否定と量化について

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いっしょうさん

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Feb 13, 2018, 6:18:55 AM2/13/18
to ロジバン相談室
こんばんは、今否定と量化について復習しているのですが、自分で作った次の例文
 su'ode roda zo'u da na prami de iku'i da prami da
の訳に疑問が出てきました。第1文は
 = naku su'ode roda zo'u da prami de
 = rode naku roda zo'u da prami de
 = rode su'oda zo'u da naku prami de
となり、
 「ある人は何かを愛さない」
と訳することができると思います。
そこで、第二文を加えたら、その da は ro なのでしょうか、それとも su'o なのでしょうか?
第1の考え
第1文で roda なのだから、第二文でも roda だ。つまり
 「人は自分を愛する」
第2の考え
第1文は命題否定 na があるので、実際には roda は su'oda である。つまり
 「ある人は自分を愛する」

どちらを採用すべきか?または上の考え方に誤りがあるのか?ご助言ください!

guskant

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Feb 14, 2018, 8:38:12 AM2/14/18
to ロジバン相談室
coi la .icosyn.

例文の意味について考えてみましょう。

提示された例文は以下の5つです。

(1) su'ode roda zo'u da na prami de
(2) iku'i da prami da

(1-1) naku su'ode roda zo'u da prami de
(1-2) rode naku roda zo'u da prami de
(1-3) rode su'oda zo'u da naku prami de

CLLの説明に従えば、(1) は (1-1) と同じ意味になりますが、この考えは論理演算をする上で矛盾をもたらすことが指摘されています。

私は、CLLに書かれている「述語に付く{na}が命題全体の否定を意味する」という説明は、CLLの深刻な欠陥の一つであると考えています。

(1) の解釈を一旦保留にして、(1-1)から(1-3)の文を解釈すると、次のようになります。

(1-1) naku su'ode roda zo'u da prami de
誰にでも愛されるような何かが、存在するということはない。

(1-2) rode naku roda zo'u da prami de
どんなものでも、誰にでも愛されるわけではない。

(1-3) rode su'oda zo'u da naku prami de
どんなものにでも、それを愛さない誰かが存在する。

(1-3)の{naku}は、{rode su'oda}の後であれば、どこに置いても同じ意味を表します。例えば
(1-3') rode su'oda naku zo'u da prami de
も(1-3)と同じ意味を表します。

(2)は(1)と接続詞で繋がっていないので、(1)で使われた量化を適用することはできません。{ku'i}はUI類の機能語なので、接続詞と違って、構文に影響を与えません。したがって、(2)は以下のような意味になります。
(2) iku'i da prami da
しかし、ある者は自分自身を愛する。

以上の解釈によって、(1-3)と(2)は矛盾しません。ある者が自分自身を愛していても、その人を愛さない誰かが存在するという状況は可能です。また、どんなものにも、それを愛さない誰かがいるとしても、自分自身が愛するという状況は可能です。


ところで、(2)を{ije}などで接続する形に変更すると、構文上、(1)の量化が(2)に係るようになります。例えば
(3) [su'ode roda zo'u] [da na prami de ijeku'i da prami da]
誰にも愛されないものが存在するが、しかし誰もが自分自身を愛する。

(3)の前半の意味と後半の意味は矛盾しているので、(3)は偽を表す文です。

CLLに従うなら、{na}を冠頭の最初の{naku}に置き換えても、同じ意味を表します。ただ、(3)の冠頭は後半にも係るので、その置き換えをする前に、後半を{da na na prami da}と変形しておきます。
(3-1) [su'ode roda zo'u] [da na prami de ijeku'i da na na prami da]

CLLに従って、前半・後半の{na}を両方とも冠頭の最初の{naku}に置き換えると、
(3-2) [naku su'ode roda zo'u] [da prami de ijeku'i da na prami da]
誰にでも愛されるものが存在し、しかし誰も自分自身を愛さない、ということはない。

「誰にでも愛されるものが存在し、しかし誰も自分自身を愛さない」という文は、前半と後半が両立しないので、偽を表しています。したがって、(3-2)は真を表しています。

CLLの解釈に従うなら、(3)と(3-2)は同値であるはずですから、その真理値は一致していなければいけませんが、それぞれの意味を考慮すると、(3)は偽で(3-2)は真ですから、矛盾しています。

これはCLLの欠陥というほかありません。


CLLに反抗して、「{na}はそれと同じ位置にある{naku}と同等である」という解釈を採用すれば、{na}に関する意味上の欠陥がなくなります。この場合、(3)は以下の形と同値です。
(3-11) [su'ode roda zo'u] [da naku prami de ijeku'i da prami da]
誰にも愛されないものが存在するが、しかし誰もが自分自身を愛する。

(3-11)は、前半と後半が矛盾する内容を表しているので、全体として、偽を表す文です。

ド・モルガンの法則を使えば、{naku}を冠頭に出すことができます。

(3-12) [su'ode roda naku zo'u] [da prami de ijaku'i naku da prami da]
あるものが存在し、誰もが、それを愛するか、自分自身を愛さないかの、どちらでもない。

これも(3-11)と同じく、偽を表しています。


(1)と(2)が接続詞で繋がっていない場合は、(1)はこの解釈のもとでは以下の文と同値です。
(1-11) su'ode roda naku zo'u da prami de
誰にも愛されないような、何かが存在する。

(2)の解釈は変わりません。
(2) iku'i da prami da
しかし、ある者は自分自身を愛する。

(1-11)と(2)は矛盾しません。誰にも愛されないものが存在することと、自分自身を愛するものが存在することは、両立します。


mu'o mi'e la guskant

いっしょうさん

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Feb 14, 2018, 7:30:33 PM2/14/18
to ロジバン相談室
guskant さん、返信ありがとうございます。
返信を完全に理解した訳ではありませんが、
自分の分からなかったところがより整理できました。
1.私の疑問は、量化は重文の時どうなるのか?
2.質問文では十分でなかったのですが、
poi による変数定義の制限のスコープはどこまでか?
というものだと思います。

1.量化のスコープ
単文では、命題否定を冠頭部に直接置けるが、
十分ではそうとは限らない。
冠頭部(na Φ∧Ψ)
の形の命題否定は
冠頭部(¬Φ∧Ψ)
となると考えた方がいい。それは括弧が付いているから。
よって、括弧の前に¬を出すと
¬冠頭部(Φ∨¬Ψ) (注:ije は ija に代わるべき)
になる。ただし、ロジバンでは括弧は明記する必要はない。
2.定義域制限のスコープ
poi のスコープについてはCLLでは何も説明されていない。
ということは、やはりそれがある文内か?
一方、同じKOhA類のko'aシリーズのgoiによる定項割り当ては
段落の終り、または再定義まで。da も KOhA類だから、
poi による定義域の割り当ては段落か再定義までか?

第1の疑問はguskant さんの返信でほぼ解決しました。
第2の疑問についてもご助言お願いします。

guskant

unread,
Feb 15, 2018, 4:14:00 AM2/15/18
to ロジバン相談室


Le jeudi 15 février 2018 00:30:33 UTC, いっしょうさん a écrit :
guskant さん、返信ありがとうございます。
返信を完全に理解した訳ではありませんが、
自分の分からなかったところがより整理できました。
1.私の疑問は、量化は重文の時どうなるのか?
2.質問文では十分でなかったのですが、
poi による変数定義の制限のスコープはどこまでか?
というものだと思います。

1.量化のスコープ
単文では、命題否定を冠頭部に直接置けるが、
十分ではそうとは限らない。
冠頭部(na Φ∧Ψ)
の形の命題否定は
冠頭部(¬Φ∧Ψ)
となると考えた方がいい。それは括弧が付いているから。
よって、括弧の前に¬を出すと
¬冠頭部(Φ∨¬Ψ) (注:ije は ija に代わるべき)
になる。ただし、ロジバンでは括弧は明記する必要はない。


最後の式は
冠頭部¬(Φ∨¬Ψ)
という形になるべきだと思います。
¬を冠頭部の最初へ移動するには、∃や∀の記号を交換していく必要があります。

 
2.定義域制限のスコープ
poi のスコープについてはCLLでは何も説明されていない。
ということは、やはりそれがある文内か?
一方、同じKOhA類のko'aシリーズのgoiによる定項割り当ては
段落の終り、または再定義まで。da も KOhA類だから、
poi による定義域の割り当ては段落か再定義までか?

第1の疑問はguskant さんの返信でほぼ解決しました。
第2の疑問についてもご助言お願いします。

 
{poi broda}の係る範囲が{goi ko'a}と同様の振る舞いをするかどうか、CLLには明言されていませんので、助言というより私見を述べることしかできません。

{da}の量化の範囲が接続詞で繋がっている範囲の文にしか係らないという、論理学上の性質から考えると、{da}に係っている{poi broda}の意味が、その{da}から独立して、それ以降の文に出てくる{da}の意味を限定するという考えは、論理演算をする上で、不便になると思います。

接続詞で前の文と繋がらない新たな文では、{da}の量化が新たに構築されるのに伴って、{poi}節も新たに構築される(あるいは消去される)と解釈するほうが、単純でわかりやすいと思います。

いっしょうさん

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Feb 16, 2018, 6:00:11 AM2/16/18
to ロジバン相談室
ご助言ありがとうございます。
CLLをこの数日読み返してみましたが、
guskant さんの助言によって、
量化は論理学に従った方がよいと納得しました。
CLLには、da の量化は「非形式には他の文に影響する」とありましたが、
やはり形式的には、論理学通りにするべきだと思います。
それに、CLLで,冠頭部の広いスコープのための括弧 tu'e ... tu'u が用意されていることを知りました。
これを使えば、冠頭部のスコープを明示することができることになります。
発話の構造の中で、段落にどのように文脈を宣言できるのか、今勉強中ですが、
まだまだ、文法的に曖昧なところが多く、分からないことだらけです。
どうもありがとうございました。
またよろしくお願いします。
いっしょう
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