議長「アメリカ攻撃に付いての議決をとります。」
賛成する人と反対する人がでる。
議長「価値相対主義によりどちらの意見も尊重して、アメリカに侵略軍と対日抵抗軍を送ります。」
こうしてアメリカ大陸で日本人同士が殺し合うのだ。
どちらかの意見を殺すべきだったのだ。
一個の国家である以上どんな主義をとっても
相反する価値を同時に採用する事はできない。
さもなくば
価値絶対主義より酷い目に国民は遭うだろう。
議決をとれば、必ず賛成と反対がでるだろう。
議長「ある件に付いての議決をとります。」…(1)
賛成する人と反対する人がでる。
議長「価値相対主義によりどちらの意見も尊重して、
この件は可決、かつ、否決されました。」…(2)
議場の外では、
民衆「議会は何をしたんだ?」
公務員「俺達はどんな仕事をすれば良いんだ?」
信号機を失った交差点のように、
国民は夢にも思わぬ衝突を繰り返す。…(3)
どちらかの意見を殺すべきだったのだ。
一個の国家である以上どんな主義をとっても
相反する価値を同時に採用する事はできない。
さもなくば
価値絶対主義より酷い目に国民は遭うだろう。
」
価値相対主義を正しく適用するなら
上記のどこが誤りなのでしょう?
(2)の議決の解釈でしょうか?
(1)議決を採る事自体が間違いなのでしょうか?
議決が無意味でも
国民というものは(3)のようなことを回避できる力があるという事でしょうか?
「
・二値論、イエスかノウ、右か左か、生きるか死ぬか、ニ値以外に選択肢がな
いというのは異常ですね。
」
裏道で車が出会うときでさえ、異常な事態が起こるのです。
「
ほかのどういう意見を黙殺したのですか。考えもし
なかったのですか。
」
私は「私が無理矢理通る事によって、相手に道を譲らせる。」
という意見を黙殺しました。
「相手の車の上か下を通る。」
「危険を承知で無理矢理すれ違う。」という意見もです。
「いちいちジャンケンをする。さいころをふる。」面倒です。
私は馬鹿なのでこれ以上は考えれません。
「道を相手に譲る事によって、相手の「道を相手に譲る」という考えを弾圧する。」
こうして私は相手の意見を殺したのです。
本当は他にも選択肢があったかも知れないのに。
相手と正面衝突するたび、
相手と仲良く止まり遭うたび、
私は後悔します(ここだけウソ)。
日常でさえこうなのです。
国家が異常な事態にならない方がおかしいと思いませんか?
そのとき価値相対主義を貫くにはどうすれば良いのでしょうか?
採用するタイミングをずらせば
一個の国家であっても
相反する価値をとり得る。
ということです。
絶対価値主義国家は
任意の一つの時刻では必ず一つの価値しか持ちませんが、
異なる時刻で異なる価値を持つ事にはためらいが無いのです。
「多数派に成長する可能性をうばう」
こんな発想は絶対価値主義からは生まれようが無いのです。
「
少数意見をさらに少数勢力になるように押さえつけるような手法
はファシズムです。
」
あなたは残念ながら絶対価値主義を批判していません。
あなたが批判しているのは固定価値主義です。
幾つの固定価値主義国家が
状況の変化について行けずに滅んだかは
私よりはずうっと良くご存知のはずでしょう。
終末、もとい、週末がくるたびに憲法が上書きの危機を迎え
県境を跨げば法律が変わる分裂民主主義国家スイスは、
第二次世界大戦が始まった瞬間、
クーデター無しでファシズム軍国主義統一スイス帝国になりましたが
(でないと、ヒットラー第四帝国になっていたでしょう)、
戦争が終わった途端ファシズム軍国主義帝国国家スイスは
革命を経ず、打倒もされず、外国に占領もされずに、
元の分裂民主主義国家に戻ってしまいます。
直前の状態が民主主義かファシズム軍国主義かに拘らず
スイスは民主主義とファシズム軍国主義のどちらもとり得る状態を維持しているのです。
これこそ絶対価値主義国家の鏡です。
相対主義国家に
ファシズム軍国主義から分裂民主主義に変わるような事はできないでしょう。
そもそも、ファシズム軍国主義を内包できないですね。
こんな事は当たり前。個人は個性があるとするなら価値観がそれぞれ異なることが有
るのは当たり前である。こんなことしか言えないのならば「価値相対主義」などと
仰々しくは言わないこと。みっともないから。「主義」と言うからには「考え方」の
定式の明確な固有性を言うべきである。
> 当然、『価値(すべき、に違いない、でなければならない)』というのと、
> 『事実』とは相容れないもの。『事実』から『価値』を演繹することはできな
> い。『価値』は個人個人の情緒によってきまる。言論の自由、思想信条の自由
> を保障し、少数意見には忌憚なく言論批判をさせて多数派に成長する可能性を
> 保障するものでなくてはならない。
杜撰だね。「すべき」・「に違いない」・「でなければならない」は<価値>ではな
い。それを言うならばある価値を前提にした「判断」即ち価値判断だ。「価値」の意
味も知らずにこれまでうだうだ語っていたわけだ。また「事実とは相容れないもの」
と言うのも誤り。事実は実際に起こったあるいはそこにある事柄・事象・現象と言う
観点から捉えたものであってその中には価値が含まれていることがある。捉え方の観
点が違う以上違うのは当たり前で「
相容れない」などと表現するのは滑稽也。物事を知らない証拠。「価値が個人個人の
情緒によって決まる」と言うのも誤り。価値自体は個人がとう思おうと既に存在す
る。その既に存在する価値をどう自己の内面に受容するかは「情緒によって決まる」
と言うこともできるであろう。また、誰も事実から価値を演繹する者などいないであ
ろう。とっぴょしもないことを言って字数を増やし内容を盛ったつもりでいる。んっ
まっ、こういうことで騙される読者がいることのほうが問題だろうけどね。
雑多な花を乱雑に咲かせすぎる。花ならば決定的な中心となる大きな花を一つ咲かせ
ればいい。それよりも価値判断を元に主張の目的を明確にして論理の流れに主眼を置
き基礎理論としての大きな幹とそれから枝分かれする論理の流れを表現するだけでよ
い。それ以外はごまかし材料として邪魔臭い。
で、「言論の自由、思想信条の自由を保障し、少数意見には忌憚なく言論批判をさせ
て多数派に成長する可能性を保障するものでなくてはならない。」と言うのは結構だ
がその前の話と論理的接合関係がなってない。<文学的表現>だと皆から揶揄される
理由がこういうところにある事に早く気づけや。
> 少数だからということで、発言の機会を圧縮したり、忌憚なき言論批判の機会
> を封じるのは、ベンタムの「最大多数の最大幸福」実現の思想ではない。反近
> 代民主制です。
一応まともである。しかし、そんなことは多数決原理そのものに既に内包されている
姿勢である。ベンタムの「最大多数の最大幸福」を内容とする個人主義的功利主義は
確かに個人の幸福追求権という「自然権思想」と結びつくがそれは自然権と言う価値
を意識させる起爆剤にはなるものであったが、それゆえに理論的基礎になりうるに過
ぎなかった。やがてその考えに慣れてくると集団主義的功利主義が意識され、この段
階が政治組織論の中に反映可能となる。しかし、この段階になると却って「最大多数
の最大幸福」という定式は集団のための個人の犠牲を正当化するものに変容する。
「最大幸福」の認定は誰がやるのか、またどのようにして行うのか、という問題にぶ
ち当たるからである。少数のものにその判断権が任されれば専制的になる可能性を秘
めたものであるし、このことを回避するためかどんな馬鹿な被選挙人でも選出されれ
ば良しとし、その国会を最後の砦としたがる。問題はあるものの一応理屈は通った姿
勢かもしれない。
基本的な事として、オッサンの話は幸福を追求する個人ともう一人の幸福を追求する
個人とのぶつかり合いを意識していない。そしてそれが多人数の中で起こることも
さっぱり意識していない。だから<発端>だけ語っていきなり途中をすっ飛ばして現
実具体的問題を抽象論で<文学的>に語って結論を得る。幼稚也。
> 政党公認も、ファッショ的党の方針に反対すれば公認しない、これは個人の言
> 論の自由、思想信条の自由を奪うもの、党内での反対意見を認めなければ、こ
> の党は近代民制のフィードバック装置を麻痺させ、国民から乖離したファシズ
> ム政党になりますね。
誤りですね。国民から見れば政党制度の内部では各政党が完結性を持つ必要は無い。
偏っていて当たり前だ。その偏った明確な政党同士の「合力」が国民にとってまとも
であればよい。文句があるなら脱党して別の政党を作ればよいだけ。それよりも政党
の明確性が欠如することのほうが国民にとっては迷惑な話である。
> 多数決なら何でも民主主義というのは間違いです。
> 人間の価値相対主義を基盤とする価値判断を保障し、少数意見には十分な忌憚
> なき多数派勢力への言論批判の機会を与え、国民に、完全情報公開の場をあた
> え、聞かせ、見せて、小数意見が言論で批判して多数勢力に成長する可能性を
> 保障する政治でなければ民主主義とはいえないのです。
何度も言うように心構えを説くものとしてはまとも。しかし、それが心がまえに止ま
らず実際にもそうしろというのは制約された時間と機会を前提にする実用的意見とし
ては馬鹿げたこと。「保障」と言うけれども具体的にはどうしろと言うのかな?これ
を聞きたいもんだ。かたれないはずだけどねそれとも単なる修辞的文言かな?
> なんでもかんでも多数
> で封じ込め、少数意見をさらに少数勢力になるように押さえつけるような手法
> はファシズムです。
少数意見が多数意見になるまで一つの些細な物事を決するのにも30年か50年待て
と言うのかな?(大笑い)
> いくら国民投票をちらつかせても、赤頭巾ちゃんのおばあさん。よだれをたら
> した牙がみえみえ。
的外れな比喩を語って誤魔化すんじゃないよ、オッサン!欠点を考えたらきりが無
い。「ベター」の積み重ねが重要。オッサンの考えは「保証」しろ、とか「機会」を
あたえろとか「場」を与えろとかで済ませているけれど、こういうことは保障などし
ないし、機会など与えないもの。それでもどうにかしたいとの考えで思考すべきもの
なんだ、って誰かも言ってたんじゃないのかな?ここは<文学論>を語る所ではな
いって何度言えば済むんだい?のう、オッサンよ!
--
みんなのケンちゃん
On Thu, 22 Jan 2004 00:25:18 +0900
MAC屋けんちゃん <きむあき@けんけん> wrote:
> やっぱり君は精神が侵されてるよ。
> 空売りのせいかもね。
>
> A-11さんの<20040121150725....@stex.phys.tohoku.ac.jp>から
> 精神病院いったほうがいいんじゃないの?
>
>
> A-11さんの<20040121102933....@stex.phys.tohoku.ac.jp>から
捨てゼリフはまずいと思います。
絶対価値主義への批判を放棄して、読者に任すという事でしょうか?
--------------------------------------------------------------
そういう訳で、
絶対価値主義国家ならば行政機関、すなわち政府・国家元首だけは
一党独裁でなければ成りません。
つまり、政府を選ぶには
定数が1の選挙制度でなければ成らないのです。
ただし、現行の単純な小選挙区制では固定政党制になってしまい、
国民との解離が放置される可能性があります。
小選挙区制の改良が必要です。
なお、多数決を取る議会は小選挙区制ではまずいですね。
In article <20040122103020....@stex.phys.tohoku.ac.jp>, A-11 <st8...@stex.phys.tohoku.ac.jp> writes
> 絶対価値主義国家ならば行政機関、すなわち政府・国家元首だけは
> 一党独裁でなければ成りません。
入れ替わりがあるなら、それでもいいかな。今だって自民党独裁
みたいなもんだし。
> ただし、現行の単純な小選挙区制では固定政党制になってしまい、
> 国民との解離が放置される可能性があります。
それは思い込みなんじゃないかなぁ。よほど不公正な制度で
ない限り固定政党性にはなりません。
> なお、多数決を取る議会は小選挙区制ではまずいですね。
これは良くわからないな。もう少し説明してくれませんか?
普通は、小選挙区で立候補する議員が自分の政策を明らかに
すれば、議会での議論を小選挙区の立候補者を選択すること
により左右することができます。
---
Shinji KONO @ Information Engineering, University of the Ryukyus,
河野真治 @ 琉球大学工学部情報工学科,
古典小選挙区制では次のようなサイクルが働きます。
(0)
第二野党が当選するには第一野党が当選するのに必要な分より多くの票が必要。
このため、第二野党へ一票を投ずる場合の選挙結果への影響は
第一野党へ一票を投ずる場合より小さくなる。
一方、与党への一票は、
全ての野党へ一票ずつ投票する行為を過不足無く打ち消すので、
全ての野党へ一票ずつ投票するのと等しい影響力を持つ。
つまり、
確保している票が多い党ほど、選挙結果への一票の影響力が大きい。
(ボーダーライン上の候補への一票は重いの定理)
(1)
愚かな有権者は与えられた票を有効に使おうとする為、
投票を棄権した時に選ばれるであろう党と比較して
どれくらいマシかだけでなく、
選挙結果への一票の影響力がどれだけ大きいかも考える。
こうして、
一票の選挙結果への影響が小さい
つまり確保している票が少ない党は票を集めにくくなり、
一票の選挙結果への影響が大きい
つまり確保している票が多い党は票を集め易くなる。
(2)
(1)より、大きい党はより大きく、小さい党はより小さくなる。
(3)
(1)へ戻る。
(1)(2)(3)サイクルによって、
小政党から順に小選挙区からいなくなり、
選挙が成り立つ最低限の政党数…二党にならざるを得ません。
新しい政党は基礎票0から始めますので、
大きくなる事はまず無いでしょう。
特に
ボーダーライン上の候補への一票は重いの定理(今作った)と
選挙(の、真似事(世論調査など)でも構いません。)を
何度も行うサイクルを組み合わせると、
「定数Nの古典選挙区制では、党の数はN+1に収束する。
党の数がこれより多い時は、小政党から順にいなくなる。」
ことがわかります。
でも、実は私は実例を良く調べてないんで、
> それは思い込みなんじゃないかなぁ。よほど不公正な制度で
を否定できません。
仮説を挙げておきますので、調べたら私にも教えて下さい。
仮説「上位二人の決戦投票を行う小選挙区制は党が3つだけある。」
予選が、決戦への切符2枚を賭けた定数2の選挙区制と等しいので、
「定数Nの古典選挙区制では、党の数はN+1に収束する」より、
党は3つに収束する。
「党の数がこれより多い時は、小政党から順にいなくなる。」より、
その3つの党以外の党は議会外政党に成りつつある。
西ヨーロッパの国々はこのタイプの制度が多いと聞いた事があります。
与党内で意見が割れる問題が起こらなければ相対価値主義でもいいのですが、
ある与党の価値観を「最大限に」活かした政策は幾つもなく、
その政策の内、
別の与党の価値観を「最大限に」活かすものと同じものはまずありません。
こうして、複数の与党による政府は政策を決定・施行できないのです。
> 入れ替わりがあるなら、それでもいいかな。
入れ替わりが無くても、絶対価値主義国家のほうがましです。
普通はこんな事は起こらず、与党間で妥協案を作りますが、
この作業は、互いの価値観を混ぜ合わせ新しい価値観を一つだけ作り、
出来上がった価値観を絶対のものとして
この価値観を「最大限に」活かした政策を絶対のものとし、
この価値観をあがめる政党にクーデターを起こされたのと
おんなじです。
こうして連立政権は、国民の知らない謎の絶対価値主義党に独裁されてしまうのです。
謎の絶対価値主義党を国民の前に露わにする事。
政府を小選挙区制の類で選ぶ目的です。
多数決は国民の頭数で決めないとダメな気がするからです。
国民の10%が賛成する政策は、
どこかで多数決を取った時10%の賛成を得ないと、
国民の意志が反映されたとはいえないと思うのです。
0%や9%や11%や49.999999%の賛成では
結果が国民の頭数の時と同じ(たまたまでしょう)でも、
国民の意志が歪められていると
私は考えます。
比例代表制の考え方ですね。
>
> 普通は、小選挙区で立候補する議員が自分の政策を明らかに
> すれば、議会での議論を小選挙区の立候補者を選択すること
> により左右することができます。
どんなに小選挙区制を改良しても定数が1のため、
切り捨てられる頭数が出てしまい
(価値観の数が定数分しかないからです。
当選者と相反する価値観の持ち主の頭数は議決に活かされません。)、
国民の頭数を再現できません。
特に各選挙区に差異が全く無い場合、
当選する議員にも選挙区毎の差が無くなり、
議会での議決は全員賛成か全員反対かのどちらかにしか成らないでしょう
(どちらも「翼賛国会だ!」と文句をいわれるでしょう)。
そういうわけで、
> > なお、多数決を取る議会は小選挙区制ではまずいですね。
と書いたのです。
が、なにより、「政府は小選挙区制の類で選ばなければ成らない」と書いたので、
「こいつは翼賛国会を目指しているのか!」と誤解されたくなかったのです。
よって、あんな中途半端なものになってしまいました。
絶対価値主義国家= 絶対価値主義 の 国家
国家の意味は分かりますね?
絶対価値主義の意味も分かりますね?
ならば、答えは一つ。
絶対価値主義に基づいて運営される国家です。
On Thu, 22 Jan 2004 22:58:00 +0900
MAC屋けんちゃん <きむあき@けんけん> wrote:
> 絶対価値主義国家なんて用語あるわけないじゃん。木村の造語のちんぷんかん
> ぷん。議論以前。
>
>
> Shinji KONOさんの<3989372...@insigna.ie.u-ryukyu.ac.jp>から
> 診察受けてきてから書きたまえ。
>
根拠は全くありませんが私は、
「自分が認められる反証が全く無いなら、自分は正しい。」
対遇を取れば
「自分に誤りがあるなら、自分が認められる反証が必ずある。」
と信じています。
現在、私は自分が認められる反証がありません。
これ以上の私の暴虐を食い止めたいなら、
私が認識できる反証を示すしか方法はありません。
さもなくばさらなる暴虐で、私はあなたにこう書かざるを得なくなるでしょう。
> 診察受けてきてから書きたまえ。
絶対価値主義国家は
採用するタイミングをずらせば
一個の国家であっても
相反する価値をとり「得る」。
だけであり、
採用するタイミングをずらして
「必ず」相反する価値をとらねばならない。
という訳でないのです。
つまり、暴君制・独裁制をはじめとした固定価値主義国家も
絶対価値主義国家の範疇に含まれます。
入れ替わりは別の仕組みで行わなければ成らないのです。
その仕組みの有力候補として、
クーデター・革命・戦争・投票があるのです。
しかも、実質内容は上記の一文だけ(残りは Re: の反復)。
言う事無いなら無視しなさい。
「俺の投稿はちゃんと読まれているんだ!」と相手を勇気付けるだけです。
みんなのけんちゃんへ。
「
」
以外は、強力な援護です。ありがとうございます。
-----------------------------------
まっ、こういうことで騙される読者
On Fri, 23 Jan 2004 20:44:38 +0900
MAC屋けんちゃん <きむあき@けんけん> wrote:
> 木村君 早く診察うけなさい。
> A-11さんの<20040123135846....@stex.phys.tohoku.ac.jp>から
それなら背理法を用いて、
私にでたらめな結論を主張して見なさい。
私の概念を(でたらめと)理解しているなら、
私の議論から簡単に(でたらめな)結論・仮説が導き出せるでしょう。
>
> A-11さんの<20040123102113....@stex.phys.tohoku.ac.jp>から
もっとも、あなたに背理法などという、
中学生にならないと学校で教えられない技が使えるとは思えません。
少なくとも、
あなたがでたらめだと分かっている議論を
あなたの御硬い脳味噌で、
結論がでるまで運用しなければ成らないのですから。
(ソクラテスはこの技アイロネイア(皮肉)の使い手だったようです。)
あなたにでたらめな議論を運用するだけの度量がありますか?
でたらめな議論で何らかのでたらめな結論を出せますか?
というか、私の議論を本当に理解しているのですか?
でたらめだと理解しているのですか?
参考までに、以下に背理法の例を示しておきます。
『
「裏道で車と出会うときの最善の方策」
精神病院へ連絡しろという事ですね?
』
でたらめな結論の具体例を一箇所も示せれ無い場合、
「
十分でたらめ論法ではあるが
そこからはまともな結論しかでて来ない。
つまり、このでたらめ論法が導き出す結論は
全てまともである。
」
ということになります。