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拉致は招待だ (非アリストテ レス的論理学)

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SEO Shirou

未読、
2003/10/04 0:04:322003/10/04
To:
"Miya_S"さん<kmiya...@firemail.de> wrote in message
news:3f7c2...@127.0.0.1...
> Kiyohide Nomura <kno...@maya.phys.kyushu-u.ac.jp> wrote:
>
>
> > それから、Miya_S さんが
> > (形式論理学以外の)「広義の論理学」
> > に基づいて議論するなら、今後そのように明記して下さい。
> > 読者が混乱します。
>
> 承知しました。混乱をある意味で目的としていたので
> さぁ、たいへん、こんな約束してしまって・・・
> >

カントは形式論理学としては、伝統的論理学をそのまま認め、アリストテレスによっ
て完成されたと考えましたが、そう考えたのであってこれそう取り決めたのであっ
て、べつに、絶対的見地において正しいと判断してるわけではないと思います。カ
ントは形式論理学とは別に、先見的論理学を加えてますね。つまり、経験が成立する
ための根本的原理を考察する認識論を論理学に加えた。さらに、先見的論理学の中
で、仮象の論理学(弁証論)を説いた。

論理学という言葉は、もともとはロゴスの学ですから。これは万物を貫徹している存
在の法則の意味ですよね。ロゴスの学であれば、論理学よりさらに広い間口を
持つ。ヘーゲルの論理学はこうしたものではないでしょうか。
どなたかが、論理学は人のものではないといってましたが、Miya_Sさんは、ヘーゲル
にはヘーゲルの、カントにはカントの開発した系であるという意味においてのことで
すよね。

それに、どうやら投稿されてるかたは理系のかたが何人かおいでのようですね。
アリストテレスの論理学を越えるということは、
近代科学という側面からかんがえれば、二値的な論理から近代科学が提起する
多値的(=非アリストテレス的)論理への転換と考えれば、よいのではないでしょう
か。

アリストテレスの論理学というのは二値的体系ですね。
私たちは日常の生活でこれに慣れている。
「A は A である」(同一律)
「A は B で かつ 非B ではありえない」(矛盾律)
「A は B か または 非B でなければならない」(排中律)

形式論理学=アリストテレス的論理学というのであれば、多値的論理学は非アリスト
テレス的論理学です。
われわれの日常の思考は、とかく、二値的な考えに拘束されていますね。
政治的な詭弁に限るものではありません。問題解決の方法にしても、無意識のう
ちに二値的な狭い道にはいって不適切な選択をしてしまいます。
「これをするか、しないかだ。」的思考。
しかし、「同じ川のなかに二度と足を踏み入れられない」という現実は、なにも
ヘラクレイトスの言葉ばかりではありません。
方丈記の冒頭にも似た文がありますよね。

アリストテレス的論理学の危険性は日常の問題です。ここから脱出することは
大切なことだと思います。
Miya_Sさんの狙いもそんなところかと。

--
SEO Shirou mailto:ses...@myself.com


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Shinji KONO

未読、
2003/10/04 0:17:532003/10/04
To:
河野真治 @ 琉球大学情報工学です。

いまさら時代遅れの一般意味論か... サイエントロジーの人達なの
ね。中学生の頃に読んだっけ。「非Aの世界」とかに触発されてさ。

In article <3f7e4...@127.0.0.1>, SEO Shirou <ses...@myself.com> writes


> カントは形式論理学としては、伝統的論理学をそのまま認め、アリストテレスによっ
> て完成されたと考えましたが、そう考えたのであってこれそう取り決めたのであっ
> て、べつに、絶対的見地において正しいと判断してるわけではないと思います。カ
> ントは形式論理学とは別に、先見的論理学を加えてますね。つまり、経験が成立する

先験的


> ための根本的原理を考察する認識論を論理学に加えた。さらに、先見的論理学の中
> で、仮象の論理学(弁証論)を説いた。

カントは論理学と言うよりは認識論の哲学者ですね。

形式論理学はラッセル・フレーゲ以降の記号論理でないものは評価
できないです。

> 論理学という言葉は、もともとはロゴスの学ですから。これは万物を貫徹している存
> 在の法則の意味ですよね。ロゴスの学であれば、論理学よりさらに広い間口を
> 持つ。ヘーゲルの論理学はこうしたものではないでしょうか。

論理学者は普通はもっと謙虚です。言語の学問なので「万物」とは
関係ない。人間の限界をわきまえた、というよりは、人間の枠内で
何が理解できるかを研究する学問です。

> どなたかが、論理学は人のものではないといってましたが、Miya_Sさんは、ヘーゲル
> にはヘーゲルの、カントにはカントの開発した系であるという意味においてのことで
> すよね。

ヘーゲルとかは論理学といっても、とんでも系だからな :-p

> 近代科学という側面からかんがえれば、二値的な論理から近代科学が提起する
> 多値的(=非アリストテレス的)論理への転換と考えれば、よいのではないでしょう
> か。

多値にしたからどうこうってわけでもないです。直観主義論理とかは
多値論理の一種だけど、通常の記号論理よりも、もう少し制限された
立場を取ります。だからといって成果が狭いってわけじゃないけど。

> アリストテレス的論理学の危険性は日常の問題です。ここから脱出することは
> 大切なことだと思います。

アリストテレス的論理学の問題点は、記号と存在(モデル)を区別し
てない点にあり、二値の部分ではありません。それをクリアするに
はラッセル・フレーゲを待つ必要があったわけですね。

もともと「多値」とか「二値」とかいう考え方自体が、記号とモデ
ルの区別の萌芽なんだよね。

---
Shinji KONO @ Information Engineering, University of the Ryukyus,
河野真治 @ 琉球大学工学部情報工学科,

Shinji KONO

未読、
2003/10/04 5:10:502003/10/04
To:
河野真治 @ 琉球大学情報工学です。

In article <3f7e6...@127.0.0.1>, Miya_S <kmiya...@firemail.de> writes
> SEO Shirou <ses...@myself.com> wrote:
> 教育の方面では、一般意味論を取り入れているところも結構あるようで
> すが、実際にはなきにひとしい。

僕が知る限り、まったくありません。そもそも生き残ってもない
です。

> そうですね。前提にないものは結論にもない。近代と古典の違いは明瞭
> です。

a->b で ~ a の時に無条件に真なのは、a 以外の場合は考慮しない
というだけです。そこに別にマジックはありません。

そこに思い入れをいれる方法にはいろいろあるけど、Entailment
は、別な基準があるのが普通。一種の様相論理だね。

> もう一つは、価値からは決して事実を演繹できないし、事実からは決し
> て価値を演繹できないという、価値情緒説、あるいは価値二元論の実生
> 活での応用ではないでしょうか。無論、非二値論にかかわることですが。

さぁ。事実は記号論理的な整合性があるけど、価値は主観的な評価
だから整合性は得に要求されません。だからと言って無関係だとは
いえないね。価値を、適当な事実、例えば、お金という数字に対応
させれば、論理的な整合性は復活し、事実と対応させるのは手続的
に可能になります。それが、市場というわけだ。

君には理解できないだろうけど。

M_SHIRAISHI

未読、
2003/10/08 11:37:292003/10/08
To:
SEO Shirou <ses...@myself.com> wrote in message news:<3f7e4...@127.0.0.1>...

>
> カントは形式論理学としては、伝統的論理学をそのまま認め、アリストテレスによっ
> て完成されたと考えましたが、そう考えたのであってこれそう取り決めたのであっ
> て、べつに、絶対的見地において正しいと判断してるわけではないと思います。カ
> ントは形式論理学とは別に、先見的論理学を加えてますね。


#“*先見*的論理学”ではなくて、“*先験*的論理学(transzendental Logik)”!

Kantの馬鹿は、アリストテレス流の論理学を「完全に誤解」し、論理学とは殆んど
何の関係も無い「認識論的ガラクタ」を“先験的論理学”と称して喧伝し、後世に
恥を晒しています。

Kantと同時代にあって、Kantのそのような認識を痛烈に批判した碩学が、隣国:
オーストリアにいた。 その人の名を Bernhard Bolzano と言う。

彼は、自国:オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルグ王朝)の軍国主義的政策
を批判したが為に、大学(プラハ大学)の教授の職を追われ、その著書は、すべて、
発禁処分とされた。 彼の論理学・数学上の業績は、今日、高く評価されていること
は知る人ぞ知る。 一方、彼に弾圧でもって臨んだハプスブルグ王朝は滅亡して、
今は無い。


> 論理学という言葉は、もともとはロゴスの学です

“ロゴスの学”などと「誤解」するようになったのは、西欧中世からのことであって、
アリストテレス本人は、そのようには考えてはおらず、アナリティケー(分析学)と
呼んで、諸学を志す者が、真っ先に学んでおくべき学問と規定していました。


> ヘーゲルの論理学はこうしたものではないでしょうか。

“イカレHege”は“馬鹿Kant”よりも、更に一段と、アリストテレス流の論理学を誤解
しており、現代の大半の論理学者の嘲笑の的になっています。 ヽ(^。^)ノ


> アリストテレスの論理学を越えるということは、
> 近代科学という側面からかんがえれば、二値的な論理から近代科学が提起する
> 多値的(=非アリストテレス的)論理への転換と考えれば、よいのではないでしょう
> か。

多値的論理(ないしは“様相論理”)も、アリストテレスが「先駆者」です。

現代的観点から見て、アリストテレス流の論理学に欠けていたものは

1)仮言命題に対しての分析が全く見られないこと

2)全称記号などを欠いていて、記号的処理がつたないこと

などでしょう。

M_SHIRAISHI @ The_New_York_Academy_of_Sciences

http://www.apionet.or.jp/~eurms/Ronri_Kaikaku.html

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