ここで
観自在菩薩・・・観音菩薩
「観音菩薩が般若波羅蜜多の行をされていたとき」
とある。
この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
皆さんのお考えを承りたい。
>観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
>ここで
>観自在菩薩・・・観音菩薩
>「観音菩薩が般若波羅蜜多の行をされていたとき」
>とある。
「般若波羅蜜多」とは、古代インド語では、「パニャ―パラミタ―」という。
般若(パニャ―)は智慧、仏智であり、波羅(パラー)は彼岸という意味であり、向
こう岸つまりあの世の極楽ということ。蜜多(ミター)蜜が多いという中国の当て字
で、意味は内在とか家の中というような意味。
通して言うと、観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行じた時、
つまり、「内在された偉大な智慧に到達するための生活行為を、深く実践したとき」
という意味になります。
>この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
>皆さんのお考えを承りたい。
つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、以前にもどこかに記されました
が、六波羅蜜をすることがあげられるでしょう。復習しますと、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。の六つです。
この中で意味の分かりずらいものがありましたら、どうぞ御遠慮なくお尋ねくださ
い。
「忍辱」とは、たとえZZ氏に馬鹿にされたと思っても、すぐに感情的になって仕返し
をしたりするのではなく、じっと耐え忍びその意味について、自ら思いを馳せ、その
出会いの有り難さについて気付き、感謝してふりかえることが出来る等・・・。
智慧とは、すぐに刺激に反応してしまい、目先のこと、お金のこと、自分のことにの
み振り回されることがないよう、仏さまなら、お釈迦様なら、これはどうされるかな
?とあらゆる仏の智慧を自らの内より引き出す努力をすること。
言葉では簡単そうですが、その意味は行じれば行じるほど深く難しくなりまた、行じ
れば行じるほどその境地も深くなり、般若波羅蜜を行じていると、言えるようになる
のかもしれませんね?
crx
毎日、おやっと心にかかったこと、かちんときた事件を書き出し、その時生じた
感覚(どんな感じを受けたか。ぎくっとした等)
感情(どんな感情が動いたか。怒りがぶわ~っと湧いてきて、居ても立ってもいられ
ない状態になった等。)
思考(どんな考えが心をよぎっていったか。いつか恥をかかせてやるぞ。その時まで
待っているよ等。)
意志(どう、意志が働いたか。じっと相手をにらんでいた等。)
を毎日書き点検すると、いかに自分の思うこと、していること等が仏様、イエス様が
たとは違うか、愕然としつつ理解することが出来ると思います。それは、禅定につな
がる行いであると思います。
あなたの説では、【生活行為】を実践するということが
行深般若波羅蜜多
とのことですが、生活に行為などありません。生活は、生活。行為は行為。
まるで、生活行為感情実践とか、なんでも単語をくっつけた造語とおなじ。
あなたの言われることが【生活行為】なるものがあって、それを【実践】するという
なら、
実践と生活行為との違いは説明できますか?同じことを言ってますよ。
どう違うといってるのでしょう。
>
> >この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
> >皆さんのお考えを承りたい。
>
> つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、以前にもどこかに記されまし
た
> が、六波羅蜜をすることがあげられるでしょう。復習しますと、
> 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。の六つです。
> この中で意味の分かりずらいものがありましたら、どうぞ御遠慮なくお尋ねくださ
> い。
それはおかしい。生活行為を実践すること
という解釈といったではありませんか。
なぜ、舌のねも乾かぬうちに前言を翻すのです。
でたらめを言っているではありませんか。
余り不真面目なことは言うべきではないでしょう。
以下、どこが生活行為なのでしょうね。あなたの生活行為とはこんなものなのでしょ
うか。
>
> 「忍辱」とは、たとえZZ氏に馬鹿にされたと思っても、すぐに感情的になって仕返
し
> をしたりするのではなく、じっと耐え忍びその意味について、自ら思いを馳せ、そ
の
> 出会いの有り難さについて気付き、感謝してふりかえることが出来る等・・・。
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般若波羅蜜多については,生活行為の中から自己の修行の道を
生み出すものと考えていいと思います.
2,500年前,仏陀はこのように申し上げています.
「この空を良く知る者は,物質的な現象に煩うことはない.
感じることにも,心に浮かぶ象にも,意志にも,知識にも煩わされない.
眼や,耳や,鼻や,舌や,身体や,心にも.ものの姿や,声や,匂いや,
味わいや,触りごこちや,心地良さや不快にも執着しない.
眼に写る世界から 意識の領域にいたるまで何にも迷わされることはない.」
つまりこれは,生活行為の中から生まれる人間の必然的行為
ではないでしょうか?
般若波羅蜜多は実生活で実践することにより生きるものであろうと思います.
そもそも仏教とは,生活行為の中から自己の修行の道を教えるものですから.
--
山本一郎
>
>> 「般若波羅蜜多」とは、古代インド語では、「パニャ―パラミタ―」という。
>> 般若(パニャ―)は智慧、仏智であり、波羅(パラー)は彼岸という意味であり、
向
>> こう岸つまりあの世の極楽ということ。蜜多(ミター)蜜が多いという中国の当
て
字
>> で、意味は内在とか家の中というような意味。
>> 通して言うと、観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行じた時、
>> つまり、「内在された偉大な智慧に到達するための生活行為を、深く実践したと
き」
>>という意味になります。
>それは分かりにくいですね。
>あなたのお説は学問的にどなたかの定説なのですか?だれのでしょう。
>それとも、ご自分の思い込みなのですか?
>ただ、言葉を単語で分解しているのみでは。
どうぞ御自分でお勉強されてご確認されてください。まだ御確認されようとされない
のですか?遅れていますね。
>あなたの説では、【生活行為】を実践するということが
>行深般若波羅蜜多
>とのことですが、生活に行為などありません。生活は、生活。行為は行為。
>まるで、生活行為感情実践とか、なんでも単語をくっつけた造語とおなじ。
お分かりにならぬ方方のめに、懇切丁寧にご説明しているのです。
ですから何をお言いになりたいのかね???造語だとして、だから何をお言いになり
たいのかな??
>あなたの言われることが【生活行為】なるものがあって、それを【実践】するとい
う
>なら、
>実践と生活行為との違いは説明できますか?同じことを言ってますよ。
>どう違うといってるのでしょう。
意味が分かれば、同じであろうが、何であろうが、小生は気にしない質なのです。
貴殿は脳味噌を固めながら、何を小生に言いたいのかね?
> >>この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
> >>皆さんのお考えを承りたい。
>
>> つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、以前にもどこかに記されま
し
た
>> が、六波羅蜜をすることがあげられるでしょう。復習しますと、
>> 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。の六つです。
>> この中で意味の分かりずらいものがありましたら、どうぞ御遠慮なくお尋ねくだ
さ
>> い。
>それはおかしい。生活行為を実践すること
>という解釈といったではありませんか。
何をおっしゃっているのですか?六波羅蜜が生活行為の中に入らないと思っているの
ですか???
六波羅蜜は生活行為の中にちゃんと入るでしょう?他のために親切にすること、これ
は、立派な布施の行為でしょう????
これでも、おかしかったら、どうぞぁははははははと大声でお笑いになっていてくだ
さい。
>なぜ、舌のねも乾かぬうちに前言を翻すのです。
小生の舌のねはいつになっても乾きませぬ。貴殿の舌は乾いてしまうのですか?
いよいよですな。
>でたらめを言っているではありませんか。
>余り不真面目なことは言うべきではないでしょう。
貴殿のでたらめは、真にでたらめです。
不真面目は貴殿でしょう?自分が不真面目だと全ての人間が不真面目に見える。
>以下、どこが生活行為なのでしょうね。あなたの生活行為とはこんなものなので
しょ
>うか。
南無阿弥陀仏!貴殿はまさしく修行が足りませんな。
生活行為とは、全ての人間の、手の動き、足の動き、身体の動き、脳の働き、口の働
き、その他ありとあらゆる人間にまつわる受信(受動的なこと)、と発信(能動的な
行い)、でしょう。もちろんその中には、六波羅蜜も含まれます!!!!
>
>> 「忍辱」とは、たとえZZ氏に馬鹿にされたと思っても、すぐに感情的になって仕
返
し
>> をしたりするのではなく、じっと耐え忍びその意味について、自ら思いを馳せ、
そ
の
>> 出会いの有り難さについて気付き、感謝してふりかえることが出来る等・・・。
まさしく、貴殿は自分自身の現実を正しく認知することを遠慮しておいでですな。
道元は、自分の顔を見る時に「例えば、目が二つあり、その下に鼻がついている。と
いうことを客観的に認識することが出来るようになること。」を仏の悟りの段階にあ
げています。これが「正法眼蔵」です。自らの客観的姿を、偽りなく認識すること。
それだけでもちゃんとできている人は、そんなにいませんね。それには小生も含まれ
ますが・・・
まずはそんな単純で、誰にでも出来そうで誰にも出来ていない事から、謙虚に行って
いったほうがよろしいのではないですか?
crx
> > 実践と生活行為との違いは説明できますか?同じことを言ってますよ。
> > どう違うといってるのでしょう。
>
> 般若波羅蜜多については,生活行為の中から自己の修行の道を
> 生み出すものと考えていいと思います.
> つまりこれは,生活行為の中から生まれる人間の必然的行為
> ではないでしょうか?
説明にはなってないですよ。
> 般若波羅蜜多は実生活で実践することにより生きるものであろうと思います.
>
> そもそも仏教とは,生活行為の中から自己の修行の道を教えるものですから.
もっとわかりやすく一言で言えば、悟りを得るための修行。これを
行い、極めた結果、以下に続く真理を得たということを紹介してい
るのですね。
> >この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
> >皆さんのお考えを承りたい。
> つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、
般若心経は「到達するため云々」とは書いていませんし、それは本
質ではありません。単に到達した時に得た結果を書いています。そ
してこの得られた結果は、修行することなく、誰でも得られるとい
うのが重要です。そのため「空」の説明ですから。
般若心経は、何をどうするべきかというようなことを押し付けたり
はしません。真理として、「一切は空、空の立場で見れば全ては無」
ということしつこく説明し、これを理解すれば苦しみや恐れから解
放されるということを言っているにすぎません。
何をするか、どう生きるかは、好き勝手にしてよく、全く制限され
ません。
____________________________________________________________
Name : Shin-ichi TSURUTA 鶴田 真一 (as SYN)
E-mail : s...@emit.jp
URL : http://www.emit.jp/
> >あなたのお説は学問的にどなたかの定説なのですか?だれのでしょう。
> >それとも、ご自分の思い込みなのですか?
> >ただ、言葉を単語で分解しているのみでは。
>
> どうぞ御自分でお勉強されてご確認されてください。まだ御確認されようとされな
い
> のですか?遅れていますね。
つまり、単語を結びつけただけで、これではあなたご自身、何も実践できないのでは
ないでしょうか。
具体的に何をどのようにあなたは実践しているのですか。般若波羅蜜多の行として。
> お分かりにならぬ方方のめに、懇切丁寧にご説明しているのです。
> ですから何をお言いになりたいのかね???造語だとして、だから何をお言いにな
り
> たいのかな??
上の通り。
>
> >あなたの言われることが【生活行為】なるものがあって、それを【実践】すると
い
> う
> >なら、
> >実践と生活行為との違いは説明できますか?同じことを言ってますよ。
> >どう違うといってるのでしょう。
>
> 意味が分かれば、同じであろうが、何であろうが、小生は気にしない質なのです。
> 貴殿は脳味噌を固めながら、何を小生に言いたいのかね?
お話になりませんよ、これでは。
>
>> つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、以前にもどこかに記されま
>> ・・六波羅蜜をすることがあげられるでしょう。復習しますと、
>> 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。の六つです。
六波羅蜜の話ではありません。般若般若波羅蜜多の行とはなにかです。
あなたは、般若波羅蜜多=六波羅蜜の実践ということをあなたは言っているのですか
?
>
> まさしく、貴殿は自分自身の現実を正しく認知することを遠慮しておいでですな。
> 道元は、自分の顔を見る時に「例えば、目が二つあり、その下に鼻がついている。
と
> いうことを客観的に認識することが出来るようになること。」を仏の悟りの段階に
あ
> げています。これが「正法眼蔵」です。自らの客観的姿を、偽りなく認識するこ
と。
> それだけでもちゃんとできている人は、そんなにいませんね。それには小生も含ま
れ
> ますが・・・
お話になりませんね。
> 説明にはなってないですよ。
あなたの記述文体に問題があると思います.
今後正しい日本語で投稿されるように.
--
山本一郎
> 般若心経は「到達するため云々」とは書いていませんし、
鶴田さん、ここのところは異論のあるところだと思うのですが、今がこのテーマでは
なく、
まず、第一行目のから、議論させてください。最後の総括で、鶴田さんのこの御意見
を
再度。
>単に到達した時に得た結果を書いています。そ
> してこの得られた結果は、修行することなく、誰でも得られるとい
> うのが重要です。そのため「空」の説明ですから。
ここなんですよね。「空」。
鶴田さんは「空」についてどういうものだとお思いですか。
何もないこと?
>
> 般若心経は、何をどうするべきかというようなことを押し付けたり
> はしません。真理として、「一切は空、空の立場で見れば全ては無」
> ということしつこく説明し、これを理解すれば苦しみや恐れから解
> 放されるということを言っているにすぎません。
「無」=「空」という見解でしょうか?
>
> 何をするか、どう生きるかは、好き勝手にしてよく、全く制限され
> ません。
> ____________________________________________________________
> Name : Shin-ichi TSURUTA 鶴田 真一 (as SYN)
> E-mail : s...@emit.jp
> URL : http://www.emit.jp/
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御指摘いただけますか?
> 今後正しい日本語で投稿されるように.
>
> --
> 山本一郎
> > あなたの記述文体に問題があると思います.
>
> 御指摘いただけますか?
news:3f35162d$1...@127.0.0.1 において,
>あなたの説では、【生活行為】を実践するということが
>行深般若波羅蜜多
>とのことですが、生活に行為などありません。
この部分がそうでしょう.
行深般若波羅蜜多は,実生活に無関係と言う貴殿の記述がおかしいのでは?
"SEO Shirou" <ses...@myself.com> wrote:
> >単に到達した時に得た結果を書いています。そ
> > してこの得られた結果は、修行することなく、誰でも得られるとい
> > うのが重要です。そのため「空」の説明ですから。
> ここなんですよね。「空」。
> 鶴田さんは「空」についてどういうものだとお思いですか。
> 何もないこと?
Message-ID: <bg9209$294l$1...@nwall2.odn.ne.jp>
> > 般若心経は、何をどうするべきかというようなことを押し付けたり
> > はしません。真理として、「一切は空、空の立場で見れば全ては無」
> > ということしつこく説明し、これを理解すれば苦しみや恐れから解
> > 放されるということを言っているにすぎません。
> 「無」=「空」という見解でしょうか?
いいえ。「空」≠「無」です。
色不異空 空不異色
是故空中 無色
「空」(情報)=「色」(事象) です。
「空」の中(立場)では、我々の知っている事象は「無」であるとい
うだけ。
実体はないが「無」ではないという点で、「空」という言葉はとて
も適切でわかりやすい言葉だと思います。
「空」を何も無いことと誤認するのはナーガルージュナの頃から
あった現象ですが、それはもちろん違います。
平たく言えば、実体として存在するように見えるものは、実は実
在するわけではなくて、認識する者との相互作用によってそう見え
るに過ぎない、ということをナーガルージュナは言っています。要
するに、ものごととはどう見えようが、それが本質などではない、
本質は無自性のものだということであり、「無自性であること」を
「空」と呼ぶのです。
もっとも、<bh302j$fup$1...@nn-tk102.ocn.ad.jp> で crx 氏が波
羅蜜多を素直にパーラミターとせず波羅と蜜多に分けて書いてい
るのがおかしいのですけれどね。
波羅蜜多(パーラミター)とは、鶴田氏が述べたように、「悟る
ための修行」のことです。で、具体的に何をするかについては、般
若心経には書いてありません。別のところで六波羅蜜とか十波羅蜜
という整理がされますが。
で、crx 氏の解説のおかしさは、修行を「生活」としてしまって
いる点です。生活が即修行であると言う禅宗のような立場もありま
すが、そうでない立場だってあります。観想するとか写経するとか
禅定とか。
その辺の整理ができていないから、「生活行為」などという混乱
した解釈になるのでしょう。
--
頼光 mailto:rai...@mug.biglobe.ne.jp
"Shin-ichi TSURUTA" <s...@emit.jp> wrote in message
news:bh499v$o0f$1...@nwall2.odn.ne.jp...
> > 「無」=「空」という見解でしょうか?
>
> いいえ。「空」≠「無」です。
>
うなずけます。私もその意見です。
> 色不異空 空不異色
> 是故空中 無色
この辺も後ほど、当然問題にする予定ですが、まずは、関連的に御意見を伺う程度
で。
>
> 「空」(情報)=「色」(事象) です。
> 「空」の中(立場)では、我々の知っている事象は「無」であるとい
> うだけ。
空が情報であるという御指摘ですが、ここのところをもう少し掘り下げて御説明くだ
さい。
無自生とは?
もう少し具体的に説明していただけませんか?
われわれの眼で見ているものは、主観であって(眼というような五感を通してみてお
るのみで)客観的には見ているその対象物は誰にも分からない、ということを言って
ますか?
その対象世界を総じて「空」と?
>
>
> もっとも、<bh302j$fup$1...@nn-tk102.ocn.ad.jp> で crx 氏が波
> 羅蜜多を素直にパーラミターとせず波羅と蜜多に分けて書いてい
> るのがおかしいのですけれどね。
こういう言い方は頼光さん、このトピックではやめまにしませんか。
「おかしい」という言い方は。わたしからのお願いです。
鶴田氏の御意見は真摯なものですし、伺うことに大きな意義はあります。
あなたは波羅蜜多(パーラミター)を二つに分けずに解釈する立場なんですね。
その場合、鶴田氏とどのように意味が違いますか?
>
> 波羅蜜多(パーラミター)とは、鶴田氏が述べたように、「悟る
> ための修行」のことです。で、具体的に何をするかについては、般
> 若心経には書いてありません。別のところで六波羅蜜とか十波羅蜜
> という整理がされますが。
>
> 生活が即修行であると言う禅宗のような立場もありま
> すが、そうでない立場だってあります。観想するとか写経するとか
> 禅定とか。
あなたはどの立場ですか?
>> 「般若波羅蜜多」とは、古代インド語では、「パニャ―パラミタ―」という。
>> 般若(パニャ―)は智慧、仏智であり、波羅(パラー)は彼岸という意味であり、
向
>> こう岸つまりあの世の極楽ということ。蜜多(ミター)蜜が多いという中国の当
て字
>> で、意味は内在とか家の中というような意味。
>> 通して言うと、観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行じた時、
>> つまり、「内在された偉大な智慧に到達するための生活行為を、深く実践したと
き」
>> という意味になります。
>もっとわかりやすく一言で言えば、悟りを得るための修行。これを
>行い、極めた結果、以下に続く真理を得たということを紹介してい
>るのですね。
自分だけの悟りを得るための修行ではないはずです。
お釈迦様にしても、イエス様にしても、当時の社会の底辺に暮らす人々をいかに救う
ことが出来るか、圧制の下に虐げられている人々をいかに救うことが出来るか、その
視点は半分以上の心を占めていたと思います。
自らの苦しみから脱却する方法。そして自らと同様苦しみの中で喘いでいる人々をい
かにして救うことが出来るか。お釈迦様、イエス様のお心にはそんな事しかなかった
のではないでしょうか?
> >>この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
> >>皆さんのお考えを承りたい。
> >つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、
>般若心経は「到達するため云々」とは書いていませんし、それは本
>質ではありません。単に到達した時に得た結果を書いています。そ
>してこの得られた結果は、修行することなく、誰でも得られるとい
>うのが重要です。そのため「空」の説明ですから。
お話になりませんね。絵にかいたお団子を見ただけでお腹が満腹するでしょうか?
理屈だけで修行しないでみな「愛」が何かを理解し、愛せるようになるでしょうか?
だとしたら、今ごろ地上は天国のごとくいかなる地においても戦争はなく、たとえ嫌
なことがあったとしてもみな自分を反省し自らの内に神理に反する思い、行いを見つ
けることが出来、あはは、おほほとどこの国でも微笑みや、笑いが絶えない世の中に
なっていなくてはおかしいですね。
>般若心経は、何をどうするべきかというようなことを押し付けたり
>はしません。真理として、「一切は空、空の立場で見れば全ては無」
>ということしつこく説明し、これを理解すれば苦しみや恐れから解
>放されるということを言っているにすぎません。
貴殿の言われる「これを理解すれば・・」のこれとはいかなる物でしょうか?
ここに具体的に、お示しくださいね。でなければお話は進みませんね。
>何をするか、どう生きるかは、好き勝手にしてよく、全く制限され
>ません。
どなたが制限をされているのですか?
六波羅蜜をみんながしなければ死刑に処す。などとはどなたも言われていません。
お釈迦様は、みんなが一番分かりやすく、かつ一番手っ取り早く仏法を理解でき、早
く本当の幸せになって欲しいとの願いを込めて、智慧をふり縛った結果、六波羅蜜を
まとめられ、お示しくださったのです。それはいわゆる人類全てへの神からのプレゼ
ントなのです。
例えば愛するわが子の命が奪われてしまったとき、一番苦しくつらいその心は、何を
したらその苦しみが軽く楽になると思われますか?
ゴータミという若い母親は、死んでしまって腐りかけてしまったわが子を背中におん
ぶし、お釈迦様に向かって半狂乱になって言います。「この子を生きかえらせてくだ
さい!!」
お釈迦様はゴータミの姿をご覧になって、微笑みながら言います。
「わかった。それでは、村村を歩き、死人の出なかった家を見つけ、芥子粒を三つも
らってきなさい。そうすればその子を生きかえらせてあげよう。」といわれたので
す。ゴ―タミは、「よかった」と思い、さっそく支度をし、村村を歩き、芥子粒三つ
くらいきっともらえるはず。と希望を持って出かけたのです。
しかし、ゆけどもゆけども、どのお宅を尋ねても、
「うちは、去年主人をなくしました。」とか
「私たちの息子もちょうど六つになった年に流行り病に罹り、なくなりました。」と
か
「かわいい娘が歩きかけたとき・・・家でもやっぱりその子が死んでしまったんです
・・・」・・・人々に聞けども聞けども、
「うちは誰も死んでいません」という家は一軒もありませんでした。聞いてゆくうち
にゴータミは、どの家にも厳しい現実があることに気付いてゆき、だんだん現実に
戻ってゆきました。
お釈迦様の元に戻ると。「分かりました。みんなそうだったんですね。死人の出な
かった家はありませんでした。みんな苦しいことに出会っていました。うちの子だけ
じゃありませんでした。死んでしまった子は・・・・」と、ゴータミは声をあげて泣
き、涙はあふれ、ほほを伝い流れて止まらなくなりました。・・・・・・・その後、
ゴータミは、他の、つらい思いから抜けきない人々のよき対話者、同伴者になってゆ
きました。
一番つらいとき、そのつらさの意味を受け取り、昇華し、建設的未来へつなぐことが
出来るようになること。それは、つらいからといって「寝ていなさい」ということで
はありませんでした。つらい時、そのつらさを、むしろ幸せに持ってゆく方法。それ
は、自分と等しく、あるいは自分よりもっとつらい人々の対話者・同伴者になること
でした。 六波羅蜜で言えば、「布施」であると思います。その布施の行為は、自分
が苦しいときに、嘘偽りなく真に幸せになって行ける道である。ということです。
crx
全体を読ませていただき、お釈迦様の話はよい話だとおもいました。
これはお釈迦様が布施を行ったという認識でよいのでしょうか。
六つの知恵のひとつの布施の例をあげていただいたようですね。
日々の生活のなかに、こうした布施のような知恵の実施をするという意味はわれわれ
に
伝わったと思うのです。
「このような日々の生活を通して、知恵に基づいた行動が出来ます。その行動が般若
般
若波羅蜜多である」というのが、crxさんの主張ととらえていいのですね。
その意味も般若波羅蜜多にお釈迦様は盛り込まれていたのかもしれませんね。
ただ、般若波羅蜜多の行というのは、crxさんの日常生活のなかでの六波羅蜜的な救
済の知恵ある行為、そのものなのかというと、人により異論のあるところでもありま
しょう。
ですから、他の意見を否定することには無理があると思うのです。よい話ではあるの
ですが。
そこでお尋ねしたいのです。
六波羅蜜の実践が般若波羅蜜多の行であるというcrxさんのお考えをさらにお聞きし
たいのです。
「布施」以外の残りの六波羅蜜においても、ここで提示されたようなお話をお聞かせ
ください。
般若心経では、修行の内容は関係ありません。
また、その背景も関係ありません。
> >般若心経は「到達するため云々」とは書いていませんし、それは本
> >質ではありません。単に到達した時に得た結果を書いています。そ
> >してこの得られた結果は、修行することなく、誰でも得られるとい
> >うのが重要です。そのため「空」の説明ですから。
> お話になりませんね。
そうですか。
> >般若心経は、何をどうするべきかというようなことを押し付けたり
> >はしません。真理として、「一切は空、空の立場で見れば全ては無」
> >ということしつこく説明し、これを理解すれば苦しみや恐れから解
> >放されるということを言っているにすぎません。
> 貴殿の言われる「これを理解すれば・・」のこれとはいかなる物でしょうか?
> ここに具体的に、お示しくださいね。でなければお話は進みませんね。
照見五蘊皆空 度一切苦厄
> >何をするか、どう生きるかは、好き勝手にしてよく、全く制限され
> >ません。
> どなたが制限をされているのですか?
全く制限されません。
付け加えるなら、何事にもこだわらない、自分で自分を制限したり
もしない、ということです。
Message-ID: <bg9209$294l$1...@nwall2.odn.ne.jp>
では不十分でしょうか?
鶴田さんがおっしゃっていることは分かる気がします。
確かにDNAにおいてもとてつもない情報があるようですね。
さらに、素粒子にいたっては10のマイナス23乗までの粒子しか、現代の科学では
とらえられないと聞いていました。(さらに細かい粒子まで見られるのでしょう
か?御存知の方は教えてください。)
唯物論的な切り口ですね。科学は唯物論です。(マルクス主義という意味での唯物論
ではありません)
糸川英夫なんかも、真空は無ではなく豊饒に満ちているといってました。糸川の般若
心経論は、まさに、鶴田さんの「空」論と同じように私には思えます。
鶴田さんは、この情報の中に、因縁とか宿命とかいう、非唯物的な情報は含めますか
?
下記、経の文言は後ほど追って話題にさせてください。『以下再掲』
>
>
> 照見五蘊皆空
>
> 人間を構成する五つの要素である、身体、感覚、意識、意志、認
> 識は、所詮、情報によって形作られたものにすぎないのである。
>
>
> 色不異空 空不異色
> 色即是空 空即是色
>
> この世のあらゆる事象は、すべて情報であり、情報こそが、この世
> のあらゆる事象を形作っている。
>
>
> 受想行識 亦復如是
>
> 人間の感覚、意識、意志、認識もまた情報である。
>
>
> 是諸法空相
>
> この世のあらゆる事象は情報が現れた姿なのである。
>
>
> 不生不滅 不垢不浄 不増不減
>
> (物質は)生まれたり消滅することはなく、汚れがあるわけでも清
> 浄さがあるわけでもなく、増えたり減ったりするものでもない。
>
>
> 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
>
> 情報の「中」に、この世の事象や、人の精神や人の感覚器官があ
> るわけではなく、当然その感覚器官が感じ取る「色声香味触法」
> があるわけではない。(中にあるのではなく情報そのものだから)
> ____________________________________________________________
> Name : Shin-ichi TSURUTA 鶴田 真一 (as SYN)
> E-mail : s...@emit.jp
> URL : http://www.emit.jp/
>
----== Posted via Newsfeed.Com - Unlimited-Uncensored-Secure Usenet News==----
私は、桑田二郎さんの般若心経の解釈に大変感銘を受けたことがあります。桑田さん
は瞑想こそが、般若波羅蜜多の行であると言ってますね。瞑想という行にはそんな力
があるのかと感心しましたが、自薦するのはなかなか。長い瞑想は出来ません。しか
し、心にヒットするものでした。今も、多くは瞑想できませんが瞑想には、桑田さん
のいう「見えない命の次元=空」という説明が私としては受け入れやすいのです。以
後、私の般若心経解釈は、「空=見えない命の次元」ということにしてください。般
若波羅蜜多の行とは瞑想という理解です。桑田さんは、命の真理を神秘の宝玉のなか
に閉じ込めたと仮にした場合、その宝石を肉眼ですかしてみても、中にはお経の言葉
が見えるだけだが瞑想の意識を集中させると命の真理が超次元的なイメージで映し出
されるといっています。私は、気功(動功)は、かなりこった時期があるのですが、
座禅の瞑想は得意でないのですが、身体を動かしつつ、深く呼吸を繰り返すことで、
別の世界にはいっていきます。座禅は静功でしょうが、私には動功があっていたよう
です。これもある種の瞑想だと思います。見えない命の次元とも言うべき時限に接触
できた気がします。
あくまで私個人の取った手法に過ぎませんが、わたしなりに、手ごたえのあるもので
す。
よって、私の体験上は、空は『見えない命の次元』、般若波羅蜜多の行は大きい意味
での『瞑想(ひとにより動功もふくむもの)』と言う立場です。しかし、crxさんの
お話をおききし、実生活そのものも、これは大きい意味での瞑想だと思うところで
す。これは、古今東西の聖者が、瞑想以上に実生活での天使的な生き様を評価してい
ることを思い出させました。
"SEO Shirou" <ses...@myself.com> wrote:
> 確かにDNAにおいてもとてつもない情報があるようですね。
> さらに、素粒子にいたっては10のマイナス23乗までの粒子しか、現代の科学では
> とらえられないと聞いていました。(さらに細かい粒子まで見られるのでしょう
> か?御存知の方は教えてください。)
> 唯物論的な切り口ですね。科学は唯物論です。(マルクス主義という意味での唯物論
> ではありません)
> 糸川英夫なんかも、真空は無ではなく豊饒に満ちているといってました。糸川の般若
> 心経論は、まさに、鶴田さんの「空」論と同じように私には思えます。
それは自分の考えとは全く違います。真空が実は何かで満ちていた
としても、それは実在しているモノがそこにもあるだけで、量的な
違いに過ぎないと思います。自分の「空」の解釈では、真空かどう
かを問わず、存在の有無は全く関係ありません。
> 鶴田さんは、この情報の中に、因縁とか宿命とかいう、非唯物的な情報は含めますか?
そういったものは人間の情報のとらえ方や、言葉の定義によって変
わってくると思います。ボールを上に投げたら、落ちてくるという
のは当然で、自分の真上に上げたら、自分の頭の上に落ちてくる場
合が多くなるでしょう。海の近くに住んでいたら、波にのまれる確
率も上がるでしょう。自分の置かれた環境や、行為によって、後の
結果が変わってくるのは当然のことでしょう。そういう事象自体は
「空」に含まれるでしょうが、内部に存在するわけではないです。
是故空中 無色
ですから。
というと、素粒子の存在するこの物質世界は色で、それを物質界というならこの物質
界を成り立たせている裏の世界が空だというお考えですか。(因縁や宿命までをも含
んだ。)
"SEO Shirou" <ses...@myself.com> wrote:
> "Shin-ichi TSURUTA" <s...@emit.jp> wrote in message
> news:bh5o6j$2np8$1...@nwall1.odn.ne.jp...
> > こんにちは、鶴田です。
> > それは自分の考えとは全く違います。真空が実は何かで満ちていた
> > としても、それは実在しているモノがそこにもあるだけで、量的な
> > 違いに過ぎないと思います。自分の「空」の解釈では、真空かどう
> > かを問わず、存在の有無は全く関係ありません。
> というと、素粒子の存在するこの物質世界は色で、それを物質界というならこの物質
> 界を成り立たせている裏の世界が空だというお考えですか。(因縁や宿命までをも含
> んだ。)
私の考えでは、
物質を含んだ、この世界で起きている事象が「色」、それを情報と
いう視点で見たとき「空」というもので、表と裏のように違いがあ
るわけではないという認識です。「色」=「空」です。
なるほど。情報というのは、この世の物理的な法則とか、心理作用的な法則とか、経
済法則や真理、遺伝子情報なども含むのですね。
>> 自分だけの悟りを得るための修行ではないはずです。
>> お釈迦様にしても、イエス様にしても、当時の社会の底辺に暮らす人々をいかに
救
>>う
>> ことが出来るか、圧制の下に虐げられている人々をいかに救うことが出来るか、
そ
の
>> 視点は半分以上の心を占めていたと思います。
>> 自らの苦しみから脱却する方法。そして自らと同様苦しみの中で喘いでいる人々
を
い
>> かにして救うことが出来るか。お釈迦様、イエス様のお心にはそんな事しかな
かっ
た
>> のではないでしょうか?
>全体を読ませていただき、お釈迦様の話はよい話だとおもいました。
>これはお釈迦様が布施を行ったという認識でよいのでしょうか。
気に入って頂き、ありがとうございます。お釈迦様の真実を充分に伝えられたかどう
か、反省の余地は充分にありますが・・・
お釈迦様はこのときは既に悟っておられたわけですから、この場合は、ゴータミが自
分の苦しみを脇において、他の方々の人生の中につらさ、苦しみのお話を聞かせてい
ただいたわけですから、ゴータミの「布施」になると思います。もちろん、お釈迦様
は自然に慈悲と愛の行為、布施も同様に身についてしまっていますが・・・
>六つの知恵のひとつの布施の例をあげていただいたようですね。
>日々の生活のなかに、こうした布施のような知恵の実施をするという意味はわれわ
れ
に
>伝わったと思うのです。
>「このような日々の生活を通して、知恵に基づいた行動が出来ます。その行動が般
若
般
>若波羅蜜多である」というのが、crxさんの主張ととらえていいのですね。
六波羅蜜だけであると断定できるかといえば、お釈迦様の教えは膨大だったわけです
から、なんとも言えませんが、六波羅蜜を、深めに深めてゆけば、お釈迦様の教えの
真髄に限りなく近づいて行くことは確かであると思います。
>その意味も般若波羅蜜多にお釈迦様は盛り込まれていたのかもしれませんね。
>ただ、般若波羅蜜多の行というのは、crxさんの日常生活のなかでの六波羅蜜的な救
>済の知恵ある行為、そのものなのかというと、人により異論のあるところでもあり
ま
>しょう。
>ですから、他の意見を否定することには無理があると思うのです。よい話ではある
の
>ですが。
感謝致します。
>そこでお尋ねしたいのです。
>六波羅蜜の実践が般若波羅蜜多の行であるというcrxさんのお考えをさらにお聞きし
>たいのです。
>「布施」以外の残りの六波羅蜜においても、ここで提示されたようなお話をお聞か
せ
>ください。
そうですか?夜も遅いですが、では、お盆がいかにして始まったかのお話を・・・
コリータというお釈迦様の弟子がいました。お母さんはバラモンの家に生まれた娘で
したが、そのお母さんが亡くなってしばらく経ったときのことです。目をつむると、
お母さんがとてもつらそうにしている情景が浮かんできます。コリータは、お母さん
に安らかになってほしく、お茶碗にお水をいれ仏壇に差し出しました。すると、お茶
碗の水は火と変わり、すぐにお茶碗のお水はカラカラに乾いてしまいます。何度もそ
のようにお茶碗を差し出しますが、お茶碗の水はばっと燃えあがり、いつもからから
に乾いてしまいます。不思議に思ったコリータはお釈迦様に尋ねます。
「こういうことがあったのですが、これは一体い、どういうわけなのでしょうか?」
と。
お釈迦様はしばらく目をつむり、じっと瞑想されていました。しばらくして口を開き
ました。
「コリータよ。お前のお母さんは、バラモンの家に生まれ、信者からたくさんの供え
物を頂いてきた。そうするうちに、信者からの供え物を頂くのが、あたり前になって
しまっていた。お前にとっては、とてもやさしい良いお母さんだったかも知れぬ。し
かし、ひとたび他人に対して何か不都合な事があれば、穏やかでない激しい気性の心
と行いを成してきたはずだ。それゆえ、お母さんは成仏できず、迷っておられる。」
お釈迦様の言葉を聞くうちにコリータはとても信じられない気持ちになってゆきまし
た。
『あんなやさしい、大好きだったお母さんが・・成仏できずに迷っている??どうし
てだろう?どうしたらいいのだろう?』
「では、母を救うにはどうしたら良いのでしょうか?」コリータはたまりかねてお釈
迦様に尋ねます。
お釈迦様は、「お母さんを救うには、今生きている私達が仏法にかなった感謝や慈
愛、思いやり等のある生き方をすることだ。その姿を見てお母さんも生きていた時の
ことを反省し、天国へ行くことが出来る。よく精進してお母さんを供養してあげなさ
い。」お釈迦様は、そのように、やさしくコリータを諭しました。
お釈迦様の言うとおり精進したコリータは、悟ることが出来、神通力一番の弟子とな
りました。
このコリータの行いが今に伝わる「お盆」ということです。
そのコリータにお釈迦様は、「お前はよく悟った。今日からはコリータではなくモン
ガラナーという名前にしよう。」とお釈迦様はコリータにモンガラナーという新しい
名前をお与えになりました。
この方が、「大目連」というかたです。
ここでは、お釈迦様やコリータの「禅定」や「精進」などがあげられると思います。
コリータの母を救いたい一心がそのような六波羅蜜の努力をさせたものであると思い
ます。
お盆ももうすぐそこに来ています。どうぞ皆様も、お盆の意味をよく噛み締めつつ、
コリータとそのお母さんの出来事を思い出しつつ、皆様にかかわる御先祖様、先達の
みな様に慈悲と愛のお気持ちを向けつつ、ご先祖様方の供養をされますように・・・
祈りつつ・・・
crx
> どの体言、用言、助詞、助動詞が、おかしいのですか。どのような文体に書き換えれ
> ばただしいのですか?
> お答えになってないですね。答えられない?
ばかばかしくて答えられないと言うのが,率直な意見です.
--
山本一郎
>
> --
> 山本一郎
"SEO Shirou" <ses...@myself.com> wrote:
> "Shin-ichi TSURUTA" <s...@emit.jp> wrote in message
> news:bh5rq0$2vah$1...@nwall1.odn.ne.jp...
> > 私の考えでは、
> > 物質を含んだ、この世界で起きている事象が「色」、それを情報と
> > いう視点で見たとき「空」というもので、表と裏のように違いがあ
> > るわけではないという認識です。「色」=「空」です。
> なるほど。情報というのは、この世の物理的な法則とか、心理作用的な法則とか、経
> 済法則や真理、遺伝子情報なども含むのですね。
はい。他に、いろいろな構造(結晶とか、社会とか)も含めていただ
ければ、幸いです。
例えば、自分が自分であること。
例えば、目の前のモニタがモニタであること。
例えば、テレビで演説が放映されているブッシュがブッシュであること。
たいがい、個々人の中ではそういう認識がされますが、それは実在する
のではない、ということが前提です。無自性(無自生ではない)とは、こ
の「実在していない」というプロパティの表現です。
もっとも、なぜ実在しないのに実在するように認識されるかというと、
それは「ヒトという生物の認識メカニズムがそうできているから」としか
言いようがありませんが。それ以上の「何故」は、進化の偶然かなにかで
しょうね。
# この点が、法前仏後の仏教と、創造主を想定するキリスト教系と違うポ
# イントの一つ。
この無自性という概念は、世界認識のモデルです。主観だの客観だのと
いう世界認識モデルと同様に。同じ世界を違うモデルで捉えているのです
から、「主観・客観」などという概念を持ち出して類推しようとしても、
理解できません。ちなみに、「対象世界」という言葉自体が、主体と客体
を備えた「主観・客観」モデルを前提とした世界の話ですから、そこに囚
われている間は、「空」という概念を理論的にも理解はできないでしょう。
体感的な理解は、言わずもがな。
ともあれ、「なぜ実在しないのに実在するように認識されるか」は不明
ですが、そういう認識が生成されるメカニズムは、それなりにはモデル化
されています。
ナニカモヤモヤとした「自分のようなもの」が外界の情報を受取ること
で、「自分」だの「モニタ」だの「ブッシュ」だのが存在するのだという
理解を、「自分の内面」で作り上げる。このようなプロセスで、認識が生
成されます。
>> もっとも、<bh302j$fup$1...@nn-tk102.ocn.ad.jp> で crx 氏が波
>> 羅蜜多を素直にパーラミターとせず波羅と蜜多に分けて書いてい
>> るのがおかしいのですけれどね。
>
>こういう言い方は頼光さん、このトピックではやめまにしませんか。
>「おかしい」という言い方は。わたしからのお願いです。
議論においては、最も適切な言葉を使うべきであり、おかしいものはお
かしいと表現するのが適切です。そもそも理由も無しにそのようなことを
唐突に言われた所で、他者が従うわけがありません。そんなことを想定し
てしまう心理も、同様におかしなものです。
最低でも、使うなというのなら違う同等な言葉を提案して下さい。それ
が、議論において「真摯」という姿勢の意味です。
その提案がなければ、SEO Shirou 氏の言は単なる言葉狩りです。言葉
狩りをする人物は自動的に議論不能者と帰結できます。つまり、SEO Shirou
氏は今、自分の評価対して極めて危険な発言をしたのだという自覚を持ち
ましょう。
>鶴田氏の御意見は真摯なものですし、伺うことに大きな意義はあります。
>あなたは波羅蜜多(パーラミター)を二つに分けずに解釈する立場なんですね。
>その場合、鶴田氏とどのように意味が違いますか?
波羅蜜多の解釈に対し、立場、というほど対等な他の解釈は、今の所提
示されていません。言葉は適切に使いましょう。
そしてその解釈は、<bh4bu9$lpo$1...@bgsv5648.tk.mesh.ad.jp> において
既に述べたとおり、鶴田氏と私に(少なくとも記事にされたレベルでは)
差異はありません。
>> 波羅蜜多(パーラミター)とは、鶴田氏が述べたように、「悟る
>> ための修行」のことです。で、具体的に何をするかについては、般
>> 若心経には書いてありません。別のところで六波羅蜜とか十波羅蜜
>> という整理がされますが。
>>
>> 生活が即修行であると言う禅宗のような立場もありま
>> すが、そうでない立場だってあります。観想するとか写経するとか
>> 禅定とか。
>あなたはどの立場ですか?
「生活が即修行」という解釈を「おかしい」と指摘しているのですから、
当たり前ですが、「そうでない立場」です。
--
頼光 mailto:rai...@mug.biglobe.ne.jp
まず、「自分だけ」でないと、なぜ言えるのですか?
大乗非仏説のように、「自分だけ」ではないのなら、それはもうシッ
ダールタの教えではないという立場があり、私もそう考えます。むろ
ん大乗仏教や密教を「仏教」と呼ぶのは適切だと思いますが、少なく
とも「お釈迦様」なりシッダールタという個人を持ち出すならば、そ
こでは「自分が悟る」ということが中心課題です。
また、イエスはさておき、シッダールタが「底辺に暮らす人々」を
敢えて取り上げたりしていたとは私には考えられません。そう言える
根拠は何ですか?
そもそもシッダールタの中心的な問題認識は、四苦八苦の克服であ
り、それはクシャトリアだろうがシュードラだろうが平等に抱くもの
であって、「底辺に暮らす人々」を特に注目したものではありません。
>> >>この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
>> >>皆さんのお考えを承りたい。
>
>> >つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、
>
>>般若心経は「到達するため云々」とは書いていませんし、それは本
>>質ではありません。単に到達した時に得た結果を書いています。そ
>>してこの得られた結果は、修行することなく、誰でも得られるとい
>>うのが重要です。そのため「空」の説明ですから。
>
>お話になりませんね。絵にかいたお団子を見ただけでお腹が満腹するでしょうか?
>理屈だけで修行しないでみな「愛」が何かを理解し、愛せるようになるでしょうか?
>だとしたら、今ごろ地上は天国のごとくいかなる地においても戦争はなく、たとえ嫌
>なことがあったとしてもみな自分を反省し自らの内に神理に反する思い、行いを見つ
>けることが出来、あはは、おほほとどこの国でも微笑みや、笑いが絶えない世の中に
>なっていなくてはおかしいですね。
第一に、般若心経は大般若経のアブストラクトであり、そもそも文字
数にしたって300字も無い代物です。従って、詳細な話が無いのはアタリ
マエ。
第二に、般若心経というのは要するに哲学書であって、それによって
腹が膨れたり社会改革ができたりする代物ではありません。そもそも、
まさに、理屈を述べた文書です。修行は、それを読んだ個々人がするも
の。
要するに、そもそも般若心境は crx 氏が言うようなことをスコープと
していないのですから、こうな批判の方が、「お話になりません」な代
物です。
crx 氏の言は、いわば、空を飛べないと言って潜水艦を批判するが如
しですね。
>>何をするか、どう生きるかは、好き勝手にしてよく、全く制限され
>>ません。
>
>どなたが制限をされているのですか?
>六波羅蜜をみんながしなければ死刑に処す。などとはどなたも言われていません。
>お釈迦様は、みんなが一番分かりやすく、かつ一番手っ取り早く仏法を理解でき、早
>く本当の幸せになって欲しいとの願いを込めて、智慧をふり縛った結果、六波羅蜜を
>まとめられ、お示しくださったのです。それはいわゆる人類全てへの神からのプレゼ
>ントなのです。
日本語が読めないのでしょうか?
「制限されません」とは、般若心経の中に「何をするか、どう生きる
か」に関する記載は無いという意味です。
勘違いも大概に。
また、「神」なんざ仏教ではそうとう低位の存在で、彼らが提供でき
ることはせいぜい現世利益への期待でしかありません。そんなものを仏
陀であるシッダールタを同列に持ち出すのは、噴飯物でしかありません。
>例えば愛するわが子の命が奪われてしまったとき、一番苦しくつらいその心は、何を
>したらその苦しみが軽く楽になると思われますか?
執着を捨てることです。
これはまさに、愛別離苦の事例で、愛に執着するから苦しいんだぞと
いう話ですね。
--
頼光 mailto:rai...@mug.biglobe.ne.jp
やはり、 頼光さんは、別の投稿で議論されるべきでしょう。
あなたの議論に応ずることは控えさせていただきます。
>
>>自分だけの悟りを得るための修行ではないはずです。
>>お釈迦様にしても、イエス様にしても、当時の社会の底辺に暮らす人々をいかに救
う
>>ことが出来るか、圧制の下に虐げられている人々をいかに救うことが出来るか、そ
の
>>視点は半分以上の心を占めていたと思います。
>>自らの苦しみから脱却する方法。そして自らと同様苦しみの中で喘いでいる人々を
い
>>かにして救うことが出来るか。お釈迦様、イエス様のお心にはそんな事しかなかっ
た
>>のではないでしょうか?
>まず、「自分だけ」でないと、なぜ言えるのですか?
>大乗非仏説のように、「自分だけ」ではないのなら、それはもうシッ
>ダールタの教えではないという立場があり、私もそう考えます。むろ
>ん大乗仏教や密教を「仏教」と呼ぶのは適切だと思いますが、少なく
>とも「お釈迦様」なりシッダールタという個人を持ち出すならば、そ
>こでは「自分が悟る」ということが中心課題です。
「人は自らのためのみに生くるにあらず」
これが真理だからです。
それにしても、タマゲタ!!!
>また、イエスはさておき、シッダールタが「底辺に暮らす人々」を
>敢えて取り上げたりしていたとは私には考えられません。そう言える
>根拠は何ですか?
お釈迦さまは、人間を何人も殺してしまった、大罪人アングリマーラや、シュードラ
といわれ奴隷の身分の人々も教団に入ることを拒みませんでした。それは、お釈迦様
の心には、「人間はみな平等」という慈悲がおありになった証拠であります。誰から
も嫌われている殺人鬼さえその内なる善意識を信じ、「アングリマーらは、善智識な
り!」とお釈迦様は言われたそうです。
このような、いろいろなお話を耳にする度、そのように思わざるをえません。
「底辺に暮らす人々をあえて取り上げていた」とは小生は言わず、自分の悟りだけで
はなく、「他者の苦しみをいかに救うかが、お釈迦様の心の中ではとても重要な位置
を占めていた。」というようなことを言ったと思いますが・・・!!!
>そもそもシッダールタの中心的な問題認識は、四苦八苦の克服であ
>り、それはクシャトリアだろうがシュードラだろうが平等に抱くもの
>であって、「底辺に暮らす人々」を特に注目したものではありません。
神の成されるわざは、「いつも苦しんでいる人とともにある」ということらしいで
す。
全ての人と共におられるのは当然のことであり、当たり前のことでもあります。
しかし、「神も仏もあるものか」とわめいている人と、「神よどうぞこの苦しみを癒
してください」と言っている人と、どちらに神は行きやすく助けやすいでしょうか?
?それは、人間の考えることと大差はないと思います。
>> >>>この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
>> >>>皆さんのお考えを承りたい。
>
>>>>つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、
>
>>>般若心経は「到達するため云々」とは書いていませんし、それは本
>>>質ではありません。単に到達した時に得た結果を書いています。そ
>>>してこの得られた結果は、修行することなく、誰でも得られるとい
>>>うのが重要です。そのため「空」の説明ですから。
>
>>お話になりませんね。絵にかいたお団子を見ただけでお腹が満腹するでしょうか?
>>理屈だけで修行しないでみな「愛」が何かを理解し、愛せるようになるでしょうか
?
>>だとしたら、今ごろ地上は天国のごとくいかなる地においても戦争はなく、たとえ
嫌
>>なことがあったとしてもみな自分を反省し自らの内に神理に反する思い、行いを見
つ
>>けることが出来、あはは、おほほとどこの国でも微笑みや、笑いが絶えない世の中
に
>>なっていなくてはおかしいですね。
>第一に、般若心経は大般若経のアブストラクトであり、そもそも文字
>数にしたって300字も無い代物です。従って、詳細な話が無いのはアタリ
>マエ。
>第二に、般若心経というのは要するに哲学書であって、それによって
>腹が膨れたり社会改革ができたりする代物ではありません。そもそも、
>まさに、理屈を述べた文書です。修行は、それを読んだ個々人がするも
>の。
左様。ごもっともなお話です。
「哲学」、「宗教」、「科学」のちがいは何でしょうか?分かりやすくお答えくださ
い。
小生は、上述の三者とも、「人間の幸せを追求した、素晴らしき学問」であり、大差
はないと思います。
>要するに、そもそも般若心境は crx 氏が言うようなことをスコープと
>していないのですから、こうな批判の方が、「お話になりません」な代
>物です。
>crx 氏の言は、いわば、空を飛べないと言って潜水艦を批判するが如
>しですね。
意味不明です。小生は他者の迷惑をする潜水艦に対しては、批判しますが、他者の為
に汗水流しながら働く潜水艦には拍手喝さいしています。潜水艦には潜水艦の、鳥に
は鳥のミミズにはミミズの働きがあります。ミミズなくして「良土」なし。
>>>何をするか、どう生きるかは、好き勝手にしてよく、全く制限され
>>>ません。
>
>>どなたが制限をされているのですか?
>>六波羅蜜をみんながしなければ死刑に処す。などとはどなたも言われていません。
>>お釈迦様は、みんなが一番分かりやすく、かつ一番手っ取り早く仏法を理解でき、
早
>>く本当の幸せになって欲しいとの願いを込めて、智慧をふり縛った結果、六波羅蜜
を
>>まとめられ、お示しくださったのです。それはいわゆる人類全てへの神からのプレ
ゼ
>>ントなのです。
>日本語が読めないのでしょうか?
>「制限されません」とは、般若心経の中に「何をするか、どう生きる
>か」に関する記載は無いという意味です。
>勘違いも大概に。
おばかな頼光!このジョークが読めんとは・・・
勘違いも大概に!!!
>また、「神」なんざ仏教ではそうとう低位の存在で、彼らが提供でき
>ることはせいぜい現世利益への期待でしかありません。そんなものを仏
>陀であるシッダールタを同列に持ち出すのは、噴飯物でしかありません。
意味不明!おばかな頼光!!
神は仏も天使も梵天もすべてのこの世のもの、あの世のものを含みます。
お釈迦さまにはそれが分かっていました。なにしろ華厳経に記されているとのことで
すが、お釈迦様は、百カルパ、千カルパ・・・・を悟り・・・・と記されているとの
ことです。それは、聖書の「使徒行伝」に記されている、「酔ったように異言を語っ
ていた。」ということと同じです。異言とは、過去世の言葉です。聖書の中では弟子
達が異言を語っていたのですが・・聖霊が下って・・・
>>例えば愛するわが子の命が奪われてしまったとき、一番苦しくつらいその心は、何
を
>>したらその苦しみが軽く楽になると思われますか?
>執着を捨てることです。
なるほど。了解。小生もそのように思います。ではその執着の捨て方は???
>これはまさに、愛別離苦の事例で、愛に執着するから苦しいんだぞと
>いう話ですね
なるほど。そのとおりですね。
四苦八苦とは
生老病死
愛別離苦
怨憎会苦
求不得苦
五取蘊苦
ですね。
では五取蘊苦とは何でしょうか?
小生が答えましょう。答えは「上の五つの苦しみ全部の苦しみ」ということです。
お釈迦様の分け方は、不思議な分け方ですね。それがお釈迦様らしいわけ方なので
す。
crx
なにが「やはり」なのか、意味不明です。
また、理由不明な「べき」など持ち出し言われた所で、他者
が従うわけがありません。にも拘らずそんな発言をしてしまう
心理も、同様におかしなものです。
修行が足りません。
>あなたの議論に応ずることは控えさせていただきます。
であれば、そもそも投稿してはいけません。
--
頼光 mailto:rai...@mug.biglobe.ne.jp
何を間抜けなことを言っているのでしょうね。
それが「真」であることがなぜ言えるのかととわれて、こんな答え
を返してしまうとは。
何も考えていないのではないでしょうか。
後述するように、知識も無いようですし、知らないわ考えないわで
は、議論になりません。
修行が足りません。
> >また、イエスはさておき、シッダールタが「底辺に暮らす人々」を
>>敢えて取り上げたりしていたとは私には考えられません。そう言える
>>根拠は何ですか?
>
(中略)
>このような、いろいろなお話を耳にする度、そのように思わざるをえません。
思う思わないという感想文の話をしているのではありません。
なぜ言えるのかというロジカルな根拠を聞いているのです。
# ま、そんなものは無くて感想文をポストしていたのだというオチな
# のでしょうけどね。
>「底辺に暮らす人々をあえて取り上げていた」とは小生は言わず、自分の悟りだけで
>はなく、「他者の苦しみをいかに救うかが、お釈迦様の心の中ではとても重要な位置
>を占めていた。」というようなことを言ったと思いますが・・・!!!
In article <bh4rup$52b$1...@nn-tk105.ocn.ad.jp>, crx wrote:
>お釈迦様にしても、イエス様にしても、当時の社会の底辺に暮らす人々をいかに救う
>ことが出来るか、圧制の下に虐げられている人々をいかに救うことが出来るか、その
>視点は半分以上の心を占めていたと思います。
私が引用した、自分の記述を、少しは見直すことです。
単に「他者」という表現ではありません。
# ま、ここを撤回するというのなら、それはそれで構いませんが。
>>そもそもシッダールタの中心的な問題認識は、四苦八苦の克服であ
>>り、それはクシャトリアだろうがシュードラだろうが平等に抱くもの
>>であって、「底辺に暮らす人々」を特に注目したものではありません。
>
>神の成されるわざは、「いつも苦しんでいる人とともにある」ということらしいで
>す。
>全ての人と共におられるのは当然のことであり、当たり前のことでもあります。
>しかし、「神も仏もあるものか」とわめいている人と、「神よどうぞこの苦しみを癒
>してください」と言っている人と、どちらに神は行きやすく助けやすいでしょうか?
>?それは、人間の考えることと大差はないと思います。
上記の私の「そもそも~ではありません」に対するフォローと
して、なぜこんな関係の無い話が出てくるのでしょう?
引用してフォローをする、という記述スタイルの意味を理解し
ていないのではないでしょうか。
> >第一に、般若心経は大般若経のアブストラクトであり、そもそも文字
>>数にしたって300字も無い代物です。従って、詳細な話が無いのはアタリ
>>マエ。
> >第二に、般若心経というのは要するに哲学書であって、それによって
>>腹が膨れたり社会改革ができたりする代物ではありません。そもそも、
>>まさに、理屈を述べた文書です。修行は、それを読んだ個々人がするも
>>の。
>
>左様。ごもっともなお話です。
>「哲学」、「宗教」、「科学」のちがいは何でしょうか?分かりやすくお答えくださ
>い。
そんな話など何の関係も無い話です。
>>要するに、そもそも般若心境は crx 氏が言うようなことをスコープと
>>していないのですから、こうな批判の方が、「お話になりません」な代
>>物です。
>>crx 氏の言は、いわば、空を飛べないと言って潜水艦を批判するが如
>>しですね。
>
>意味不明です。小生は他者の迷惑をする潜水艦に対しては、批判しますが、他者の為
>に汗水流しながら働く潜水艦には拍手喝さいしています。潜水艦には潜水艦の、鳥に
>は鳥のミミズにはミミズの働きがあります。ミミズなくして「良土」なし。
理解できていないようですね。
潜水艦の意義は水面下での活動です。空を飛ぶことではありません。に
もかかわらず、crx 氏は「潜水艦は飛べないじゃないか」と批判をしたと
いうことです。
般若心経の意義は短い経文の中にうまく教説が織り込まれていることで
あって、crx 氏が言うような満腹になるとか社会改革がなされることには
ないということです。
自分が見当外れの批判をしたということを、自覚しましょう。
>>>>何をするか、どう生きるかは、好き勝手にしてよく、全く制限され
>>>>ません。
>>
>>>どなたが制限をされているのですか?
>>>六波羅蜜をみんながしなければ死刑に処す。などとはどなたも言われていません。
>>>お釈迦様は、みんなが一番分かりやすく、かつ一番手っ取り早く仏法を理解でき、
>早
>>>く本当の幸せになって欲しいとの願いを込めて、智慧をふり縛った結果、六波羅蜜
>を
>>>まとめられ、お示しくださったのです。それはいわゆる人類全てへの神からのプレ
>ゼ
>>>ントなのです。
>
>>日本語が読めないのでしょうか?
>>「制限されません」とは、般若心経の中に「何をするか、どう生きる
>>か」に関する記載は無いという意味です。
>>勘違いも大概に。
>
>おばかな頼光!このジョークが読めんとは・・・
>勘違いも大概に!!!
ジョークということにしたいのですね。
ま、勘違いも大概に。
>>また、「神」なんざ仏教ではそうとう低位の存在で、彼らが提供でき
>>ることはせいぜい現世利益への期待でしかありません。そんなものを仏
>>陀であるシッダールタを同列に持ち出すのは、噴飯物でしかありません。
>
>意味不明!おばかな頼光!!
>神は仏も天使も梵天もすべてのこの世のもの、あの世のものを含みます。
>お釈迦さまにはそれが分かっていました。なにしろ華厳経に記されているとのことで
>すが、お釈迦様は、百カルパ、千カルパ・・・・を悟り・・・・と記されているとの
>ことです。それは、聖書の「使徒行伝」に記されている、「酔ったように異言を語っ
>ていた。」ということと同じです。異言とは、過去世の言葉です。聖書の中では弟子
>達が異言を語っていたのですが・・聖霊が下って・・・
つまり、crx 氏は仏教についてもキリスト教についてもろくすっぽ知ら
ないということですね。
愚行1:
「とのことです」を乱発し、一次資料に当たっていないのがもろばれで
すね。何か主張するなら、相当する箇所くらい読むのは最低限の行為でしょ
うに。
愚行2:
「同じです」と言っておいて、何がどう同じなのかまるで記述がありま
せん。しかも一方に至っては「・・・」などと無知を宣言している体たら
くです。はあ。。
愚行3:
文末が支離滅裂になっていますね。日本語を構成してすらいません。
修行が足りません。
>>>例えば愛するわが子の命が奪われてしまったとき、一番苦しくつらいその心は、何
>を
>>>したらその苦しみが軽く楽になると思われますか?
>
>>執着を捨てることです。
>
>なるほど。了解。小生もそのように思います。ではその執着の捨て方は???
知りません。
収集日が決まっているわけでもありませんし、お好きなように捨てた所
で誰も文句は言わないでしょう。
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頼光 mailto:rai...@mug.biglobe.ne.jp