石氏の受け売りです。)


>># ま、大石氏にかかると、最悪の殿様は水戸黄門になるのだが :-)
>
>なぜ「:-)」のマークがついているのか、不可解ですね。

はい、よしださん自身も他人に説教垂れている通り、まずは読んでみると
いいでしょう。


>戦争が政治ならば、宣戦布告と終戦させたことで十分、為政者と見なさ
>れるでしょう。しかも、国家神道、政教一致の下、まさに「祭事」をつかさ
>どったのですから、昭和天皇は、正真正銘の為政者ですよ。何を今更・・・。

いや~、私は長尾龍一「日本憲法思想史」講談社学術文庫に紹介されている
文脈での美濃部達吉の天皇機関説が明治憲法の実装だと認識しているので、

>ふーん、国家主義者の福沢をねえ。田沼のことといい、僕とはかなり見解が
>ちがいますなあ。

その通りですね。まぁ、田沼については、よしださんが江戸時代中期以降の
経済構造の変化に疎いのも、その一因だとは思います。福沢に関しては封建
思想よりは国民国家主義の方がまし、ということですしね。


>># 最後の論は「法社会学」に基づいております。エールリッヒやね。
>
>ふーん、「生ける法」を持ち出されますか。しかし、一つの裁判例で、裁判
>規範ができていると考えるのは早計どころか、こっけいに思うんじゃない
>ですか。ただし、僕ではなく、エールリッヒ先生ですが・・・。

その判決の翌日に、GHQ指令で不敬罪の運用は停止してますからね。

別にこっけいではないでしょう。そう思えるのは、よしださんの知識が中途
半端なことに由来する、と私は思っています。

Yasuyuki Miura

unread,
Mar 24, 1999, 3:00:00 AM3/24/99
to

細かい話ですが

"Masayuki YOSHIDA" <m-...@england.com> writes:
>
>>>で、田沼は、誰と仲がよかったのですか?
>>
>>十代将軍家重でしょう。
>
> 九代です。

ではなく、清水さんのこれは、十代将軍家治の間違いか何かだったのではない
のかななどと思わなくもないですが。

# 私の勘違いかも・・・

--
Yasuyuki Miura m...@jaist.ac.jp

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 24, 1999, 3:00:00 AM3/24/99
to
清水です。

記事 <qz2aex3gv...@jaist.ac.jp> で,
Yasuyuki Miura <m...@jaist.ac.jp> さんは書きました;

>"Masayuki YOSHIDA" <m-...@england.com> writes:
>>
>>>>で、田沼は、誰と仲がよかったのですか?
>>>
>>>十代将軍家重でしょう。
>>
>> 九代です。
>
>ではなく、清水さんのこれは、十代将軍家治の間違いか何かだったのではない
>のかななどと思わなくもないですが。

はい、その通りです。記事 <7d805f$sdj$1...@news00.iij4u.or.jp> の別の
段落でこう書いているのが、正確なところです。

綱吉、吉宗以来の側用人政治の伝統を継ぐものとして、九代将軍家重の
遺訓で十代将軍家治が重用した、ということになっています。

ここの部分をごちゃ混ぜにして書いたので、件の間違いとなりました。

どうもスイマセン。

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 24, 1999, 3:00:00 AM3/24/99
to
清水です。

記事 <7da38r$5vb$1...@news.zzz.or.jp> で,
Masayuki YOSHIDA <m-...@england.com> さんは書きました;

>白石は別として、「荻原より退化」などと言われては、定信は立つ瀬がない
>でしょうね。僕の貧困な知識だと、荻原は元禄の貨幣悪鋳で、武士はむ
>ろん、庶民の生活に大打撃を与えた張本人じゃあないですか。

それは白石による荻原弾劾が効を奏したからです。

水戸藩の藤井紋太夫、薩摩藩の調所笑左衛門、長州藩の村田清風など、
微禄から叩き上げた江戸時代の経済官僚はすべて門閥派(守旧派)に
権力闘争で破れており、御家騒動などと絡めて悪役にされ必要以上に
ボロクソに伝えられているのです。そこらへんを鵜呑みにして考える
か否かの違いなんですけどね。


>しかも彼は新田開発や金銀山開拓なんかでかなり悪辣なことをやってのけ、
>ついには、あなたがあげた新井白石の弾劾にあって罷免されたじゃないで
>すか。

銀座疑獄は新井白石らのでっち上げという説もありますので、額面通
りに考えない方がいいですよ。ちなみに、よしださんが列挙されてい
る「悪辣なこと」から鑑みるに、大久保長安と荻原を混同されている
ように思います。荻原が実権を振るったのは関東総検地と金銀貨幣改
鋳の方ですし、幕命による新田開発は四代家綱の代で終わっていたと
記憶してます。


>かなりレベルの低いこの手の阿呆と定信を比較する神経がちょっと
>理解できませんねえ。

まぁ、よしださんは実状ではなく、彼ら経済官僚の政敵の流布した虚
像を元に考えておられるようですから仕方ないですな。


>>>庶民だけでなく、将軍家以下、すべての国民の生活水準を下げたのでしょう。
>>
>>ほほう、11代将軍家斉やその実父一橋治済の生活水準を下げる意図があった
>>とまで主張されますか。ぜひぜひ * ご自分で * 論証してみてくださいな。
>

>ということはそちらはすでに検証済みってことですね。

いえ、探しているが実際には見つからないのです。一橋治済がそんな
政策を飲むハズがない、と彼の言動から推測しているのではあります
が、一方で定信の失脚の原因が大奥の冗費節約を強行しようとしたた
めとも言われているので、どうなっていたのか検証して欲しいな、と。

# よしださんの依拠されている史料を拝見したいな、とも。


>まず定信がなぜ改革(僕は必ずしも改革とは思いませんが)の主導的席に
>指名されたのかというと、彼が自藩での建て直しに成功していたからです。

えー、一橋治済との密約による、というのが定説でしょ。11代将軍に
一橋治済の息子の家斉を立てることに同意して、田沼を追い落とした、
と。佐野善左衛門による田沼意知刺殺もその一環で、当時の長崎オラ
ンダ商館長のチチングも意知刺殺を「幕府高官の示唆によるもの」と
見ています。


>この藩政改革の過程で、国政に腕をふるえる素地を作り、実績を持っていた
>のです。また多くの閣僚もある程度、自藩を立て直した人たちだったと
>聞きます。

まぁ門閥層が評価する「建て直し」の実態は、ほとんどが農民からの
収奪強化であって、貨幣経済への対応・殖産興業といった面での効果
を挙げたのは西国雄藩だけです。この時代にどのような「建て直し」
に着手・実践していたか、が明治維新期に如実に現れています。


>>本人が質素で意図は良かった、ということだけで高く評価してはいけません。
>>このあたりは「男子の本懐」浜口雄幸や井上準之助も同じですが。
>

>僕なんか、今の世相やここ十年の日本を見て、定信をそろそろ経済的
>観点からの批判から解放してやるべきではないか、と思っています。

保科正之、上杉鷹山や恩田木工なら私も高く評価しますが、定信は
まったく評価できません。


>>>経済学のみで定信を嗤うのは、酷というものです。
>>
>>政治はつまるところ経世済民です。
>
>で、清水さんが評価する田沼はそれをやったとおっしゃるわけです
>か。あのような、チョー差別封建国家日本で。

やろうとして天明の飢饉で挫折した、ということですな。


>できなかったのではなく、しなかったのです。彼の役割は終えたから
>であり、彼が二度と幕政に参画する気持ちを持たなかったからです。

わはは、宇下人言を額面通りに信じない方が良いと思いますよん。

政治家の回想なんぞ自己欺瞞と美化の塊ですから。新井白石にしても
同様で、文才のおかげで後世、政敵を貶めることに成功はしています
が、それが真実だと考えると嵌まります。


>みっともなく、猟官に走る凡庸な政治家とそこが違うのです。

そこまで褒め上げなくてもいいような気もしますがね。


>>えー、田沼の出した法令の意図は、上方・西国方面においては食糧の余剰が
>>あり、流通市場(という言葉はなかったのですが)を機能させれば、東北地
>>方で不足している食物をそちらから回すことが可能である、というものです。
>>なので「売り惜しみと買い占めを禁止」が全国的に命ぜられています。
>

>で、実際、どういう結果になったんですか。

結局は米が不足したために、白河藩に米1万石を売り渡した会津藩など
では餓死者が相次ぐ事態になってますね。

>>大正時代以前の妄説に基づく定信擁護はどうでもいいです。最近の社会経済
>>的な意味での江戸時代の研究書を読んでから書いてください。徳川吉宗や水
>>野忠邦の政策はそれなりに社会の近代化というか貨幣経済、経済圏の広域化
>>に対応しているのですが、定信は韓非子の言うところの「株を守るの類なり」
>>でしかないです。どう号令したところで、御神君の時代に戻るわけがないの
>>だが... 権威でもってそれを強要したあたりが「阿呆」の証左。
>

>どれだけ、知識をお持ちなのか、何がそれほどの自信を与えている
>のか、ここまでののしるのは、「あっぱれ」ですなあ。

いや、よしださんの定信擁護も負けず劣らず「あっぱれ」だと私は思い
ますけどね。


>>>将軍の孫だから黙認されたのなら、田沼はなぜ登用されたのでしょうね?
>>
>>綱吉、吉宗以来の側用人政治の伝統を継ぐものとして、九代将軍家重の遺
>>訓で十代将軍家治が重用した、ということになっています。幕府財政に予
>>算制度を取り入れ、商品経済の進展に着目して流通税(運上)の導入など
>>で財政改革に成功した(天明の飢饉までの間)などの功績はあります。
>

>家重との性的関係による重用じゃないんですか。

え、九代将軍家重の寵臣は田沼ではなくて大岡忠光では? たしか言語
障害があった家重の言葉を解するのは忠光だけだったとか...


>江戸時代の政治って、経済的手腕より、この辺りで、けっこう決まって
>いた面もあるんですけ>どねえ。元禄の三匹の犬の関係もそうだったし。

それ自体を否定するつもりはないですが、家重と田沼の関係はチト誤
解のような気がしますけどね。ちなみに田沼が側用人から老中に出世
して政治の実権を握ったのは十代将軍家治の代になってからですが、
田沼は家治よりも18歳年上ですので、こちらの念友関係も考えにくい。


>どうも、清水さんは、お側用人制度の弊害をすっとばして、やはり経済
>的側面に偏りますねえ。別にいいですけど、それはそれで一つの見解な
>ですからね。経済からの分析は、抽象化が過ぎて、おうおうにして本質を
>見のがすことが多くないですか。
>
>  # ないとおっしゃるだろうなあ。

いや、御側御用人制度の弊害は譜代門閥層から必要以上に言い立てら
れているという観点に基づいて、あえて積極的に擁護しているのです
がね。まぁ、御家騒動でもそうですが、日本人は必要以上に貴種を尊
びますから、そこらへんを差し引いて考えているのです。


>>で、松平定信はこれら田沼の政策を頭から全否定しているだけ。
>
>定信は殖産なんかに全く貢献しなかったとおっしゃるんで?

従来から産業化に着手されていたもの以外には興味も示さず、本草学を
軽視してますからね。彼自身の貢献はたいしたことはないな、と。


>>>「武士の借金踏み倒し」を「土建屋の債権踏み倒し」と一緒に考えて
>>>はいけませんよ。
>>
>>ほう、ではどこが違うのですか? 「切り捨て御免」も実際には許容されなく
>>なっており、経済秩序の維持を考えたら、たとえ武士であっても借金踏み倒
>>しは社会混乱の原因になります。
>

>当時の利息ってどれくらいだったんでしょうね。

さぁ? 利息が高いと言うのであれば、調所のように無利子長期償還に切り
替えるという手法などもあったのに、元金まで踏み倒しも可、では貨幣経
済は成立しませんぜ。


>また、武士の借金って、なぜそれが作られたかという観点から、正当
>化できる面も多いでしょう。

御冗談でしょ。利息の軽減は正当化できますが、元金の踏み倒しを正当
化できる理屈なんぞありません。


>彼しかやっていないから、ひどいということではないでしょう。確かに
>借金棒引き令は彼だけです。しかし、それほど札差もえげつなく儲けて
>いたということですな。これ、否定されますか?

その理屈で正当化できるのは利息軽減、利息棚上げまでですよ。


>>定信に民主主義や自由経済を受容せい、とは言ってません。荻原重秀以来の
>>経済官僚の政策、吉宗以来の開明政策を否定するのは間違いだ、と言ってい
>>るのです。
>

>心を鬼にして、しめるときはしめないと、ポスト田沼時代は、もっと
>悲惨になった、という解釈も可能でしょう。

たった6年の政権で、成果もろくすっぽ出てないのに?


>>>ここになぜ文化大革命やポルポトの政策が持ち出されるのか、理解できませ
>>>んが・・・。
>>
>>上記の通り。(ちなみに私の説ではなく大石氏の受け売りです。)
>

>ふーん、清水さんって、歴史に詳しいけど、受け売りだったんですか。

自分でその説の信憑性が高いと判断できればね。いちおう周辺資料も
当たった上での「受け売り」をやってます。


>>はい、よしださん自身も他人に説教垂れている通り、まずは読んでみると
>>いいでしょう。
>
>僕が説教を? ああ、「真相」を読んだのかどうかの話ですね。でも、
>ここでは何の関係もないでしょう。どう結びつくのですか。

記事 <01be6f7c$9056fb80$LocalHost@default> の文言;

だったら、お読みになってから、この記事をお書きになられたらよろし
かったのに。

ですね。

>ひろい意味の「国家法人説」ね。国家自体を意思力を持つ観念として把握
>しようが、天皇を機関と把握しようが、それは彼が為政者でないことを説
>明していないでしょう。

いや、政治論の方です。(長尾「日本国憲法思想史」p.20)

帝国憲法下においても、天皇は国内に敵をつくって統合的地位を失う
べきではないとすれば、議会の議決した法律案に不裁可権を行使せず、
国務大臣の輔弼のままに「大権」を行使すべきで、それによって神聖
不可侵(無答責)という憲法第三条の原則が保ちうる

ようするに為政者に正統性を授与するのみの行為しかしない、すべきで
ない、ということの方です。

>お思いになるのは勝手なんですが、どんな分野の知識が中途半端
>なのか、教えてくださいますか。エールリッヒですか、これでも、
>川島武宜と河上倫逸の訳本で基礎理論は読んだのですけど。それと
>も、GHQですか。判例ですか。何かしら?

不敬罪とプラカード事件の顛末について、です。つまり

判決の翌日(1946年11月3日)に、GHQ指令で不敬罪の運用は停止した

というところまでトレースされていない、ということ。

TANAKAJIMA Masayuki

unread,
Mar 24, 1999, 3:00:00 AM3/24/99
to
ksh...@dd.iij4u.or.jp (Kaz SHiMZ)さん:
| >定信は幕臣であるとともに藩主ですからね。
| ひとり禁制を破っていいとする理由にはならんでしょう。

| >自藩を維持するのも、将軍から与えられた藩主の立派な使命ですから


| えー、「自藩のことのみを考えてはいかん」というのが田沼幕閣の方針なの
| ですけどね。それを定信が公然と破り、

本当ですか?
強硬な反対にあって、自藩に限定した政策実施を余儀なくされたの
ではないでしょうか?

田中島正幸 ta...@vc-net.ne.jp

domus

unread,
Mar 24, 1999, 3:00:00 AM3/24/99
to
Kaz SHiMZ <ksh...@dd.iij4u.or.jp> wrote in article
<7csf57$onu$1...@news00.iij4u.or.jp>...

> 記事 <01be7141$b168c940$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> で,
> domus <arti...@pc.highway.ne.jp> さんは書きました;
>

>> 不拡大命令を無視した事に対する処罰は課されましたか。

> 日本的官僚組織の悪弊は旧軍にも蔓延しており、日中戦争においては明示
> 的かつ疑問の余地のない不拡大命令は発せられておらず、よって、処罰も
> ない、という認識になります。

>> 或いは全く逆のケースも考えられます。不拡大命令を出したと言う事自
>> 体が事実に反し、戦線拡大が昭和天皇を筆頭とする軍中央の考えだった
>> と言う可能性もあります。この場合には昭和天皇が職務怠慢であったと
>> 言う事には成りません。

> これもまた日本的官僚組織の悪弊は旧軍にも蔓延しており、明示的かつ疑
> 問の余地のない拡大命令もまた、発せられていなかったハズです。

と言う事は、大半の軍事行動は現地に派遣された軍の独断により決行され、
日本軍としての指揮命令系統が正常に機能していなかったと言う事でしょう
か。現地派遣軍の独断専行を許したとなるとその軍の統帥権者は統帥権を適
正に行使したとはとても言えませんね。

>>>  例えば戦争の計画について、天皇が計画作成を命令したり、提出さ
>>> れた計画について修正を命令したり却下したりしていたなら実質的な最
>>> 高権力者と言えます、しかし、寡聞にしてその様な例は知りません。
> >
> >そんな事は無いでしょう。
>

> # 公式に自らの意思を貫いたのは 2.26事件の処理と降伏の時だけ、と。

この二つだけが別であったとするのは如何にも不可解です。(理由は後述し
ます。)

> それから、統帥権の運用には憲法だけではなく内閣官制も関与しており、
> 特に帷幄上奏は内閣官制により規定されています。ここらへんの関連法規
>(要するに明示憲法の法体系)も考慮する必要がありますし、日中戦争の
> 頃はどうであったかについては大杉一雄「日中十五年戦争史」中公新書で
> も詳述されていますが、決して単純な天皇親裁ではなかったことは確実で
> す。

責任の所在を不明確にするために単純で無かったと言う点に関しては異議有
りません。

> >例えば1945年初頭、戦況が益々悪化してきた為、早期戦争終結を側近が
> >度々進言していたにも拘わらず、昭和天皇は戦況が好転するまで戦争終

> >結をすべきでは無いとこれを頑なに拒み、挙げ句の果てにポツダム宣言


> >受諾に追い込まれたと言う話は私のように歴史に造詣の深くない人間で
> >も耳にする話ですが、Shiroさんはご存知ないですか。
>
> このような解釈はツマミグイ的史料収集の結果であるデッチ上げで、実状
> とは異なるのではないか、という疑問も、私のように降伏経緯に関する研

> 究書を数冊漁っただけの浅学な人間にもすぐ出てくる話ですが、domus さ
> んの解釈の根拠は何ですか? その信憑性はご自分で考慮されていますか?

ご指摘の通り、私の知識は全くツマミグイであり、それに基づく解釈は恣意
的な要素が多いですから、これに対する批判に対して反論は致しません。し
かし昭和天皇の言動に関する研究で恣意的でない解釈など存在するのでしょ
うか。(理由は後述します。)

> たぶん、天皇自らの希望で昭和20年2月に連続して行われた、重臣六人と
> の謁見(戦局の見通しと終結に関する意見の徴収)の一環である、近衛文
> 麿との問答(2月14日)のことをツマミグイ的に解釈した本を信用されて
> いるのだと思いますが、

その通ですが、Shiroさんが「天皇が実質的最高権力者と言う事は寡聞にし
て知りません。」とおっしゃったので、私の知り得る範囲で伝え聞いた内容
をご紹介したに過ぎません。

> 近衛は概略、「敗戦は必至であり、それに乗じて革新派勢力(陸軍の統制
> や革新官僚等を近衛はこのように見ていた)が、共産革命を企てるのは間
> いない」という見通しのもとに「これを防ぐには早期和平、その前提は陸
> の粛軍、すなわち統制派を排除して皇道派か宇垣系の将官を登用するこ
> と」を奏上しています。(いわゆる「近衛上奏文」はこの進言をまとめた
> もの)これに対し、昭和天皇は
>
> 「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」
>
> と返答されたということです(侍立していた内大臣の木戸幸一の記録)。

取り敢えずお尋ねしますが、これは木戸幸一の私的な記録と言う事で宜しい
ですね。



> で、「中々話は難しいと思う」の想定対象は、和平なのか粛軍なのか、判

> 然としないものがありますし、・・・

どうしてこんなに明快な内容がSHiMZさんには判然としないのでしょう。
近衛は「敗戦は必至でありこれに乗じて企てられるであろう共産革命(統制
派が共産革命を引き起こすと言う考えには納得できない部分も有りますが、
取�闃 8 えずここでは論点から外します)を阻む為には一刻も早く和平すべし
。但し早期和平実現の為にはそれを阻む勢力の排除が前提だ。」と天皇に言
ったと言う事ですね。それに対して昭和天皇が「もう一度戦果を挙げてから
でないと中々話は難しいと思う。」と若し本当に言ったとしたら、天皇の意
図した事が、「和平は難しい」と言う意味である事は容易に判断できますよ
。若し天皇が只単に「中々話は難しいと思う。」と言ったのなら、ご指摘の
通り、和平が難しいと言う意味なのか、粛軍が難しいと言う意味なのか判断
する事は容易ではありません。しかし「もう一度戦果を挙げてからでないと
・・・。」と言った以上、これは和平が難しいと言う意味に解釈するのに何
の躊躇も要らないでしょう。理由は簡単です。もう一度戦果を挙げてしまっ
たら、粛軍の口実が無くなってしまうからです。

> ・・・他の史料に見えるこの前後の側近や重臣自身の考えである、「戦況
> がある程度好転しないと、戦争終結を日本が言い出しても連合国側は受諾
> しないだろう」という見通しに近いのではないか、という解釈の方が妥当
> なような気がします。

ここも私には理解出来ない論理ですね。何故日本にとって戦況が好転しない
と「連合国側が日本からの戦争終結案を受諾しない」と考えるのですか。日
本にとって戦況が好転しないと日本が戦争終結を提案し難いと言うなら容易
に理解できますが。連合国からすれば日本の戦況が不利なうちに連合国にと
って有利な条件で戦争終結を図ろうとするのに何の不都合も無いでしょう。

> 連合国側ではスチムソン米陸軍長官が戦争をボクシングに喩えて、「相手
> が弱みを見せた時に、折角勝ちかけている方がパンチを控える、などとい

> うのは論外だ」と言ってますし、真珠湾攻撃で米国民が憤激していること
> も考慮すると、「日本が劣勢になったとたんに手を上げても、相手が取り
> 合ってくれるわけがない」ということでしょう。

劣勢に成った途端とおっしゃいますが、1945年2月時点では、日本が劣勢に成
ってから既に2年余り経過しているではありませんか。今まで優勢に展開して
いた戦況が急遽劣勢に成った訳ではありませんね。

> ただし、その時点での対日戦後処理案として公表されているカイロ宣言に
> 明示されたように、満州事変以後の占領地および朝鮮と台湾も放棄すれば
> 和平は可能でしょうが、それでは、本土決戦までも主張する徹底抗戦派が
> 受容するはずがなく、国内分裂を憂慮する必要があり(昭和天皇以上に内
> 大臣=側近No.1の木戸がクーデター恐怖症だったという評価もある)、結
> 論としては「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」
>
> になったという解釈を私はしています。

しかし依然として、この解釈では粛軍の口実は得られませんな。(和平の口
実は得られるかも知れませんが。)もう一度戦果を挙げれば国内分裂の危機
は取り敢えず回避できるかも知れません。しかしそれを回避出来たからと言
って粛軍の口実にはならんでしょう。粛軍の口実が唯一得られるとすれば、
それはこの時点で天皇が和平を推進しようとした時に、天皇の意に反して徹
底抗戦を唱える勢力が軍内部に存在する場合です。即ち天皇に公然と反旗を
翻す勢力が顕然化した場合にのみ粛軍の口実は得られるのです。

> でもって、私が過去読破した史料の中には、「戦況が好転するまで戦争終
> 結をすべきでは無い」「これを頑なに拒み」に該当するような頑なな言動
> は、一切出てこないのですよね。このような表現は、私見では「為にする

> 誇張」でしかないと思っているのですが、domus さんは、こちらの解釈が
> 正しいとする論拠、確実な史料をご存じなのでしょうか?

有りません。
ではShiMZさんの解釈を確実にする資料は存在するのですか。天皇の取り巻き
の私的な記録では駄目ですよ。

> domus さんがこれ以上疑念を呈するのであれば、そちらから論拠を提出す
> べきです。さもなくば、単なる思い込みということになるでしょう。

はいおっしゃるように私の見解は思い込みの要素が強いと思います。ならばSh
iMZさんの解釈が思い込みでは無い事を裏付ける公式な文書なり録音テープが
存在するのですか。天皇の言動を逐一公式に記録した資料です。

> >所で歴史に無知な人間の単純な質問(疑問)なのですが、所謂御前会議
> >の議事録は存在するのでしょうか。存在する場合、この文書は公開され
> >ていますか。
>
> 公的に正式な議事録は取られていませんが、8月9日の最初の聖断が下され
> た御前会議の内容は、迫水久常内閣書記官長の手記(「機関銃下の首相官
> 邸」)池田純久綜合計画局長官の記録(江藤惇監修「終戦工作の記録」に
> 収録)で公開されていますし、8月14日の二回目の聖断が下された御前会
> 議の内容も、迫水久常内閣書記官長の手記と下村宏国務大臣の回顧録
> (「終戦秘史」講談社学術文庫、原題は「終戦記」)にて公開?
> す。「終戦記」の一部 は記事 <7clh30$hol$1...@news00.iij4u.or.jp> で
> も紹介しました。

公式な議事録は一切無く、手記、回顧録の類しか存在しないと言う事ですね


> >私は昭和天皇は統帥権を適正に行使なさったと認識しておりますが、若
> >しShiroさんのおっしゃる事が事実だとすると、昭和天皇は職務怠慢と
> >言う事に成りますね。憲法に定められた職責をまともに果たさなかった


> >事になりますから。
>
> 文春文庫の「昭和天皇独白録」には、昭和史研究家4人(伊藤隆・児島

> 襄・秦郁彦・半藤一利)の座談会形式の「解題」がついていますが、彼ら
> の解釈する憲法に定められた天皇の統帥権に係る職責の理解と domus さ
> んの理解はどうも異なるような気がします。一度目を通されることをお勧
> めします。

ご紹介頂いた「昭和天皇独白録」と言うのは天皇が自らの半生を回顧した内
容を記録に留めた物でしょうか。暇が有れば目を通して見たいとは思います
が、若し天皇自らが事後に語った内容だとしたら、これをもって客観的で公
正な記録とする事は出来ませんね。天皇が全て真実を語ったと言う保証は全
く無いからです。

> で、昭和天皇が然るべき立場にあったかどうか、冷静に議論されればいい
> のですよね。そして、思い込みに依存した議論は勘弁願いたいな、と。

若しShiMZさんが私の記事は取るに足らない思い込みだと思われるのなら、そ
んな記事など黙殺なさったらいかがですか。如何なる記事にも反論しなけれ
ばならないと言う義務は無いのですから。それともわざわざ私の下らない私
論に長々と反論なさると言う事は、「天皇批判」はそれが如何に下らない代
物で有ろうと一般に流布される事は好ましい事では無い、この種の言動は何
としても阻まなくてはならぬという使命感に燃えた行動なのですか。だとし
たら「ご苦労様です。」としか言いようが有りませんが。

では最後に先にお約束した昭和天皇の言動に関する様々な研究や解釈に対し
て私が何故懐疑的となるのかと言う理由をご説明したいと思います。

私の私論はツマミグイの知識を基とした恣意的解釈である事は既に述べた通
りです。ですから私の私論は下らないと一蹴する事はいともた易い事でしょ
う。そこでふと疑問に思う事が有ります。帝国憲法下の昭和天皇の言動に関
する研究や解釈で、恣意的でないものが一体全体この世に存在するのだろう
かと言う疑問です。歴史を専門に研究する高名な学者や文筆家の研究であっ
ても、それが恣意的でないとする論拠が有るのだろうかと言う疑問です。昭
和天皇の言動に関する研究や解釈においては如何にそれが論理的に緻密に組
み立てられた見解であろうと、私には砂上の楼閣に見えてしまうからです。

何故私にはそれが砂上の楼閣に見えてしまうのでしょう。理由は簡単です。
その論理の基礎となるべき資料に信憑性が全く無いからです。昭和天皇の言
動を逐一公式に記録した文書は存在しないと思われます。(但し若しこれが
存在する場合は、以下の私の言説は単なる暴論として黙殺してください。以
下は存在しない事を前提とした私論です。)唯一存在するのは、天皇の側近
の私的なメモや回想録に過ぎません。(天皇の独白録が有ったとしてもこれ
も公的な客観性は有りません。)

国家にとって重要な意思決定の会議における公式な会議録の不在は客観的に
天皇の言動を知る手掛かりを得る上で致命的です。しかしそれでも日頃天皇
に接する機会の有る人々の私的記録が存在するなら、若しそれらの人々が一
定の条件を満たせば、その記録を基にして天皇の言動を或る程度類推する事
も全く不可能な事では無いでしょう。

では一定の条件とは何かと言えば、それは日頃天皇に接する機会を有する人
々の全員が天皇のシンパ(シンパが含まれていても構わないが)であっては
ならないと言う事です。しかしこれは現実問題として有り得ません。日頃天
皇に批判的な人間や、天皇と一定の距離を置いて接する様な人間が天皇の側
近として使える事などおよそ帝国憲法下では考えられないからです。(現憲
法下でもそれは無理でしょう。)

と言う事は、天皇の取り巻きが如何に天皇の美談を私的メモに残した所でそ
れは飽くまで主観によって尽く脚色された美談に過ぎません。喩え百の証言
、千の証言が有ろうと、それが天皇のシンパによる証言で有る限り、公正さ
と言う観点からはその証言の価値はゼロに等しいのです。これらの美談を基
にして如何に高名な学者が更にこれを脚色し、難しく理論付けした所で美談
は所詮美談であってそれ以上の不可価値は付けようが無いのです。

見解の基礎資料が科学的に検証不能な恣意的資料で有る以上、如何にそれを
論理的に組み立てようと科学的検証可能な成果物が産まれる筈が有りま� 9 ん
。そこに有るのは、天皇はかく有るべし、天皇はかく有って欲しいと言う希
求、願望だけです。そこに有るのは歴史を科学する姿勢では無く信仰です。


--
怒夢巣


Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 25, 1999, 3:00:00 AM3/25/99
to
よしだです。

Kaz SHiMZ wrote in message <7dak06$plo$2...@news00.iij4u.or.jp>...


>清水です。
>
>記事 <7da38r$5vb$1...@news.zzz.or.jp> で,
>Masayuki YOSHIDA <m-...@england.com> さんは書きました;
>
>>白石は別として、「荻原より退化」などと言われては、定信は立つ瀬がない
>>でしょうね。僕の貧困な知識だと、荻原は元禄の貨幣悪鋳で、武士はむ
>>ろん、庶民の生活に大打撃を与えた張本人じゃあないですか。
>
>それは白石による荻原弾劾が効を奏したからです。

この貨幣悪鋳は、ちょっとひどすぎましたねえ。むちゃくちゃですよ。
しかもこれによって、得たカネの使い道が、またむちゃくちゃでした。

えー、荻原は、たとえば金座・銀座の町人や御用商人から26万両の賄
賂をとり、珍宝類を蓄えていたんですよ。まあ、えげつない奴ですねえ。この
26万両がいったいどれくらいすごい額かというと、旗本・御家人全員の
給与が、当時、年30万両だったんですからねえ。こういう奴が帳簿を握っ
ていたんですから、幕府のなかに盗人を飼っていたみたいなもんですわ。

  # 白石が萩原と刺し違えたかった気持ちわかるなあ。

こういう奴より、信念の秀才・定信を「退化」とおしゃるんですから、どういう
神経をもっておられるんでしょうねえ。

>水戸藩の藤井紋太夫、薩摩藩の調所笑左衛門、長州藩の村田清風など、
>微禄から叩き上げた江戸時代の経済官僚はすべて門閥派(守旧派)に
>権力闘争で破れており、御家騒動などと絡めて悪役にされ必要以上に
>ボロクソに伝えられているのです。そこらへんを鵜呑みにして考える
>か否かの違いなんですけどね。

藤井って、小石川邸で光圀に手討ちにされた老中でしょ。あの事件では
「微禄からのたたき上げ」は関係ないでしょ。それより、経済官僚は、
今よりはるかに誘惑が多くて、金まみれに汚れていたというのが真相
じゃないんですか。

門地門閥なんかが関係あるなら、白石なんか、もとはと言えば、木下
順安塾出の浪人じゃあないですか。

>>しかも彼は新田開発や金銀山開拓なんかでかなり悪辣なことをやってのけ、
>>ついには、あなたがあげた新井白石の弾劾にあって罷免されたじゃないで
>>すか。
>
>銀座疑獄は新井白石らのでっち上げという説もありますので、額面通
>りに考えない方がいいですよ。ちなみに、よしださんが列挙されてい
>る「悪辣なこと」から鑑みるに、大久保長安と荻原を混同されている
>ように思います。荻原が実権を振るったのは関東総検地と金銀貨幣改
>鋳の方ですし、幕命による新田開発は四代家綱の代で終わっていたと
>記憶してます。

いくらなんでも甲斐の猿楽師と荻原を混同するわけないでしょ。

  # 風太郎の描いた長安は、おもしろかったけど。

>>かなりレベルの低いこの手の阿呆と定信を比較する神経がちょっと
>>理解できませんねえ。
>
>まぁ、よしださんは実状ではなく、彼ら経済官僚の政敵の流布した虚
>像を元に考えておられるようですから仕方ないですな。

流布した虚像ねえ。それを主張しているご本をちょっとご教示願えま
すか。荻原に関するのだけでもいいんですが・・・。読んでみますよ。

>>>>庶民だけでなく、将軍家以下、すべての国民の生活水準を下げたのでしょう。
>>>
>>>ほほう、11代将軍家斉やその実父一橋治済の生活水準を下げる意図があった
>>>とまで主張されますか。ぜひぜひ * ご自分で * 論証してみてくださいな。
>>
>>ということはそちらはすでに検証済みってことですね。
>
>いえ、探しているが実際には見つからないのです。一橋治済がそんな
>政策を飲むハズがない、と彼の言動から推測しているのではあります
>が、一方で定信の失脚の原因が大奥の冗費節約を強行しようとしたた
>めとも言われているので、どうなっていたのか検証して欲しいな、と。
>
># よしださんの依拠されている史料を拝見したいな、とも。

家斉なんか、たなごころのうちでしょ。なにしろ当時まだ前髪を落とし
たばかりですから。また治済に対しては、定信は老中就任まえに十分
因果を含めているはずです。そんな風に、定信の自伝に書いて在った
記憶があります。

定信は失脚したのではなく、自分でやめたようです。

  # 依拠するのは、楽翁自伝ですけど(笑)。

>>まず定信がなぜ改革(僕は必ずしも改革とは思いませんが)の主導的席に
>>指名されたのかというと、彼が自藩での建て直しに成功していたからです。
>
>えー、一橋治済との密約による、というのが定説でしょ。11代将軍に
>一橋治済の息子の家斉を立てることに同意して、田沼を追い落とした、
>と。佐野善左衛門による田沼意知刺殺もその一環で、当時の長崎オラ
>ンダ商館長のチチングも意知刺殺を「幕府高官の示唆によるもの」と
>見ています。

まあ如何なる人事にも、いろいろ騒動があるんですが、基本は、定信
が主席老中になる「力量」があったということでしょう。幼少から相当
の秀才ですよ。政策については、彼は上から下まで多くの議論を重ね、
万全の準備をしていました。これはおみとめになられますか。

>>この藩政改革の過程で、国政に腕をふるえる素地を作り、実績を持っていた
>>のです。また多くの閣僚もある程度、自藩を立て直した人たちだったと
>>聞きます。
>
>まぁ門閥層が評価する「建て直し」の実態は、ほとんどが農民からの
>収奪強化であって、貨幣経済への対応・殖産興業といった面での効果
>を挙げたのは西国雄藩だけです。この時代にどのような「建て直し」
>に着手・実践していたか、が明治維新期に如実に現れています。

西国の地理的有利さを無視したらだめですよ。

また、薩摩でおこなわれた、農民への苛斂誅求といえる政策は、もう大
変なもんだったと聞いています。

明治と言えば、定信の遺法が生きましたね。町入用から蓄えた積立金
が、明治初年には、実に170万余両に達し、これを東京市の共有金と
して、その一部が橋の架け替えとか、商業講習所設立とか、府庁・市庁
舎の建築費とか養育院へと生きた金として使われましたね。

>>>本人が質素で意図は良かった、ということだけで高く評価してはいけません。
>>>このあたりは「男子の本懐」浜口雄幸や井上準之助も同じですが。
>>
>>僕なんか、今の世相やここ十年の日本を見て、定信をそろそろ経済的
>>観点からの批判から解放してやるべきではないか、と思っています。
>
>保科正之、上杉鷹山や恩田木工なら私も高く評価しますが、定信は
>まったく評価できません。

ふーん、「まったく」評価できませんか。

しかし、清水さんも定信の功績としてあげられた、無宿寄場の設置、
これは治安政策、刑事政策、労働政策の観点から大変評価できます。

>>>>経済学のみで定信を嗤うのは、酷というものです。
>>>
>>>政治はつまるところ経世済民です。
>>
>>で、清水さんが評価する田沼はそれをやったとおっしゃるわけです
>>か。あのような、チョー差別封建国家日本で。
>
>やろうとして天明の飢饉で挫折した、ということですな。

まあ、何という好意的な解釈でありましょうか。

>>できなかったのではなく、しなかったのです。彼の役割は終えたから
>>であり、彼が二度と幕政に参画する気持ちを持たなかったからです。
>
>わはは、宇下人言を額面通りに信じない方が良いと思いますよん。

で、「額面通り」に信じないと、どういう解釈になるのでしょうか。

>政治家の回想なんぞ自己欺瞞と美化の塊ですから。新井白石にしても
>同様で、文才のおかげで後世、政敵を貶めることに成功はしています
>が、それが真実だと考えると嵌まります。

どの辺りでどんな風にはまるのでしょうか。

>>みっともなく、猟官に走る凡庸な政治家とそこが違うのです。
>
>そこまで褒め上げなくてもいいような気もしますがね。

少なくとも、定信は猟官に走りませんでした。誉める一つの材料
ではありますね。

   # 特に昨今の日本の老馬・廃馬が走るのを見ているとね。

たしか老中を退いたのは、まだ40ぐらいじゃなかったですか。

>>>えー、田沼の出した法令の意図は、上方・西国方面においては食糧の余剰が
>>>あり、流通市場(という言葉はなかったのですが)を機能させれば、東北地
>>>方で不足している食物をそちらから回すことが可能である、というものです。
>>>なので「売り惜しみと買い占めを禁止」が全国的に命ぜられています。
>>
>>で、実際、どういう結果になったんですか。
>
>結局は米が不足したために、白河藩に米1万石を売り渡した会津藩など
>では餓死者が相次ぐ事態になってますね。

つまり、清水さんが気に入っておられる田沼の政策は、失敗したわけ
ですね?

>>>大正時代以前の妄説に基づく定信擁護はどうでもいいです。最近の社会経済
>>>的な意味での江戸時代の研究書を読んでから書いてください。徳川吉宗や水
>>>野忠邦の政策はそれなりに社会の近代化というか貨幣経済、経済圏の広域化
>>>に対応しているのですが、定信は韓非子の言うところの「株を守るの類なり」
>>>でしかないです。どう号令したところで、御神君の時代に戻るわけがないの
>>>だが... 権威でもってそれを強要したあたりが「阿呆」の証左。
>>
>>どれだけ、知識をお持ちなのか、何がそれほどの自信を与えている
>>のか、ここまでののしるのは、「あっぱれ」ですなあ。
>
>いや、よしださんの定信擁護も負けず劣らず「あっぱれ」だと私は思い
>ますけどね。

なるほど。

>>>>将軍の孫だから黙認されたのなら、田沼はなぜ登用されたのでしょうね?
>>>
>>>綱吉、吉宗以来の側用人政治の伝統を継ぐものとして、九代将軍家重の遺
>>>訓で十代将軍家治が重用した、ということになっています。幕府財政に予
>>>算制度を取り入れ、商品経済の進展に着目して流通税(運上)の導入など
>>>で財政改革に成功した(天明の飢饉までの間)などの功績はあります。
>>
>>家重との性的関係による重用じゃないんですか。
>
>え、九代将軍家重の寵臣は田沼ではなくて大岡忠光では? たしか言語
>障害があった家重の言葉を解するのは忠光だけだったとか...

それは知っています。脳梅をわずらっていたと聞いたことがあります。

>>江戸時代の政治って、経済的手腕より、この辺りで、けっこう決まって
>>いた面もあるんですけ>どねえ。元禄の三匹の犬の関係もそうだったし。
>
>それ自体を否定するつもりはないですが、家重と田沼の関係はチト誤
>解のような気がしますけどね。ちなみに田沼が側用人から老中に出世
>して政治の実権を握ったのは十代将軍家治の代になってからですが、
>田沼は家治よりも18歳年上ですので、こちらの念友関係も考えにくい。

年の差なんて・・・(笑)。

>>どうも、清水さんは、お側用人制度の弊害をすっとばして、やはり経済
>>的側面に偏りますねえ。別にいいですけど、それはそれで一つの見解な
>>ですからね。経済からの分析は、抽象化が過ぎて、おうおうにして本質を
>>見のがすことが多くないですか。
>>
>>  # ないとおっしゃるだろうなあ。
>
>いや、御側御用人制度の弊害は譜代門閥層から必要以上に言い立てら
>れているという観点に基づいて、あえて積極的に擁護しているのです
>がね。まぁ、御家騒動でもそうですが、日本人は必要以上に貴種を尊
>びますから、そこらへんを差し引いて考えているのです。

差し引くとどのような解釈の差が生まれるのですか。

>>>で、松平定信はこれら田沼の政策を頭から全否定しているだけ。
>>
>>定信は殖産なんかに全く貢献しなかったとおっしゃるんで?
>
>従来から産業化に着手されていたもの以外には興味も示さず、本草学を
>軽視してますからね。彼自身の貢献はたいしたことはないな、と。


その意味では後進性は否めません。

>>>>「武士の借金踏み倒し」を「土建屋の債権踏み倒し」と一緒に考えて
>>>>はいけませんよ。
>>>
>>>ほう、ではどこが違うのですか? 「切り捨て御免」も実際には許容されなく
>>>なっており、経済秩序の維持を考えたら、たとえ武士であっても借金踏み倒
>>>しは社会混乱の原因になります。
>>
>>当時の利息ってどれくらいだったんでしょうね。
>
>さぁ? 利息が高いと言うのであれば、調所のように無利子長期償還に切り
>替えるという手法などもあったのに、元金まで踏み倒しも可、では貨幣経
>済は成立しませんぜ。

でも、実際は、成立したでしょう。

>>また、武士の借金って、なぜそれが作られたかという観点から、正当
>>化できる面も多いでしょう。
>
>御冗談でしょ。利息の軽減は正当化できますが、元金の踏み倒しを正当
>化できる理屈なんぞありません。


本当にないですか?

>>彼しかやっていないから、ひどいということではないでしょう。確かに
>>借金棒引き令は彼だけです。しかし、それほど札差もえげつなく儲けて
>>いたということですな。これ、否定されますか?
>
>その理屈で正当化できるのは利息軽減、利息棚上げまでですよ。


状況によりますね。

>>>定信に民主主義や自由経済を受容せい、とは言ってません。荻原重秀以来の
>>>経済官僚の政策、吉宗以来の開明政策を否定するのは間違いだ、と言ってい
>>>るのです。
>>
>>心を鬼にして、しめるときはしめないと、ポスト田沼時代は、もっと
>>悲惨になった、という解釈も可能でしょう。
>
>たった6年の政権で、成果もろくすっぽ出てないのに?

まあ、何を成果と見るかによって、見解は違ってきますね。また、定信は
在任期間を5ー6年と考えていました。あのような厳しい倹約令は、そう
長くつづかないことを知っていました。つまり、彼は進むに退くの準備をな
していたのです。

主席老中である以上、定信がやらねばならないことは、家光の政策のふ
たつのタブーつまり鎖国と朝廷問題を解決することでした。田沼時代には
その二つがすでに大きな問題のまま放置されていました。

>>>>ここになぜ文化大革命やポルポトの政策が持ち出されるのか、理解できませ
>>>>んが・・・。
>>>
>>>上記の通り。(ちなみに私の説ではなく大石氏の受け売りです。)
>>
>>ふーん、清水さんって、歴史に詳しいけど、受け売りだったんですか。
>
>自分でその説の信憑性が高いと判断できればね。いちおう周辺資料も
>当たった上での「受け売り」をやってます。

でも、それって「受け売り」とは言わないでしょう。清水さんは、「私の説
ではなく大石氏の受け売りです」と明記されています。もし「受け売り」
と読み手に解釈してほしくなければ、オリジナルのコメントでそのように
書いておいてくださらないと、混乱を招きます。

>>>はい、よしださん自身も他人に説教垂れている通り、まずは読んでみると
>>>いいでしょう。
>>
>>僕が説教を? ああ、「真相」を読んだのかどうかの話ですね。でも、
>>ここでは何の関係もないでしょう。どう結びつくのですか。
>
>記事 <01be6f7c$9056fb80$LocalHost@default> の文言;
>
> だったら、お読みになってから、この記事をお書きになられたらよろし
> かったのに。
>
>ですね。

で、この再録記事でもって、あなたから僕が批判されなければならない
理由は何なんですか。

「真相」という雑誌を読んでから意見を言って欲しいと僕が言った状況は、
その雑誌「真相」そのものを読まないと意見が吐けないという状況でした。
ですから、僕は「真相」を読んでから、意見を吐いて欲しいと申しあげた
のです。

一方、清水さんが僕を批判された状況は、単にご自分が読んだ本を僕
が読んでいないので、まず読んでから、意見を吐けということでしょう。
そうですね? であるとするならば、それは、あなたと違って単にこうした
場で、カジュアルな議論を楽しんでいる一読者には、過大な要求というも
ので、言葉を変えれば「余計なお世話」というものです。

ちなみに、再録いただいた僕の発言は、「説教」ではなく、残念な気
持ちを表明させていただいただけです。

>>ひろい意味の「国家法人説」ね。国家自体を意思力を持つ観念として把握
>>しようが、天皇を機関と把握しようが、それは彼が為政者でないことを説
>>明していないでしょう。
>
>いや、政治論の方です。(長尾「日本国憲法思想史」p.20)
>
> 帝国憲法下においても、天皇は国内に敵をつくって統合的地位を失う
> べきではないとすれば、議会の議決した法律案に不裁可権を行使せず、
> 国務大臣の輔弼のままに「大権」を行使すべきで、それによって神聖
> 不可侵(無答責)という憲法第三条の原則が保ちうる
>
>ようするに為政者に正統性を授与するのみの行為しかしない、すべきで
>ない、ということの方です。

ふーん、で、清水理論によると、その範囲の行為として、天皇は、宣戦布
告、敗戦の詔書ができるわけですね。つまり同じ行為を仮にアメリカや
イギリスがやれば、為政者の行為となるが、日本の天皇の場合そうはな
らないということですね。

このような解釈がまかり通るならば、つまり、仮に正当性があるとするな
らば、その正当性は単に、ローカルな法による正当性に過ぎないわけで
すね。まあ、何とでも好きなことを明文化して、あとで、その法があるから
ということで、正当化できるということになりますわな。

>>お思いになるのは勝手なんですが、どんな分野の知識が中途半端
>>なのか、教えてくださいますか。エールリッヒですか、これでも、
>>川島武宜と河上倫逸の訳本で基礎理論は読んだのですけど。それと
>>も、GHQですか。判例ですか。何かしら?
>
>不敬罪とプラカード事件の顛末について、です。つまり
>
> 判決の翌日(1946年11月3日)に、GHQ指令で不敬罪の運用は停止した
>
>というところまでトレースされていない、ということ。


この議論の初めに僕が出典として明示した、ねず氏の本に、詳細な
経緯が記述されています。当然、僕は読んでいるわけで、「中途半端」
と言われるのは、心外だなあ。

  # 別に言われてもいいけど。

で、プラカード事件とエールリッヒはどう結びつくのか、まだご説明をい
ただいておりませんが・・・。

YOSHIDA Masayuki

Shiro

unread,
Mar 25, 1999, 3:00:00 AM3/25/99
to
 17日から24日までの間のMasayuki YOSHIDAさんの記事が届いていないの
で、アーカイブサービスで見つけた物について投稿します。


From: "Masayuki YOSHIDA" <m-...@england.com>
Subject: Re:誤解?(Re:無責任体制ここに始る)
Message-ID: <7d1t9a$656$3...@news.zzz.or.jp>
について

 「天皇への大規模な抗議集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった」は「大規
模なデモ隊が宮城へ向かった」と誤解される表現だ思います。誤解をしたのは
読解力が原因なのか、表現力が原因なのかについては議論しません。
#過去に見た類似の事例では不毛な議論になっていた為です。

 「台所事件」の頃に行われていた活動に、工場の自主管理(経営者が手を引
いた工場で、労働組合が経営・生産・販売を行った)、食料の自主配給(食料
について生産者や消費者が協力し、生産・輸送・配給を管理する)等が有りま
す、これらはまともな政治・経済活動だと思います。しかし、数を頼んで他人
の台所を覗くのはまともとは思えません。

 アフリカや北朝鮮の飢饉でやせた子供を見れば可哀相と思いますが、具体的
な救援活動もしないし、食事の量も減らしません。ある人が豊富な献立の食事
している事と飢えた人間の居る事を認識している事は両立すると思います。
 豊富な献立や豊富な食材が「皇族は飢えた国民のことなど念頭になかった」
の有力な証拠になるとは思えません。


>で、「真相」には目を通されましたか?

 近くの図書館は「真相」を所蔵していません。少し離れた所に有る大きな図
書館は「真相」を所蔵していますが、該当号の前後は未所蔵です。他の図書館
について調べてもらい取り寄せる事も出来るのでしょうが、「突撃レポート。
有名人の台所を直撃!!」みたいな記事の為に図書館の人の労力は使いたくあ
りません。

From: "Masayuki YOSHIDA" <m-...@england.com>
Subject: Re:愚問?(Re:無責任体制ここに始る)
Message-ID: <7d1t9b$656$4...@news.zzz.or.jp>
より

>要するに、あなたと僕の見解の相違でしょうね。

同意します。


--
Shiro mailto:h9s...@tky2.3web.ne.jp

Shiro

unread,
Mar 25, 1999, 3:00:00 AM3/25/99
to
 Kaz SHiMZさん、Akinori MURAKAMIさん、ありがとうございます。
 御二人のおかげで記憶だけで書いた記事がウソならずに済みました。
 「大陸で紛争が起きた時、軍中央(天皇の統帥権の代行者)の不拡大命令を
現地の軍が無視した。」の記事を書いた時は「不拡大方針の軍中央から、上海
地区限定で出動命令を受けた軍の一部が勝手に南京攻撃を始めた」と言う記憶
を元に書きました。

 記憶の元になった事を本で確認したところ以下の様になっていました。
 11月7日、上海派遣軍と第十軍をもって中支那方面軍が編成された。
 中支那方面軍の作戦目的が「上海付近ノ敵ヲ掃滅」であり、追撃の限界が
「蘇州、嘉興ヲ連ネル戦以東」となっている。(11月7日付臨命600号)
 11月15日、第十軍司令部は軍司令官(柳川平助中将)も臨席して幕僚会
議を開き、「軍全力ヲ以テ独断南京追撃ヲ敢行スル」ことを決した。
 11月19日、第十軍が独断で南京に向かって追撃に移ったのを参謀本部が
知った。
 11月28日、大本営(11月20日設置)では下村作戦部長がやっと多田
駿参謀次長を口説き落とし、南京攻略に同意させた。

 「天皇の統帥権の代行者の不拡大命令を現地の軍が無視した。」は臨命60
0号が参謀総長名で出ていれば正しいと言えますが、命令者は書いていないの
でお手上げです。
 参謀総長、参謀本部、軍中央の区別をきちんとしていない為でした。
#陸軍中央とは、陸軍省と参謀本部のお偉方と考えて良いのだろうか。


 満州事変の命令違反についても調べてみました。 
 林朝鮮軍司令官は、昭和6年9月19日に金谷参謀総長に電報で独断出兵を
禁止されたのに、関東軍に増援部隊の派遣を依頼されると、吉村達次郎少将の
第39旅団を奉勅命令を待たずに、二日後の9月21日に満鮮国境を越させて
います。しかも軍隊が国外に出兵する場合は、奉勅命令が無いと動員出来ない
と言う軍律があります。
 その後、越境出兵は問題になったらしいのですが、林朝鮮軍司令官は処罰さ
れるどころか、逆に「越境将軍」ともてはやされ、陸相・首相になったとの事
なので、軍律が乱れる訳です。


--
Shiro mailto:h9s...@tky2.3web.ne.jp

Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 26, 1999, 3:00:00 AM3/26/99
to
よしだです。

Yasuyuki Miura wrote in message ...


>ksh...@dd.iij4u.or.jp (Kaz SHiMZ) writes:
>
>> 記事 <7da38r$5vb$1...@news.zzz.or.jp> で,
>> Masayuki YOSHIDA <m-...@england.com> さんは書きました;
>>

>>>>>庶民だけでなく、将軍家以下、すべての国民の生活水準を下げたのでしょう。
>>>>
>>>>ほほう、11代将軍家斉やその実父一橋治済の生活水準を下げる意図があった
>>>>とまで主張されますか。ぜひぜひ * ご自分で * 論証してみてくださいな。
>>>
>>>ということはそちらはすでに検証済みってことですね。
>>
>> いえ、探しているが実際には見つからないのです。一橋治済がそんな
>> 政策を飲むハズがない、と彼の言動から推測しているのではあります
>> が、一方で定信の失脚の原因が大奥の冗費節約を強行しようとしたた
>> めとも言われているので、どうなっていたのか検証して欲しいな、と。
>

>ずっと昔にどこかで見たことがある話なのですが(どこで見たか忘れました)・・・
>
>ある日家斉の膳部かららっきょうが消えたので「なぜらっきょうを出さないの
>か」と家来に聞いた所、「定信がらっきょうの栽培を禁じたため入手できなく
>なった」と答えたという話があるのだそうです。
>
>そうでなくても、定信の大奥に対する干渉は結構うるさかったそうで、将軍の
>私生活にまで干渉が及んでいたらしいですよ。何でも将軍の閨の回数まで干渉
>していたのだとか・・・
>
>個人的に思うのですが、こんなことをするから最後には将軍と将軍の親父さん
>にまで嫌われるんじゃないかなと思わないでもないです。もうちょっと政治的
>配慮とか取引みたいなのを考えても良かったのではないかなという感じもしま
>す。

上に立つ者としてのうつわの問題でしょう。定信は、みずからの政策を実行
するにあたっては、用意周到、根回し、ディスカッションを十分に行っています。
思いつきでやったわけではありません。

たかが数年の倹約の辛抱に何をごじゃごじゃ言っているねん、と言いたいで
すね。将軍は若くてしょうがないとしても、将軍の父は、「ふむ、このようなこま
かいところにまで配慮をしているのか」と、定信に逆に敬意をはらうべきでしょ
うね。なにしろ納得して彼に仕事を任せたのですからねえ。

YOSHIDA Masayuki


Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 26, 1999, 3:00:00 AM3/26/99
to
よしだです。

In article<7dd9qs$580$1...@news2.tky.3web.ne.jp>, Shiro
<h9s...@tky2.3web.ne.jp> writes:

> 17日から24日までの間のMasayuki YOSHIDAさんの記事が届いていないの
>で、アーカイブサービスで見つけた物について投稿します。

いやはや、痛み入ります。

>From: "Masayuki YOSHIDA" <m-...@england.com>
>Subject: Re:誤解?(Re:無責任体制ここに始る)
>Message-ID: <7d1t9a$656$3...@news.zzz.or.jp>
>について
>
> 「天皇への大規模な抗議集会が開かれ、デモ隊は宮城へ向かった」は「大規
>模なデモ隊が宮城へ向かった」と誤解される表現だ思います。誤解をしたのは
>読解力が原因なのか、表現力が原因なのかについては議論しません。
>#過去に見た類似の事例では不毛な議論になっていた為です。
>
> 「台所事件」の頃に行われていた活動に、工場の自主管理(経営者が手を引
>いた工場で、労働組合が経営・生産・販売を行った)、食料の自主配給(食料
>について生産者や消費者が協力し、生産・輸送・配給を管理する)等が有りま
>す、これらはまともな政治・経済活動だと思います。しかし、数を頼んで他人
>の台所を覗くのはまともとは思えません。

それも一つの実践倫理でしょうが、彼らにとっては、圧政をつづけていた奥の
院を覗けたという千載一遇のチャンスだったわけで、まあ、大目に見てやって
くださいな。それに、許可を得たからこそ覗けたのですから、許容範囲の行動
でしょう。

  # 天皇さんの威を借りた狐なんか、土足で家に上がってきて、
  # 問答無用で庶民をひっぱっていったんですぜ。

> アフリカや北朝鮮の飢饉でやせた子供を見れば可哀相と思いますが、具体的
>な救援活動もしないし、食事の量も減らしません。ある人が豊富な献立の食事
>している事と飢えた人間の居る事を認識している事は両立すると思います。
> 豊富な献立や豊富な食材が「皇族は飢えた国民のことなど念頭になかった」
>の有力な証拠になるとは思えません。

まあ、両立していると思うことそれこそが、まさに、アフリカや北朝鮮の飢餓
にある子どものことが念頭にないということでしょう。可哀相と思う気持ち「だけ」
を持つことは、そういう気持ちを持った人にとっては、快感であると、僕は、
皮肉を交えて言いたいですね。off topicですので、それぐらいしておきましょう。

>>で、「真相」には目を通されましたか?
>
> 近くの図書館は「真相」を所蔵していません。少し離れた所に有る大きな図
>書館は「真相」を所蔵していますが、該当号の前後は未所蔵です。他の図書館
>について調べてもらい取り寄せる事も出来るのでしょうが、「突撃レポート。
>有名人の台所を直撃!!」みたいな記事の為に図書館の人の労力は使いたくあ
>りません。

でも、現代のそういう感覚とは、当時はおよそ違うでしょう。宮城はある
イデオロギーをもった人たちにとっては、怨嗟の対象だったのです。

YOSHIDA Masayuki

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 26, 1999, 3:00:00 AM3/26/99
to
清水です。

記事 <7dd8is$11v$1...@news.zzz.or.jp> で,
Masayuki YOSHIDA <m-...@england.com> さんは書きました;

>>それは白石による荻原弾劾が効を奏したからです。
>
>この貨幣悪鋳は、ちょっとひどすぎましたねえ。むちゃくちゃですよ。

グレシャムの法則「悪貨が良貨を駆逐する」を援用してよしださん同様に
荻原を非難する歴史学者がいるのは知っていますが、これは、古典的な金
本位制を是とするスタンスになろうかと思います。

で、古典的な金本位制は急激な経済成長期には適合しない(むしろ停滞期
の静的な経済にこそ適合する)という考えもあって、元和偃武以来の経済
発展に対する金詰まり(デフレ)に対応した荻原の政策は、言われるほど
にはむちゃくちゃではないと思います。物価の高騰に対して無策だったの
は事実ですが、それは貨幣改鋳とは別問題だと思います。とにかく、当時
において、貨幣流通量を増やす必要はあったと私は認識しています。


>しかもこれによって、得たカネの使い道が、またむちゃくちゃでした。

うーむ、実際に使ったのは五代将軍綱吉とその生母の桂昌院ではないか、
と私は考えているのですが。


>えー、荻原は、たとえば金座・銀座の町人や御用商人から26万両の賄
>賂をとり、珍宝類を蓄えていたんですよ。まあ、えげつない奴ですねえ。

といわれている判決自体、たしか荻原自身が獄死するのを待ってから下
されており、これは「政治裁判」的な意味が深いと思います。自らの政
敵を貶め、かつ、門閥層には係累を及ぼさない手法(死人に全て責任を
転嫁)であり、新井白石の周到さを物語るものだと私は白石を割合高く
評価していますが... 荻原がチトかわいそうな気がします。

なお、白石を引き立てた六代将軍家宣は、荻原のことは「徳はないが才
はある」として白石による弾劾を退けていたのですが、家宣が死んだと
たんに荻原は解任され獄舎に繋がれました。


>この26万両がいったいどれくらいすごい額かというと、旗本・御家人


>全員の給与が、当時、年30万両だったんですからねえ。こういう奴が
>帳簿を握っていたんですから、幕府のなかに盗人を飼っていたみたいな
>もんですわ。

で、荻原も田沼もそうですが、彼らの得た裏金のほとんどは、大奥や門
閥層への付け届けに転じているんです。これは、封建制における門地的
裏付けのない連中の保身術なのですが、ひとたび失脚するとすべて彼ら
が専有していたように扱われ、大樹公や門閥層は頬かむり... です。そ
こらへんを見落としていませんか。

# 古くは秦の商鞅も、車裂きの極刑に処されたという...

>こういう奴より、信念の秀才・定信を「退化」とおしゃるんですから、どういう
>神経をもっておられるんでしょうねえ。

荻原も、その政敵の白石も、貨幣問題について荻原=不兌換紙幣派(「
貨幣などというものは詰まるところ瓦でもいいのだ、御上に対する信頼
さえあれば」などと言っていたそうな)vs白石=金本位制派(良貨こそ
経済安定のもと)といった具合に一家言あって、それなりに実績を上げ
ていたわけですし、両者ともに年貢率の低下にともなう幕府の収入不足
の改善にも実績を上げているので、まともな神経だと自分では思ってま
すよん。


>藤井って、小石川邸で光圀に手討ちにされた老中でしょ。あの事件では
>「微禄からのたたき上げ」は関係ないでしょ。

ん? 「老中」?

ここ、藤井紋太夫について誤解されているような気がしますが...
再確認された方が良いと思います。


>それより、経済官僚は、今よりはるかに誘惑が多くて、金まみれに汚れ
>ていたというのが真相じゃないんですか。

それは否定しませんが、金を引き出すために経済官僚を使うだけ使って
世評が悪くなると朱子学的大義名分論で「秩序紊乱」「分際を知らぬ」
などと経済官僚と御用商人に責を被せて財産没収という、封建制におけ
る門閥層のタチの悪さを見逃してはいけませんぜ。

ちなみに、誘惑が多かったのは経済官僚だけではありません。賄賂とい
う面で見れば、下馬将軍酒井忠清、田沼の前の老中首座の松平武元とい
った門閥層出身の政権担当者も悪びれることなく大々的に賄賂を取って
います。「まいないつぶれ」は家斉の岳父、島津重豪ですし。


>門地門閥なんかが関係あるなら、白石なんか、もとはと言えば、木下
>順安塾出の浪人じゃあないですか。

で、白石も将軍(六代将軍家宣)のお引き立てにあずかった儒者だった
ので、吉宗に代替わりした途端にお役御免ですよね。で、役宅もそれに
応じて変更されるのですが、白石の屋敷替えの前後に江戸で火事があり、
屋敷を返上したはいいが、移転先の屋敷が焼失していた、という憂き目
に遭っています。門地門閥のない人が実権を失うと、悲しいですね。

まぁ、白石は、武断政治を退け儒教道徳に基づく政治を旨とし、荻原の
ように私腹を肥したり、定信のように庶民取り締まりを強化することも
なく、門閥層にも慇懃だったので、後世、付け込まれるようなことが少
ないのだと思います。しかし、その分、白石の擁護者だった側用人の間
部詮房が悪く書かれていますね。七代将軍家継の生母と同じ炬燵に入っ
ていた事などが伝えられていますが、これ、ホントは同衾していたので
はないか、などと私も想像を逞しくするわけで。

そして、あたしは白石の手腕も高く評価しています。ただ、荻原にはな
かった「徳」がある代わりに、ちとその政敵に対するヒステリーが目立
つところには辟易しているのではありますが。


>流布した虚像ねえ。それを主張しているご本をちょっとご教示願えま
>すか。荻原に関するのだけでもいいんですが・・・。読んでみますよ。

記事 <7d7t9d$qoa$1...@news00.iij4u.or.jp> に挙げてあります。それ以外
にも、中瀬勝太郎「江戸時代の賄賂秘史」築地書館、も行間を読むと面
白いと思います。まぁ、さすがに私は荻原が清廉潔白だったとは主張し
ませんが、同時代において彼一人が極悪人と言われるレベルだったとは
絶対に思えない、ということです。スケープゴートであったという側面
を考慮すべき、とも言えますな。


>定信は失脚したのではなく、自分でやめたようです。

これは誤認でしょう。

定信が伊豆・相模方面の視察に出かけた隙に、同僚(首謀者は老中松平
信明・老中格本多忠籌と言われる)により電撃的に解任されています。

# これにも、一橋治済の陰謀を私は感じています。

なお、平凡社の世界大百科事典CD-ROM第二版にも、

しかし定信が将軍家斉や一橋治済らと対立したり,その厳しすぎる緊
縮政治に人心が離れたりしたため,93年(寛政5)定信は老中および将軍
補佐役を免じられた。

とあります。自発的辞任ではなく、失脚です。


>まあ如何なる人事にも、いろいろ騒動があるんですが、基本は、定信
>が主席老中になる「力量」があったということでしょう。幼少から相当
>の秀才ですよ。政策については、彼は上から下まで多くの議論を重ね、
>万全の準備をしていました。これはおみとめになられますか。

奥州白河という経済的には後進地帯にあった小規模な農業経済圏での政
策を、江戸大阪を含む天領にまで適用しようとした定信を「秀才」だと
は思えない、ということです。つまり「株を守るの類なり」です。吉宗
と違って一般庶民とは縁遠く、所詮「万全の準備」は書生論だというの
が、私の評価です。

# まぁ、田舎の領主のままでいればボロが出なかったのに、と。


>西国の地理的有利さを無視したらだめですよ。

いえ、このスレッドの前の方で書きましたが、版図の規模も相当影響し
ているとは思っています。東北でも弘前藩(表高10万石で実収30万石と
言われた)や秋田藩(表高20万石)なども、財政改革に成功して、戊辰
戦争では新政府寄りに立ちました。


>また、薩摩でおこなわれた、農民への苛斂誅求といえる政策は、もう大
>変なもんだったと聞いています。

同時代の東北地方の領主と比べても、定信の政策は一藩完結型で、発展
性が乏しいのです。本草学や農学を蘭学や陽明学に繋がるものとして軽
視したツケが回っています。生糸や漆、蝋などの特産品の生産を奨励し、
産物を領外に移出して貨幣経済に適合しながら改革を進めた、米沢藩の
上杉鷹山、秋田藩の佐竹義和、弘前藩の歴代藩主と比べると、格段に落
ちます。

>明治と言えば、定信の遺法が生きましたね。町入用から蓄えた積立金
>が、明治初年には、実に170万余両に達し、これを東京市の共有金と
>して、その一部が橋の架け替えとか、商業講習所設立とか、府庁・市庁
>舎の建築費とか養育院へと生きた金として使われましたね。

江戸時代の間は、死蔵されていたわけですよね。なぜ江戸時代にそうい
う有効な投資が行われなかったのか、を考えると功罪相半ばです。


>で、「額面通り」に信じないと、どういう解釈になるのでしょうか。

一橋治済や成人した将軍家斉に疎んぜられたこと、緊縮財政路線を最初
は支持していた同僚たちにその行き過ぎを畏怖されたこと、御三家や御
三卿の一橋家に幕政への口出しを許したので、従来の幕府の意思決定の
中核であった溜間詰めの大老相当家格や雁間詰めの老中・若年寄相当家
格の譜代大名の反発を買った、等で同僚から詰腹を切らされた、と。

また、松浦静山の甲子夜話だったと思いますが、定信が田沼邸に日参し
て猟官運動をしていた話があるようです。何か特定の役職に就きたかっ
たのだそうな。田沼邸には常時20~30人の大名が詰めていた、とも言い
ますが。


>少なくとも、定信は猟官に走りませんでした。誉める一つの材料
>ではありますね。

まぁ、他人ほどには熱心ではなかった、とは私も認識していますが、猟
官運動と無縁だったわけではないようです。


>たしか老中を退いたのは、まだ40ぐらいじゃなかったですか。

37歳だったと記憶しています。で、家斉の方が長生きしたのが彼の不運
かもしれません。


>つまり、清水さんが気に入っておられる田沼の政策は、失敗したわけ
>ですね?

これは田中島さんの記事 <7danuu$63...@vs04.vc-net.ne.jp> の

> | えー、「自藩のことのみを考えてはいかん」というのが田沼幕閣の方針なの
> | ですけどね。それを定信が公然と破り、

> 本当ですか?
> 強硬な反対にあって、自藩に限定した政策実施を余儀なくされたの
> ではないでしょうか?

への返答となりますが、田沼の政策は結局、大名(特に大藩)の公然た
る反抗にあっており、実際には藩単位での売り惜しみ・買い占めが進ん
だために(自領の防衛のために行われる津留政策=移出禁止の政策の方
を各藩は積極的に選好した)、結果として流通市場に出回る米が減少・
高騰して、結果として経済基盤の弱い小藩の被害が増加した、という解
釈を私はしています。

# 余剰米は飢饉地方ではなく、各藩の借金返済に伴う現金化のために、
# 江戸大阪に優先的に回された、というのもあるのだが...

実際には譜代門閥層や大藩を抑えられず、田沼は政策を貫徹していま
せん。貫徹しても餓死者の発生は防げなかったと思います(前後数年
にもおよぶ飢饉ですから)。結局全国的な統制は機能していません。

> >>また、武士の借金って、なぜそれが作られたかという観点から、正当
> >>化できる面も多いでしょう。
> >
> >御冗談でしょ。利息の軽減は正当化できますが、元金の踏み倒しを正当
> >化できる理屈なんぞありません。
>
> 本当にないですか?

結果論で書くと、担保等のない零細御家人は踏み倒しを恐れた金貸しか
ら融通してもらうのが以前よりも困難になり、松平定信の人気は御直参
の間でも低落しています。


>で、この再録記事でもって、あなたから僕が批判されなければならない
>理由は何なんですか。

あくまで当方の「希望」を申し上げているつもりで、元々の記事を書い
た際の参照点を再録したのが、批判になるのかなぁ。そう受け取られた
のでしたら私の書き方が悪いのでしょう。


>一方、清水さんが僕を批判された状況は、単にご自分が読んだ本を僕
>が読んでいないので、まず読んでから、意見を吐けということでしょう。

短絡的に書けばそうですね。

まぁ、よしだ説に対する異論を読んだ上で、更にどのような評価を下さ
れるのかを実は期待していたのと、自説の論証を私に振ろうとした手抜
きを、ここらで一発、挽回して欲しいな、と思っていました。


>であるとするならば、それは、あなたと違って単にこうした場で、カ
>ジュアルな議論を楽しんでいる一読者には、過大な要求というもので、
>言葉を変えれば「余計なお世話」というものです。

なるほど。

そうであるなら、私によしだ説の論証を依頼するがごとき記述もまた、
ご遠慮願えますか。


>ちなみに、再録いただいた僕の発言は、「説教」ではなく、残念な気
>持ちを表明させていただいただけです。

なるほど。「説教」は私の誤読ですね。どうもスイマセン。しかしなが
ら、私も「希望」を申し上げさせていただいただけですので。


>>ようするに為政者に正統性を授与するのみの行為しかしない、すべきで
>>ない、ということの方です。
>
>ふーん、で、清水理論によると、その範囲の行為として、天皇は、宣戦布
>告、敗戦の詔書ができるわけですね。つまり同じ行為を仮にアメリカや
>イギリスがやれば、為政者の行為となるが、日本の天皇の場合そうはな
>らないということですね。

「日本の天皇」を「イギリスの国王」「アメリカの大統領」ではなく、
単に「イギリス」「アメリカ」と併記される意図がよくわからんので、
問に対する答という形式ではなく、以下のような説明にしておきます。

まず、イギリスの場合、為政者は内閣総理大臣であって、宣戦布告や降
伏の文書は国王の名前で出されるが、その責任は国王にはないだろう、
と考えます。また、イタリア王国においても直接的に責任を問われたの
はムッソリーニの方で、王制存続を否定した戦後の国民投票でも、圧倒
的大差がついているわけではないです。要するに、これらの国において
は元首たる国王は為政者ではない(なかった)、と思います。

アメリカ合衆国の大統領は、明治憲法下の天皇ですら実際には行使しえ
なかった(行使しうるかどうかについても学説が別れた)、議会の議決
した法案を否認することも、憲法で可能だと明記されていますし、過去
何回か実行していますよね。そのあたりを考慮すると、大統領は元首か
つ為政者です。

あと、現在のドイツやイタリアでは国家元首は大統領ですが、為政者は
内閣総理大臣という体制だと認識しています。

# つまるところ、サミットに出てくる面々が為政者。

まぁ、これらの認識をもとに、私は「元首がすなわち為政者であるとは
考えない」、つまり、元首は政治行為に正統性を与える存在であるが、
必ずしも為政者と一致しない、と。で、「明治憲法においても、天皇は
元首であると明記されているが、政策選択権が実運用上でないのである
から、為政者ではないだろう」と考えます。


>この議論の初めに僕が出典として明示した、ねず氏の本に、詳細な
>経緯が記述されています。当然、僕は読んでいるわけで、「中途半端」
>と言われるのは、心外だなあ。

ははあ、そうなんですか。これは失礼をばいたしました。スイマセン。

ただ、その記述があって、それを読んでいて、きっちり結末まで書かな
いというのにも、チト違和感があります。


>で、プラカード事件とエールリッヒはどう結びつくのか、まだご説明をい
>ただいておりませんが・・・。

はぁ、実際に施行されていた法が、裁判を通じてその効力を否認された、
という点が、いかにも、法社会学の教科書に書いてあった、エールリッヒ
が先鞭をつけたという自由法論、すなわち

法律に欠陥があるかぎり、裁判官は法律以外の法源によって裁判すべき

を体現してるよなぁ、と思ったわけです。エールリッヒを出したのは、
この文脈によるものです。(教科書は碧海純一先生の本でした)

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 26, 1999, 3:00:00 AM3/26/99
to
清水です。

記事 <qz290cngf...@jaist.ac.jp> で,
Yasuyuki Miura <m...@jaist.ac.jp> さんは書きました;

>ずっと昔にどこかで見たことがある話なのですが(どこで見たか忘れました)・・・


>
>ある日家斉の膳部かららっきょうが消えたので「なぜらっきょうを出さないの
>か」と家来に聞いた所、「定信がらっきょうの栽培を禁じたため入手できなく
>なった」と答えたという話があるのだそうです。

ああ、これは私の記憶にもあります。

が、定信は幕府政策の威信を高めるため、御三家と御三卿のうち一橋家に
いちいちお伺いを立てて同意を得た上で政策を実施しています。諸大名の
反抗を防ぐという意味もあって。

で、わざわざ「御三卿のうち一橋家」、つまり一橋治済にまで配慮してい
るわけで、上記の話はいかにもありそうですが、チト尾鰭のつけすぎじゃ
ないかな、とも考えてはいます。で、ホントに将軍家の費用を削ったなら、
それこそ「らっきょう」程度の小話では済まないような... 根拠はないで
すが、そういう気持ちなのです。


>そうでなくても、定信の大奥に対する干渉は結構うるさかったそうで、将軍の
>私生活にまで干渉が及んでいたらしいですよ。何でも将軍の閨の回数まで干渉
>していたのだとか・・・

うーむ、家斉が後年、歴代将軍中で最も好色になったのは、その反動?


>個人的に思うのですが、こんなことをするから最後には将軍と将軍の親父さん
>にまで嫌われるんじゃないかなと思わないでもないです。もうちょっと政治的
>配慮とか取引みたいなのを考えても良かったのではないかなという感じもしま
>す。

「我こそは吉宗公の孫、御神君の玄孫」という正統意識が強すぎた、とい
うことでしょうか。江戸時代の封建制度においては、徳川家康との関係の
濃淡で貴賎が決まるわけで、定信は若い頃、自分こそが将軍になるべきだ、
という意識が強烈にあったそうですから... 制度的には門閥層に配慮して
いますが、実際には将軍や親藩譜代の大名を軽んじる気持ちが傍目にも露
呈していたのではないか、と私は邪推しています。

# だから将軍家や一橋家の家計をどう取扱ったのか興味がある、と。

Kaz SHiMZ

unread,
Mar 26, 1999, 3:00:00 AM3/26/99
to
清水です。

記事 <01be763a$b88ece60$Loca...@a2.pc.highway.ne.jp> で,
domus <arti...@pc.highway.ne.jp> さんは書きました;

>現地派遣軍の独断専行を許したとなるとその軍の統帥権者は統帥権を適
>正に行使したとはとても言えませんね。

いや、これは文面が出てこないのですが、陸軍法規では、現地軍司令官や
参謀による独断専行を許容しているハズです。あるいは各軍司令官の職責
として、管轄地域内での隷下軍隊の指揮権が賦与されています

陸軍大学での参謀教育もこれに沿った形で行われています。


>> と返答されたということです(侍立していた内大臣の木戸幸一の記録)。
>
>取り敢えずお尋ねしますが、これは木戸幸一の私的な記録と言う事で宜しい
>ですね。

東京裁判で述べた内容でもあるそうなので、いちおう公的な記録と認識し
てもいいような気がしますが、たぶん、「公的」の意味が domus さんの
意図したそれとは違いますね。


>どうしてこんなに明快な内容がSHiMZさんには判然としないのでしょう。

>理由は簡単です。もう一度戦果を挙げてしまったら、粛軍の口実が無く
>なってしまうからです。

考え方が domus さんとは違うので、判然としないのです。

これが東條政権下での話であるなら、戦果を挙げてしまったら東條が居座
る、と考えられますが、当時は小磯(・米内連立)内閣になっていて、東
條一派から「弱腰」と言われ指導力に疑問が持たれた小磯内閣の下で戦果
を挙げれば、小磯総理が指導力を発揮して、陸軍上層部の東條一派の排除
が容易になる、と考えられます。

近衛の言う「粛軍」は、軍の縮小を意図したものではなく、まずは政府・
陸軍内部の主導権を東條一派から奪うことを意図しています。

# しかしながら、私はこの意味での粛軍は上手くいかない、とも思ってい
# ます。東條一派は排除できたとしても、皇道派や宇垣系の人間が、近衛
# らの考える和平に賛成するかどうか確証がなかったと思う。


>ここも私には理解出来ない論理ですね。何故日本にとって戦況が好転しない
>と「連合国側が日本からの戦争終結案を受諾しない」と考えるのですか。

前述した通り、この時点で連合国側が受諾する日本からの戦争終結案はカ
イロ宣言の受諾だけであり、これ以外は受諾しない、と考えます。そして、
当時においてカイロ宣言の受諾を日本の徹底抗戦派が受入れるわけがない。
よって、当時において日本が出しうる戦争終結案は連合国に受諾されない
内容でしかありえない、と考えるからです。

逆にお聞きしますが、

昭和20年2月時点で日本政府が連合国に提出しうる和平案

の内容は、どのようなものだと考えておられますか? そして、その案が連
合国に受容されるものだ、という論拠もお願いします。


>日本にとって戦況が好転しないと日本が戦争終結を提案し難いと言うなら
>容易に理解できますが。連合国からすれば日本の戦況が不利なうちに連合
>国にとって有利な条件で戦争終結を図ろうとするのに何の不都合も無いで
>しょう。

昭和20年8月15日時点においても、蘭印、仏印、マレー、シンガポール、
中国大陸の相当な地域、は日本軍占領下にありました。2月時点ではまだ、
フィリピンでの戦闘は終結しておらず、日本固有の領土には連合軍は侵攻
してきていません。この段階で、天皇が「カイロ宣言を受諾しよう」と言
い出せるとは思えませんし、近衛ら側近にしても、せめて満州事変以前の
領土は保持したい、と考えています。なので、日本がその時点で出せる戦
争終結案は連合国にとって受諾できるものではなかった、と私は考えます。

「一撃後和平論」とも呼ばれる、「もう一度戦果を挙げてから和平を」の
内容は、日本が反撃に成功して、戦線が膠着状態に陥れば、連合国側も戦
争の長期化を嫌って、和平条件をカイロ宣言より緩和させようとするだろ
う、という(希望的観測に基づく)ものですが、これの基盤には、「カイ
ロ宣言は、まだ、飲めない」という考えがあると思います。

つまり、戦争終結は、日本だけでなく連合国も受諾できる和平条件を出し
うるか否かで決まり、日本国内では陸軍を主とする徹底抗戦論者をも納得
させられる条件がまとまるか否かで決まる、と思うのです。

# 結局、戦局(見通し)と降伏条件の折り合いがついたのが、原爆投下と
# ソ聯の参戦の時期であった、と私は考えています。


>劣勢に成った途端とおっしゃいますが、1945年2月時点では、日本が劣勢に成
>ってから既に2年余り経過しているではありませんか。今まで優勢に展開して
>いた戦況が急遽劣勢に成った訳ではありませんね。

いや、昭和18年以降は、日本海軍が劣勢に立ってはいるものの、陸軍はレ
イテ戦までは「フィリピンが決戦場だ」と言っています。また、パットン
将軍が言うように、戦争の勝敗は最終的には歩兵部隊が領土を制圧して決
めるものですから、陸軍部隊が米英豪軍の侵攻を止めることができないこ
とが明白になった昭和20年初頭で、彼我の優劣が完全に明白になったと言
えるでしょう。特にそれを日本陸軍が自覚しえたと思います。


>しかし依然として、この解釈では粛軍の口実は得られませんな。(和平の口
>実は得られるかも知れませんが。)もう一度戦果を挙げれば国内分裂の危機
>は取り敢えず回避できるかも知れません。しかしそれを回避出来たからと言
>って粛軍の口実にはならんでしょう。粛軍の口実が唯一得られるとすれば、
>それはこの時点で天皇が和平を推進しようとした時に、天皇の意に反して徹
>底抗戦を唱える勢力が軍内部に存在する場合です。即ち天皇に公然と反旗を
>翻す勢力が顕然化した場合にのみ粛軍の口実は得られるのです。

前述の通り、近衛の言う「粛軍」を誤解されています。


>ではShiMZさんの解釈を確実にする資料は存在するのですか。天皇の取り巻き
>の私的な記録では駄目ですよ。

現在私が知っている範囲では、その条件の下では、ないでしょう。

まぁ、domus さんの解釈は恣意的なものだと御自身でお認めになっている
ので、とりあえず、双方の論を取り下げるのがいいのかも :-)


>ご紹介頂いた「昭和天皇独白録」と言うのは天皇が自らの半生を回顧した内
>容を記録に留めた物でしょうか。暇が有れば目を通して見たいとは思います
>が、若し天皇自らが事後に語った内容だとしたら、これをもって客観的で公
>正な記録とする事は出来ませんね。天皇が全て真実を語ったと言う保証は全
>く無いからです。

あぁ、この部分では私は、昭和史研究家による「解題」の方を参照されてみ
ては、と言っているのでして、天皇が全て真実を語っている、とか客観的で
公正な記録だ、とは私自身考えておりません。しかし、人の好悪や、昭和天
皇の判断基準、思考の傾向などについてはよく解ると思います。

なお、独白録の内容は、東京裁判を睨んで侍従を相手に述べられたもので、
即位~終戦直後の回想です。これに関しては日本放送出版協会の『昭和天皇
二つの「独白録」』、あるいは大月書店の『徹底検証・昭和天皇「独白録」』
といった解説書もあります。後者のスタンスは domus さんの解釈に近いと
思いますので、参照されるといいかもしれません。


>> で、昭和天皇が然るべき立場にあったかどうか、冷静に議論されればいい
>> のですよね。そして、思い込みに依存した議論は勘弁願いたいな、と。
>
>若しShiMZさんが私の記事は取るに足らない思い込みだと思われるのなら、そ
>んな記事など黙殺なさったらいかがですか。如何なる記事にも反論しなけれ
>ばならないと言う義務は無いのですから。

私は別に義務でやってるわけではなく、趣味でやってるのです。こうする
ことで結構、記事やメールで有益な示唆を頂くこともありますので。

で、反論されるのが嫌なら、ウェブに掲示されたらどうですか。NetNews
というメディアの性質を考えれば、投稿に反論がつくことは覚悟すべきで
す。あるいは猛烈な賛意を得ることもありえます。しかしながら、一方的
に思弁を垂れ流したいのであれば、その目的には向かないと思います。


>それともわざわざ私の下らない私論に長々と反論なさると言う事は、
>「天皇批判」はそれが如何に下らない代物で有ろうと一般に流布される
>事は好ましい事では無い、この種の言動は何としても阻まなくてはなら
>ぬという使命感に燃えた行動なのですか。

いえいえ、どちらかというと自分の知識を深めるための趣味的行動です。

また、私の知識に反する内容、示唆があった場合、その論拠を知りたいと
いう猛烈な欲求があります。それを表明する遣り方として、自説の論拠を
書くことにしているのですが、もしかして、うざったいですか?

しかし、これによって、私の思い違いがあればそれを指摘していただけま
すし、別の視点も紹介されることがあります。とあるNGOで「情報は発
信するところに集まる」というスローガンも聞いたことがありまして、参
照点が多数集まれば嬉しいな、というわけでこのスタイルはなかなか止め
られないのです。

で、ケチのつけようのない「天皇批判」ならば、静かに拝聴することもあ
ります。飯尾憲士の「自決」の各所に込められた天皇批判には、非常に感
服しました。


>見解の基礎資料が科学的に検証不能な恣意的資料で有る以上、如何にそれを
>論理的に組み立てようと科学的検証可能な成果物が産まれる筈が有りま〓ケん
>。

これを言いだすと、そもそも恣意的な論を投稿すべきでない、ということ
にもなりそうです。私は恣意的な論の投稿も、それに対する反論の投稿も、
いずれも個人の趣味の範囲内でやっているつもりでして、他人に対しても
投稿という行為自体をやめろ、と強要する気は毛頭ありません。しかしな
がら、恣意的な、ヘンテコに思える説は、やはり気にはなります。

そこらへんは誤解なきようお願いします。

TANAKAJIMA Masayuki

unread,
Mar 27, 1999, 3:00:00 AM3/27/99
to
ksh...@dd.iij4u.or.jp (Kaz SHiMZ)さん:

| # 余剰米は飢饉地方ではなく、各藩の借金返済に伴う現金化のために、
| # 江戸大阪に優先的に回された、というのもあるのだが...
|
| 実際には譜代門閥層や大藩を抑えられず、田沼は政策を貫徹していま
| せん。貫徹しても餓死者の発生は防げなかったと思います(前後数年
| にもおよぶ飢饉ですから)。結局全国的な統制は機能していません。
「飢饉・餓死」と「移住・脱藩」の区別はしてますか?

# 「藩」なんてものは、ただの入れ物だと思いますが。

田中島正幸 ta...@vc-net.ne.jp

Masayuki YOSHIDA

unread,
Mar 27, 1999, 3:00:00 AM3/27/99
to
よしだです。

Kaz SHiMZ wrote in message <7dfn5v$qvq$1...@news00.iij4u.or.jp>...


>清水です。
>
>記事 <7dd8is$11v$1...@news.zzz.or.jp> で,
>Masayuki YOSHIDA <m-...@england.com> さんは書きました;

> [...]


>>藤井って、小石川邸で光圀に手討ちにされた老中でしょ。あの事件では
>>「微禄からのたたき上げ」は関係ないでしょ。
>
>ん? 「老中」?
>
>ここ、藤井紋太夫について誤解されているような気がしますが...
>再確認された方が良いと思います。

誤解ではありません。老中といっても、幕閣ではなく、「水戸藩」の
職制に老中職があったはずです。

>>門地門閥なんかが関係あるなら、白石なんか、もとはと言えば、木下
>>順安塾出の浪人じゃあないですか。
>
>で、白石も将軍(六代将軍家宣)のお引き立てにあずかった儒者だった
>ので、吉宗に代替わりした途端にお役御免ですよね。で、役宅もそれに
>応じて変更されるのですが、白石の屋敷替えの前後に江戸で火事があり、
>屋敷を返上したはいいが、移転先の屋敷が焼失していた、という憂き目
>に遭っています。門地門閥のない人が実権を失うと、悲しいですね。

そうじゃないでしょ。誰であろうと、いったん実権を失うと哀れという
べきでしょう。その意味で、門閥・たたき上げは関係ないように思う
んですけどねえ。血統書付きでも、冷や飯食らっていた人もずいぶ
んいたじゃないですか。

>そして、あたしは白石の手腕も高く評価しています。ただ、荻原にはな
>かった「徳」がある代わりに、ちとその政敵に対するヒステリーが目立
>つところには辟易しているのではありますが。

儒者であったことを考慮すると、あんなもんじゃないですか。

>>定信は失脚したのではなく、自分でやめたようです。
>
>これは誤認でしょう。
>
>定信が伊豆・相模方面の視察に出かけた隙に、同僚(首謀者は老中松平
>信明・老中格本多忠籌と言われる)により電撃的に解任されています。
>
># これにも、一橋治済の陰謀を私は感じています。
>
>なお、平凡社の世界大百科事典CD-ROM第二版にも、
>
> しかし定信が将軍家斉や一橋治済らと対立したり,その厳しすぎる緊
> 縮政治に人心が離れたりしたため,93年(寛政5)定信は老中および将軍
> 補佐役を免じられた。
>
>とあります。自発的辞任ではなく、失脚です。

円満辞職か失脚かについては、後で述べます。

>>また、薩摩でおこなわれた、農民への苛斂誅求といえる政策は、もう大
>>変なもんだったと聞いています。
>
>同時代の東北地方の領主と比べても、定信の政策は一藩完結型で、発展
>性が乏しいのです。本草学や農学を蘭学や陽明学に繋がるものとして軽
>視したツケが回っています。生糸や漆、蝋などの特産品の生産を奨励し、
>産物を領外に移出して貨幣経済に適合しながら改革を進めた、米沢藩の
>上杉鷹山、秋田藩の佐竹義和、弘前藩の歴代藩主と比べると、格段に落
>ちます。

彼なりに農産物の商品化などをやっとりますが、樹木農業に限定して
いたところに、白河藩の後進性は否めません。諸工芸品の製作もすす
められましたが、ガラス器はかなりいいものが作れたそうで、あといろ
いろやったが、結局藩内での使用の域は、陶器を例外して超えられな
かったようです。

しかし、地道ですが、農業環境の整備にはつとめて成果はあげています。
たとえば、当時百姓の嫁が見つからないとわかると補助金を出して、
3000人以上確保したりしていますね。今山形の農村での嫁さがしと
似た悩みを、200年前に定信が解決しています。つまり、西川きよし
みたいに「小さいことからこつこつ」と、やっておったわけですな。

>>明治と言えば、定信の遺法が生きましたね。町入用から蓄えた積立金
>>が、明治初年には、実に170万余両に達し、これを東京市の共有金と
>>して、その一部が橋の架け替えとか、商業講習所設立とか、府庁・市庁
>>舎の建築費とか養育院へと生きた金として使われましたね。
>
>江戸時代の間は、死蔵されていたわけですよね。なぜ江戸時代にそうい
>う有効な投資が行われなかったのか、を考えると功罪相半ばです。

この積立金は、災害などの万一のための基金ですからね。むやみに投資
はできないでしょう。

   # 今の時代、経済的知識が豊富なのに皆さん、
   # マネー・ビルに失敗しとりますなあ。

>>で、「額面通り」に信じないと、どういう解釈になるのでしょうか。
>
>一橋治済や成人した将軍家斉に疎んぜられたこと、緊縮財政路線を最初
>は支持していた同僚たちにその行き過ぎを畏怖されたこと、御三家や御
>三卿の一橋家に幕政への口出しを許したので、従来の幕府の意思決定の
>中核であった溜間詰めの大老相当家格や雁間詰めの老中・若年寄相当家
>格の譜代大名の反発を買った、等で同僚から詰腹を切らされた、と。

一部、「文恭公実録」に依拠しておられるようですね。辞職した7月23日
付けに、

「輔佐松平定信職を免じ、左近衛権少将に任じ、溜班に列し、なほ大議
に参与す。蓋し異数と云ふ。是より先き定信の、相・豆・房・総の沿海を
巡視するや、内臣・宮嬪、間に乗じて之を譖す。是に於いて公やや定信
を厭ふ。定信累りに職を免ぜられんことを乞ふ。之をゆるす」

とあります。内臣らが家斉に譖したから、家斉がやや定信を嫌い、定信
もそれを察知して、辞職を乞うて、ゆるされたというわけです。

ただ、「文恭院殿御実紀」の7月23日の記述では、

「松平越中守定信、うちうち請ふままに、特旨をもて、輔佐加判の列を
ゆるされ、溜詰になされ、少将に任ぜらる。御輔佐命ぜられし以来、
万端の骨折り、莫大勤労の事に思し召し、こののち代々の内、溜詰
に仰せ付けらるる家格になし下されしとなり。よて布衣以上宿直の輩
へ、宿老これを伝ふ」

と、記述しています。これはどんな風に解釈しても、円満辞職を示唆し
ていますね。

>また、松浦静山の甲子夜話だったと思いますが、定信が田沼邸に日参し
>て猟官運動をしていた話があるようです。何か特定の役職に就きたかっ
>たのだそうな。田沼邸には常時20~30人の大名が詰めていた、とも言い
>ますが。

僕は老中を解かれた後の猟官運動について申しあげたのです。これは
やっていないでしょう。

ただ清水さんがおっしゃっているのは、たぶん、定信の自伝に見られる
次のような記述を指しているのではありませんか。家督相続をした天明
3年の記述ですが、

「この歳四品に叙せらる。もと家にて四十余りも過ぎねば四品はなし。家
格にはなさじ、格別のよしにて仰せを蒙りしなり。此の頃もはら権家へた
のみたりけれど、人のやうに金など多くまいなひしにもあらず。同じとし
眞田伊豆守四品になりしが、この物入りは、予(われ)に五、六倍しける
とぞいふ」

と、弁解しています。ようするに眞田伊豆守より少なかったが、田沼に
まいないをして、その運動が功を奏したのでしょう。清廉な性格の定信に
とって、内心忸怩たるものがあって、弁解がましい歯切れの悪い文章に
なっているようです。

>>たしか老中を退いたのは、まだ40ぐらいじゃなかったですか。
>
>37歳だったと記憶しています。で、家斉の方が長生きしたのが彼の不運
>かもしれません。

調べました。在任74か月、解職のときは、数え36歳、満では34歳と
7ヶ月でした。

>>一方、清水さんが僕を批判された状況は、単にご自分が読んだ本を僕
>>が読んでいないので、まず読んでから、意見を吐けということでしょう。
>
>短絡的に書けばそうですね。
>
>まぁ、よしだ説に対する異論を読んだ上で、更にどのような評価を下さ
>れるのかを実は期待していたのと、自説の論証を私に振ろうとした手抜
>きを、ここらで一発、挽回して欲しいな、と思っていました。

「手抜かり」。どういう意味でしょう?

>>であるとするならば、それは、あなたと違って単にこうした場で、カ
>>ジュアルな議論を楽しんでいる一読者には、過大な要求というもので、
>>言葉を変えれば「余計なお世話」というものです。
>
>なるほど。
>
>そうであるなら、私によしだ説の論証を依頼するがごとき記述もまた、
>ご遠慮願えますか。

あの手の記述など、無視なされればよかったのです。

答えなくても結構ですし、答えていただいても結構です。義務も義理も
何もありません。むろん、いつもながらご丁寧なコメントには、いろいろ
勉強させていただき、他のみなさんと同様、感謝はしておりますが・・・。
しかし、それは、きつい言い方をすれば、清水さんが、書きたいから書
いていらっしゃるという解釈もできるわけでして、僕が「依頼するがごと
き記述」をしたことによって、まあ、何ていうか、記事をお書きになった
ことで満足感を得られた面もあったのでは、という解釈もできるので
はと・・・。

>>ちなみに、再録いただいた僕の発言は、「説教」ではなく、残念な気
>>持ちを表明させていただいただけです。
>
>なるほど。「説教」は私の誤読ですね。どうもスイマセン。しかしなが
>ら、私も「希望」を申し上げさせていただいただけですので。

ええ、そうですね、こちらも失礼しました。スイマセン。

>>>ようするに為政者に正統性を授与するのみの行為しかしない、すべきで
>>>ない、ということの方です。
>>
>>ふーん、で、清水理論によると、その範囲の行為として、天皇は、宣戦布
>>告、敗戦の詔書ができるわけですね。つまり同じ行為を仮にアメリカや
>>イギリスがやれば、為政者の行為となるが、日本の天皇の場合そうはな
>>らないということですね。
>
>「日本の天皇」を「イギリスの国王」「アメリカの大統領」ではなく、
>単に「イギリス」「アメリカ」と併記される意図がよくわからんので、
>問に対する答という形式ではなく、以下のような説明にしておきます。

単に不完全な記述でした。

>まず、イギリスの場合、為政者は内閣総理大臣であって、宣戦布告や降
>伏の文書は国王の名前で出されるが、その責任は国王にはないだろう、
>と考えます。また、イタリア王国においても直接的に責任を問われたの
>はムッソリーニの方で、王制存続を否定した戦後の国民投票でも、圧倒
>的大差がついているわけではないです。要するに、これらの国において
>は元首たる国王は為政者ではない(なかった)、と思います。

イギリスでは、国会主権と見られているようですが、難点と曖昧さを指摘
する学者も多いようです。女王と政府の関係を見ると主権の落ち着く先
は、主権の生じた場所、つまり王位に戻るわけで、主権者は依然として
立憲君主としての女王であるわけです。内閣総理大臣以下の大臣は、
女王の大臣であり、制定法を根拠とする権力と同時に、女王の享有する
権能も行使しているのです。従って僕は女王に責任はあると考えます。

YOSHIDA Masayuki


sasaki

unread,
Mar 28, 1999, 3:00:00 AM3/28/99
to
sasakiです

TK wrote:
>
> でも、沖縄は全部かえって来ましたよね。ですから要求だけでもすればいいのに・・
>
> なんて思いますけど。


沖縄はかえってきましたが,それとバーターで基地は残りました。

当時のベトナム/朝鮮/台湾情勢から米軍には必要性があったのでしょう。


ロシアも何か得るものがなきゃそう簡単には返しませんよ。

#エリツィンの亡命受入とか (^^);;

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