神を人間が神の上から、あるいは神と並んで知ることはできない。人間の認識能力を
超える神という存在。この神への強い信仰で、人は死をも恐れぬ効果、うがった見方
をすれば、麻痺にも似た症状を示すようです。古今東西、神の名の下に幾多の悲惨、
狂態は、演じられてきましたが、個人が厚い信仰で心の地獄から立ち上がっていった
現象もある。
人は、このような光の世界への信仰によって、はたして、異教徒といわれる民との融
合を図る手段を持つことができるのでしょうか。
兵器などの無制限な発達に人類は歯止めとなる自己抑制力を持っているとはいえない
し、それどころかますます、自己抑制力の届かぬ世界へと発達していくように思えて
なりません。思想的に人類をリードする社会基盤は希薄です。宗教が火に注ぐ油の側
面を持つのみでは、期待できませんが強制や暴力から離れて、宗教が人類に自己抑制
を促す力を今後隆起させることは現実にあるのでしょうか。
もし、宗教が、自己抑制に人類を導く可能性をもつなら今後宗教はどのように活用さ
れていくことでそれが可能なのでしょうか。
もし、宗教にその可能性がないなら、何が今後宗教に変わって人類の自己抑制機能を
与えるべく登場すべきなのでしょうか。
In article <3f118...@news.premium-news.net>, "J_Saita3 premium" <J_Sa...@hotmail.com> writes
> 絶対的な一神を確信するということの持つ光と影について
普通は「相互に排他的な宗教」の方を問題にすると思うんだけど。
そのあたりを避けているのはなんでだ?
> もし、宗教にその可能性がないなら、何が今後宗教に変わって人類の自己抑制機能を
> 与えるべく登場すべきなのでしょうか。
普通は、理性とか良識とかデモクラシーとかいう見たいですけどね。
そのあたりは信じてないってことなんでしょうね。
そりゃま、信じられませんわな。この世で信じられないものって
言ったら、人間だものなあ。
---
Shinji KONO @ Information Engineering, University of the Ryukyus,
PRESTO, Japan Science and Technology Corporation
河野真治 @ 琉球大学工学部情報工学科,
科学技術振興事業団さきがけ研究21(機能と構成)
> 神を人間が神の上から、あるいは神と並んで知ることはできない。人間の認識能力を
> 超える神という存在。
素朴な疑問なのですが、人間の認識能力を超えている存在を「存在」
として認識できるのでしょうか?
認識出来るようになるまでは「神はいるかもしれないし、いないかもしれない」
でしかないと思うのですが。
> 神を人間が神の上から、あるいは神と並んで知ることはできない。人間の認識能力を
> 超える神という存在。この神への強い信仰で、人は死をも恐れぬ効果、うがった見方
> をすれば、麻痺にも似た症状を示すようです。
理解を拒否した依存は宗教なのでしょうかねえ~?
--
*******************************************
EN yasuhi...@jcom.home.ne.jp 【月下独酌】
*******************************************
たとえば、人が苦しいときの神頼みをするようなときに発する「神様・・・」という
願いはそういうものではないでしょうか。そこには、不可知論でありながら認識が作
用しているわけで、ある種のイデア的な存在としての神が認識されていると私は思い
ますね。
ただ、その神なるものを解剖し始めると妙な事になる。具象化した神の教えなるもの
も偶像化した姿も。およそ二次元的に移動する生き物が三次元の高見からの世界から
はシャットアウトされてるように、三次元の生物には四次元からの視点が、四次元の
生物には五次元の視点が理解できないように。しかし、脳は直感する何らかの概念に
「神」というシャーマニズムよりの畏敬を認識する。
人間には「神」なるものへの直感的認識はあるでしょう。言葉が存在するということ
がそのひとつの証左でもあるでしょう。
問題は、不可知論の対象である神が、人間の独断により、さまざまに脚色され、解剖
され、ルーツを持たされ、教えというストーリーが絶対化され、人間の導出した教え
に、直感的に認識される神なるものに息吹が吹き込まれて、第二の誕生をはたし、君
臨して人間を導出することも現実には起こっているということだと思います。
一神教という姿をとるときに、こうした信仰は極度に硬直化した原理主義に埋没する
危険性を持っていように思えるのです。
それでいて、直感的に認識される「神様・・・」という不意をつく言葉は、究極の窮
地に迷い込んだ人間には容易に口をつく。こうした素朴な「神」への願いなるものは
人間の脳の認識守備範囲。この守備力を当て込んだ、阪神タイガース応援団のような
熱狂が沸いてくることで、熱狂は人間を神への志向のもと、拘束していく。
思想信条の自由がなければいかなる信仰も封圧されて、暴発することでしょう。しか
し、野放しの信仰の自由とて、反人類的な闘争さえ産み落とす。こうした闘争心や思
い込みはそれ自体がエネルギーであり、対立を演出するにはもってこいの土壌に違い
ありません。
人間なら誰しもが持つ神への直感をねじまげることなく、かといって、そうして近
寄った神に横暴を吐露させることもなく、人間の英知で神への信仰を積極的に認める
世界、これはかなり成熟した「神と人の共存する社会」でしょう。そこにいたる道し
るべ、それは何か。
いかにしてその道しるべを樹立できるのか。
> In article <3f118...@news.premium-news.net>,
> J_Saita3 premium <J_Sa...@hotmail.com> wrote:
>
> > 神を人間が神の上から、あるいは神と並んで知ることはできない。人間の認識能力を
> > 超える神という存在。
>
> 素朴な疑問なのですが、人間の認識能力を超えている存在を「存在」
> として認識できるのでしょうか?
そんな場合は“存在する”とは言わず、“超在する”という。(『広辞苑』第九版より)
>>> 神を人間が神の上から、あるいは神と並んで知ることはできない。人間の認識能
力を
>>> 超える神という存在。
>
>> 素朴な疑問なのですが、人間の認識能力を超えている存在を「存在」
>> として認識できるのしょうか?
>たとえば、人が苦しいときの神頼みをするようなときに発する「神様・・・」とい
う
>願いはそういうものではないでしょうか。そこには、不可知論でありながら認識が
作
>用しているわけで、ある種のイデア的な存在としての神が認識されていると私は思
い
>ますね。
同感致します。
>ただ、その神なるものを解剖し始めると妙な事になる。具象化した神の教えなるも
の
>も偶像化した姿も。およそ二次元的に移動する生き物が三次元の高見からの世界か
ら
>はシャットアウトされてるように、三次元の生物には四次元からの視点が、四次元
の
>生物には五次元の視点が理解できないように。しかし、脳は直感する何らかの概念
に
>「神」というシャーマニズムよりの畏敬を認識する。
ユングは「人間を含めた生物は、みな一つの大きな’いのち’という次元でつなっ
がっている。」「それゆえ、願えば、他の生命の意識を感じることができる。」「誰
でも宗教的見地に立たない限り、精神的病は癒されない。」という境地に至ったとの
事ですが、いかが思われますか?
>人間には「神」なるものへの直感的認識はあるでしょう。言葉が存在するというこ
と
>がそのひとつの証左でもあるでしょう。
本当に苦しいときは「神様助けて!」と誰もが叫ぶものと思われます。それは、口先
では「神なぞ信じない」と言っている人でも、その人の潜在意識の中ではちゃんと神
様を信じている意識が存在することではないでしょうか?
>問題は、不可知論の対象である神が、人間の独断により、さまざまに脚色され、解
剖
>され、ルーツを持たされ、教えというストーリーが絶対化され、人間の導出した教
え
>に、直感的に認識される神なるものに息吹が吹き込まれて、第二の誕生をはたし、
君
>臨して人間を導出することも現実には起こっているということだと思います。
それは本当の神ではなく「神ならざるものを神と見間違えてしまう。」ということで
しょう。
その人の悟りの段階によって神の捕らえ方が違うのはやむをえないことでしょうが・
・・
>一神教という姿をとるときに、こうした信仰は極度に硬直化した原理主義に埋没す
る
>危険性を持っていように思えるのです。
>それでいて、直感的に認識される「神様・・・」という不意をつく言葉は、究極の
窮
>地に迷い込んだ人間には容易に口をつく。こうした素朴な「神」への願いなるもの
は
>人間の脳の認識守備範囲。この守備力を当て込んだ、阪神タイガース応援団のよう
な
>熱狂が沸いてくることで、熱狂は人間を神への志向のもと、拘束していく。
ちゃんとした指導者がお生まれになるときは、とことん自らを、世界を、指導者を信
じて大丈夫!!
イエスを信じきれなかった12使徒のほうが悲劇!宗教とは拘束でもなく、硬直でも
なく、全き自由な心(愛の心)に自己を開放するということ!!!
>思想信条の自由がなければいかなる信仰も封圧されて、暴発することでしょう。し
か
>し、野放しの信仰の自由とて、反人類的な闘争さえ産み落とす。こうした闘争心や
思
>い込みはそれ自体がエネルギーであり、対立を演出するにはもってこいの土壌に違
い
>ありません。
イエスが「闘争しろ」と言いましたか?お釈迦様が「戦争をしろ」といいましたか?
イエスの教え、釈迦の摂理を理解できぬ人物が、次第に末法の世を作り出してしまっ
たのです。
>人間なら誰しもが持つ神への直感をねじまげることなく、かといって、そうして近
>寄った神に横暴を吐露させることもなく、人間の英知で神への信仰を積極的に認め
る
>世界、これはかなり成熟した「神と人の共存する社会」でしょう。そこにいたる道
し
>るべ、それは何か。
>いかにしてその道しるべを樹立できるのか。
その答えは、汝自身の心の中に既に解答として与えられているのです。その必然に気
付き、素直に自らの選びし道に向かって精進するか、否かは汝自身に委ねられている
んやなかと???
crx
あのう、もしや、薬局にお勤めなのでしょうか?
精神病については必ずしもユングのここにのべられている意見だけで、論評すること
は妥当とは思えません。前段、後段があると思うのです。精神病は、宗教による解決
よりも、科学的な経験則で医学的な見地で対応すべきものと思うのです。宗教による
安らぎがあるとするなら、何らかの医学的な効果にむしろ宗教の長所が吸収されてい
ると見るべきでしょう。
ただ、ユングには、私も一目を置いています。精神分析のフロイトとは袂を分かち、
彼自身超能力者である側面を持っているユングは、大きな意味で宗教的な直感にたけ
ている人でしょう。
宗教という枠でユングを吸い込むならば、しかし、宗教のもつ大きさにユングはまだ
まだかなう器ではないとは思うのですが。その一番の理由は、潜在意識という領域
は、阿頼耶識というような宗教的領域を模倣してはいるが、そこには、神というあい
まいな概念を潜在意識に置き換えたある種の科学用語性はあるものの、逆に、人間の
直感する、普遍的に浸透していてそれ自身あたかも意志を持っているような主体性あ
る意識を、意識の盛り込まれている器の問題にすり換えている面がユングには感じる
からです。潜在意識というのは器、容器であり、すくなくとも、容器に内在するエー
テルであり、器もエーテルそのものさえをも包括した場を支配する意志なるものをユ
ングは規定はしていないと思うのです。そこが、ユングの弱点ではないかと。
>
> >人間には「神」なるものへの直感的認識はあるでしょう。言葉が存在するという
こ
> と
> >がそのひとつの証左でもあるでしょう。
>
> 本当に苦しいときは「神様助けて!」と誰もが叫ぶものと思われます。それは、口
先
> では「神なぞ信じない」と言っている人でも、その人の潜在意識の中ではちゃんと
神
> 様を信じている意識が存在することではないでしょうか?
>
その通りだと思います。無心論者は彼自身、眠っているときの自分も自分であること
を計算に入れてないですが、眠っている彼もまた彼です。神を信じて泣き叫んでいる
夢の中の自分を忘却している自分だけが自分ではない。母の胎内にいた自分もまた自
分であり、死後の意識を信じるならばそこにある意識もまた自分であるといえるで
しょう。さらに、輪廻転生を信じるならばもはや自分でない自分との継続性におい
て、やはり自分であるということも言える。自分なる幻想、この問題は小さいようで
大きいと思いますね。
> >問題は、不可知論の対象である神が、人間の独断により、さまざまに脚色され、
解
> 剖
> >され、ルーツを持たされ、教えというストーリーが絶対化され、人間の導出した
教
> え
> >に、直感的に認識される神なるものに息吹が吹き込まれて、第二の誕生をはた
し、
> 君
> >臨して人間を導出することも現実には起こっているということだと思います。
>
> それは本当の神ではなく「神ならざるものを神と見間違えてしまう。」ということ
で
> しょう。
> その人の悟りの段階によって神の捕らえ方が違うのはやむをえないことでしょうが
・
> ・・
>
人間の認識力の限界が神を透かしてみるということなのだと思いますね。
> ちゃんとした指導者がお生まれになるときは、とことん自らを、世界を、指導者を
信
> じて大丈夫!!
> イエスを信じきれなかった12使徒のほうが悲劇!宗教とは拘束でもなく、硬直で
も
> なく、全き自由な心(愛の心)に自己を開放するということ!!!
ここは、私は疑問なのです。イエスは聖人ですが、預言者イエスという扱いにはイエ
スの本領が消えてしまうように思うのです。いかなる聖人も指導者、グルとしては、
つまり、生き神としてはあまりに人間の束縛のなかで拘束されすぎている。
>
> >人間なら誰しもが持つ神への直感をねじまげることなく、かといって、そうして
近
> >寄った神に横暴を吐露させることもなく、人間の英知で神への信仰を積極的に認
め
> る
> >世界、これはかなり成熟した「神と人の共存する社会」でしょう。そこにいたる
道
> し
> >るべ、それは何か。
> >いかにしてその道しるべを樹立できるのか。
>
> その答えは、汝自身の心の中に既に解答として与えられているのです。その必然に
気
> 付き、素直に自らの選びし道に向かって精進するか、否かは汝自身に委ねられてい
る
> んやなかと???
>
私は、アートマンをブラフマンと同根と思いますが、自らが神であるとするあるいは
神が内在するという心境は、これはもう達人の領域だと思うのです。皆が皆、到達で
きるものどころか、ほとんど誰もそこまでいけない。カリユガの時代において、民主
主義という制度は人間を解放することはしたが、深い意味ではむしろ民主主義を丸め
て懐に入れてる者たちがいるのではないか、民主主義は、神の領域の足元にも及ばな
い。ただ、神の領域ではないがそこへの道筋と交わるものもある。それは、民主主義
の持つ理念であると思うのです。いかなる政治制度も、この理念を、曲解するような
指導者の下では民主主義は捻じ曲がる。理念という一点において画竜点睛となる点が
いかなる制度においても必要で、宗教はこうした点睛を導出するツールではないか
と。よって宗教が制度となるのは本末転倒であり、理念なき制度、政治と同じものと
いう意見です。
>
> crx
>
>
>
>
>精神病については必ずしもユングのここにのべられている意見だけで、論評するこ
と
>は妥当とは思えません。前段、後段があると思うのです。精神病は、宗教による解
決
>よりも、科学的な経験則で医学的な見地で対応すべきものと思うのです。宗教によ
る
>安らぎがあるとするなら、何らかの医学的な効果にむしろ宗教の長所が吸収されて
い
>ると見るべきでしょう。
医学と宗教のおもさが半々というところでしょうか?
小生の考えは2分8分というところである?
薬なんてめったにのみはしない。風邪を引いた時くらいなものである。
ただ、ユングには、私も一目を置いています。精神分析のフロイトとは袂を分かち、
彼自身超能力者である側面を持っているユングは、大きな意味で宗教的な直感にたけ
ている人でしょう。
宗教という枠でユングを吸い込むならば、しかし、宗教のもつ大きさにユングはまだ
まだかなう器ではないとは思うのですが。その一番の理由は、潜在意識という領域
は、阿頼耶識というような宗教的領域を模倣してはいるが、そこには、神というあい
まいな概念を潜在意識に置き換えたある種の科学用語性はあるものの、逆に、人間の
直感する、普遍的に浸透していてそれ自身あたかも意志を持っているような主体性あ
る意識を、意識の盛り込まれている器の問題にすり換えている面がユングには感じる
からです。潜在意識というのは器、容器であり、すくなくとも、容器に内在するエー
テルであり、器もエーテルそのものさえをも包括した場を支配する意志なるものをユ
ングは規定はしていないと思うのです。そこが、ユングの弱点ではないかと。
阿頼耶識とは、荒屋敷でもなく、新邸でもなく、粗屋敷でもないものであるが御存知
であったか?
エーテルに関しては、よほど好物と思われますなあ。
>> 本当に苦しいときは「神様助けて!」と誰もが叫ぶものと思われます。それは、
口
先
>> では「神なぞ信じない」と言っている人でも、その人の潜在意識の中ではちゃん
と
神
>> 様を信じている意識が存在することではないでしょうか?
>
>その通りだと思います。無心論者は彼自身、眠っているときの自分も自分であるこ
と
を計算に入れてないですが、眠っている彼もまた彼です。神を信じて泣き叫んでいる
>夢の中の自分を忘却している自分だけが自分ではない。母の胎内にいた自分もまた
自
>分であり、死後の意識を信じるならばそこにある意識もまた自分であるといえるで
>しょう。さらに、輪廻転生を信じるならばもはや自分でない自分との継続性におい
>て、やはり自分であるということも言える。自分なる幻想、この問題は小さいよう
で
>大きいと思いますね。
そのとおりですね。、悟られましたかな?
人間はみな記憶喪失症にかかっているのです。それは生まれてくるときの約束事でも
あったわけです。
それを「人天のわな」といいます。喪失のわな。忘却のわな。無知のわなのみっつで
す。
> >>問題は、不可知論の対象である神が、人間の独断により、さまざまに脚色され、
解
> 剖
>>>され、ルーツを持たされ、教えというストーリーが絶対化され、人間の導出した
教
> え
>>>に、直感的に認識される神なるものに息吹が吹き込まれて、第二の誕生をはた
し、
> 君
>>>臨して人間を導出することも現実には起こっているということだと思います。
>
>> それは本当の神ではなく「神ならざるものを神と見間違えてしまう。」というこ
と
で
>> しょう。
>> その人の悟りの段階によって神の捕らえ方が違うのはやむをえないことでしょう
が
・
> ・・
>
>人間の認識力の限界が神を透かしてみるということなのだと思いますね。
人間の認識力の限界が、神をおぼろにしか見られないという事でしょう。
>> ちゃんとした指導者がお生まれになるときは、とことん自らを、世界を、指導者
を
信
>> じて大丈夫!!
>> イエスを信じきれなかった12使徒のほうが悲劇!宗教とは拘束でもなく、硬直
で
も
>> なく、全き自由な心(愛の心)に自己を開放するということ!!!
>ここは、私は疑問なのです。イエスは聖人ですが、預言者イエスという扱いにはイ
エ
>スの本領が消えてしまうように思うのです。いかなる聖人も指導者、グルとして
は、
>つまり、生き神としてはあまりに人間の束縛のなかで拘束されすぎている。
イエスが生まれたときは、マグダラのマリヤやなんとかのマリヤや、ぺテロ、アンデ
レ、シモンのようにコバンザメのごとくイエスから離れず、仏陀が生まれたときは、
ヤサや、アサジ、チュ―ラパンタカやアナンのように仏陀から離れず生涯を共に過ご
すことを第一の人生の目的にするくらいの心構えをしないでなんで、まほろばに生ま
れし大和魂ぞ!
>> >人間なら誰しもが持つ神への直感をねじまげることなく、かといって、そうして
近
>> >寄った神に横暴を吐露させることもなく、人間の英知で神への信仰を積極的に認
め
> る
>> >世界、これはかなり成熟した「神と人の共存する社会」でしょう。そこにいたる
道
> し
>> >るべ、それは何か。
>> >いかにしてその道しるべを樹立できるのか。
>
>> その答えは、汝自身の心の中に既に解答として与えられているのです。その必然
に
気
>> 付き、素直に自らの選びし道に向かって精進するか、否かは汝自身に委ねられて
い
る
>> んやなかと???
>
>私は、アートマンをブラフマンと同根と思いますが、自らが神であるとするあるい
は
>神が内在するという心境は、これはもう達人の領域だと思うのです。
ブラフマンとは、日本語では梵天と訳されておりますが、それは、あの世の天使であ
ると小生は思います。
天使であろうが、神であろうが、三位一体の摂理においては「アートマン」とさほど
違いはしないと思うが、アートマンとは「自我」というものであろう。それは、人生
の道行きを決める「ハンドル」の如きものであると思う。とすれば、我々凡人におい
ては、アートマン=ブフラマンとはそう簡単には言えないと思う。
>皆が皆、到達で
>きるものどころか、ほとんど誰もそこまでいけない。カリユガの時代において、民
主
>主義という制度は人間を解放することはしたが、深い意味ではむしろ民主主義を丸
め
>て懐に入れてる者たちがいるのではないか、民主主義は、神の領域の足元にも及ば
な
>い。ただ、神の領域ではないがそこへの道筋と交わるものもある。それは、民主主
義
>の持つ理念であると思うのです。いかなる政治制度も、この理念を、曲解するよう
な
>指導者の下では民主主義は捻じ曲がる。理念という一点において画竜点睛となる点
が
>いかなる制度においても必要で、宗教はこうした点睛を導出するツールではないか
>と。よって宗教が制度となるのは本末転倒であり、理念なき制度、政治と同じもの
と
>いう意見です。
宗教については何をもって宗教とするかが、その根本の基準にあると思う。
例えば、14~15世紀におけるヨーロッパにおける宗教改革において、共にルネッ
サンス:文芸復興が起こった。ドイツではルターが、フランスではカルヴィンが宗教
改革を行ったちょうど同じ時期において宗教とは関係ないように見えるあらゆる文
芸、科学、その他諸々の復興が新しく起こったのである。つまり、神の計画において
人間を愛するときには、宗教(それは、いわゆる宗教とはもはや言えぬと思うが)の
中にはあらゆるすべての諸々の分野での変革が起こるのである。それはもはや小さな
人間の「小知」によっては予測もつかない神の計画の一部なのである。
crx
精神病については必ずしもユングのここにのべられている意見だけで、論評するこ
と
>は妥当とは思えません。前段、後段があると思うのです。精神病は、宗教による解
決
>よりも、科学的な経験則で医学的な見地で対応すべきものと思うのです。宗教によ
る
>安らぎがあるとするなら、何らかの医学的な効果にむしろ宗教の長所が吸収されて
い
>ると見るべきでしょう。
医学と宗教のおもさが半々というところでしょうか?
小生の考えは2分8分というところである?
薬なんてめったにのみはしない。風邪を引いた時くらいなものである。
>ただ、ユングには、私も一目を置いています。精神分析のフロイトとは袂を分か
ち、
>彼自身超能力者である側面を持っているユングは、大きな意味で宗教的な直感にた
け
>ている人でしょう。
>宗教という枠でユングを吸い込むならば、しかし、宗教のもつ大きさにユングはま
だ
>まだかなう器ではないとは思うのですが。その一番の理由は、潜在意識という領域
>は、阿頼耶識というような宗教的領域を模倣してはいるが、そこには、神というあ
い
ま>いな概念を潜在意識に置き換えたある種の科学用語性はあるものの、逆に、人間
の
>直感する、普遍的に浸透していてそれ自身あたかも意志を持っているような主体性
あ
>る意識を、意識の盛り込まれている器の問題にすり換えている面がユングには感じ
る
>からです。潜在意識というのは器、容器であり、すくなくとも、容器に内在する
エー
>テルであり、器もエーテルそのものさえをも包括した場を支配する意志なるものを
ユ
>ングは規定はしていないと思うのです。そこが、ユングの弱点ではないかと。
阿頼耶識とは、荒屋敷でもなく、新邸でもなく、粗屋敷でもないものであるが御存知
であったか?
エーテルに関しては、よほど好物と思われますなあ。
>> 本当に苦しいときは「神様助けて!」と誰もが叫ぶものと思われます。それは、
口
先
>> では「神なぞ信じない」と言っている人でも、その人の潜在意識の中ではちゃん
と
神
>> 様を信じている意識が存在することではないでしょうか?
>
>その通りだと思います。無心論者は彼自身、眠っているときの自分も自分であるこ
と
を計算に入れてないですが、眠っている彼もまた彼です。神を信じて泣き叫んでいる
>夢の中の自分を忘却している自分だけが自分ではない。母の胎内にいた自分もまた
自
>分であり、死後の意識を信じるならばそこにある意識もまた自分であるといえるで
>しょう。さらに、輪廻転生を信じるならばもはや自分でない自分との継続性におい
>て、やはり自分であるということも言える。自分なる幻想、この問題は小さいよう
で
>大きいと思いますね。
そのとおりですね。、悟られましたかな?
人間はみな記憶喪失症にかかっているのです。それは生まれてくるときの約束事でも
あったわけです。
それを「人天のわな」といいます。喪失のわな。忘却のわな。無知のわなのみっつで
す。
> >>問題は、不可知論の対象である神が、人間の独断により、さまざまに脚色され、
解
> 剖
>>>され、ルーツを持たされ、教えというストーリーが絶対化され、人間の導出した
教
> え
>>>に、直感的に認識される神なるものに息吹が吹き込まれて、第二の誕生をはた
し、
> 君
>>>臨して人間を導出することも現実には起こっているということだと思います。
>
>> それは本当の神ではなく「神ならざるものを神と見間違えてしまう。」というこ
と
で
>> しょう。
>> その人の悟りの段階によって神の捕らえ方が違うのはやむをえないことでしょう
が
・
> ・・
>
>人間の認識力の限界が神を透かしてみるということなのだと思いますね。
人間の認識力の限界が、神をおぼろにしか見られないという事でしょう。
>> ちゃんとした指導者がお生まれになるときは、とことん自らを、世界を、指導者
を
信
>> じて大丈夫!!
>> イエスを信じきれなかった12使徒のほうが悲劇!宗教とは拘束でもなく、硬直
で
も
>> なく、全き自由な心(愛の心)に自己を開放するということ!!!
>ここは、私は疑問なのです。イエスは聖人ですが、預言者イエスという扱いにはイ
エ
>スの本領が消えてしまうように思うのです。いかなる聖人も指導者、グルとして
は、
>つまり、生き神としてはあまりに人間の束縛のなかで拘束されすぎている。
イエスが生まれたときは、マグダラのマリヤやなんとかのマリヤや、ぺテロ、アンデ
レ、シモンのようにコバンザメのごとくイエスから離れず、仏陀が生まれたときは、
ヤサや、アサジ、チュ―ラパンタカやアナンのように仏陀から離れず生涯を共に過ご
すことを第一の人生の目的にするくらいの心構えをしないでなんで、まほろばに生ま
れし大和魂ぞ!
>> >人間なら誰しもが持つ神への直感をねじまげることなく、かといって、そうして
近
>> >寄った神に横暴を吐露させることもなく、人間の英知で神への信仰を積極的に認
め
> る
>> >世界、これはかなり成熟した「神と人の共存する社会」でしょう。そこにいたる
道
> し
>> >るべ、それは何か。
>> >いかにしてその道しるべを樹立できるのか。
>
>> その答えは、汝自身の心の中に既に解答として与えられているのです。その必然
に
気
>> 付き、素直に自らの選びし道に向かって精進するか、否かは汝自身に委ねられて
い
る
>> んやなかと???
>
>私は、アートマンをブラフマンと同根と思いますが、自らが神であるとするあるい
は
>神が内在するという心境は、これはもう達人の領域だと思うのです。
ブラフマンとは、日本語では梵天と訳されておりますが、それは、あの世の天使であ
ると小生は思います。
天使であろうが、神であろうが、三位一体の摂理においては「アートマン」とさほど
違いはしないと思うが、アートマンとは「自我」というものであろう。それは、人生
の道行きを決める「ハンドル」の如きものであると思う。とすれば、我々凡人におい
ては、アートマン=ブフラマンとはそう簡単には言えないと思う。
>皆が皆、到達で
>きるものどころか、ほとんど誰もそこまでいけない。カリユガの時代において、民
主
>主義という制度は人間を解放することはしたが、深い意味ではむしろ民主主義を丸
め
>て懐に入れてる者たちがいるのではないか、民主主義は、神の領域の足元にも及ば
な
>い。ただ、神の領域ではないがそこへの道筋と交わるものもある。それは、民主主
義
>の持つ理念であると思うのです。いかなる政治制度も、この理念を、曲解するよう
な
>指導者の下では民主主義は捻じ曲がる。理念という一点において画竜点睛となる点
が
>いかなる制度においても必要で、宗教はこうした点睛を導出するツールではないか
日本聖書協会にある聖書検索ページ
http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi
でヨハネの黙示録を読み直してみたのですが
他宗教?の預言者に対して悔い改めないとの理由で
当人にひどい苦しみを与えるだけでなく
子供を殺害する可能性にも言及しています(2章 20節-23節)。
また、信者以外に対して殺さない範囲で害を加えること(9章 3節-5節)や
人に悔い改めさせるために天使が人間の三分の一を
殺す事を許容すること(9章 15節-20節)も書かれています。
実際にイエスが他宗教への闘争を肯定したか否かはさておき
(イエスの言動を記した福音書をざっと読みした範囲では
伝道する以外の闘争には否定的に見えます)、
新約聖書にヨハネの黙示録(神→キリスト→天使→ヨハネへの伝聞)
が含まれる以上、
キリスト教は他宗教への闘争を排除できないのではないでしょうか。
--
----------------------------------------------------
Taro Yoshida E-mail ta...@dcc.co.jp
----------------------------------------------------
In article <bf0j9a$9sb$1...@nn-tk103.ocn.ad.jp>, kimi...@crux.ocn.ne.jp
says...
>>イエスが「闘争しろ」と言いましたか?
>日本聖書協会にある聖書検索ページ
>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi
>でヨハネの黙示録を読み直してみたのですが
>他宗教?の預言者に対して悔い改めないとの理由で
>当人にひどい苦しみを与えるだけでなく
>子供を殺害する可能性にも言及しています(2章 20節-23節)。
確かにこの言葉どおりですと、なんと恐ろしき事であるかということが出来ますが、
キリスト教を信じ、神を信じることが出来る人は、この世の死よりも、神の子として
の貞節のほうを選ぶものです。私自身に付いて言えば、この世で堕落して、前後見境
なくなってしまうより前に、神に命を奪ってほしいと思うことに賛成です。命よりも
大切なことがあるのです。神を信じるものにとっては・・・
>また、信者以外に対して殺さない範囲で害を加えること(9章 3節-5節)や
>人に悔い改めさせるために天使が人間の三分の一を
>殺す事を許容すること(9章 15節-20節)も書かれています。
神の摂理は、人間とって理解極まりないこともあります。ジャンヌダルクの行いにつ
いては如何思われますか?
神は、人間の命を生かそう、深化させようとするものですが、肉体的に存続は難しい
と思われるとき、最終的には人間の肉体より、魂を守り生かすことを選びます。ま
た、ここでは、この人の肉体を脱することのほうが、魂の進歩になるという状況に達
したとき、神は、その人の肉の命を奪うことになるのでしょう。それは、神にとって
も、その個人にとっても最善の道であるということなのでしょう。
聖書の言葉は「聖書研究会」などの会がうまれるほど、その真実を解明することは、
難しくなっているのではないでしょうか?
>実際にイエスが他宗教への闘争を肯定したか否かはさておき
>(イエスの言動を記した福音書をざっと読みした範囲では
> 伝道する以外の闘争には否定的に見えます)、
>新約聖書にヨハネの黙示録(神→キリスト→天使→ヨハネへの伝聞)
>が含まれる以上、
>キリスト教は他宗教への闘争を排除できないのではないでしょうか。
キリストの神が絶対的な神であるとの決定はされていませんね?
何度も言っているように、人間の認識する神の姿は、(それは、神事態が)深化、進
化しているのです。聖書の神が「神の結論」ではないのです。
キリストは、「私はまた来る」と言っていますし、お釈迦様も2600年前のインド
の地において、「私はまた、ジャブドーバー(日いづる国)のケントマテイー(大都
市)において、正法を説く。と言っているのです。そのときは、道路も足がぬかるむ
ことなく、ルビーやサファイアで建物が出来、夜でも町は明るく輝いている。いなが
らにして、遠い人とも話が出来る。そんな時代だ。現代の、そんな世界を、お釈迦様
は2600年前に見ることが出来たのです。
イエスも、お釈迦様も私達もみんな発展途上です。私達の内側で神が進歩しているの
です。我々は、神の一部なのです。私達の進歩は神の進歩であり、神の進歩は、私達
の進歩になっているのです。
例えば2600年前にお釈迦様は、比丘、比丘尼達にこういう質問をしたそうです。
「比丘、比丘尼達、サロモン、サマナー達よ、お前達の中で、煩悩が燃えている。お
まえたちの目は燃えている。耳が燃えている。手が、足が燃えている。体が燃えてい
る。さて、ではお前達に尋ねるが、燃えているものは何か?」と尋ねたところ、みん
な首を傾げてしまった。というのです。
2600年前には、こんな易しいことが分からなかったとのことです。現代の人に
は、とっても易しいことが・・・
しかし、当時の人々は、理解したと思ったらすぐに行動できたとのことです。現代の
人間は、頭で分かっていても、それを実際に行動できる人間はそうやたらといないで
すね。「愛」が大切!と分かったら、すぐ愛せたのが2600年前。今は「愛」が大
切、と分かっても、愛せないのが現実。
ところで、仏陀の質問ですが、おわかりになりましたか?
「さて、では、燃えていたものは、何ですか?」
そうですね。燃えているものは「煩悩」ですね。
crx
あなたの宗教観はやや飛躍しているように思います。
思い込みと真実がごっちゃになっているとおもいませんか?
ブッダのお話は、伝聞なのでしょう。
歴史上、あなたのお話になったブッダのお話なるものが、真実という理解をされるの
はあなたの御自由ですが、こうした盲信は、神秘主義や教条主義に無条件で埋没する
ものではないでしょうか。
それとも、確たるブッダのはなしという新事実をおもちなのでしょうか。
私は、ブッダの残したもので、真実らしいものの口述ではありますが伝えられている
ものは、般若心経であるとどこかで読んだことがあります。私は複数の書で読んだ記
憶があり、定説だと思っています。真偽のほどは存じませんが(おそらく誰も知らな
いでしょうが)。
あなたの仏陀のお話はどこの書に、仏陀ゴータマ・シッダールタの未来話として書か
れているものなのですか?随分と作り話をされてるように思いますが。あなたの創作
?それともどんなかたか。
"crx" <kimi...@crux.ocn.ne.jp> wrote in message
news:bf6c6l$9d0$1...@nn-tk104.ocn.ad.jp...
>
> Taro Yoshida wrote in message ...
> >In article <bf0j9a$9sb$1...@nn-tk103.ocn.ad.jp>, kimi...@crux.ocn.ne.jp
> says...
>
> In article <bf0j9a$9sb$1...@nn-tk103.ocn.ad.jp>, kimi...@crux.ocn.ne.jp
> says...
> >>イエスが「闘争しろ」と言いましたか?
>
>
> 失礼しました。別人の記事と見間違えました。
> 記述訂正。「あなたは午前3時代に二日間連続投稿してますが、普通眠っている時間
> ですが、なぜこのような時間の投稿ができるのですか。無職?」
↑
どちらにしても多様なライフスタイルがあるという事を無視した暴言ですね。
午前4時には日の出を迎えるこの時期において通常の勤め人でも午前3時代の
起床は多いものですよ。
In article <3f16c12e$1...@news.premium-news.net>, "J_Saita3 premium" <J_Sa...@hotmail.com> writes
> ところで この時間に投稿できるあなたは何者でしょうか。
> 普通はたらいている時間ですね。
> 定時退社にしてもこの時間に投稿できる人は、よほど、時間をもてあましているひと
> ?
> その前の14時投稿にいたっては、いうに及ばず。つまり、普通の勤め人ではないで
> すね。
こういう馬鹿は何時に投稿しても文句を言うんだよな。次には、所
属に文句をつける電話するんだよね。
僕は自分の投稿に関しては、まったくの不定期だな。何時でも
ありありって感じですね。自宅でも大学でもネット接続は常時
だし、歩いている時でも投稿したりするし。寝ているときでも?!
興味ありません。
>キリストの神が絶対的な神であるとの決定はされていませんね?
キリスト教の教義内では決定されています(というか前提事項)。
>ところで、仏陀の質問ですが、おわかりになりましたか?
質問に至る過程を理解しないとお答えででません。
仏典は昔読んだまま押入れの奥に放り込んであるので
読む気になれば読めるのですが、ちと面倒。
>そうですね。燃えているものは「煩悩」ですね。
本当?
煩悩が燃える原因となっている種火にあたる事象を問うているように
私には見えるのですが。
>ところで この時間に投稿できるあなたは何者でしょうか。
この時間とはどの時間なのでしょうね?
夜中の0時に働いている人は、如何な職業の方のことをいわれているのですか?
>普通はたらいている時間ですね。
>定時退社にしてもこの時間に投稿できる人は、よほど、時間をもてあましているひ
と
>?
>その前の14時投稿にいたっては、いうに及ばず。つまり、普通の勤め人ではない
で
>すね。
で?何をおっしゃりたいのでしょうか?
>あなたの宗教観はやや飛躍しているように思います。
>思い込みと真実がごっちゃになっているとおもいませんか?
ばってん、わしの思い込みでは一切なかと。
>ブッダのお話は、伝聞なのでしょう。
>歴史上、あなたのお話になったブッダのお話なるものが、真実という理解をされる
の
>はあなたの御自由ですが、こうした盲信は、神秘主義や教条主義に無条件で埋没す
る
>ものではないでしょうか。
貴殿ののたまわれる埋没とはいかなるものでしょうか?疑問、解答、疑問、解答の繰
り返しの末、獲得に至った内容のものです。
>それとも、確たるブッダのはなしという新事実をおもちなのでしょうか。
>私は、ブッダの残したもので、真実らしいものの口述ではありますが伝えられてい
る
>ものは、般若心経であるとどこかで読んだことがあります。私は複数の書で読んだ
記
>憶があり、定説だと思っています。真偽のほどは存じませんが(おそらく誰も知ら
な
>いでしょうが)。
それは、いかなるものでしょうか?般若心経はどなたが編纂されたか御存知ですか?
??
もし、ご存じなければ、ここに提示させて頂きます。
それは、不空、玄奘三蔵法師です。いわゆる、孫悟空の中に出てくる三蔵法師です。
このかたは、御伽噺の中の実在しない人間ではありません。ちゃんと、7世紀の初等
(600~664)に唐に存在された方です。この方が、はるばる、唐の長安より一
大決心をして、お釈迦様の説かれた、経文を求め、629年はるばるインド(天竺)
へ旅し、645年、長安へ持ち帰ったお経の数々のエッセンスを一つにまとめたもの
が、かの「般若心経」であります。
>あなたの仏陀のお話はどこの書に、仏陀ゴータマ・シッダールタの未来話として書
か
>れているものなのですか?随分と作り話をされてるように思いますが。あなたの創
作
>?それともどんなかたか。
お経の中のどこかに記されているとのことです。なにしろお釈迦様のお経は膨大な量
になりますから、全てを拝読することは不可能ですね。また、中国経由で漢字のみで
記されているため、理解することも我々には難しくなっているのです。
観自在力(アポロキテイ―シュバラ―:アポロのごとく悟られた方の力)を得た方、
悟られた方には過去、現在、未来の三世を見とおす力が備わるため、そのお経の内容
を把握することは容易なことです。なぜなら、そのお経の内容事態は、悟られた方が
かつて自ら説いた、あるいは、あの世から指導された内容だからです。
現代は人類が待ちに待った究極の時代です。目を見開いて疑問追求、疑問追求の結
果、疑問が消滅するまで真理を探求されることを希望致します。
crx
>>神の摂理は、人間とって理解極まりないこともあります。ジャンヌダルクの行いに
つ
>>いては如何思われますか?
>興味ありません。
人間の知覚・感覚・分別の閾を超える神の摂理です。
>>キリストの神が絶対的な神であるとの決定はされていませんね?
>キリスト教の教義内では決定されています(というか前提事項)。
決定してしまうところに進歩がなくなります。神は、人間は永遠に発展途上です。
>>ところで、仏陀の質問ですが、おわかりになりましたか?
>質問に至る過程を理解しないとお答えででません。
>仏典は昔読んだまま押入れの奥に放り込んであるので
>読む気になれば読めるのですが、ちと面倒。
はああ、さようですか。お若いときから道を求めておられたのですね。
>>そうですね。燃えているものは「煩悩」ですね。
>本当?
>煩悩が燃える原因となっている種火にあたる事象を問うているように
>私には見えるのですが。
それが何かご発見されましたら、お答えをお待ちしています。
されど、煩悩は、あの世の地下の霊にとっては、またとないエネルギーの塊。燃え
盛って地下の霊も活気付く。
静かな波動、平和な光は、天上の穏やかなエネルギー。永遠に喉の乾きを潤す地下水
流の流れ。
燃え盛って人を、あらゆるものを焼き尽くし、不安・苦しみ・飢渇に追い落とし、の
どを乾かしてやまない地下の煩悩の炎ではない。
crx
crx wrote:
> それは、いかなるものでしょうか?般若心経はどなたが編纂されたか御存知ですか?
> ??
> もし、ご存じなければ、ここに提示させて頂きます。
> それは、不空、玄奘三蔵法師です。いわゆる、孫悟空の中に出てくる三蔵法師です。
不空と玄奘は別人。
> このかたは、御伽噺の中の実在しない人間ではありません。ちゃんと、7世紀の初等
> (600~664)に唐に存在された方です。この方が、はるばる、唐の長安より一
> 大決心をして、お釈迦様の説かれた、経文を求め、629年はるばるインド(天竺)
> へ旅し、645年、長安へ持ち帰ったお経の数々のエッセンスを一つにまとめたもの
> が、かの「般若心経」であります。
現在流布している般若心経は主に玄奘訳ですが、それ以前(姚秦)に
鳩摩羅什により「摩訶般若波羅蜜大明呪経」という題名で漢訳されて
いました。
--
吐普加美◇久留賢治 ◆hisa...@aecl.ntt.co.jp ◇寒言神尊
依身多女◆HISADOME KENJI◇hisa...@lares.dti.ne.jp ◆利根陀見
ばってん、どげん意味?意味不明じゃけん。
> それは、いかなるものでしょうか?般若心経はどなたが編纂されたか御存知ですか
?
> ??
> もし、ご存じなければ、ここに提示させて頂きます。
> それは、不空、玄奘三蔵法師です。いわゆる、孫悟空の中に出てくる三蔵法師で
す。
> このかたは、御伽噺の中の実在しない人間ではありません。ちゃんと、7世紀の初
等
> (600~664)に唐に存在された方です。この方が、はるばる、唐の長安より
一
> 大決心をして、お釈迦様の説かれた、経文を求め、629年はるばるインド(天
竺)
> へ旅し、645年、長安へ持ち帰ったお経の数々のエッセンスを一つにまとめたも
の
> が、かの「般若心経」であります。
>
それがどげんしたと?
> >あなたの仏陀のお話はどこの書に、仏陀ゴータマ・シッダールタの未来話として
書
> か
> >れているものなのですか?随分と作り話をされてるように思いますが。あなたの
創
> 作
> >?それともどんなかたか。
>
> お経の中のどこかに記されているとのことです。
どこかに?グガハハハ。
>なにしろお釈迦様のお経は膨大な量
> になりますから、全てを拝読することは不可能ですね。また、中国経由で漢字のみ
で
> 記されているため、理解することも我々には難しくなっているのです。
> 観自在力(アポロキテイ―シュバラ―:アポロのごとく悟られた方の力)を得た
方、
> 悟られた方には過去、現在、未来の三世を見とおす力が備わるため、そのお経の内
容
> を把握することは容易なことです。なぜなら、そのお経の内容事態は、悟られた方
が
> かつて自ら説いた、あるいは、あの世から指導された内容だからです。
>
それがどげんしたと?
結局、仏陀がいったという作り話を自分で認めたということですね。
Masaya Oda wrote:
> In article <3F12D1C2...@apionet.or.jp>,
> M_SHIRAISHI <eu...@apionet.or.jp> wrote:
>
> > そんな場合は“存在する”とは言わず、“超在する”という。(『広辞苑』第九版より)
>
> 「存在」でも「超在」でもいいのですが、認識出来ないという時点
> で存在/超在しているのかどうか自体解りませんよね?
>
> 「超在している」とするなら、一体どうやって確認したのだろう?
> と言う疑問があるのです。実際に存在(超在)しているのかもしれ
> ないけど、人間にそれを認識する術は無い訳だし。
超在しておられる御方を、認識するなんてことは人間の分際にはできっこない。
ただ、ひたすらに「信ずる」のみ。
古人曰く:-「信ずる者は救われる」。
HISADOME, KENJI wrote in message <3F1890F9...@lares.dti.ne.jp>...
>crx wrote:
>> それは、いかなるものでしょうか?般若心経はどなたが編纂されたか御存知です
か?
>> ??
>> もし、ご存じなければ、ここに提示させて頂きます。
>> それは、不空、玄奘三蔵法師です。いわゆる、孫悟空の中に出てくる三蔵法師で
す。
>不空と玄奘は別人。
ではもう一人の方の詳しいご紹介をよろしく!
>> このかたは、御伽噺の中の実在しない人間ではありません。ちゃんと、7世紀の
初等
>> (600~664)に唐に存在された方です。この方が、はるばる、唐の長安よ
り一
>> 大決心をして、お釈迦様の説かれた、経文を求め、629年はるばるインド(天
竺)
>> へ旅し、645年、長安へ持ち帰ったお経の数々のエッセンスを一つにまとめた
もの
>> が、かの「般若心経」であります。
>現在流布している般若心経は主に玄奘訳ですが、それ以前(姚秦)に
>鳩摩羅什により「摩訶般若波羅蜜大明呪経」という題名で漢訳されて
>いました。
それは、西暦何年くらいのことでしょうか?ご紹介いただけますか?
>>>あなたの宗教観はやや飛躍しているように思います。
>>>思い込みと真実がごっちゃになっているとおもいませんか?
>
>> ばってん、わしの思い込みでは一切なかと。
>ばってん、どげん意味?意味不明じゃけん。
「長崎ばってん」なる人物がかつておいでになりました。
度重なる長崎の災害の復興が平和の内に進みますように!
>> それは、いかなるものでしょうか?般若心経はどなたが編纂されたか御存知です
か
?
>> ??
>> もし、ご存じなければ、ここに提示させて頂きます。
>> それは、不空、玄奘三蔵法師です。いわゆる、孫悟空の中に出てくる三蔵法師で
す。
>> このかたは、御伽噺の中の実在しない人間ではありません。ちゃんと、7世紀の
初
等
>> (600~664)に唐に存在された方です。この方が、はるばる、唐の長安よ
り
一
>> 大決心をして、お釈迦様の説かれた、経文を求め、629年はるばるインド(天
竺)
>> へ旅し、645年、長安へ持ち帰ったお経の数々のエッセンスを一つにまとめた
も
の
>> が、かの「般若心経」であります。
>
>それがどげんしたと?
どげんもこげんもありゃせんじゃろが。般若心経の意味はもう全て解明完了されまし
たか???
意味不明な個所は存在しませんでしたか?
>>>あなたの仏陀のお話はどこの書に、仏陀ゴータマ・シッダールタの未来話として
書
> か
>>>れているものなのですか?随分と作り話をされてるように思いますが。あなたの
創
> 作
>>>?それともどんなかたか。
>
>> お経の中のどこかに記されているとのことです。
>どこかに?グガハハハ。
御気分が悪ろくなりしかな??
お気をつけたもんせ!
>>なにしろお釈迦様のお経は膨大な量
>> になりますから、全てを拝読することは不可能ですね。また、中国経由で漢字の
み
で
>> 記されているため、理解することも我々には難しくなっているのです。
> 観自在力(アポロキテイ―シュバラ―:アポロのごとく悟られた方の力)を得た
方、
>> 悟られた方には過去、現在、未来の三世を見とおす力が備わるため、そのお経の
内
容
>> を把握することは容易なことです。なぜなら、そのお経の内容事態は、悟られた
方
が
>> かつて自ら説いた、あるいは、あの世から指導された内容だからです。
>
>それがどげんしたと?
御理解完璧完了されたましたのかな???
>結局、仏陀がいったという作り話を自分で認めたということですね。
読解力の貧弱な御仁であったもんせ!
頼光の口ぶりの来航ですかな?
南無阿弥陀仏!
crx
"crx" <kimi...@crux.ocn.ne.jp> writes:
:>不空と玄奘は別人。
:ではもう一人の方の詳しいご紹介をよろしく!
ふつうに百科事典に載ってますよ。
:>現在流布している般若心経は主に玄奘訳ですが、それ以前(姚秦)に
:>鳩摩羅什により「摩訶般若波羅蜜大明呪経」という題名で漢訳されて
:>いました。
:それは、西暦何年くらいのことでしょうか?ご紹介いただけますか?
クマーラジーバも、百科事典に載ってます。
#疑問に思ったときは、まず平凡社の世界大百科事典 R.田中二郎
>不空三蔵、玄奘三蔵だけでなく、慈愍三蔵って、いるんだ。
さようでしたか。小生は少々混同しておりました。
玄奘三蔵(600~664)と不空三蔵(705~774)は約ほとんど百年の違い
がありました。
共に同じ内容の働きをしておられます。
三蔵とは、経・律・論の三蔵に精通した僧と言う意味でしたか?
だから三蔵と名乗られた方は、一人に限らず何人も輩出されるということですね。
合掌
crx
>> どげんもこげんもありゃせんじゃろが。般若心経の意味はもう全て解明完了され
ま
し
>> たか???
> 意味不明な個所は存在しませんでしたか?
>
>どういう意味でございましょう?
文字通りでにゃ~ぁきゃ?
>般若心経の意味についてなんだとおうせなのでしょうか。主語と述語の意味をもう
少
>し具体的に聞かせてちょんまげ。なにがなにしてなんとやら、なーーーんも和歌乱
>売。
般若心経の初めから終わりまで全て解読、納得されりゃ~よ、なんもこぎゃ~な所
でょ、ぶつくさ、ぶつくさいわにゃ~でもょ、よかじゃなきゃ??
んだにゃ、ぶつくさ、ぶつくさいわなんだら、なにきゃ、ニュースグループの意味が
にゃ~きゃ?
ま、勝手にやっててちょ!!
crx
おどんが信念はまちごうちょる。
お金も命もささげて誰よりも幸せな方がおいでんなるごたる。
>>>キリストの神が絶対的な神であるとの決定はされていませんね?
>
>>キリスト教の教義内では決定されています(というか前提事項)。
>
>決定してしまうところに進歩がなくなります。
宗教と言うのはそもそも人間がすぐに理解できない事象を
理解できるように説明する方法だと私は理解しています。
宗教によって全ての事象が説明し尽くしたら
不安な事象がなくなると同時に進歩がなくなるのはいわば必然。
> 神は、人間は永遠に発展途上です。
crxさんがそうお考えなのは了解です。
個人的にはいわゆる宗教を教義のFIXされ具合で分類しています。
大まかに
・教祖(預言者、神の声を聞くものを含む)が生存している時点では「信仰」。
・教祖が死ぬか、まとまった経典が編纂されて「新興宗教」。
・教祖を知っている人が全員死んで「宗教」。
という感じ。宗教学とかは存じないので、正式な分類があるかもしれません。
crxさんの思想では永遠に発展し続ける(=教義はFIXしない)との
ことなので、私の分類では「信仰」の方という理解でいます。
>>>ところで、仏陀の質問ですが、おわかりになりましたか?
>
>>質問に至る過程を理解しないとお答えででません。
>>仏典は昔読んだまま押入れの奥に放り込んであるので
>>読む気になれば読めるのですが、ちと面倒。
>
>はああ、さようですか。お若いときから道を求めておられたのですね。
寺社仏閣で遊ぶのは子供の頃から
(近所に寺や各種教会多かったので。寺の木魚を勝手に叩いて怒られたり)。
仏典や聖書やギリシャ神話は
小学校の時に実家にあった大人用の文学全集で読んだのが最初。
(この文学全集が押入れに入っているわけです)
知人や近隣の住人に色々な宗教や思想の方がおられ
(仏教、神道、キリスト、イスラム、天理、金光、エホバ、
真如苑、幸福の科学、真光、儒教 など)
それぞれの教義や説法をなんとなく聞いて育ったので
自分なりの漠然とした死生観はありますけれど、
道というか自分にフィットする宗教はまだ見つかっていません。
問い合わせ先を誤ったのでは?
河野氏なら
琉球大学のWebページの
研究者総覧に顔写真つきで掲載されていますよ。
In article <bfia93$gub$1...@dccns.dcc.co.jp>, ta...@dcc.co.jp (Taro Yoshida) writes
> In article <3f18b3ed$1...@news.premium-news.net>, J_Sa...@hotmail.com says...
> 問い合わせ先を誤ったのでは?
> 河野氏なら
馬鹿に余計なこと教えなくて良いのよ~
>宗教と言うのはそもそも人間がすぐに理解できない事象を
>理解できるように説明する方法だと私は理解しています。
>宗教によって全ての事象が説明し尽くしたら
宗教によって全ての事象が説明し尽くせたらのほうがよろしいかと・・・
>不安な事象がなくなると同時に進歩がなくなるのはいわば必然。
左様!ごもっとも!
>>神は、人間は永遠に発展途上です。
>crxさんがそうお考えなのは了解です。
奇跡的に了解していただき感謝の至りです。
>個人的にはいわゆる宗教を教義のFIXされ具合で分類しています。
>大まかに
>・教祖(預言者、神の声を聞くものを含む)が生存している時点では「信仰」。
>・教祖が死ぬか、まとまった経典が編纂されて「新興宗教」。
>・教祖を知っている人が全員死んで「宗教」。
>という感じ。宗教学とかは存じないので、正式な分類があるかもしれません。
>crxさんの思想では永遠に発展し続ける(=教義はFIXしない)との
>ことなので、私の分類では「信仰」の方という理解でいます。
はああ左様ですか。それが貴殿のtipoとか言うものですか?
小生にとっては、信仰=進行=親交=振興=新興=深耕=宗教であり、何の区別はつ
けません。
少し質問しますが、この世には価値ある人、と価値の薄い人との区別は存在しないと
思いたい小生ではありますが、現実の世の中の人々は、多かれ少なかれ、人間に価値
付けをしているように思います。
質問です。
Q:貴殿にとって、価値のある人が存在するとすれば、それはどんな人で、価値のな
い人が存在するとすればそれはどんな人ですか?
小生は最近とても納得のゆくその「見極め」の視点を頂きました。
>寺社仏閣で遊ぶのは子供の頃から
>(近所に寺や各種教会多かったので。寺の木魚を勝手に叩いて怒られたり)。
>仏典や聖書やギリシャ神話は
>小学校の時に実家にあった大人用の文学全集で読んだのが最初。
>(この文学全集が押入れに入っているわけです)
ははあ、まれにみる、勤勉なお方だったのですね。
>知人や近隣の住人に色々な宗教や思想の方がおられ
>(仏教、神道、キリスト、イスラム、天理、金光、エホバ、
> 真如苑、幸福の科学、真光、儒教 など)
>それぞれの教義や説法をなんとなく聞いて育ったので
>自分なりの漠然とした死生観はありますけれど、
>道というか自分にフィットする宗教はまだ見つかっていません。
ははあ、左様ですか。小生は、仏教、キリスト教、天理教くらいなものですね。幼少
のころより出会った宗教といわれるものは・・・・
宗教というものは、人間に迎合しない強さがありますよね。デウスの神に従い、はる
ばる遠路より長崎まで行進させられても、喜んで十字架にかかった26聖人の行いの
全てに見られるように、神を信じるも者にとっては、肉体の死以上に大切なものがあ
る。
それは、地平線にしがみつこうとする肝っ玉の小さき存在と、地平線のかなたに向
かって歩んでゆこうとする高貴なる冒険者との差があるのではないでしょうか?しか
し誤った宗教、それは盲信、狂信とも呼ぶべjきものですが、それに陥らぬために
も、何が正しき教えであり、何が誤った考えであるかの弁別力を真摯に磨いておく必
要があると思う。
生まれて来れなかった、何兆倍もの人々にバトンを託された我々地上の人間達よ!こ
の与えられし命を軽んじてはならない。大切に大切に真実に向かい愛ある行いを追求
すべきである。それが我らが、天と神との間に交し合った約束ではなかったか?
crx
琉球大学学長に講義するとともに、文部科学省にこの人物と、琉球大学学長への
国費浪費の責任を問うものです。
あなたは、このような駄文投稿に国民の血税を一円たりとも使用すべきではない。
にもかかわらずこのような税金泥棒を国費で働いていることのいかなる見解をお持ち
なのか、日本国民、納税者に申し開きをせよ。
日本の各マスコミに、琉球大学のこのような駄文の国費よるふんぞり返った投稿を許
可する根拠を追及するよう進言します。
まず、いかなる法的根拠に基づき、このような駄文投稿を繰り返すのかお聞かせいた
だきたい。
その根拠は?
"Shinji KONO" <ko...@ie.u-ryukyu.ac.jp> wrote in message
news:3988619...@insigna.ie.u-ryukyu.ac.jp...
>結局、中味の話は逃げの一手。ということなのですね。分かりました。
奇妙奇天烈な御仁であることよ!!!
小生の文をかくの如き内容に感じ、受け止め、考え、行為されるとは?
もし小生がどなたかから、下記の如き御言葉を頂きし折りには、小生なら
「まあ、なんとお心の広き御仁!!まれにみる頓知深く、寛大かつ愛深きお方!」
と、お手紙まで書き始めるかも知れぬ。
かくのごとく、十人いれば十通りの考え方、百人いれば百通りの、千人いれば千通り
の感じ方、考え方行いがあるのは確かにうなづけるということである。
"crx" <kimi...@crux.ocn.ne.jp> wrote in message
news:bfhbn3$509$1...@nn-tk106.ocn.ad.jp...
>
>> ま、勝手にやっててちょ!!
ここには個人個人の才能・力・使命などを寛大に見つめ、認め合いはげましあってゆ
こうとの切なる願いを込めた意思が見られませんか?
小生には、はっきり見えますが・・・
神の祝福が注がれますように・・・・
crx
汝の一呼吸一呼吸の中に(一刹那一刹那の中に)神もまた汝の中で共に呼吸したま
ふ。
どこか体の具合でもわるいんですか?
何を興奮しているのでしょう。
結局、般若心経の教の中味についての話はゼロ。
ゼロといわれるのがそんなにいやなんですかねー。
ゼロですから、言いようがないですね。
<中略>
>まず、いかなる法的根拠に基づき、このような駄文投稿を繰り返すのかお聞かせいた
>だきたい。
>その根拠は?
既に宗教関連の内容というよりは
よく言って社会運動ネタ(悪く言って言いがかり)のようですから
続けるなら適切なSubjectに変更の上
fj.soc.politicsなり、より適切なグループに移動をお願いします。
少なくともfj.soc.lawではなさそう。
>>宗教と言うのはそもそも人間がすぐに理解できない事象を
>>理解できるように説明する方法だと私は理解しています。
>>宗教によって全ての事象が説明し尽くしたら
>
>宗教によって全ての事象が説明し尽くせたらのほうがよろしいかと・・・
一神教を前提として書いたので前述のようになっています
(神が全てを創造した=全ての事象は神の定めた事 という考えね)。
確かに、事象の全てを説明する気がない宗教と言うのもありますから
crxさんの指摘ももっともですね。ありがとう。
>小生にとっては、信仰=進行=親交=振興=新興=深耕=宗教であり、何の区別はつ
>けません。
なるほど。crxさんと私のスタンスの違いがわかるのでありがたいです。
>少し質問しますが、この世には価値ある人、と価値の薄い人との区別は存在しないと
>思いたい小生ではありますが、現実の世の中の人々は、多かれ少なかれ、人間に価値
>付けをしているように思います。
>
>質問です。
>Q:貴殿にとって、価値のある人が存在するとすれば、それはどんな人で、価値のな
>い人が存在するとすればそれはどんな人ですか?
ここで言う「価値」の定義でどうとでも答えが変わってしまいます。
手元の辞書では
|Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban(Revised edition) (c)Shogakukan 1988
|国語大辞典(新装版)(c)小学館 1988
|かち【価値】
|1 物事のもっている値うち。あたい。かちょく。「千金の価値がある」
|2 人間の基本的な欲求、意志、関心の対象となる性質。真、善、美、聖など。
|3 ある目的に有用な事物の性質。使用の目的に有用なものを使用価値、
| 交換の目的に有用なものを交換価値という。
他の意味もあるかもしれませんがとりあえずこれを下敷きにして考えると
私の場合は
1なら、価値ある人は、全ての人(価値の方向が各々異なる)。
2なら、価値ある人は、記憶に残る人。
3なら、価値ある人は、(例えば目的が平和なら)平和に貢献した人。
という感じでしょうか。
>>寺社仏閣で遊ぶのは子供の頃から
>>(近所に寺や各種教会多かったので。寺の木魚を勝手に叩いて怒られたり)。
>>仏典や聖書やギリシャ神話は
>>小学校の時に実家にあった大人用の文学全集で読んだのが最初。
>>(この文学全集が押入れに入っているわけです)
>
>ははあ、まれにみる、勤勉なお方だったのですね。
勤勉じゃないし、勉強からっきしですけど本が好きなだけ。
小学校時代に一番読み返したのは
「トラ・トラ・トラ」、次が「日本沈没」。いいかげんなもんです。
実家が思想宗教に関して非常におおらかと言うかいいかげんというか、
祖母はキリスト教の洗礼名を2つ持っていたらしい(でも誰も覚えていない)し、
本家の仏教の宗派と、うちでお経を上げてもらう近所のお寺の宗派と
日常お世話になっているお坊さんの宗派は別々だったりします。
ある日は神父さんの話を聞いて、翌日は寺に上がりこんで遊ぶとかそんな感じ。
私の幼少期は宗教に(無節操に)親しんでいたのは確かなようです。
> しか
>し誤った宗教、それは盲信、狂信とも呼ぶべjきものですが、それに陥らぬために
>も、何が正しき教えであり、何が誤った考えであるかの弁別力を真摯に磨いておく必
>要があると思う。
大抵の既存宗教の場合は、経典を一式ひっくるめて信仰しちゃっていますから、
crxさんの考えだと、既存宗教に囚われない教義を求めていく事になります。
そうなると過去の既存宗教の教えは参考扱いになりますから
>何が正しき教えであり、何が誤った考えであるか
を、
何が正しき考えであり、何が誤った考えであるか
と読んだほうがcrxさん的イメージに近いのかな?
>馬鹿に余計なこと教えなくて良いのよ~
すみませんでした。
公開情報で事実確認できるものは提示するスタンスなものでつい。
>どこか体の具合でもわるいんですか?
>何を興奮しているのでしょう。
御心配頂き光栄の至りですが、二階から目薬というものです。
>結局、般若心経の教の中味についての話はゼロ。
なんでございますか?般若心経のお話をもっとお聴きに成りたいという意志表示なの
でございますか?何かお聞きになりたいことがございましたらどうぞ、御遠慮なさら
ずにお聞きなさったもんせ!
>ゼロといわれるのがそんなにいやなんですかねー。
それは、「いやなんですかね―」と申される汝のお感じ、お考え、でございましょう
?
「ゼロの焦点」なんて、超、素晴らしいですね。
>ゼロですから、言いようがないですね。
ゼロと空とは違います。ゼロと霊でも違います。
ではごきげんよう!
だにゃ~~も!!
乞う!深層難解且つ容易高貴内容投稿!
crx
>神教を前提として書いたので前述のようになっています
>(神が全てを創造した=全ての事象は神の定めた事 という考えね)。
>確かに、事象の全てを説明する気がない宗教と言うのもありますから
>crxさんの指摘ももっともですね。ありがとう。
どういたしまして。なんだかよく、分かりませぬが。
>>小生にとっては、信仰=進行=親交=振興=新興=深耕=宗教であり、何の区別は
つ
>>けません。
>なるほど。crxさんと私のスタンスの違いがわかるのでありがたいです。
大してありがたいというものでもないでしょうが・・・
>>少し質問しますが、この世には価値ある人、と価値の薄い人との区別は存在しない
と
>>思いたい小生ではありますが、現実の世の中の人々は、多かれ少なかれ、人間に価
値
>>付けをしているように思います。
>
>>質問です。
>>Q:貴殿にとって、価値のある人が存在するとすれば、それはどんな人で、価値の
な
>>い人が存在するとすればそれはどんな人ですか?>
>ここで言う「価値」の定義でどうとでも答えが変わってしまいます。
確かに、人間の価値というものは、T(time)P(place)O(occasi
on)によって変わってくると考えるのが普通ですね。
しかし小生は最近、ある一つの価値観を与えられました。
それは、
「人間の内に存在する神の子としての愛を、その人はいかに深い思いで、外側に現わ
しているか、現わす努力をしているか。」という視点です。
頭が悪くてもよい、ぐじゃっぺでもよい、お金がなくてもいい、貧乏でもよい、口下
手でもよい、不器用でもよい、ただ、その人の内にある神につながる愛の思いをいか
に外に現わす(具現する)努力をしているか、現わしているか。ということだと思い
ます。
ああ、なんと素晴らしく、誰にでも努力でき、誰もが把持することの出来る価値観で
はありませんか?
>手元の辞書では
>|Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban(Revised edition) (c)Shogakukan
1988
>|国語大辞典(新装版)(c)小学館 1988
|>かち【価値】
|>1 物事のもっている値うち。あたい。かちょく。「千金の価値がある」
|>2 人間の基本的な欲求、意志、関心の対象となる性質。真、善、美、聖など。
|>3 ある目的に有用な事物の性質。使用の目的に有用なものを使用価値、
|> 交換の目的に有用なものを交換価値という。
細やかに辞書を引いてくださりありがとうございました。
>他の意味もあるかもしれませんがとりあえずこれを下敷きにして考えると
>私の場合は
>1なら、価値ある人は、全ての人(価値の方向が各々異なる)。
>2なら、価値ある人は、記憶に残る人。
>3なら、価値ある人は、(例えば目的が平和なら)平和に貢献した人。
>という感じでしょうか。
はああ~、なかなか深いお考えの平和主義的価値観をお持ちのお方と拝察致します。
>>ははあ、まれにみる、勤勉なお方だったのですね。
>勤勉じゃないし、勉強からっきしですけど本が好きなだけ。
>小学校時代に一番読み返したのは
>「トラ・トラ・トラ」、次が「日本沈没」。いいかげんなもんです。
小学校時代から、かくのごとき難解な書物をお読みになっておられたのですか?
>実家が思想宗教に関して非常におおらかと言うかいいかげんというか、
>祖母はキリスト教の洗礼名を2つ持っていたらしい(でも誰も覚えていない)し、
>本家の仏教の宗派と、うちでお経を上げてもらう近所のお寺の宗派と
>日常お世話になっているお坊さんの宗派は別々だったりします。
>ある日は神父さんの話を聞いて、翌日は寺に上がりこんで遊ぶとかそんな感じ。
>私の幼少期は宗教に(無節操に)親しんでいたのは確かなようです。
日本人の長所は、いろいろな思想を寛容に受け入れることが出来る柔軟な頭を持って
いるということだそうですね。西洋人には、なかなか仏教は理解できません。という
より理解しようと思うことさえ罪の意識があるんじゃないかと小生は推察します。日
本人は、キリスト教OK、仏教OK、イスラム教も一部じゃOK、天理教、真光教、創価学
会、立正校正会、妙智会、あらゆるものを受け入れることに対して柔軟な心、頭脳、
価値観を抱いていると思います。
逆にいえば、その日本人の長所、平和主義国家はこの時のために、前もって計画して
地ならしを先達がしてくださっておられたのではないでしょうか?桂小五郎、坂本龍
馬、西郷隆盛、大久保利光、榎本武明、吉田松蔭、高杉晋作等、明治維新を命をかけ
てして下さった多くの志士達によって、平和主義日本が誕生し、この時の到来を頂い
ているのです。感謝せねば申しわけありません。
明治維新に関わられた志士達の皆さん、またその方々に関わるあらゆる方々の御努
力、命をかけ、今日の平和国家日本、平和的開国をお導きくださりありがとうござい
ます。
>>しかし誤った宗教、それは盲信、狂信とも呼ぶべjきものですが、それに陥らぬた
めに
>>も、何が正しき教えであり、何が誤った考えであるかの弁別力を真摯に磨いておく
必
>>要があると思う。
>大抵の既存宗教の場合は、経典を一式ひっくるめて信仰しちゃっていますから、
>crxさんの考えだと、既存宗教に囚われない教義を求めていく事になります。
>そうなると過去の既存宗教の教えは参考扱いになりますから
ふむ、で?
>>何が正しき教えであり、何が誤った考えであるか
を、
>何が正しき考えであり、何が誤った考えであるか
>と読んだほうがcrxさん的イメージに近いのかな?
小生はじゃな、「何が正しき教えであり」これは、貴殿もおわかりじゃろう。誤った
教祖もどきがいるんじゃよ、世の中には。だから、何が正しき教えであり、何が誤っ
た教えであるか、よーく見極める心、弁別力が大切じゃ、と言っているんじゃよ。
また、「何が誤った考えであるか」これは、自分の考えについての内省力を鍛えてお
け。と言うことじゃ。自らの誤った思い込みに気付いて行こう!!ということじゃ。
貴殿の考えとは微妙に違うが、どうぞ御自由にお読み下され。小生は、ちっちゃなこ
とはあまり気にせん質じゃ。
crx
> 不空三蔵、玄奘三蔵だけでなく、慈愍三蔵って、いるんだ。
確か日本人の三蔵もいたと思って検索してみたら、
http://www.biwa.ne.jp/~sanjin/ryozensanzo.html
とか、
http://www.biwa.ne.jp/~sanjin/1sanzo.html
なんてのがひっかかりました。
--
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ. K
KG k...@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK