おおむね妥当な見解だと思う。しかし、民主党に言う前に民主党その他を選ぶ選挙の
主役である国民に向かって叫ぶのが先ではないのかな?「勉強して…官僚に操られる
政治を変えてみろ」ってね。
> 国民投票?ばかにするな。君たちは、国会で決議した立法のみが有効であると
> する立法制度を推進するべきだ。まずは、
間違いだね。イギリスに真似た国会を中心とする議院内閣制は一方ではそれを拒否す
る明確な理由が見つからない間はむやみに唾棄すべきではないにしても、それはある
特定の理由と歴史を持ったところで妥当するのだと言う懐疑の精神を常に保持するの
が正しい。しかも日本国は民衆が自力で戦い勝ち取った政治制度というものを知らな
い。日本国は今それを選挙ないし国民投票で穏やかに一歩ずつ戦い勝ち取らなければ
ならない。日本の国情と国民意識の程度に合わせて。明治期に同様に民衆が国会設立
建白書等を提出し勝ち取ったものであるかのように思えるが、しかしこれは外国の物
真似である。よって同様に今となっては懐疑の精神に晒されなければならない。
その懐疑の現われとして国民投票制度を提案することはその姿勢のみならずその趣旨
も是認できるものである。考えても見たまえ。現在の国会は国民によって選挙された
国会議員で構成され、その国会議員が多数決と言う技術を使って民主性を発揮する形
になっている。こうして制定された法律は国民を拘束はするが、そこには少なくとも
国民からの契機による自己束縛と言う原理は発揮されているわけで(=自同性)民主
的原理であるといえなくはない。つまり、民主制というのはこのように個々の国民が
直接自同的行動をとる場合に限らず国会による決定という抽象的な広がりを持った概
念として現在では受け取られている。
しかしだ、それでいいかは別問題。特に日本の場合は最初の段階があまりにも低レベ
ルだ。即ち国会議員を選ぶ選挙が民主性発揮の原因にはなっていないのである。もち
ろん選挙と言う形のものは行われる以上「外形的」には民主的では有る。あなたはむ
しろ、この「外形的民主性」で止まらざるをえない所を問題にすべきなのである。わ
れわれはこの「外形的民主性」は本物の民主制とはいえないのではないか、という発
想の下「国民投票制」を絡めようと考えるわけだ。憲法学で最近唱えられているナシ
オン主権からプープル主権へ、というのも同様の発想が基点となっている。
あなたの投稿のトーンから感じとれることでは有るが、あなたは「国民がこうであっ
タラ」とか「制度がうまく機能しタラ」とか「悪徳政治家がいなかっタラ」とかとに
かく言葉の裏に「タラ」が多い。しかし、それはあくまでも<存在論>の範疇での意
見ではない。特に政治は<存在論>の範疇で思考すべきものではないか。
> 憲法13条実現の努力をしろ。官僚政治を改めろ。勉強して官僚の言いなり
> 政治、官僚に操られる政治を変えてみろ。
「努力しろ」と言って努力できるものならばfj.soc.politicsなど不要であろう。そ
の<「努力」をせざるを得ないように仕向けるにはどうすべきか>の議論を交わすべ
きものでは有るまいか。
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おいらはMac@Individual.NET
自作自演でない証拠か。
まぁ、今までの自画自賛パターンに新たな変種を加えた可能性も(ry
スイスのように議会の仕事が国民投票のみという訳ではない以上、
国会議員を選ぶ選挙が民主性発揮の原因に成らないと困るでしょう。
しかも議会と違い、国民投票は
審議期間や決を採るタイミング
(込み入った問題はこれらの操作で結果を変える事ができるでしょう)には
肝心の国民は手を出せません。
投票用紙にしても、
「スイス型
用紙1…『アメリカに戦争をふっ掛ける』か否か
用紙2…『アメリカと和平を結ぶ』か否か」
のように
矛盾した結果を覚悟してでも議会に準ずる形にするか、
「用紙1だけ…『アメリカに戦争をふっ掛ける』か『アメリカと和平を結ぶ』か」
誰かが矛盾した結果がでない様に調整するのを許すか
(誰かの調整により
用紙1…『アメリカに戦争をふっ掛ける』か否か
用紙2…『中国に戦争をふっ掛ける』か否か
が
用紙1だけ…『アメリカに戦争をふっ掛ける』か『中国に戦争をふっ掛ける』か
に成る恐れもあります。)
という類の問題もたくさんあったりします。
それにも拘らず、間接民主制でしかない議会の決定を
ひっくり返す力を持たざるを得ませんから、
慎重に扱わないと、とんでもない決定が直接国民の責任になってしまうでしょう。
だいたい、議会が無くても国民投票のある国なんて余り聞きません(スイス?)。
選挙が高レベルの状態でならともかく、
そうでないのに国民投票の話をするのは順番が違うと思います。
まあ、これ以上どうしようも無いという意味では、
日本の選挙は高レベルの状態でしょうが。