文字化けを整理して、
[a] 「決せられる」が文語未然形の「決せ」を使いながら、口語の
「られる」がつくのはなぜか?
[b] 「決せられる」は「決される」よりよく使われているか?
と理解すると、
[a]' 「決せられる」の「決せ」が文語未然形であると断定する根拠
はなんですか?「決せ」は口語未然形でもとられる形です。
「決せられる」の形として判断されるのは、いまざっと考えて
みると、口語体の終止形と連体形以外にはないと思います。
文語体表現はそれぞれ、「決せらる」および、「決せらるる」
です。
[b]' 「決される」という言い方は文法的にまちがいです。
したがって、日本語では「決せられる」という表現しかありま
せん。たぶん、四段活用動詞との助動詞接続を混同したた
めに生まれた形でしょう。
_______
kentaro@tokyo
on [news:japan.lang.japanese]
もう一度メッセージを投稿してみます。
「決せられる」が文語未然形の「決せ」を使うくせに口語の「られる」がついているのはなぜですか。
また、なぜ「決せられる」が「決される」よりよく使われていますか。
「決せ」は口語未然形でもとられますが、この場合、文語未然形となるでしょう。
五段動詞とサ変動詞の口語体の受身が口語未然形に「れる」がつくという原則があると思います。
だから、受身の「決せられる」は「れる」でなく「られる」がつくので 「決せられる」の「決せ」は口語未然形であるはずがないでしょう。
> 「決せられる」の形として判断されるのは、いまざっと考えて
> みると、口語体の終止形と連体形以外にはないと思います。
> 文語体表現はそれぞれ、「決せらる」および、「決せらるる」
> です。
「決せられる」と終止形・連体形の関係をもっと詳しく説明してくださいませんか? 私はよくわかりませんから。
>
> [b]' 「決される」という言い方は文法的にまちがいです。
> したがって、日本語では「決せられる」という表現しかありま
> せん。たぶん、四段活用動詞との助動詞接続を混同したた
> めに生まれた形でしょう。
そうですか。ほかのサ変動詞でも「ーされる」の活用形が間違いですか。
もしも、そういう原則があるとすれば、
「感ずる」(口語・サ変動詞)の受身形は「感じれる」となるは
ずです。しかし、日本語ではそうはいいません。
とても興味があるのですが、何という本に書いてある原則で
すか?
>だから、受身の「決せられる」は「れる」でなく「られる」がつくので 「決せら
れる」の「決せ」は口語未然形であるはずがないでしょう。
>
論旨が錯綜しているようで、意味がよくわかりません。
>> 「決せられる」の形として判断されるのは、いまざっと考えて
>> みると、口語体の終止形と連体形以外にはないと思います。
>> 文語体表現はそれぞれ、「決せらる」および、「決せらるる」
>> です。
>
>「決せられる」と終止形・連体形の関係をもっと詳しく説明してくださいませんか
? 私はよくわかりませんから。
>
活用語尾から語幹にさかのぼって考えるとより分かりや
すいかもしれません。
「られる」という語尾が出現するのは口語においてだけで
す。しかもこれは、終止形と連体形に共通特有の形です。
したがって、「決せ」は何らかの未然形ですが、未然形が
「エの段」であることから、サ変動詞であることが分かりま
す。
>>
>> [b]' 「決される」という言い方は文法的にまちがいです。
>> したがって、日本語では「決せられる」という表現しかありま
>> せん。たぶん、四段活用動詞との助動詞接続を混同したた
>> めに生まれた形でしょう。
>
>そうですか。ほかのサ変動詞でも「ーされる」の活用形が間違いですか。
>
それが原則です。
[a] 一笑に付す の 「付す」
[b] 病に伏す の 「伏す」
を考えてみてください。
サ変動詞と四段動詞を混同していませんか?
現代語の動詞で語尾が「っする」で終わるものはたいていこのたぐいですね。
圧する、逸する、合する、喫する、屈する、決する、察する、失する、接する
絶する、達する、脱する 、撤する、熱する、発する、罰する、欲する、没する
滅する、律する
漢語にサ変動詞がくっついたものだから、現代語では「決される」でよさそう
なものなのに、文語の「せられる」の方がすわりがいい。
その理由はおいおい考えるとして、そうではない「漢語+サ変動詞」の場合は
割と「される」が一般化してきているように思います。
例えば、「愛する」の受け身形を「愛せられる」と言う人は今ではほとんどい
ないはず。
萩原@グリフィス大学
「感ずる」は、サ変動詞であることをかなり前にやめています。文語でも上二段
活用であった期間がかなり長いのでは? 現代語にこれがあるのは、上二段活用
の生き残りですね。また、現代語ではあっても、口語としてこれが使われる機会
は、文語(文章語)としてこれが使われる機会より少ないという気がします。
一般的には口語では上一段活用の「感じる」を使いますね。
>>>[b]' 「決される」という言い方は文法的にまちがいです。
とは言い切れないのでは?
>>> したがって、日本語では「決せられる」という表現しかありま
>>> せん。たぶん、四段活用動詞との助動詞接続を混同したた
>>> めに生まれた形でしょう。
四段活用・五段活用との混同はありえる話ですが、この場合は違うでしょう。ま
た、この場合口語の話でしょうか、文語の話でしょうか。
> [a] 一笑に付す の 「付す」
> [b] 病に伏す の 「伏す」
「付す」、「伏す」は、明らかに四段・五段活用です。誤用の例としては不適切
では?「付する」、「伏する(?)」ならまだしも。
で、「付する」の場合は「スル動詞」ですが、これは受け身形で「付される」が
使えます。それは、「する」の受け身形が「される」だからですし、それで口語
として、一般的に認知されています。
問題は、「決する(けっする)」が「スル動詞」であるなら、どうして口語で
「決される」と言わないかという点です。また、「スル動詞」でないなら、どう
いうカテゴリーの動詞かという点が次に問題になります。
萩原@グリフィス大学
ふーむ。私にはちょっとよく分からないところがあります・・・
[1] 「感ずる」がサ変をやめたかなり前の時期とはいつごろ
ですか?
[2] 「感ずる」が上二段活用されていたというのは寡聞にし
て知りませんでしたが、いつごろのことなのでしょうか?
すると、その時期には、「感ず」の未然形は「感じ」だっ
たわけですね?
[3] サ変動詞が上二段動詞を経ているという論拠はなんで
すか?具体的な動詞をニ、三示していただけますか?
>一般的には口語では上一段活用の「感じる」を使いますね。
>
ここでは、サ変動詞の活用の例として、AnandVishy 氏のい
う「原則」と合わないということを示すために提示しただけの
ものですから。上一段動詞を示しても意味がないわけです。
主旨をご理解いただければさいわいです。
しかし、私も念のためと思い、「感ずる」をネットで検索して
みましたが、その数が多いのにちょっと驚きました。サ変健
在という感じです。
疲労感は「多少感ずる」(39%)、「かなり感ずる ...
感ずるままに. 99/4/7 最近、どこへ行くにもデジカメを携
行することが多くなった。.
なにかその人に魅力を感ずる。理由は自分より元気でも
いいし、
いま より強く その幸せを 感じて 生きる。 感ずるだけ ...
美しさを感ずる目や心が大きくそだてられた
輸入車で感ずること―英国車・米国車と日本車―.
輪の花の美しさをよくよく感ずるという事は難しい
前号では"内なる天気をどう感ずるか"というテーマで
何かに向って今進んでいる自分自身を喜びと感ずる、
> 色いろいろQ & A > No.3「感ずるのは脳?」.
感ずることの大切さ. ... 優しい心は感ずる心だ。
Page 1. 聴く! 観る! 感ずる! 高画質・高音質で
容量も大きい DVD は、
なぜなら、ここからはオープンエアーを感ずることが
出来るから
序 ━━ われわれが感ずるもの. 『心象スケッチ。』
以下、Googleで4万4500件ヒットします。
>
>>>>[b]' 「決される」という言い方は文法的にまちがいです。
>
>とは言い切れないのでは?
>
>>>> したがって、日本語では「決せられる」という表現しかありま
>>>> せん。たぶん、四段活用動詞との助動詞接続を混同したた
>>>> めに生まれた形でしょう。
>
>四段活用・五段活用との混同はありえる話ですが、この場合は違うでしょう。ま
>た、この場合口語の話でしょうか、文語の話でしょうか。
>
「決せられる」という以上、口語の話でしょう。ちがいますか?
「決される」が文法的に誤りでない論拠はなんですか?
「決する」を一文字漢語のサ変動詞として認めないからかもし
れませんが、その理由はなんですか?
>> [a] 一笑に付す の 「付す」
>> [b] 病に伏す の 「伏す」
>
>「付す」、「伏す」は、明らかに四段・五段活用です。誤用の例としては不適切
>では?「付する」、「伏する(?)」ならまだしも。
>
おもしろいですね。
「付す」が*明らかに*四段活用動詞であるという理由はなん
ですか?
もしそうなら、「広辞苑」の記述は誤りですか?
>で、「付する」の場合は「スル動詞」ですが、これは受け身形で「付される」が
>使えます。それは、「する」の受け身形が「される」だからですし、それで口語
>として、一般的に認知されています。
>
「スル動詞」というのはサ変のことですか?
サ変の受け身形は「せられる」ではないのですか?
(のちに四段になった「愛する」は例外として)
_______
kentaro@tokyo
on [news:japan.lang.japanese]
[news:fj.sci.lang.japanese] cannot be posted on
for my mailer's reason.
とりあえず<3F4ECA4A...@gu.edu.au>での発言のほとんどを
撤回します。
「口語のサ変動詞」の未然形ですが、いわゆる「学校文法」では
簡略化して「し」のみとしているわけですが、あらためて辞書類
を見ると、下につく助動詞によって「せ」「し」「さ」の三種が
未然形の語尾として認められています。つまり、現代語「する」
の受身形の場合も、古典文法からひきつづき「せられる」が正規
表現として認知されているわけです。(これを現代の目で「口語」
と呼ぶべきかどうか迷いますが)
一方、この動詞「する」に関しては、受け身として「される」が
一般的に使用されているところに、「決される」が生じた原因が
あるのではないでしょうか。「漢語+サ変動詞」のコンビネーショ
ンとして見た場合、「決」+「される」の成立は、自然の成り行
きと言えるかも知れません。その意味で、文法的間違いとは言う
よりは、むしろ新ルールの適用ではないかと。
ただし、促音便をともなった「っする」の場合、「っされる」は
語感としてどういうわけか座りが悪いため、この「新ルール」の
適用を受けず、正規文法どおり使用されているということなので
しょう。依然として、どうして座りが悪いと感じられるかについ
ては、答案が思いうかびませんが。
萩原@グリフィス大学
「す動詞」は時と共に、次の4グループの「する動詞」変わった(変わりつつある)
と思われます。
1.漢語2語からなる「する動詞」: 解決する 理解する 敬愛する 暗記する
過信する 対応する
2.漢語1語をふくむ「する動詞」: 決する 解する 関する 付する 評する
3.四段化の影響を受けた「する動詞」: 愛する 記する 帰する 御する 辞す
る 訳する
4.二段化の影響を受けた「する動詞」: 感ずる 信ずる 応ずる 命ずる 報ず
る 閉(と)ずる
(このグループは2段化の影響を強く受けて、今では「~じる」のほうが優勢であ
る)
これら4グループについて、受身形の形を見ると、その変遷の過程が推測できるよう
に思います。
1.決定す: 決定せらる →決定せられる →決定される
2.決す : 決せらる →決せられる →決される(?)
3.愛す : 愛せらる →愛せられる →愛される
4.感ず : 感ぜらる →感ぜられる →感ざれる(×) →感じられる
「す動詞」が「する動詞」化する過程で、どのような理由・事情によって、以上の四
つに別れたのか、わかりません。
萩原さんがおっしゃるように、語尾の音も一つかもしれませんが、それだけではない
ような気がします。
特に、(2)と(3)を分けた事情は何でしょうか。また、(4)が「~ず」と濁っ
た理由は何でしょうか。
ついでながら、ご存知の方お教えください。
--
*** さいとう ***
"Kaz Hagiwara" <kazha...@yahoo.co.jp> wrote in message
news:3F4D9794...@yahoo.co.jp...
「四段化」と「二段化」はなんですか?
これでご疑問が解けましたら、以下は蛇足です。
動詞の「四段化」、「一段化」とは、活用変化形が、四段活用動詞と同じように、あ
るいは一段動詞と同じように変わる傾向のことです。この場合はサ行変格活用動詞
(普通「サ変動詞」といいます)が四段動詞に変わるという意味です。
さらに、蛇足かもしれませんが、五段動詞といわれる現代語の動詞は5段階に活用し
ますが、昔は4段階でした。
また、一段動詞といわれる現代の動詞は、正しくいうと上一段動詞と下一段動詞があ
りますが、昔は、同類のものを含めると、上一段、下一段、上二段、下二段の4種が
ありました。
蛇足ついでに、活用変化形の例をあげます。
現代の五段動詞<書く>: かか(ナイ)、かきマス、かく、かくトキ、かけバ、か
け、かこウ
昔の四段動詞 <書く>: かかズ、かきタリ、かく、かくトキ、かけドモ、かけ
現代の上一段動詞<起きる>: おきナイ、おきマス、おきる、おきるトキ、おきれ
バ、おきろ
現代の下一段動詞<食べる>: たべナイ、たべマス、たべる、たべるトキ、たべれ
バ、たべろ
昔の上一段動詞 <見る>: みズ、みタリ、みる、みるトキ、みれドモ、みよ
昔の上二段動詞 <起く>: おきズ、おきタリ、おく、おくるトキ、おくれドモ、
おきよ
昔の下一段動詞 <寝る>: ねズ、ねタリ、ねる、ねるトキ、ねれドモ、ねよ
昔の下二段動詞 <消ゆ>: きえズ、きえタリ、きゆ、きゆるトキ、きゆれドモ、
きえよ
お答えになったでしょうか。
--
*** さいとう ***
文語サ変動詞の全部が「する動詞」に移行していれば話はもっと単純なのです
が、中には、終止形の語尾が「す」のまま残っているやつがあるからややこしい
わけです。で、その語尾が「す・ず」のまま残っているやつの中に、相変わらず
文語サ変のまま活用しているやつと、四段(五段)化していったやつがあるわけ
ですね。
> 1.漢語2語からなる「する動詞」: 解決する 理解する 敬愛する 暗記する
> 過信する 対応する
このあたりは、「する動詞」に移行してしまい、終止形の語尾が「す」で終るこ
とはほとんどないもの。従って、口語サ変「する」と同じ活用が適用されていま
すし、その受け身形は、「~される」で使用上全く問題がないわけです。
> 2.漢語1語をふくむ「する動詞」: 決する 解する 関する 付する 評する
これは、終止形語尾が「する」でありながら、文語サ変の活用に郷愁を持ってい
るらしきグループ。「~される」を拒みつづけている連中がこの中にいます。
> 3.四段化の影響を受けた「する動詞」: 愛する 記する 帰する 御する 辞す
> る 訳する
このあたりは、すでに活用的に五段動詞とする動詞の2バージョンずつ持ってい
ると考えたほうがいいのかもしれません。
「愛する」「愛す」/「記する」「記す」/「帰する」「帰す」/
「御する」「御す」/「辞する」「辞す」
で、このうち、五段活用しているバージョンでは受け身形は当然「~される」に
なるわけですが、「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
不思議なことに、現代語としては、同じ受け身でも、単純受け身の場合は、文語
サ変的に「~せられる」を使うケースが多そうなのに、迷惑受け身、尊敬受け身
の方は五段バージョンで「~される」となるケースが多そうな気がするんですが。
> 4.二段化の影響を受けた「する動詞」: 感ずる 信ずる 応ずる 命ずる 報ず
> る 閉(と)ずる
> (このグループは2段化の影響を強く受けて、今では「~じる」のほうが優勢であ
> る)
「閉ず」は、サ変であったことはないのでは?
これらの動詞で、サ変活用が上一段活用と混同されるようになったのは、終止形
を「ずる」と表記するようになったあたりで決定的になったのではないでしょう
か。あるいは、否定表現を「じず」とするようになったあたりか。
せ し す する すれ せよ (文語サ変)
し し す する すれ しよ (文語二段)
し し する する すれ しろ (学校文法サ変)
し し しる しる しれ しろ (上一段)
ちなみに、小学館「日本語大辞典」では、「感ず」「感ずる」はサ変(文語
的)、「感じる」は上一段活用となっています。
上一段動詞の場合、受け身形は「しられる・じられる」になりますから、このグ
ループの動詞が「される・ざれる」となるケースはないでしょう。
> これら4グループについて、受身形の形を見ると、その変遷の過程が推測できるよう
> に思います。
> 1.決定す: 決定せらる →決定せられる →決定される
> 2.決す : 決せらる →決せられる →決される(?)
> 3.愛す : 愛せらる →愛せられる →愛される
> 4.感ず : 感ぜらる →感ぜられる →感ざれる(×) →感じられる
>
> 「す動詞」が「する動詞」化する過程で、どのような理由・事情によって、以上の四
> つに別れたのか、わかりません。
> 萩原さんがおっしゃるように、語尾の音も一つかもしれませんが、それだけではない
> ような気がします。
私が触れたのは、終止形が「っする」となる動詞が受け身形で「っされる」とな
らないということだけで、サ変動詞全体の変遷について述べたわけではありません。
> 特に、(2)と(3)を分けた事情は何でしょうか。また、(4)が「~ず」と濁っ
> た理由は何でしょうか。
4)を分けるについては、やっぱり音韻関係がからんでいるような気がしますけ
ど……。
萩原@グリフィス大学
説明してくれてありがとうございました。
もう一つ問題があります。
[する動詞]はどうやって二段化や四段化を受けたのですか?
ふーむ。わかりませんね。そうなんでしょうか。
ここでは、漢語サ変動詞が口語に転じて終止形が「す」から
「する」で終わるようになった動詞全般のことが話題にされて
いるのだと思いますが、
>・・・、中には、終止形の語尾が「す」のまま残っているやつ
って、たとえば具体的にどんな動詞なんですか?
>> 1.漢語2語からなる「する動詞」: 解決する 理解する 敬愛する 暗記す
る
>> 過信する 対応する
>
>このあたりは、「する動詞」に移行してしまい、終止形の語尾が「す」で終るこ
>とはほとんどないもの。従って、口語サ変「する」と同じ活用が適用されていま
>すし、その受け身形は、「~される」で使用上全く問題がないわけです。
>
これもわかりません。
ここで議論されているのは、二文字漢語におけるサ変動詞
の口語形ですよね。
終止形の語尾が「す」で終わるというのは、私の認識が正し
ければ、*文語に限られ、かつ、サ変動詞以外では、四段と
下二段くらい*しか思い浮かびませんが、それと何か関係が
あるのでしょうか。
さらに、口語サ変と同じ活用が適用されたばあいの受け身
形の助動詞は、おっしゃているような「~される」ではなくて、
「~せられる」ではないのですか?
>> 2.漢語1語をふくむ「する動詞」: 決する 解する 関する 付する 評す
る
>
>これは、終止形語尾が「する」でありながら、文語サ変の活用に郷愁を持ってい
>るらしきグループ。「~される」を拒みつづけている連中がこの中にいます。
>
>
そもそも、文語サ変の活用に郷愁を持つもなにも、これら
の動詞は正統なサ変動詞ですから、口語においても遺伝
的にその活用を受け継いでいるだけのことではないのでし
ょうか。私には、真正な活用による日本語の正しい表現、
ただそれだけの話のようにみえます。
また、
>「~される」を拒みつづけている連中がこの中にいます。
とのことですが、このグループでいえば、「決する」、「付す
る」および「関する」を除いた語群では、「~される」という
接続も見受けられるかと思いますが。それらは私見では、
それぞれ、
理解する --> 理解される-->(解される)
批評する --> 批評される-->(評される)
という過程のアナロジーであると思われます。
>> 3.四段化の影響を受けた「する動詞」: 愛する 記する 帰する 御する
辞す
>> る 訳する
>
>このあたりは、すでに活用的に五段動詞とする動詞の2バージョンずつ持ってい
>ると考えたほうがいいのかもしれません。
>
>「愛する」「愛す」/「記する」「記す」/「帰する」「帰す」/
>「御する」「御す」/「辞する」「辞す」
>
>で、このうち、五段活用しているバージョンでは受け身形は当然「~される」に
>なるわけですが、「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
>いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
>
この対立はまず、動詞の活用の歴史的変化を共時的に
包括できるからではなくて、終止形と連体形との補完関
係から両形を現在のところ備えているからです。
また、
>「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
>いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
とおっしゃいますが、このグループの特徴は*まさに逆で*
「する動詞」(私はこの言い方をしないのですが、私の解釈
では口語サ変動詞のこと)が本来の「~せられる」よりも
「~される」に傾いているということではないのですか。
おっしゃるような「文語に対する郷愁」とは具体的にどんな
郷愁なのでしょうか。
>> 4.二段化の影響を受けた「する動詞」: 感ずる 信ずる 応ずる 命ずる
報ず
>> る 閉(と)ずる
>> (このグループは2段化の影響を強く受けて、今では「~じる」のほうが優勢
であ
>> る)
>
>「閉ず」は、サ変であったことはないのでは?
>
これは正しいですね。
この記事で私が唯一同意できる部分です。
>これらの動詞で、サ変活用が上一段活用と混同されるようになったのは、終止形
>を「ずる」と表記するようになったあたりで決定的になったのではないでしょう
>か。あるいは、否定表現を「じず」とするようになったあたりか。
>
>せ し す する すれ せよ (文語サ変)
>し し す する すれ しよ (文語二段)
>し し する する すれ しろ (学校文法サ変)
>し し しる しる しれ しろ (上一段)
>
>ちなみに、小学館「日本語大辞典」では、「感ず」「感ずる」はサ変(文語
>的)、「感じる」は上一段活用となっています。
>
>上一段動詞の場合、受け身形は「しられる・じられる」になりますから、このグ
>ループの動詞が「される・ざれる」となるケースはないでしょう。
>
>
当然のことが言われているだけです。
むしろ、問われている点は、なぜ濁るのかというその理由に
あるのだと思いますが。
>萩原@グリフィス大学
>
_______
kentaro@tokyo
ふーむ。わかりませんね。そうなんでしょうか。
ここでは、漢語サ変動詞が口語に転じて終止形が「す」から
「する」で終わるようになった動詞全般のことが話題にされて
いるのだと思いますが、
>・・・、中には、終止形の語尾が「す」のまま残っているやつ
って、たとえば具体的にどんな動詞なんですか?
>> 1.漢語2語からなる「する動詞」: 解決する 理解する 敬愛する 暗記す
る
>> 過信する 対応する
>
>このあたりは、「する動詞」に移行してしまい、終止形の語尾が「す」で終るこ
>とはほとんどないもの。従って、口語サ変「する」と同じ活用が適用されていま
>すし、その受け身形は、「~される」で使用上全く問題がないわけです。
>
これもわかりません。
ここで議論されているのは、二文字漢語におけるサ変動詞
の口語形ですよね。口語サ変と同じ活用が適用されたばあ
いの受け身形の助動詞は、おっしゃているような「~される」
ではなくて、「~せられる」ではないのですか?
>> 2.漢語1語をふくむ「する動詞」: 決する 解する 関する 付する 評す
る
>
>これは、終止形語尾が「する」でありながら、文語サ変の活用に郷愁を持ってい
>るらしきグループ。「~される」を拒みつづけている連中がこの中にいます。
>
>
そもそも、文語サ変の活用に郷愁を持つもなにも、これら
の動詞は正統なサ変動詞ですから、口語においても遺伝
的にその活用を受け継いでいるだけのことではないのでし
ょうか。私には、真正な活用による日本語の正しい表現、
ただそれだけの話のようにみえます。
また、
>「~される」を拒みつづけている連中がこの中にいます。
とのことですが、このグループでいえば、「決する」、「付す
る」および「関する」を除いた語群では、「~される」という
接続も見受けられるかと思いますが。それらは私見では、
それぞれ、
理解する --> 理解される-->(解される)
批評する --> 批評される-->(評される)
という過程のアナロジーであると思われます。
>> 3.四段化の影響を受けた「する動詞」: 愛する 記する 帰する 御する
辞す
>> る 訳する
>
>このあたりは、すでに活用的に五段動詞とする動詞の2バージョンずつ持ってい
>ると考えたほうがいいのかもしれません。
>
>「愛する」「愛す」/「記する」「記す」/「帰する」「帰す」/
>「御する」「御す」/「辞する」「辞す」
>
>で、このうち、五段活用しているバージョンでは受け身形は当然「~される」に
>なるわけですが、「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
>いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
>
この対立はまず、動詞の活用の歴史的変化を共時的に
包括できるからではなくて、終止形と連体形との補完関
係から両形を現在のところ備えているからです。
また、
>「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
>いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
とおっしゃいますが、このグループの特徴は*まさに逆で*
「する動詞」(私はこの言い方をしないのですが、私の解釈
では口語サ変動詞のこと)が本来の「~せられる」よりも
「~される」に傾いているということではないのですか。
おっしゃるような「文語に対する郷愁」とは具体的にどんな
郷愁なのでしょうか。
>> 4.二段化の影響を受けた「する動詞」: 感ずる 信ずる 応ずる 命ずる
報ず
>> る 閉(と)ずる
>> (このグループは2段化の影響を強く受けて、今では「~じる」のほうが優勢
であ
>> る)
>
>「閉ず」は、サ変であったことはないのでは?
>
これは正しいですね。
この記事で私が唯一同意できる部分です。
>これらの動詞で、サ変活用が上一段活用と混同されるようになったのは、終止形
>を「ずる」と表記するようになったあたりで決定的になったのではないでしょう
>か。あるいは、否定表現を「じず」とするようになったあたりか。
>
>せ し す する すれ せよ (文語サ変)
>し し す する すれ しよ (文語二段)
>し し する する すれ しろ (学校文法サ変)
>し し しる しる しれ しろ (上一段)
>
>ちなみに、小学館「日本語大辞典」では、「感ず」「感ずる」はサ変(文語
>的)、「感じる」は上一段活用となっています。
>
>上一段動詞の場合、受け身形は「しられる・じられる」になりますから、このグ
>ループの動詞が「される・ざれる」となるケースはないでしょう。
>
>
当然のことが言われているだけです。
ここは、文語サ変が慣用的に現代でも使われているという意味で使いました。
> >> 1.漢語2語からなる「する動詞」: 解決する 理解する 敬愛する 暗記す
> る
> >> 過信する 対応する
> >
> >このあたりは、「する動詞」に移行してしまい、終止形の語尾が「す」で終るこ
> >とはほとんどないもの。従って、口語サ変「する」と同じ活用が適用されていま
> >すし、その受け身形は、「~される」で使用上全く問題がないわけです。
> これもわかりません。
> ここで議論されているのは、二文字漢語におけるサ変動詞
> の口語形ですよね。口語サ変と同じ活用が適用されたばあ
> いの受け身形の助動詞は、おっしゃているような「~される」
> ではなくて、「~せられる」ではないのですか?
「活用」としてはそうなんですが、慣用としては「される」が当てられている
ということです。話は受け身表現から逸れますが、「する」については、可能
表現で「できる」を持ってきて使うわけですが、これも上に挙げられた「する
動詞(口語サ変動詞)」に対して実用上一般に適用されています。
そして、元記事の問題意識は、まさにその「活用」と「慣用」のはざまを問う
たものであるわけです。つまり、受け身表現で慣用的な「される」を採用する
口語サ変グループと、「正統な」活用による「せられる」以外の採用を拒むグ
ループがあるのはなぜかという話ではなかったかと思います。
海外の日本語学習者(研究者)に見られるこうした疑問は、しばしば「正統」
文法に関するものではなく、実用文法に関するもので、文法学者から見ると異
質な疑問に感じられるかもしれません。
> >> 2.漢語1語をふくむ「する動詞」: 決する 解する 関する 付する 評す
> る
> >
> >これは、終止形語尾が「する」でありながら、文語サ変の活用に郷愁を持ってい
> >るらしきグループ。「~される」を拒みつづけている連中がこの中にいます。
> >
> そもそも、文語サ変の活用に郷愁を持つもなにも、これら
> の動詞は正統なサ変動詞ですから、口語においても遺伝
> 的にその活用を受け継いでいるだけのことではないのでし
> ょうか。私には、真正な活用による日本語の正しい表現、
> ただそれだけの話のようにみえます。
「正当なサ変動詞」「真正な活用」はそのとおりなのですが、言葉を現実に運
用する(あるいはそれを学習する)立場から見ると、「~される」を拒み続け
ている妙な動詞がある、というふうに見えるわけです。
> >「~される」を拒みつづけている連中がこの中にいます。
> とのことですが、このグループでいえば、「決する」、「付す
> る」および「関する」を除いた語群では、「~される」という
> 接続も見受けられるかと思いますが。それらは私見では、
> それぞれ、
>
> 理解する --> 理解される-->(解される)
> 批評する --> 批評される-->(評される)
>
> という過程のアナロジーであると思われます。
これは、二字熟語の前半を略した形になると、「される」を受け入れる傾向に
あるということでしょうか。では、「送付する」、「対決する」の場合はどう
でしょうか。
> >> 3.四段化の影響を受けた「する動詞」: 愛する 記する 帰する 御する
> 辞す
> >> る 訳する
> >
> >このあたりは、すでに活用的に五段動詞とする動詞の2バージョンずつ持ってい
> >ると考えたほうがいいのかもしれません。
> >
> >「愛する」「愛す」/「記する」「記す」/「帰する」「帰す」/
> >「御する」「御す」/「辞する」「辞す」
> >
> >で、このうち、五段活用しているバージョンでは受け身形は当然「~される」に
> >なるわけですが、「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
> >いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
> >
>
> この対立はまず、動詞の活用の歴史的変化を共時的に
> 包括できるからではなくて、
この「からではなくて」以前の文脈の脈絡がわかりません。「歴史的変化を共
時的に包括」したつもりはないんですが。
> 終止形と連体形との補完関
> 係から両形を現在のところ備えているからです。
「意味」という点から見ると、たしかに、ある意味を持つ動詞が「二つの形を
備えている」ように見えますが、両者は単に「終止形と連体形との補完」関係
にあるというよりは、別個の活用型を持つと見ることはできませんか。
例:
記しない 記します 記する 記すれば 記せよ (記しよう) <サ変>
記さない 記します 記す 記せば 記せ (記そう) <五段>
> また、
>
> >「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
> >いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
>
> とおっしゃいますが、このグループの特徴は*まさに逆で*
> 「する動詞」(私はこの言い方をしないのですが、私の解釈
> では口語サ変動詞のこと)が本来の「~せられる」よりも
> 「~される」に傾いているということではないのですか。
> おっしゃるような「文語に対する郷愁」とは具体的にどんな
> 郷愁なのでしょうか。
それはまさにその「本来の」形に対する郷愁なんですよ。
> >萩原@グリフィス大学w
一種の擬古文でなくて、日常の口語のなかで慣用的に文
語活用する(ie. 終止形「~す」)サ行変格活用動詞がある
ということですね。
具体的にどんな動詞ですか?複数個例示してください。
文例も比較して示してくださると助かります。
>
>> >> 1.漢語2語からなる「する動詞」: 解決する 理解する 敬愛する 暗記
す
>> る
>> >> 過信する 対応する
>> >
>> >このあたりは、「する動詞」に移行してしまい、終止形の語尾が「す」で終るこ
>> >とはほとんどないもの。従って、口語サ変「する」と同じ活用が適用されていま
>> >すし、その受け身形は、「~される」で使用上全く問題がないわけです。
>
>> これもわかりません。
>> ここで議論されているのは、二文字漢語におけるサ変動詞
>> の口語形ですよね。口語サ変と同じ活用が適用されたばあ
>> いの受け身形の助動詞は、おっしゃているような「~される」
>> ではなくて、「~せられる」ではないのですか?
>
>「活用」としてはそうなんですが、慣用としては「される」が当てられている
>ということです。話は受け身表現から逸れますが、「する」については、可能
>表現で「できる」を持ってきて使うわけですが、これも上に挙げられた「する
>動詞(口語サ変動詞)」に対して実用上一般に適用されています。
>
それなら、すでにサ変ではないですね。
どうして、「・・・。従って、口語サ変「する」と同じ活用が適用
されて・・・」とつづくのか、その論理性がわからないのです。
ここは、四段化したがゆえに、ではないのですか。なぜサ変
の活用にこだわるのでしょう。
>そして、元記事の問題意識は、まさにその「活用」と「慣用」のはざまを問う
>たものであるわけです。つまり、受け身表現で慣用的な「される」を採用する
>口語サ変グループと、「正統な」活用による「せられる」以外の採用を拒むグ
>ループがあるのはなぜかという話ではなかったかと思います。
>
つまり、四段化の理由に対する疑問ですね。
その過渡期にあっては当時の日本人で言語感覚の鋭い
人たちの間では、「ずいぶん妙ないい方が昨今流行るな」
と思われていたことでしょう。そもそもは誤用だったわけで
す。なぜそうなったかについては諸説あるかもしれません
が、そのもっとも大きな要因は、その動詞が和語化して従
来の四段活用動詞とすでに識別できなくなっていたからで
しょう。
>海外の日本語学習者(研究者)に見られるこうした疑問は、しばしば「正統」
>文法に関するものではなく、実用文法に関するもので、文法学者から見ると異
>質な疑問に感じられるかもしれません。
>
私の経験では、そこいらの日本人よりも、日本語を習得
した外国人のほうが、よっぽど文法的に正しい日本語を
話します。
>
>> >> 2.漢語1語をふくむ「する動詞」: 決する 解する 関する 付する 評
す
>> る
>> >
>> >これは、終止形語尾が「する」でありながら、文語サ変の活用に郷愁を持ってい
>> >るらしきグループ。「~される」を拒みつづけている連中がこの中にいます。
>> >
>> そもそも、文語サ変の活用に郷愁を持つもなにも、これら
>> の動詞は正統なサ変動詞ですから、口語においても遺伝
>> 的にその活用を受け継いでいるだけのことではないのでし
>> ょうか。私には、真正な活用による日本語の正しい表現、
>> ただそれだけの話のようにみえます。
>
>「正当なサ変動詞」「真正な活用」はそのとおりなのですが、言葉を現実に運
>用する(あるいはそれを学習する)立場から見ると、「~される」を拒み続け
>ている妙な動詞がある、というふうに見えるわけです。
>
サ行変格活用動詞は「~される」を拒むのです。どうして、
そう教えてあげないのでしょうか。その上で、例外を挙げ
ておけばよいのでは。文法の学習とはそういうものだと
思いますが。
>
>> >「~される」を拒みつづけている連中がこの中にいます。
>> とのことですが、このグループでいえば、「決する」、「付す
>> る」および「関する」を除いた語群では、「~される」という
>> 接続も見受けられるかと思いますが。それらは私見では、
>> それぞれ、
>>
>> 理解する --> 理解される-->(解される)
>> 批評する --> 批評される-->(評される)
>>
>> という過程のアナロジーであると思われます。
>
>これは、二字熟語の前半を略した形になると、「される」を受け入れる傾向に
>あるということでしょうか。では、「送付する」、「対決する」の場合はどう
>でしょうか。
>
誤用のアナロジーですから、いずれにしても、誤りです。
( )はそういう意味です。
> >> 3.四段化の影響を受けた「する動詞」: 愛する 記する 帰する 御する
>> 辞す
>> >> る 訳する
>> >
>> >このあたりは、すでに活用的に五段動詞とする動詞の2バージョンずつ持ってい
>> >ると考えたほうがいいのかもしれません。
>> >
>> >「愛する」「愛す」/「記する」「記す」/「帰する」「帰す」/
>> >「御する」「御す」/「辞する」「辞す」
>> >
>> >で、このうち、五段活用しているバージョンでは受け身形は当然「~される」に
>> >なるわけですが、「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
>> >いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
>> >
>>
>> この対立はまず、動詞の活用の歴史的変化を共時的に
>> 包括できるからではなくて、
>
>この「からではなくて」以前の文脈の脈絡がわかりません。「歴史的変化を共
>時的に包括」したつもりはないんですが。
>
同じ動詞が文語・口語の2パージョンをもつというのは、
「歴史的変化を共時的に包括」しているからではありま
せんか。
>> 終止形と連体形との補完関
>> 係から両形を現在のところ備えているからです。
>
>「意味」という点から見ると、たしかに、ある意味を持つ動詞が「二つの形を
>備えている」ように見えますが、両者は単に「終止形と連体形との補完」関係
>にあるというよりは、別個の活用型を持つと見ることはできませんか。
>
>例:
> 記しない 記します 記する 記すれば 記せよ (記しよう) <サ変>
> 記さない 記します 記す 記せば 記せ (記そう) <五段>
>
たとえば、せっかく上に例を挙げていただきましたのでこの
動詞でいえば、連体形を使って、A man who writes.という英
文を日本語にする場合、「記する人」か「記す人」かは、現在
のところ優劣が完全には決しておらず、その二者を併用して
コミュニケーションを図る必要性をなしとしない、というのが
私の論旨です。活用型は見れば分かるとおり、別個のもの
であるのは当然です。
>
>> また、
>>
>> >「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
>> >いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
>>
>> とおっしゃいますが、このグループの特徴は*まさに逆で*
>> 「する動詞」(私はこの言い方をしないのですが、私の解釈
>> では口語サ変動詞のこと)が本来の「~せられる」よりも
>> 「~される」に傾いているということではないのですか。
>> おっしゃるような「文語に対する郷愁」とは具体的にどんな
>> 郷愁なのでしょうか。
>
>それはまさにその「本来の」形に対する郷愁なんですよ。
>
おっしゃっていることが反対で、実は「する動詞」バージョ
ンの方が、「~される」を好むんじゃないですか、というこ
とです。
ま、レトリックとは思いますが、動詞自体に「郷愁」はない
でしょう。郷愁というよりは、話者の状況判断だと思いま
すが。
>> >萩原@グリフィス大学w
_______
kentaro@tokyo
日常的かつ慣用的に終止形で現れるということだと、慣用句の中のサ変がありま
すね。
「一笑に付す」の「付す」
「雌雄を決す」の「決す」
「言語を解す」の「解す」
あたりでしょうか。これらは「擬古文」に含まれるのかもしれませんが、日常的
に使用されているものなら「文語サ変が慣用的に現代でも使われている」例とし
て「擬古文」を排する理由もないと思います。
> >> >> 1.漢語2語からなる「する動詞」: 解決する 理解する 敬愛する 暗記
> す
> >> る
> >> >> 過信する 対応する
> >> >
> >> >このあたりは、「する動詞」に移行してしまい、終止形の語尾が「す」で終るこ
> >> >とはほとんどないもの。従って、口語サ変「する」と同じ活用が適用されていま
> >> >すし、その受け身形は、「~される」で使用上全く問題がないわけです。
> >
> >> これもわかりません。
> >> ここで議論されているのは、二文字漢語におけるサ変動詞
> >> の口語形ですよね。口語サ変と同じ活用が適用されたばあ
> >> いの受け身形の助動詞は、おっしゃているような「~される」
> >> ではなくて、「~せられる」ではないのですか?
> >
> >「活用」としてはそうなんですが、慣用としては「される」が当てられている
> >ということです。話は受け身表現から逸れますが、「する」については、可能
> >表現で「できる」を持ってきて使うわけですが、これも上に挙げられた「する
> >動詞(口語サ変動詞)」に対して実用上一般に適用されています。
> >
>
> それなら、すでにサ変ではないですね。
> どうして、「・・・。従って、口語サ変「する」と同じ活用が適用
> されて・・・」とつづくのか、その論理性がわからないのです。
「口語サ変と同じ活用をするものの、受け身形(表現)が『される』となるのは
当たり前だろう」ということですが、論理的に変でしょうか。
> ここは、四段化したがゆえに、ではないのですか。
おっしゃる意味がよくわかりませんが、四段化したがゆえに受け身表現に「され
る」が使用されているとはどういうことでしょうか。現代口語文法で「し(せ・
さ) し する する すれ しろ」と活用する「する」は、「四段
化」しているわけではなさそうですが、受身表現は「される」が一般的ですよ
ね。
「する」の場合、受け身形には、むろん、「せられる」という形もあって、そっ
ちの方が「正統」なのは認めますが、現代口語として、「する」の受け身表現と
して「せられる」を使う例がどれだけあるでしょうか。
> なぜサ変の活用にこだわるのでしょう。
こだわっているのは、受け身形(受身表現の形)であって、「活用」ではありま
せん。また、それ(受身表現)はこのスレッドの最初からの中心的なトピックで
す。
> >「正当なサ変動詞」「真正な活用」はそのとおりなのですが、言葉を現実に運
> >用する(あるいはそれを学習する)立場から見ると、「~される」を拒み続け
> >ている妙な動詞がある、というふうに見えるわけです。
>
> サ行変格活用動詞は「~される」を拒むのです。どうして、
> そう教えてあげないのでしょうか。その上で、例外を挙げ
> ておけばよいのでは。
現代の日本語ではサ行変格活用の受け身表現は「される」で問題ない場合のほう
が圧倒的に多く、そちらを憶えた方が効率的だし実用的だからでしょう。むし
ろ、「せられる」を使用しなければならない場面(あるいは動詞)のほうが例外
的です。教える側としてはそっちを「例外」として教えることになると思いま
す。
> 文法の学習とはそういうものだと思いますが。
日本語学習者の多くは「文法の学習」をするために日本語を習っているわけでは
ないわけです。彼らにとって文法の学習はコミュニケーション能力に資するもの
であって、目的ではありません。
> >> >このあたりは、すでに活用的に五段動詞とする動詞の2バージョンずつ持ってい
> >> >ると考えたほうがいいのかもしれません。
> >> >
> >> >「愛する」「愛す」/「記する」「記す」/「帰する」「帰す」/
> >> >「御する」「御す」/「辞する」「辞す」
> >> >
> >> >で、このうち、五段活用しているバージョンでは受け身形は当然「~される」に
> >> >なるわけですが、「する動詞」バージョンの方は、なぜか「~される」を好まな
> >> >いで、文語に対する郷愁を匂わせているようです。
> >> >
> >>
> >> この対立はまず、動詞の活用の歴史的変化を共時的に
> >> 包括できるからではなくて、
> >
> >この「からではなくて」以前の文脈の脈絡がわかりません。「歴史的変化を共
> >時的に包括」したつもりはないんですが。
> >
>
> 同じ動詞が文語・口語の2パージョンをもつというのは、
> 「歴史的変化を共時的に包括」しているからではありま
> せんか。
「文語・口語の」2バージョンとは言っていません。「サ変(する動詞)」と
「五段動詞」の2バージョンですが、どちらも口語のつもりです。したがってそ
こに「歴史的変化を共時的に包括」する意図はありません。以下の活用の例では
サ変動詞の命令形に文語をあててしまっていますが、「記しろ」とすべきでし
た。
> >例:
> > 記しない 記します 記する 記すれば 記せよ (記しよう) <サ変>
> > 記さない 記します 記す 記せば 記せ (記そう) <五段>
> たとえば、せっかく上に例を挙げていただきましたのでこの
> 動詞でいえば、連体形を使って、A man who writes.という英
> 文を日本語にする場合、「記する人」か「記す人」かは、現在
> のところ優劣が完全には決しておらず、その二者を併用して
> コミュニケーションを図る必要性をなしとしない、というのが
> 私の論旨です。
こちらの方は了解しました。
> >> >萩原@グリフィス大学w
余談ですが、上記引用部には、それに対するコメントがありませんが、何のため
の引用でしょうか。
萩原@グリフィス大学
>>>[......]
>> 一種の擬古文でなくて、日常の口語のなかで慣用的に文
>> 語活用する(ie. 終止形「~す」)サ行変格活用動詞がある
>> ということですね。
>> 具体的にどんな動詞ですか?複数個例示してください。
>> 文例も比較して示してくださると助かります。
>
>日常的かつ慣用的に終止形で現れるということだと、慣用句の中のサ変がありま
>すね。
>
>「一笑に付す」の「付す」
>「雌雄を決す」の「決す」
>「言語を解す」の「解す」
>[.....]
記事全般的におっしゃる意味はわかりました。
ただちょっとだけ気になるのは、この三語をとっただけ
でも、このグループの品質はばらばらだという点です。
「解す」と「付す」は同音の異義語に四段活用動詞が
存在し、そのアナロジーによる影響を強く受ける動詞
群ですが、「決す」はまた別格ですよね。
>
>> >> >萩原@グリフィス大学w
>
>余談ですが、上記引用部には、それに対するコメントがありませんが、何のため
>の引用でしょうか。
>
別に意味はありませんが、署名部分というのは残すべきな
のかなと思いまして。気紛れでしたね。すいません。
_______
kentaro@tokyo
> ただちょっとだけ気になるのは、この三語をとっただけ
> でも、このグループの品質はばらばらだという点です。
> 「解す」と「付す」は同音の異義語に四段活用動詞が
> 存在し、そのアナロジーによる影響を強く受ける動詞
> 群ですが、「決す」はまた別格ですよね。
ええ、そのとおりです。その「ばらばら」さが
in <bj3udl$eqlmq$1...@ID-83482.news.uni-berlin.de> Kaz Hagiwara wrote:
> 中には、終止形の語尾が「す」のまま残っているやつがあるからややこしい
の「ややこし」さに寄与する部分も多いのではないかと考えています。
萩原@グリフィス大学
したがって、私にはお答えできないのですが、私が今申せることは次の通りです。
1.今から数百年前、連体形で終わる文体がはやったことにより、「~す動詞」から古い形の「~す
る動詞」が生まれた。
2.1603年、政治経済の中心が京都から江戸へ移ったことにより、言葉も江戸を中心とする地方
の方言が広く使われるようになり、日本語は大きく乱れた。
3.全国的な幕府政治と印刷技術の発展のおかげで、混乱の中から少しずつ標準語が作られていっ
た。
4.明治維新後、1886年義務教育制度の開始と共に、全国統一の標準語を制定する活動が積極的
に進められて、今日の日本語の基礎ができた。
5.サ変動詞の一段化や四段化などの活用変化は(3)の過程で定着していったと、私は思ってい
る。
6.この活用変化には一定の法則がありそうに思えるが、私はその法則を知りたいと思っている。
話は飛びますが、最近しばしば話題になる「ら抜き言葉」は、「ラ行」音の重複を避けたいという音
韻的な理由と、一段動詞の受身形が、「受動表現」と「可能表現」が同じであることから生じるあい
まいさを避けたいという理由から好んで使われていると思います。
似たような理由が本題の活用変化にもあるのではないでしょうか。
皆さんのご教示をいただきたいと思っています。
--
*** さいとう ***
>2.1603年、政治経済の中心が京都から江戸へ移ったことにより、言葉も江戸
を中心とする地方
>の方言が広く使われるようになり、日本語は大きく乱れた。
>3.全国的な幕府政治と印刷技術の発展のおかげで、混乱の中から少しずつ標準語
が作られていっ
>た。
>4.明治維新後、1886年義務教育制度の開始と共に、全国統一の標準語を制定
する活動が積極的
>に進められて、今日の日本語の基礎ができた。
>5.サ変動詞の一段化や四段化などの活用変化は(3)の過程で定着していった
と、私は思ってい
>る。
動詞一般が一段化および四段化に及ぶのは確かに近世
になってからですが、これが、社会の激動によるものにせ
よ、この時期に突然こうした現象が湧き起こったわけでは
ないと思います。
実際、日本史の上で院政期とよばれる中世に従来上二段
あるいは下二段に活用していた動詞群の一部に上一段、
下一段に活用するものが現われはじめ、こうした現象が
国語学では一般に二段活用の一段化と呼ばれています。
つまり、語幹+u(母音)で活用していた動詞群のなかに
助動詞語尾(る・れ)を接着させる方式の活用をするもの
が出現しだしたわけです。こうした動詞群は音節数の少な
い上二段に始まり、下二段に及びました。そして、さらに
こうした変化による副作用から、母音交替によって動詞群
の語幹の統一性が保持できないことから、次第に動詞は
その活用を弱変化の方向へと傾斜させて行ったものと考
えられます。
_______
kentaro@tokyo
この手の現象を引き起こす力は現在も残っていて、話し言葉の中には一部一段化
しつつある四段動詞もありますね。特に可能表現。
行ける -> 行けれる
読める ー> 読めれる
一段動詞のら抜き化との相関関係は不明ですが、同時進行的に日本語の動詞の可
能表現(可能形)が変りつつあるように思います。
萩原@グリフィス大学
たしかにそうですね。しかし、なんとも気持ちわるいです。
この可能表現は「ら抜き表現」の一般化と前後して発生し
たらしい面妖な表現法で、「レタス表現」と呼ばれているも
のですね。ら抜き自体はかなり前から言われていたという
詳細な研究もありますが、この「れ」を入れてとにかく可能
表現にしようという「レタスことば」は最近のもののような気
がします。
_______
kentaro@tokyo
> この可能表現は「ら抜き表現」の一般化と前後して発生し
> たらしい面妖な表現法で、「レタス表現」と呼ばれているも
> のですね。ら抜き自体はかなり前から言われていたという
> 詳細な研究もありますが、この「れ」を入れてとにかく可能
> 表現にしようという「レタスことば」は最近のもののような気
> がします。
こういう言い方をするのは、関西方言を話す人に多いような気がするのは私だけ
でしょうか。
文語の四段動詞がが現代語になって五段化するにあたって、活用形の「已然形」
が落ちて、「可能形」というやつが現れるわけですが、そのときに(といっても
いつの時か判然としませんが)、元来の「未然形+れる・られる」すなわち「受
け身・尊敬・自発・可能」として機能していた形での「可能表現」を保持したい
という気分と、「れる」に引きづられて活用語尾がエ段化していく力とを共に受
けて出来たのが、この「れ足す」だったのではないでしょうか。すなわち、
行かれる -> 行「け」れる
だから、いわゆる「五段動詞の可能形」に単に「れ」が足されてできたというわ
けでもないような、なんとなく、それこそ「郷愁」をさそうような表現です。だ
から関西方言話者に多い?
この仮説で行くと、一段動詞の場合、
見られる -> み「れ」れる
となるはずですが、ラ行の同音のつづく「れれる」の言いづらさをきらって、
「ら抜き」が起きたという推測もできるかと思います。
これが正しいとすると、どっちが古いかという話になると、「れ足す」よりも
「ら抜き」の方が新しい、ということになるんですが、本当はどうなんでしょうね。
萩原@グリフィス大学
このへんの仮説には、傍証としての資料がほしいところで
すね。
「行かれる」-- (「行けれる」) -- 「行ける」 の真ん中のミ
ッシングリンクが実際の文献などで見つかれば非常にお
もしろい。
興味ぶかい考えとは思いますが、うーん、実際にどうでし
ょうか。未然形が日本語を母語とする人間の脳の中で
可能表現と深層で固着しているのは確かだと思いますが。
>この仮説で行くと、一段動詞の場合、
>
> 見られる -> み「れ」れる
>
>となるはずですが、ラ行の同音のつづく「れれる」の言いづらさをきらって、
>「ら抜き」が起きたという推測もできるかと思います。
>
過渡期にあたって文法重視の活用をする分析的な
脳細胞の持ち主ならそうなのでしょうが、実際に使
用している人々を思い重ねてみると、ちょっとそうで
はないような・・・。
動詞活用の延長ではなく、何か他の理由で単に語
尾を勝手にくっつけたり、取っちゃったりというのが
私の印象なのですが。
_______
kentaro@tokyo
記事 <5eR6b.70$SG6...@news1.dion.ne.jp> にて "健太郎" <kent_...@d1.dion.ne.jp> さんの仰るには:
いや。甲州弁には『ら抜き』も『れ足す』もありました。少なく
とも三十年以上昔から。ご参考までに。
方言として聞くぶんには全然気にならないんですけどね……共通
語の文脈の中ではどっちも気持ち悪い。その点、同感です。
------------------------------------------------------------
蘭 死郎 Email shi...@pc.highway.ne.jp
WWW http://home3.highway.ne.jp/~shirou/
「れ足す」もあった?三十年以上前に?そうですか・・・。
甲州弁でということで思い出しました。
私の知るかぎりでは、「ら抜き」は大正13年刊行の
「標準日本文法」ですでに取り上げられていました。
著者は国文法研究の第一人者といわれた松下大
三郎という人ですが、
被動の助辞「られる」の「ら」を省略して用いるのは
として、「起きれる」、「受けれる」、「来れる」を挙げ、
上一段、下一段、カ変で「皆さうなる」と書いていま
す。
しかし、後年、金田一春彦氏はこれを批判して、そ
ういう記述をしたのは、松下氏の出身が「来れる」
などという方言のあった静岡県だったからで、自分
のことばをうっかり共通語として扱ってしまったのだ
としました。
やはり東海方面と関係があるんでしょうかね。
_______
kentaro@tokyo
Kaz Hagiwara wrote:
> が落ちて、「可能形」というやつが現れるわけですが、
「可能形」なんてものは、現代日本語動詞の活用形にはありません。私の脳内
typoでした。すみません。
ただし、「可能表現」の方はあります。ありますが、その作り方に複数あるわけ
です。そこに「ら抜き」だとか「れ足す」だとか、受身表現の混乱だとかがから
んできているわけですが。
萩原@グリフィス大学
> 松下氏の出身が「来れる」
> などという方言のあった静岡県だったからで、自分
> のことばをうっかり共通語として扱ってしまったのだ
> としました。
>
> やはり東海方面と関係があるんでしょうかね。
東海方面出身ですが、静岡県というのは東西に長く、大きな川が都合4本あり、
川を隔てるごとに言葉がかなりちがっています。私のいた静岡県中部地方では、
ら抜き、れ足すともにその地方の方言としては、ほとんど聞きませんでした。
そのかわり、その地方では、可能表現として、今でも「~得る」由来の表現を常
用しています。すなわち
「来る」 -> 「きえーる・こえーる」
「する」 -> 「しえーる」
「行く」 -> 「いけーる」
「見る」 -> 「みえーる」
この地方は、甲州とは身延山麓を通る街道でかなり色濃く結びついているはずで
すが、なぜか、「ら抜き」「れ足す」に関してはよその土地の言葉、あるいはへ
んな言葉という認識があります。
ちなみに、現代標準語の一般的な可能表現の、五段動詞の場合の「仮定形語幹+
る」、一段動詞の場合の「未然形+られる」という変則的な作り方は、この「動
詞連用形+得る」という形と、「受け身/尊敬/自発/可能」の助動詞「れる・ら
れる」を好んで使う形が、活用型によって、分かれてきているということなので
しょうね。
萩原@グリフィス大学
文献にはあとで当たるとして、とりあえず、今はブレインストーミングをつづけ
ます。
> 「行かれる」-- (「行けれる」) -- 「行ける」
上の「行かれる」と「行ける」には接点はないと思います。おそらく、「行かれ
る」のほうは、文語の助動詞「る・らる(受け身/尊敬/自発/可能を表す)」をつ
けた形からの派生、「行ける」の方は、補助動詞「得(連体形は<得る>)」を
つけた形からの派生で、成り立ちのメカニズムがそもそも違うのでそこには
「ミッシングリンク」が見つかる可能性はないはずです。
私の「あてずっぽう仮説」は、動詞全体に「れ足す」がまず起こり、ついで一段
動詞に「ら抜き」が起こったというさらなる推量を生み出すわけですが、それに
ついて、「ミッシングリンク」と呼べるものがあるとすれば、それは「ら抜き」
と「れ足す」をつなぐミッシングリンク「れれる」という表現です。
ちなみに私の「あてずっぽう仮説」とは、
「れ足す」表現は、「~得る」由来の「行ける」に「れ」が足されて
出来たものではなく、「る・らる」由来の「行かれる」内の「か」が、
それに続く「れ」にひきずられてエ段に音韻変化したものではないか
という仮説です。
これを、わかりやすく整理しておくと、
助動詞
「れる・られる」
を使った
正規推量表現 れ足す表現 ら抜き表現
五段 行く -> 行かれる -> 行けれる
一段 見る -> 見られる -> 見れれる -> 見れる
^^^^^^^^
以上のようになります。で、「ミッシングリンク」の「みれれる」ですが、私
は、あいにく文献にそんなものを見たことはありませんが、状況証拠ならあります。
それは、五段動詞であっても活用語尾がラ行のものは「れ足す」表現にならない
ということです。
例: すわる -> すわられる -> すわれれる ×
はいる -> はいられる -> はいれれる ×
売る -> 売られる -> 売れれる ×
この事実は、いくら「れ足す」表現へ向かう力が働いても、活用中に「れれ」の
反復があると、それを嫌って排除する力が同時に働いているらしきことを示すも
のです。
この「れれ」への反発は、脳内だけでおこるものかも知れず、そのため文献に現
れないのかもしれませんが、ともあれ、その結果として、一段動詞の「ら抜き」
が起こったと考えることにはできそうな気がします。
> 動詞活用の延長ではなく、何か他の理由で単に語
> 尾を勝手にくっつけたり、取っちゃったりというのが
> 私の印象なのですが。
私も最初そう思っていましたが、今回、考える機会を持って考え始めてみたとこ
ろ、別の可能性も思い浮かんできたわけです。で、そっちの可能性のほうが、可
能表現における「ら抜き言葉」と「れ足す言葉」を統一的に説明できそうなんで
すね。
萩原@グリフィス大学
そうですか。説得力ありますね。
>[.............]
>ちなみに、現代標準語の一般的な可能表現の、五段動詞の場合の「仮定形語幹+
>る」、一段動詞の場合の「未然形+られる」という変則的な作り方は、この「動
>詞連用形+得る」という形と、「受け身/尊敬/自発/可能」の助動詞「れる・ら
>れる」を好んで使う形が、活用型によって、分かれてきているということなので
>しょうね。
「る・らる」を使わずに、現代の四段活用動詞のように下一段
化させた可能動詞による表現の成立は、四段活用の下二段
化したものがその初期の形といわれますよね。
これは、「日葡辞書」にも「読むる」などとあります。可能動詞
の出現とのちの時代における定着は、る・らるに託されている
未分化な多義性を離れて、特化した明瞭な表現への要請に
よるものではないのでしょうか。
考えてみれば、可能とはいえ、中世以前の「る・らる」は打消
しとともに用いられたのがもっぱらで、西欧の接続法などの
ような可能表現はなかったわけで、日本語としての表現の転
換点だったような気もします。いまでも英語を習い始めの中学
生などは、英語における、It can be dangerous. という表現の
和訳が硬いですよね。
_______
kentaro@tokyo
前の投稿に補足しますと、うちの母方の郷里というのは東山梨郡
で、塩山から北へ上がった牧丘町にあります。
『山があっても山ナシ県』などと言う通り、山梨もその地勢的条
件からか、同じ県内でも地域によって言葉がだいぶ違うようです。
母によれば牧丘あたりは甲府とあまり変わらないらしいのですが、
都留の方面、身延の周辺、長野に近い昇仙峡辺りなどで、それぞれ
言葉が違うとのこと。
身延と言えば以前NHKの番組で見たんですが、一ヶ所、西国の
古い言葉と同じ言語的特徴を残している集落もあるとか。いま検索
してみたんですが『奈良田』という土地のようです。これも興味深
い。
ことほど左様に山梨だけ見ても言葉が多様なので、やはり東海と
か中部とかで一括りにはできないのかも知れませんね。
で、本題に戻って『れ足す表現』。
「行けれるじゃん」
「読めれんよ」
なんて言い方は親戚の家で普通に聞かれました。もちろん『来れ
る』『見れる』等の『ら抜き』も当たり前で。
だから最近になって共通語の中でこういう言葉が出てきた時に、
幼児語なのか、訛ってるのか? というような感覚がありました。
今でもそうなんですが。