新聞報道によれば、自民党青木参議員議員が公明との提携強化を要請したという。
参議院選挙では公明党がたよりだという。
これで勝てると思ったら大間違いだろう。
何しろ国の基本となる年金政策でまともな政策を提示していないのだから。
要するに選挙にかてば良い?
国家の基本理念という大きなところで、公明党との提携が災いし自民党らしさが出て
いない。
公明党と提携強化?
自民党参議院選挙対策はだめ!
《社会保障改革が問題だ。》
公明党と提携強化ということは共産党を閣内に入れたも同然だ。
公明党は共産党と同じで、『国が金を多く撒き貧者を救え』という政策をやるのだ。
宗教で言う『ほどこし』を国でやろうというのだろうか?
『国が貧者を救ってこそ政治だ』と信じている。
いかにも良いようだが、実際やると、貧者を救おうとして政府を大きくし負担を上
げ、失業を増やす。
かえって貧者の数は多くなり、どうにもならなくなって救いきれなくなる。
現在こそ、大不況の後の好況で何とか失業も減ってるが負担を上げれば失業が徐々に
増えるのは当たり前だ。
社会保障改革が問題だ。
これの正しい方向性に基づく改革なくして日本の未来は開けない。
公明党と提携強化?
自民党参議院選挙対策はだめ!
《貧者を救うに、官僚統制ではなく自由主義経済で救え。》
自民党は『目先の選挙に勝つ』ということで目がくらんでいる。
正しい先行きの見える政策を提示して戦えばよいじゃないか。
自民党らしい政策を堂々と提示せよ。
貧者を救うに、官僚統制ではなく自由主義経済で救え。
これでこそ自民党だ。
負担を下げ、失業率0%を目指せばよいのだ。
国が貧者を救わなくても企業が仕事を出して救ってくれる。
年金もそうだ。
日本では貯金せずして年金暮らしできるほどの年金は支給できない。
年金も十分ではなく、多額の貯金が必要なのに貯金も十分できなくなり、国の保証が
たてまえだから家族の支援も無い。
『年金も少ない貯金も少ない家族の助けも無い』貧者の大発生になる。
負担を挙げていったのでは先行き真っ暗だ。
公明党と提携強化?自民党参議院選挙対策。だめ!
これで選挙に勝てるはずが無い。
またこんな国民を苦しめる政策を進めるため勝ってもらっても困る。
《自由主義は自己責任。》
自由主義は自己責任が大原則だ。
老後の保障も『血族親族など法的保護責任者の責任』となる。
公的年金では生活できず高額貯蓄が必要なのだ。
『老後の保障は自己責任』と大原則を打ち出し、負担を軽く失業率ゼロ状態の中、資
産形成と後継者育成に励むこととで社会は健全になる。
貧者の発生は少なくなりボランティアで対応可能だ。
ますます景気は良くなり、バブル期にも似た好景気が持続する。
高額所得者に国の運営の負担をしっかり持ってもらうことで貧富の拡大は防げる。
こうして国民も国家も富んで行き貧者は救われ平等で豊かな社会が末代まで続く。
《自由主義を訴え自民党は勝利を勝ち取れ。》
自由主義こそ正しい国家の政策だ。
自民党はこう選挙民に訴えてこそ活力が生まれ選挙に勝利できるのだ。
たとえこのたびそれほど勝てないにしても国民の支持は続く。
しかもだんだんその支持は強烈になる。
いずれ英知に富む日本国民は自民党を勝たせずにはおかない。
公明党の支持?
これなどこうなったらジャンボジェットの推進力と自転車の推進力のようなもんだ。
公明党の支持など無くても自由主義者の熱い支持で勝てる。
自民党は勝利し勝ち続け日本も発展し世界も発展する。
自由主義を訴え自民党は勝利を勝ち取れ。
《自在錯誤=憲法25条。党首討論で共産党の質問。》
党首討論で、共産党の志井委員長が年金で質問してた。
『年金を減らすな』
『国は国民の生活を保障しろ』
と激しく主張する。
これ?
全く時代遅れ。
旧式で『そうやるといけません』というやり方に過ぎない。
『国が直接税金や公的保険で生活を保障する』という社会実験はもうすでに結果が出
ている。
国が負担を挙げ貧者を保護しようとすればかえって失業者は増え貧者が発生する。
貧者の数の多さに国はどうにもできなくなる。
現在そうなっている。
共産党の言うように貧者を救おうとして負担を挙げれば、もっと失業者は増える。
もっと多くの貧者が発生する。
別に国が貧者を救済しないでも、負担を下げ企業活動を活発にしていけば企業が仕事
を与え貧者は救済されるのだ。
失業率ゼロを目指せば貧者は少なくなり救われる。
貧者の救済も自由主義で行くのが正しい。
共産党も時代錯誤。
憲法25条も時代錯誤だ。
《共産党も憲法25条も時代錯誤》
共産党の主張はまさに、戦後の社会主義運動全盛期の発想だ。
ソビエトや革命に成功した共産主義中国の宣伝そのものの主張で時代錯誤もはなはだ
しいものでしかない。
ちょうどそのころできた憲法もこの社会主義運動に強く影響されているわけだ。
共産党の言わんとするところは、要するに、『国が国民の生活を保障しろ』という社
会主義の主張だ。
公明党の『国はほどこしをして貧者を救え』という主張と同じものだ。
戦後自由経済の国でも社会主義に影響され『国による貧者の救済』が熱心に行われて
きた。
しかし、国が税金を使って救済しようとすればするほど負担を上げ景気を悪化させ貧
者が大量に発生する。
現在そうなっている。
別に国が貧者を救済しないでも、負担を下げ企業活動を活発にしていけば企業が仕事
を与え貧者は救済されるのだ。
貧者の救済も自由主義で行くのが正しい。
『生活保護も年金も憲法25条から来たものだ』という。
共産党も時代錯誤。
憲法25条も時代錯誤だ。
《憲法25条も解釈改憲が必要?》
憲法25条
『国は~~社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならな
い。』
というが
『直接的に貧者を救え』とはどこにも書いてない。
企業活動を活発にし失業率ゼロを目指し企業が仕事を出して貧者の数を少なくするこ
とは全く憲法違反ではない。
近代国家では生活が保障されて当たり前なのだ。
国民に負担をかけないよう景気を少しでも悪化させないよう負担を軽くすることに配
慮をしっかりし、まず貧者をできるだけ発生させないことが重要だ。
失業率ゼロなら老人でもなんらかの仕事は見つかる。
そうやってまず貧者の数を少なくし、それでもまだ残る貧者については、ボランティ
ア活動を支援することで福祉と保障の向上と増進に努めればよいのだ。
憲法25条にも、『国が生活費を全部出し丸抱えで保護しろ』とはどこにも書いてな
い。
ボランティア活動を通じた生活保障も地域社会で行う社会福祉であり社会保障である
ことには間違いが無い。
時代遅れの『国が直接国民を保護する』解釈は間違いだ。
憲法解釈を変更すべきだ。
《憲法25条も改正せよ》
当面この解釈で行くとして憲法改正に際しては25条も改正すべきだ。
『国民の保護責任は血族親族の法的保護責任者にある』
ことは自由経済の大原則だ。
これを明確にする憲法条文に改憲することが必要である。
『国は国民がこの責任を果たせるよう努めなければならない』
とすればよいのだ。
谷村さん、考え方は分かりますが、現在要保護者をそのままにはできないでしょう。
同時点において憲法25条の趣旨と谷村さんのような考えが働くわけです。国の運営
はそんな単細胞ではうまくいきませんし、国自身の能力育成にもなりません。そう思
いませんか?
それくらいの余力と甲斐性をもてないような国家は田舎者だというのが今の国際的な
常識。いかにしてそれができる国家に仕上げるか、嘘でもいいから田舎臭い国家から
足を洗うか、これを目標にすることは少しもおかしいことではありません。
--
みんなのケンちゃん
カズ君じゃどうしていけないのかはさておいて、
確かに、おっしゃるような急進的な改革は無理ですね。
早くても15年20年とかけて目鼻をつけ、その後完成していくわけでしょう。
今のところ、まだそのような雰囲気さえも出ておらず、見当さえも付かないような状
態ですね。
国が国民を保護することが都会?
保護せず自立すると田舎?
まあ、その前にその都会たるところが本当に都会なのか怪しいものですが?
油べとべとの食べ物を常食にしてるところが都会とも思えませんがねえ。
ぼくは<となりのケンちゃん>ですから「カズ君」ではいけませんね。
>
> 国が国民を保護することが都会?
> 保護せず自立すると田舎?
谷村さん、ぼくがそんなことを言ってますか?もう一度ぼくの意見を読み返していた
だきたい。これは谷村さんの言い方では15年20年まだ経たない段階と言うことに
なるでしょうね。期せずして出てきてしまった要保護者はせめて「最低限度の生活」
だけは同じ人間であれば「営」ませてあげようとするのが先進文化の考え方だって
言ってるんですよ。ここには理屈はない。ホントの所は、近代自由主義の理屈で考え
たらそれはおかしいことだ、となるのだけれども、国は理屈はともかく甲斐性でもっ
て救ってやろう、こう考えたんですね。結果的には「人間を人間として尊重する」と
いう近代思想とは反するものではないから説得性を獲得して先進国では全て認められ
ているわけです。従ってこの権利は人が生まれながらにしてもつ権利ではない。国家
があって初めて考えることのできる権利なわけです。
そのことが分からない国家であれば、それは田舎国家である、こう言っているので
す。
> まあ、その前にその都会たるところが本当に都会なのか怪しいものですが?
> 油べとべとの食べ物を常食にしてるところが都会とも思えませんがねえ。
いや、都会と言うのはイメージ的にずれてますね。high cultureとでも言った方がい
いですね。この点こそが却ってhigh cultureの証だと思いますよ。考えてみてくださ
い。動物は、自分が必要なだけは弱肉強食でもって自分のものにするが、必要でない
物を囲い込んだりはしない。けれども、甲斐性で他に恵んでやると言うようなことも
やらない。ホッタラカシです。よって、この甲斐性が強ければ強いほど非動物的なわ
けです。つまり高度の文化であると言えるんじゃないですか?
--
みんなのケンちゃん
> なるでしょうね。期せずして出てきてしまった要保護者はせめて「最低限度の生
活」
> だけは同じ人間であれば「営」ませてあげようとするのが先進文化の考え方だって
> 言ってるんですよ。ここには理屈はない。
それは僕も賛成です。
ホントの所は、近代自由主義の理屈で考え
> たらそれはおかしいことだ、となるのだけれども、国は理屈はともかく甲斐性で
もっ
> て救ってやろう、こう考えたんですね。
これにも僕は賛成です。
結果的には「人間を人間として尊重する」と
> いう近代思想とは反するものではないから説得性を獲得して先進国では全て認めら
れ
> ているわけです。従ってこの権利は人が生まれながらにしてもつ権利ではない。国
家
> があって初めて考えることのできる権利なわけです。
そうですね大賛成です。
> そのことが分からない国家であれば、それは田舎国家である、こう言っているので
> す。
なるほどおっしゃることはわかりました。
総論については僕も同意見です。
> > まあ、その前にその都会たるところが本当に都会なのか怪しいものですが?
> > 油べとべとの食べ物を常食にしてるところが都会とも思えませんがねえ。
>
> いや、都会と言うのはイメージ的にずれてますね。
僕は場所的なものを言ってるんですがねえ。
ぴんとこない?
はて?
high cultureとでも言った方がい
> いですね。この点こそが却ってhigh cultureの証だと思いますよ。考えてみてくだ
さ
> い。動物は、自分が必要なだけは弱肉強食でもって自分のものにするが、必要でな
い
> 物を囲い込んだりはしない。けれども、甲斐性で他に恵んでやると言うようなこと
も
> やらない。ホッタラカシです。よって、この甲斐性が強ければ強いほど非動物的な
わ
> けです。つまり高度の文化であると言えるんじゃないですか?
そうですねおっしゃるとおりです。
ただし、ここから各論に入るわけです。
国が直接要介護者を救うことが近代国家でしょうか?
国民の自主的助け合いのボランティア精神を尊重してはいけないのですか?
国はその活動を支援して奨励していけば暖かい地域社会も復活しますね。
費用も安く上がり、景気は良くなりその分補助の費用も増やせるのでは?
と僕は主張しているわけです。
> ただし、ここから各論に入るわけです。
> 国が直接要介護者を救うことが近代国家でしょうか?
> 国民の自主的助け合いのボランティア精神を尊重してはいけないのですか?
> 国はその活動を支援して奨励していけば暖かい地域社会も復活しますね。
> 費用も安く上がり、景気は良くなりその分補助の費用も増やせるのでは?
> と僕は主張しているわけです。
>
ぼくの意見の大半は(量的に)納得していだだけたようですね。しかし各論とい
う部分がまだ残っていた、こういうことですね。
この各論のようになることは元々大賛成です。このような社会であってほしいと
心から思います。しかしぼくは残念ながらそのようにはならないものと考えてお
ります。まず、「日本国民は自主的助け合い」などするはずがありまっせん。
従ってボランティアの精神など巻き起こるはずがないのです。
日本人は、まあ、言ってみればケチに出来上がっている。これは必ずしもすべて
が全て日本人の性格の悪さから出ているものとは思っておりません。もう一方で
日本人は緻密で正確な対応をする気質があります。この性格はボランティアには
不向きです。計算高いとも言えるからです。ここではさらに詳しく具体例を引く
ことはさけますが、骨組みだけを言うとそういうことになります。
しかし、政治は、それでもどうにかしなければならないのです。「善意」を発揮
してくれ「れば」とかは政治では禁物です。常に「善意など期待できないとし
て」、方策を立てるものでなければならないのです。日本人は、明らかにおかし
いというのではなく、理想としてはそうだな、ただ自分は損だからいやだ、とい
うような問題には、「みんながやるんであればしょうがないか。」、こう答えを
出すものです。国が国民のこういう気持ちを引き出すこともまた政治なのです。
国民のこういう意識を誘うには国が理想的な観点から先導した方がいい。そうし
なければやたら時だけが経って無い物ねだりをして終わってしまう。こう思う訳
であります。
もちろんぼくチンの立場でも平素からボランティア教育を施す姿勢は大切であろ
うとは思いますよ。それが十分には育たない段階ではどうするか、ここに帰着す
るのです。
谷村さんのような考えが今の若者たちの異常さを引き出していることも付け加え
させていただきます。学校では先生だから言うことを聞く、家庭では親父だから
言うことを聞く、政治では国だから言うことを聞く、これも物事によっては必要
なことなのです。
--
みんなんのケンちゃん
> この各論のようになることは元々大賛成です。このような社会であってほしいと
> 心から思います。
そうですか。
ということは?
総論も各論も一致したわけですね。
しかしぼくは残念ながらそのようにはならないものと考えてお
> ります。まず、「日本国民は自主的助け合い」などするはずがありまっせん。
> 従ってボランティアの精神など巻き起こるはずがないのです。
確かに、過去をさかのぼり現在までの世相を見るとそのように見えるでしょうね。
これまでは『国が老後の保障する』というのが建前になっていますから、『自主的な
助け合いなど必要ない』ように思う国民は多いわけです。
が、最近は新聞などの論調も変化してきており、『ボランティア活動は重要』『自治
体の施設もボランティア運営で行え』という主張も見られる様になっています。
徐々に変化の兆しは出てきているように感じています。
>
> 日本人は、まあ、言ってみればケチに出来上がっている。これは必ずしもすべて
> が全て日本人の性格の悪さから出ているものとは思っておりません。
ケチねえ。
ケチの大本山の方からケチといわれるとなにやら本物のケチの様に思えてきました。
もう一方で
> 日本人は緻密で正確な対応をする気質があります。この性格はボランティアには
> 不向きです。計算高いとも言えるからです。ここではさらに詳しく具体例を引く
> ことはさけますが、骨組みだけを言うとそういうことになります。
ま、そのようなところもあることは否定しません。
人間など完璧には程遠くこっちをよくしようとすればればこっちが悪い?
そうなるのは仕方のないことでしょうから。
とにかく必要は発明の母ともいわれます。
現在は国や自治体が何でもやってくれ国民は一人でも生きていけるわけです。
助け合いなど必要ありません。
ところが段々国は面倒見れなくなりつつありますね。
国や自治体が面倒見てくれなければ自分たちで助け合うことも必要になって来ます。
助け合って生きることが必要になればしっかりできる様になるのが日本国民だと思い
ますよ。
僕はこの点楽観しています。