! "<3fe8198e$0$19848$44c9...@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
! Tue, 23 Dec 2003 19:32:48 +0900 頃に wacky さん は言ったとさ:
> KGK == Keiji KOSAKAさんの<bs1b09$4o8$1...@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>>> 普通は、自分の評価よりも他人の評価の方が客観的にできやすいものです。
>>
>>> それは「利害関係がない場合」の話だよね。
>>> 他人への評価であろうと「少しでも自分の利害に関わってくる」あるいはその
>>> 可能性がある場合、自己棚上げな人には客観的な評価は期待出来ないでしょう。
>>
>> 期待できるかどうかなんて関係なく、実際にできてるかどうかのみが関係しま
>> す。
> そんなんじゃ、常に事後の評価にしかならんやん。無意味ですよ。
「行為の評価」ってのはそういうものでしょ?
で、普通の人間には推論能力があるから、「事後の評価がこうなるだろう」と
いう予測の下で行動できる。
無意味な話じゃないですね。
>> その「公平性」なるものは、社会生活においてどのような重要性を持ってるん
>> ですか?
> それは、あなたが速度超過で切符を切られている横で「有力者の息子」が見逃
> されたり、性差や出身や障害を理由に就業の機会を奪われたりすることを防ぐ
> 力です。
それは「公正」の話ですね。
その話と「自他の公平」と何か関係あるんですか?
>> その「欠点」なるものが社会的に重大なことであれば、批判を封じ込めるより
>> は、指摘させた上で指摘を返す方がよほどよいですよね。
> 「お前こそ~」の無限ループが*良い*とはとても思えません。
「自分の行為を棚上げにしてでも他人の行為を批判する」というのが通用する
のであれば、「お前こそ~」ってのは通用しないですね。
自分が何やってるかが相手の行為の評価と関係ないのと同じで、相手が何やっ
てるかは自分の行為の評価とは関係ありませんから。
>> wacky氏が「至極基本的な道徳」と言ってるのは、自分と他人で扱いを変える
>> ことですよね?
> #変え*ない*こと。ですね。正当な理由なく。
>> 他人と別の他人で扱いを変えるのはいいんでしょうか?
> 私の言ってることを理解していれば分かるはずだと思いますが…、当然ダメです。
つまり、不可能なことを要求してるんですね。
>> それとも、「同種の行為をしてる人を全て批判するのでなければ、批判するな」
>> とでも言いますか?
> 当然です。ただし、神ならぬ人間一個人に無理のない範囲においてですが…。
「一個人に無理のない範囲」ってのはどの程度の範囲なんでしょう?
例えば、百人がポイ捨てしてる場所で親しい友人に「お前は止めとけよな」と
いうのはアリ?
で、見事に無視してますが、
>> # 実は、この辺にも、人の評価なのか行為の評価なのかという問題が出てきま
>> # す。行為の批判と見た場合は、自動的に、自分の行為を含めた全ての同種の
>> # 行為を批判してることになるからです。
>> # 本人が気づいてるかどうかは別として。
というわけで、「行為者を批判している」のではなく「行為を批判してる」の
であれば、公平なわけですよね?
>>> じゃ、具体的にどんなケースなら「自分の行為を直すよりも他人の行為を直さ
>>> せる方が容易である」と言えるんですか?
>>
>> 自分は癖になってるけど対象者はまだ癖になってないときとか、
>> 立場などの違いから修正が容易さに差がある場合とかですね。
> 他人が癖になっているなんてことが批判者にどうやって分かるんかいな?
> その批判者は「癖になっていないから批判する」んですか?
別に分からなきゃ批判しちゃいけないわけじゃないでしょ?
自分は癖になってるのは、多分、自分では分かってるから、そっちはペンディ
ングしといて(あるいは努力を続けて)、ダメモトで対象者に指摘すればいいわ
けで。
対象者が癖になってなければすぐに止められるし、癖になってるけど止める努
力をしてなかった場合はその努力を始められる。
指摘が無駄になるのは癖になっているけど既に止める努力はしてるときぐらい
なもの。
で、それらのケースのうち、
>> 自分は癖になってるけど対象者はまだ癖になってないときとか、
は、
>>> じゃ、具体的にどんなケースなら「自分の行為を直すよりも他人の行為を直さ
>>> せる方が容易である」と言えるんですか?
と言えるってだけの話。
> それ以前に「俺様は癖になってるからまだ直さなくて良いんだ」なんてイイワ
> ケは社会人としてどうよ?話にならん気がするけど…?
「直さなくて良いんだ」じゃなくて「すぐに直すのが不可能」なわけ。
# もちろん、直す努力をしてなけりゃ、それは批判の対象になるけどね。
> <余談1>
>> たとえ独り善がりでも不当な行為をしなけりゃ問題ないんだから。
> そりゃあ違うな。^_^;
> 「独り善がりじゃダメだが不当な行為をしなけりゃ問題にならない」だけで
> しょう。問題自体が存在しないことと問題が表面化しない(ってことは問題は
> あるわけだ)ことは全く異なるのだから。
それは、「行為の評価」とは関係ないですね。
不当な行為をしなけりゃ、「行為の評価」としては問題ないでしょ?
行為以外の何かを評価するんだったら問題がある場合もあるでしょうが。
> </余談1>
> <余談2>
>>>>> かつ回答できない(したくない)ような質問返すってこと
>>>>> は、充分に説明になっていると思いますよ。
>>>>
>>>> 自分はまともに答えたくないってことですね。
>>
>>> そ~ゆ~のは自分(KGK氏)自身がマトモな回答を行ってからに言うべきもので
>>> はありませんか?
>>
>> 後からされた質問に回答しなきゃ、先にした質問の回答を催促するなって話で
>> すか?
> いいえ。^_^;
> wackyさんの<3fa11ffe$0$19833$44c9...@news2.asahi-net.or.jp>から
> $ほほう?
> $公平性や倫理観を破壊してまで「自己棚上げ者が自分を棚に上げて他人を批判
> $すること」に如何なるメリットがあるとおっしゃるのでしょうか?
> $#「ちゃんと説明しなきゃ」でしょ。^_^;
> を「単なる質問」としか解釈できないのであれば、それは受け取り手の理解力
> に問題があるってことさ。
「単なる質問」ではないにしても「まともに答えてる」とは言い難いですね。
> 上記問い掛けに対する答えは常識的には「ない」ですが、
「公平性や倫理観」をどの程度破壊して、それが社会に対してどの程度の悪影
響を与えるかという考察を全くせずに、こんなことをいうから、「思考停止し
てる」っていうんですよ。
> KGK氏の主張を通す
> 為には「ある」と言わざるを得ないですね。だから回答できない(したくない)
> わけさ。
ところが、それなりに回答してるわけだ。
<boihv5$a0s$1...@film.rlss.okayama-u.ac.jp>:
: で、ローカルな公平性なんてものは、最初から大した意味を持ってません。
: 妙な倫理観なんてのは、行為の評価とは関係ありません。
:
: ・自分の欠点が無くなってない状態で他人の欠点を指摘すること
: というのは、「自分の欠点が無くなっていない」ことが悪いのであって、「他
: 人の欠点を指摘すること」が悪いわけではありません。
: さらに、他人の欠点が減ることはメリットですが、自分の欠点が減らないこと
: は単なる現状維持であって、デメリットというほどのものではありません。
というように。
> つまり、その「あるともないとも言えないKGK氏の存在」自体が充分な説明に
> なっているわけですな。
というわけで、何の証明にもなってないし、それ以前にwacky氏の主張を正し
く理解できる程の材料も示されてません。
> 更に、KGK氏の問いには
> $1.自己棚上げ者は他人を云々する前に先ず自分の行動を矯正する
> $2.批判されるべき者に対しては自己棚上げでない者が批判する
> $たったこれだけでデメリットを排した上で同様のメリットを得ることができる
> $わけです。しかも増加するコストはゼロ。自己棚上げ者が他人に向けていた非
> $難の矛先を自分に向けるだけだからね。
> と明確に回答しているわけです。
それは回答になってないと既に述べてます。
<boihv5$a0s$1...@film.rlss.okayama-u.ac.jp>:
: 他によりよい方法があるというのは、ある行為が不当である理由には不充分で
: す。
と。
# 不当だという主張は諦めたのかな?
さらに、それに関連して、
>>>>> 「メリット」を求めるのならより容易な手法を選択しないのはオカシナ話ですね。
>>>> 「メリットを求める」の主語は誰でしょう?
>>>> それは必ず行為者と一致するんですか?
と質問したんですが、都合が悪くて答えられないようですね。
> </余談2>
--
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ. K
KG k...@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
それは「行為の評価」ではなく(個人的な?)行動規範ですね。前半は無意味で
後半は有意味です。で、KGK氏が拘っているのは前者で議論が求めているのは
社会的な後者ですね。
>>> その「公平性」なるものは、社会生活においてどのような重要性を持ってるん
>>> ですか?
>
>> それは、あなたが速度超過で切符を切られている横で「有力者の息子」が見逃
>> されたり、性差や出身や障害を理由に就業の機会を奪われたりすることを防ぐ
>> 力です。
>
>それは「公正」の話ですね。
>その話と「自他の公平」と何か関係あるんですか?
どのような違いを見出そうとしているのか?
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%8C%F6%90%B3&kind=ej&mode=1&jn.x=23&jn.y=7
【公正】 かたよりなく平等であること。公平で正しいこと。また、そのさま。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%8C%F6%90%B3&kind=ej&mode=1&jn.x=23&jn.y=7
なんだけど?
#「公正」は重要だが「公平」は重要でないとでも?
>>> その「欠点」なるものが社会的に重大なことであれば、批判を封じ込めるより
>>> は、指摘させた上で指摘を返す方がよほどよいですよね。
>
>> 「お前こそ~」の無限ループが*良い*とはとても思えません。
>
>「自分の行為を棚上げにしてでも他人の行為を批判する」というのが通用する
>のであれば、「お前こそ~」ってのは通用しないですね。
>自分が何やってるかが相手の行為の評価と関係ないのと同じで、相手が何やっ
>てるかは自分の行為の評価とは関係ありませんから。
???
だからこそ「お前こそ~」ループが成立するんじゃん。
あなたが「自分の行為を棚上げにしてでも他人の行為を批判する」ことが「通
用する」のなら、その他人だって「「あなたに批判された自分の行為」を棚に
上げて「あなたが棚に上げたあなたの行為」を批判する」ことだって「通用す
る」わけじゃん。かくして、お互いに相手が棚に上げた行為を批判するばかり
でまるで情況が好転しない「お前こそ~」ループに陥るわけだ。
>> 当然です。ただし、神ならぬ人間一個人に無理のない範囲においてですが…。
>
>「一個人に無理のない範囲」ってのはどの程度の範囲なんでしょう?
>
>例えば、百人がポイ捨てしてる場所で親しい友人に「お前は止めとけよな」と
>いうのはアリ?
状況によってはね。
ただし、言ってる本人がその百人に含まれているようでは「ありえね~話」で
しょう。
>>> # 実は、この辺にも、人の評価なのか行為の評価なのかという問題が出てきま
>>> # す。行為の批判と見た場合は、自動的に、自分の行為を含めた全ての同種の
>>> # 行為を批判してることになるからです。
>>> # 本人が気づいてるかどうかは別として。
>
>というわけで、「行為者を批判している」のではなく「行為を批判してる」の
>であれば、公平なわけですよね?
公平でないとする理由は無いでしょう。
「他人を批判している行為を自分がしていることに気付かない」というのはか
なり考え辛い話ですが、それでも本人の主観としては公平であるといえるで
しょう。ただ、公平性とは別の所で問題が生じているわけですが…。
>> それ以前に「俺様は癖になってるからまだ直さなくて良いんだ」なんてイイワ
>> ケは社会人としてどうよ?話にならん気がするけど…?
>
>「直さなくて良いんだ」じゃなくて「すぐに直すのが不可能」なわけ。
># もちろん、直す努力をしてなけりゃ、それは批判の対象になるけどね。
それを自分だけじゃなく相手側にも適用できますか?
たとえば迷惑喫煙者に対しても同様の好意的解釈ができるのかな?
#結局「俺は良いんだお前は駄目」のような気が…
--
wacky
> KGK == Keiji KOSAKAさんの<btoqec$qv4$1...@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>> 「行為の評価」ってのはそういうものでしょ?
>> で、普通の人間には推論能力があるから、「事後の評価がこうなるだろう」と
>> いう予測の下で行動できる。
>> 無意味な話じゃないですね。
> それは「行為の評価」ではなく(個人的な?)行動規範ですね。
その「それ」ってのは何を指してます?
最初の一行と後半の三行は、話してる対象が違うんですが。
もちろん、前半は「行為の評価」について述べていて、後半はそれから生成さ
れる行動規範の話なわけですが。
> 前半は無意味で
> 後半は有意味です。
「行為の評価」がなければ、「行為の評価から行動規範を作ること」は出来ま
せん。
そういう意味で、「行為の評価」というのは、より基礎的なものです。
そこを蔑ろにして行動規範を論じても、砂上の楼閣です。
> で、KGK氏が拘っているのは前者で議論が求めているのは
> 社会的な後者ですね。
後者は前者の基礎のもとに初めて議論可能なものです。
ですから、まず前者を議論するのは当たり前の話。
>> それは「公正」の話ですね。
>> その話と「自他の公平」と何か関係あるんですか?
> どのような違いを見出そうとしているのか?
> http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%8C%F6%90%B3&kind=ej&mode=1&jn.x=23&jn.y=7
> 【公正】 かたよりなく平等であること。公平で正しいこと。また、そのさま。
> http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%8C%F6%90%B3&kind=ej&mode=1&jn.x=23&jn.y=7
> なんだけど?
つまり、「公正」は、「正しいこと」も求めてるわけ。
この文脈では「正しいこと」ってのはもちろん「社会的に正しいこと」であっ
て「個人的に正しいこと」ではないから、必然的に視点がグローバルになるわ
け。
「法のもとの平等」とか「ルールのもとの平等」とかそういったもの。
> #「公正」は重要だが「公平」は重要でないとでも?
少なくとも、「自他の公平」などというローカルな「公平」よりは、グローバ
ルな「公正」の方がずっと重要ですね。
で、これを「自分がポイ捨てをしながら、他人のポイ捨てを批判する」という
問題にあてはめると、
・「自分のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない。
・「他人のポイ捨て」はルール違反だから、これを批判するのは正しい。
と、同じルールを同じように適用するのが「公正」なわけ。
>> 「自分の行為を棚上げにしてでも他人の行為を批判する」というのが通用する
>> のであれば、「お前こそ~」ってのは通用しないですね。
>> 自分が何やってるかが相手の行為の評価と関係ないのと同じで、相手が何やっ
>> てるかは自分の行為の評価とは関係ありませんから。
> ???
> だからこそ「お前こそ~」ループが成立するんじゃん。
いいえ。
「自分の行為」の評価が「他人の行為を批判すること」に関係ないから、その
批判が通用するんです。
逆に言えば、「正しい批判をする」ということが「自分の行為」に対する免罪
符にはならない。
念のために補足すると、「自分の行為を棚上げにしてでも他人の行為を批判す
る」というので「通用する」のは「批判」です。「自分の行為を棚上げにする
こと」ではありません。
>>> 当然です。ただし、神ならぬ人間一個人に無理のない範囲においてですが…。
>>
>> 「一個人に無理のない範囲」ってのはどの程度の範囲なんでしょう?
>>
>> 例えば、百人がポイ捨てしてる場所で親しい友人に「お前は止めとけよな」と
>> いうのはアリ?
> 状況によってはね。
> ただし、言ってる本人がその百人に含まれているようでは「ありえね~話」で
> しょう。
親しい友人に対して、「自分よりはまともになって欲しい」てのは「ありえね~
話」ですか。
# ポイ捨てじゃなく、煙草だったら、小説なり漫画なりドラマなりでよくある
# 話なんですがね。
>> というわけで、「行為者を批判している」のではなく「行為を批判してる」の
>> であれば、公平なわけですよね?
> 公平でないとする理由は無いでしょう。
> 「他人を批判している行為を自分がしていることに気付かない」というのはか
> なり考え辛い話ですが、それでも本人の主観としては公平であるといえるで
> しょう。
そういうことです。
> ただ、公平性とは別の所で問題が生じているわけですが…。
その問題は、具体的に、何を対象にした、どのような問題でしょう?
少なくとも、個々の行為の評価ではない所にある問題じゃないかと思いますが。
>>> それ以前に「俺様は癖になってるからまだ直さなくて良いんだ」なんてイイワ
>>> ケは社会人としてどうよ?話にならん気がするけど…?
>>
>> 「直さなくて良いんだ」じゃなくて「すぐに直すのが不可能」なわけ。
>> # もちろん、直す努力をしてなけりゃ、それは批判の対象になるけどね。
> それを自分だけじゃなく相手側にも適用できますか?
もちろん。
> たとえば迷惑喫煙者に対しても同様の好意的解釈ができるのかな?
直す努力が見えてればね。
--
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ. K
KG k...@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
# それも許容要素の一つだってのはf.s.s.で既に述べた通り
>>> 「行為の評価」ってのはそういうものでしょ?
>>> で、普通の人間には推論能力があるから、「事後の評価がこうなるだろう」と
>>> いう予測の下で行動できる。
>>> 無意味な話じゃないですね。
>
>> それは「行為の評価」ではなく(個人的な?)行動規範ですね。
>
>その「それ」ってのは何を指してます?
無論、「「事後の評価がこうなるだろう」という予測の下での行動」ですね。
>最初の一行と後半の三行は、話してる対象が違うんですが。
無論です。だからこそ、事後評価と行動規範は全く異なるものだし無批判に結
びつくものでもないと指摘しているわけです。
>「行為の評価」がなければ、「行為の評価から行動規範を作ること」は出来ま
>せん。
だから、その行動規範を極個人的主観的な類推程度に留めてしまったのでは、
主観的な「俺様が迷惑を感じたから」を全面肯定するのと同じ轍を踏むことに
なるでしょう。従って、行動規範や基準は社会的客観的なものである必要があ
るわけです。
=====
>> #「公正」は重要だが「公平」は重要でないとでも?
>
>少なくとも、「自他の公平」などというローカルな「公平」よりは、グローバ
>ルな「公正」の方がずっと重要ですね。
#ローカルな「公」の時点で既に意味不明なんですけど…。^^;
>で、これを「自分がポイ捨てをしながら、他人のポイ捨てを批判する」という
>問題にあてはめると、
>・「自分のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない。
>・「他人のポイ捨て」はルール違反だから、これを批判するのは正しい。
>と、同じルールを同じように適用するのが「公正」なわけ。
#微妙に詭弁だな。^^;
正確には
・「自分のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
・「他人のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
あるいは
・自分のルール違反を批判するのは正しい
・他人のルール違反を批判するのは正しい
だよね。
で、
「正しい行為である批判を特段の理由もなく*したりしなかったり*する」のは
オカシナ話だし、他人に対しては「正しい批判に従わなくて良い理由はない」
で自分に対しては「癖になってるから従わなくても良い」ってのは明らかに不
公平だよね。
=====
>>> 「自分の行為を棚上げにしてでも他人の行為を批判する」というのが通用する
>>> のであれば、「お前こそ~」ってのは通用しないですね。
>>> 自分が何やってるかが相手の行為の評価と関係ないのと同じで、相手が何やっ
>>> てるかは自分の行為の評価とは関係ありませんから。
>> だからこそ「お前こそ~」ループが成立するんじゃん。
>「自分の行為」の評価が「他人の行為を批判すること」に関係ないから、その
>批判が通用するんです。
>逆に言えば、「正しい批判をする」ということが「自分の行為」に対する免罪
>符にはならない。
それは当事者の両方に同様に言える事ですから、全然ループの否定になってな
いんですけど…。
>念のために補足すると、「自分の行為を棚上げにしてでも他人の行為を批判す
>る」というので「通用する」のは「批判」です。「自分の行為を棚上げにする
>こと」ではありません。
で、ある条件下にある人が批判という行為を行えば自動的にその結果は自己棚
上げになり、批判しなければ自己棚上げにならないわけです。この場合、批判
と自己棚上げは切り離しようもないことです。自己棚上げという行為があるわ
けではないのですから。
#だから「自己棚上げは悪いが批判は正しい」といった主張は無意味。
=====
>> ただ、公平性とは別の所で問題が生じているわけですが…。
>
>その問題は、具体的に、何を対象にした、どのような問題でしょう?
>少なくとも、個々の行為の評価ではない所にある問題じゃないかと思いますが。
そうですね。そしてその事実が示すのは「批判としては正しいんだから文句を
言われる筋合いはない」という主張が誤りであることでしょう。
#「批判として正しい」以外の所に問題があれば文句を言われて当然ですから。
=====
>>>> それ以前に「俺様は癖になってるからまだ直さなくて良いんだ」なんてイイワ
>>>> ケは社会人としてどうよ?話にならん気がするけど…?
>>>
>>> 「直さなくて良いんだ」じゃなくて「すぐに直すのが不可能」なわけ。
>>> # もちろん、直す努力をしてなけりゃ、それは批判の対象になるけどね。
>
>> それを自分だけじゃなく相手側にも適用できますか?
>
>もちろん。
>
>> たとえば迷惑喫煙者に対しても同様の好意的解釈ができるのかな?
>
>直す努力が見えてればね。
となると、今一番疑問なのは「俺様は癖になっているから云々」が「直す努力
が見えている」に含まれているのかどうか。ですね。:-P
KGK氏の主張に基づけば「俺様は癖になってるんだから仕方ないだろ。そのう
ち直すよ。スパスパ」なんてのまで許容せざるを得ないわけですが、私
(wacky)としてはそもそも「癖だから」なんてイイワケが通るわけがないと思
いますよ。
--
wacky
> KGK == Keiji KOSAKAさんの<bvah6n$a76$1...@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>>> 「行為の評価」ってのはそういうものでしょ?
>>>> で、普通の人間には推論能力があるから、「事後の評価がこうなるだろう」と
>>>> いう予測の下で行動できる。
>>>> 無意味な話じゃないですね。
>>
>>> それは「行為の評価」ではなく(個人的な?)行動規範ですね。
>>
>> その「それ」ってのは何を指してます?
> 無論、「「事後の評価がこうなるだろう」という予測の下での行動」ですね。
行為の評価のスキームができた後の話だけしてるんですね。
>> 最初の一行と後半の三行は、話してる対象が違うんですが。
> 無論です。だからこそ、事後評価と行動規範は全く異なるものだし無批判に結
> びつくものでもないと指摘しているわけです。
誰か無批判に結びつけようとしてるんですか?
>> 「行為の評価」がなければ、「行為の評価から行動規範を作ること」は出来ま
>> せん。
> だから、その行動規範を極個人的主観的な類推程度に留めてしまったのでは、
> 主観的な「俺様が迷惑を感じたから」を全面肯定するのと同じ轍を踏むことに
> なるでしょう。従って、行動規範や基準は社会的客観的なものである必要があ
> るわけです。
で、「行為の評価」の段階で行動規範や基準の話を混ぜる理由はなに?
行為の評価は行為の評価でやっとかないと、その後の組み立てができないのに。
> =====
>>> #「公正」は重要だが「公平」は重要でないとでも?
>>
>> 少なくとも、「自他の公平」などというローカルな「公平」よりは、グローバ
>> ルな「公正」の方がずっと重要ですね。
> #ローカルな「公」の時点で既に意味不明なんですけど…。^_^;
「自他の」なんてローカルなものに「公平」なんてのを使う人がいるから、そ
ういう表現になるんですね。
>> で、これを「自分がポイ捨てをしながら、他人のポイ捨てを批判する」という
>> 問題にあてはめると、
>> ・「自分のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない。
>> ・「他人のポイ捨て」はルール違反だから、これを批判するのは正しい。
>> と、同じルールを同じように適用するのが「公正」なわけ。
> #微妙に詭弁だな。^_^;
どこが?
> 正確には
> ・「自分のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
> ・「他人のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
> あるいは
> ・自分のルール違反を批判するのは正しい
> ・他人のルール違反を批判するのは正しい
> だよね。
「あるいは」というより、その両方です。
> で、
> 「正しい行為である批判を特段の理由もなく*したりしなかったり*する」のは
> オカシナ話だし、
何故?
正しい行為をするのは正当だけど、正しい行為をしなかったからと言って不当
なわけじゃないよね?
> 他人に対しては「正しい批判に従わなくて良い理由はない」
> で自分に対しては「癖になってるから従わなくても良い」ってのは明らかに不
> 公平だよね。
そんな主張は誰もしてません。
> =====
>> 「自分の行為」の評価が「他人の行為を批判すること」に関係ないから、その
>> 批判が通用するんです。
>> 逆に言えば、「正しい批判をする」ということが「自分の行為」に対する免罪
>> 符にはならない。
> それは当事者の両方に同様に言える事ですから、全然ループの否定になってな
> いんですけど…。
そのときの問題点は「他人の批判に耳を貸さないこと」ですね。
自分を棚上げにしようがしまいが関係ない。
>> 念のために補足すると、「自分の行為を棚上げにしてでも他人の行為を批判す
>> る」というので「通用する」のは「批判」です。「自分の行為を棚上げにする
>> こと」ではありません。
> で、ある条件下にある人が批判という行為を行えば自動的にその結果は自己棚
> 上げになり、批判しなければ自己棚上げにならないわけです。この場合、批判
> と自己棚上げは切り離しようもないことです。自己棚上げという行為があるわ
> けではないのですから。
「自己棚上げ」という行為がないのに、「行為の評価」として自己棚上げを批
判するからおかしなことになるんです。
あと、「批判しなければ自己棚上げにならない」というのも一度否定したはず
ですね。
批判しようがしまいが、自分の行為に問題点に関して解決を先延しにしてるこ
とには違いないんで、「棚上げ」でしょ?
それで迷惑行為を続けてれば、他者を批判するしないにかかわらず、悪いわけ
です。
批判を巻き添えにする理由はないよね?
> =====
>>> ただ、公平性とは別の所で問題が生じているわけですが…。
>>
>> その問題は、具体的に、何を対象にした、どのような問題でしょう?
>> 少なくとも、個々の行為の評価ではない所にある問題じゃないかと思いますが。
> そうですね。そしてその事実が示すのは「批判としては正しいんだから文句を
> 言われる筋合いはない」という主張が誤りであることでしょう。
誰かそんな主張をしてるんですか?
私の主張は、「批判として正しいから、批判という一つの行為の評価としては
正しい」ということ。
他の面の議論なんて全然してません。
で、もし個々の行為の評価でない問題を扱いたいのなら、まず、
>> その問題は、具体的に、何を対象にした、どのような問題でしょう?
に答えてくれないと、話が始まりません。
> =====
> KGK氏の主張に基づけば「俺様は癖になってるんだから仕方ないだろ。そのう
> ち直すよ。スパスパ」なんてのまで許容せざるを得ないわけですが、
何故でしょう?
wacky氏には、それが癖を直す努力をしてるように見えるんですか?
普通に考えて、癖のやっかいなところは、無意識のうちにその行動をしてると
ころにあります。
だから、指摘された時点でやめないってことは「癖だから」という問題ではな
いってことでしょ?
それは、直す努力をしてないか、依存症かのどちらかでしょうね。
直す努力をしてないのなら、許容要素に数えられないし、依存症なら専門家に
見てもらえってことになります。
KGK == Keiji KOSAKAさんの<c0v998$hm7$1...@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>> だから、その行動規範を極個人的主観的な類推程度に留めてしまったのでは、
>> 主観的な「俺様が迷惑を感じたから」を全面肯定するのと同じ轍を踏むことに
>> なるでしょう。従って、行動規範や基準は社会的客観的なものである必要があ
>> るわけです。
>
>で、「行為の評価」の段階で行動規範や基準の話を混ぜる理由はなに?
>行為の評価は行為の評価でやっとかないと、その後の組み立てができないのに。
違うって。
混ぜてるんじゃなくて、行動規範や基準の話に*つなげる*ためには、行為の評
価自体を客観的に行う必要がある。って言ってんの。
KGK氏の主張は結局のところ「嫌煙者の主観を丸呑みしろ」じゃん。そんなの
常識的にありえない話でしょ。欲望ベースの主張では何処まで行っても平行線
ですよ。
=====
>>> で、これを「自分がポイ捨てをしながら、他人のポイ捨てを批判する」という
>>> 問題にあてはめると、
>>> ・「自分のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない。
>>> ・「他人のポイ捨て」はルール違反だから、これを批判するのは正しい。
>>> と、同じルールを同じように適用するのが「公正」なわけ。
>> 正確には
>> ・「自分のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
>> ・「他人のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
>> あるいは
>> ・自分のルール違反を批判するのは正しい
>> ・他人のルール違反を批判するのは正しい
>> だよね。
>> で、
>> 「正しい行為である批判を特段の理由もなく*したりしなかったり*する」のは
>> オカシナ話だし、
>
>何故?
>正しい行為をするのは正当だけど、正しい行為をしなかったからと言って不当
>なわけじゃないよね?
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%95s%93%96&kind=ej&mode=1&jn.x=36&jn.y=13
KGK氏の好きな*辞書通りの意味*に基づけば不当と言えるでしょう。
「理由もなくしたりしなかったり」ってのは正しく「不当な差別」ですよね。
>> 他人に対しては「正しい批判に従わなくて良い理由はない」
>> で自分に対しては「癖になってるから従わなくても良い」ってのは明らかに不
>> 公平だよね。
>
>そんな主張は誰もしてません。
本当に?
じゃあ繰り返しますが、
では何故、その批判者は自らが自分自身に向けたであろう正しい批判に従わな
かったのでしょうか?
#いい加減に答えてくれませんかね?
=====
>>> 「自分の行為」の評価が「他人の行為を批判すること」に関係ないから、その
>>> 批判が通用するんです。
>>> 逆に言えば、「正しい批判をする」ということが「自分の行為」に対する免罪
>>> 符にはならない。
>
>> それは当事者の両方に同様に言える事ですから、全然ループの否定になってな
>> いんですけど…。
>
>そのときの問題点は「他人の批判に耳を貸さないこと」ですね。
>自分を棚上げにしようがしまいが関係ない。
自己棚上げでなければ自己に対する批判自体が存在しません。
「どちらでも関係ない」ではなく「自己棚上げでないという前提では成立しな
い」です。
そして、依然として「全然ループの否定になってない」です。
>> で、ある条件下にある人が批判という行為を行えば自動的にその結果は自己棚
>> 上げになり、批判しなければ自己棚上げにならないわけです。この場合、批判
>> と自己棚上げは切り離しようもないことです。自己棚上げという行為があるわ
>> けではないのですから。
>
>「自己棚上げ」という行為がないのに、「行為の評価」として自己棚上げを批
>判するからおかしなことになるんです。
「自己棚上げ」というのは行為の属性ですね。
青リンゴの「青」、毒リンゴの「毒」等と同様の関係性を持ちます。
それが青リンゴである以上、青を切り離してリンゴだけ渡すことなど出来ませ
ん。まあ、青リンゴ程度なら大抵は単なるリンゴと同じ評価で済むでしょう
が、毒リンゴではそうはいかない場合が多いでしょう。
行為によって生じる状況の変化という観点からは結果ともいえますし、当然予
測可能な結果であることからKGK氏流には目的と考えることもできるでしょ
う。
>批判しようがしまいが、自分の行為に問題点に関して解決を先延しにしてるこ
>とには違いないんで、「棚上げ」でしょ?
そりゃそうだ。しかし、批判しない限りは「自己棚上げの批判」という*行為*
にはなり得ません。
=====
>> KGK氏の主張に基づけば「俺様は癖になってるんだから仕方ないだろ。そのう
>> ち直すよ。スパスパ」なんてのまで許容せざるを得ないわけですが、
>
>何故でしょう?
>wacky氏には、それが癖を直す努力をしてるように見えるんですか?
努力ってのは迷惑同様目には見えないものですから。
主観的な迷惑の主張を受け入れるんなら、主観的な努力の主張も受け入れざる
を得ないでしょう。あるいはどちらも受け入れないという考え方もありえま
す。ただし、都合良く切り替えるのはダメダメです。
--
wacky
> KGK == Keiji KOSAKAさんの<c0v998$hm7$1...@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>> だから、その行動規範を極個人的主観的な類推程度に留めてしまったのでは、
>>> 主観的な「俺様が迷惑を感じたから」を全面肯定するのと同じ轍を踏むことに
>>> なるでしょう。従って、行動規範や基準は社会的客観的なものである必要があ
>>> るわけです。
>>
>> で、「行為の評価」の段階で行動規範や基準の話を混ぜる理由はなに?
>> 行為の評価は行為の評価でやっとかないと、その後の組み立てができないのに。
> 違うって。
> 混ぜてるんじゃなくて、行動規範や基準の話に*つなげる*ためには、行為の評
> 価自体を客観的に行う必要がある。って言ってんの。
もちろん、行為の評価は客観的に組み立ててます。
行動規範とか基準とか行為の関連性とかいった余分な構造を取り入れてないか
ら、かなりシンプルにできます。
> KGK氏の主張は結局のところ「嫌煙者の主観を丸呑みしろ」じゃん。
このスレッドでそんな話は一言もしてませんね。
# まあ、どのスレッドでも言ってないことだけど。
> =====
>>> で、
>>> 「正しい行為である批判を特段の理由もなく*したりしなかったり*する」のは
>>> オカシナ話だし、
>>
>> 何故?
>> 正しい行為をするのは正当だけど、正しい行為をしなかったからと言って不当
>> なわけじゃないよね?
> http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%95s%93%96&kind=ej&mode=1&jn.x=36&jn.y=13
> KGK氏の好きな*辞書通りの意味*に基づけば不当と言えるでしょう。
> 「理由もなくしたりしなかったり」ってのは正しく「不当な差別」ですよね。
いいえ。「理由もなく」だと「不当な差別」にはなりません。
「不当な理由に従って」だと「不当な差別」になり得ますが。
普通の人は、正当なことを全て行うことはできません。だから、自分のやりや
すいことからやるんです。それを不当だと言ったら、正当な行為など一つもで
きません。
>>> 他人に対しては「正しい批判に従わなくて良い理由はない」
>>> で自分に対しては「癖になってるから従わなくても良い」ってのは明らかに不
>>> 公平だよね。
>>
>> そんな主張は誰もしてません。
> 本当に?
本当にしてません。
> じゃあ繰り返しますが、
> では何故、その批判者は自らが自分自身に向けたであろう正しい批判に従わな
> かったのでしょうか?
何故、私がそんなこと知ってるんでしょう?
どっちにしても、「自分自身に向けたであろう正しい批判に従わないこと」は
間違ったことだと再三言ってます。
いまだに理解できてないようですが。
それと、「他人に向けて正しい批判をすること」の評価との間にどんな関係が
あるんでしょうか?
> =====
>>>> 「自分の行為」の評価が「他人の行為を批判すること」に関係ないから、その
>>>> 批判が通用するんです。
>>>> 逆に言えば、「正しい批判をする」ということが「自分の行為」に対する免罪
>>>> 符にはならない。
>>
>>> それは当事者の両方に同様に言える事ですから、全然ループの否定になってな
>>> いんですけど…。
>>
>> そのときの問題点は「他人の批判に耳を貸さないこと」ですね。
>> 自分を棚上げにしようがしまいが関係ない。
> 自己棚上げでなければ自己に対する批判自体が存在しません。
いいえ。
例えば、「割り込み乗車の常習犯が他人のポイ捨てを批判する」といった場合
も、全く同じ議論ができます。
# それさえも「自己棚上げ」に分類して、しかも「自己棚上げな行為は不当」
# なんていうのなら、「完全無欠の人間じゃなけりゃ他人の行為を批判するべ
# きではない」と言ってるようなものだよね。
というわけで、
> 「どちらでも関係ない」ではなく「自己棚上げでないという前提では成立しな
> い」です。
これは言えないわけ。
「自己棚上げ」なんて余分な構造を持ち込んで、それにこだわるから、話がや
やこしくなってんです。
> そして、依然として「全然ループの否定になってない」です。
どこが?
もちろん、人単位で見れば、「ループ」は起こし得ます。でも、それは、「自
己棚上げ」を肯定しようが否定しようが同じことです。
行為単位で考えれて、「自己棚上げ」のような行為の関連性などという余分な
構造を持ち込まなければ、ループは存在しません。
それぞれの行為は、
>>> ・「自分のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
>>> ・「他人のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
>>> ・自分のルール違反を批判するのは正しい
>>> ・他人のルール違反を批判するのは正しい
という風に、白黒はっきりしています。
>>> で、ある条件下にある人が批判という行為を行えば自動的にその結果は自己棚
>>> 上げになり、批判しなければ自己棚上げにならないわけです。この場合、批判
>>> と自己棚上げは切り離しようもないことです。自己棚上げという行為があるわ
>>> けではないのですから。
>>
>> 「自己棚上げ」という行為がないのに、「行為の評価」として自己棚上げを批
>> 判するからおかしなことになるんです。
> 「自己棚上げ」というのは行為の属性ですね。
> 青リンゴの「青」、毒リンゴの「毒」等と同様の関係性を持ちます。
というより、「木にぶらさがったリンゴ」の方が比喩として近いですね。
その場合、評価の対象として、「そのリンゴ」「その木」「そのリンゴと木を
セットにしたもの」が有り得るわけです。
普通は、「木にぶらさがったリンゴ」を評価すると言えば、「その状態のリン
ゴ」を評価することです。それは、例えば、「一般的なリンゴ」と「木にぶら
さがったことによる影響」の二段階に分けて評価することが可能です。
wacky氏は、何故かその可能性をかたくなに否定しているようですが。
> 行為によって生じる状況の変化という観点からは結果ともいえますし、当然予
> 測可能な結果であることからKGK氏流には目的と考えることもできるでしょ
> う。
下でwacky氏が肯定しているように、批判をするかどうかで「自己棚上げ」で
あるかどうかが変化するわけじゃありませんので、これは言えないでしょうね。
>> 批判しようがしまいが、自分の行為に問題点に関して解決を先延しにしてるこ
>> とには違いないんで、「棚上げ」でしょ?
> そりゃそうだ。しかし、批判しない限りは「自己棚上げの批判」という*行為*
> にはなり得ません。
批判しようがしまいが「自己棚上げ」だと言えるのなら、
>>> で、ある条件下にある人が批判という行為を行えば自動的にその結果は自己棚
>>> 上げになり、批判しなければ自己棚上げにならないわけです。この場合、批判
>>> と自己棚上げは切り離しようもないことです。
ということは言えないわけ。
> =====
>>> KGK氏の主張に基づけば「俺様は癖になってるんだから仕方ないだろ。そのう
>>> ち直すよ。スパスパ」なんてのまで許容せざるを得ないわけですが、
>>
>> 何故でしょう?
>> wacky氏には、それが癖を直す努力をしてるように見えるんですか?
> 努力ってのは迷惑同様目には見えないものですから。
普通は、効果の出てない努力など評価されません。
> 主観的な迷惑の主張を受け入れるんなら、主観的な努力の主張も受け入れざる
> を得ないでしょう。あるいはどちらも受け入れないという考え方もありえま
> す。ただし、都合良く切り替えるのはダメダメです。
きわめて短絡的ですね。
「主観的な迷惑の主張」を全て受け入れる人などいないでしょう。
受け入れるのなら、その妥当性をいろいろな面から検討してからの話ですね。
同様に、「主観的な努力の主張」を全て受け入れる人などいないでしょう。
受け入れるのなら、その妥当性をいろいろな面から検討してからの話ですね。